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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『スキャンダル』

原題:Bombshell
ジェイ・ローチ監督
2019年、米国

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主要3キャラがみんな超一流テレビ局の花形キャスターで
ひとり残らず美人さんで、しかも全員白人女性。
実話ベースの物語とはいえ、攻めてるな。
完全に「勝ち組」のフォーメーションだ。これだと、
「確かに彼女たちはセクハラ被害者なんだろうけど、
 でも 結局恵まれてる人たちの話なんでしょ・・・
 最後にはたんまりもらったんだから良いでしょ・・・」
と観る人に思わせてしまい、
共感を呼びにくい、とは考えなかったのか。
もちろん考えたんだろうな・・・。
それでも、事実の形をできるだけ残して
映画を作ることを選んだんだな。
これはつまり、キャリアとか、ルックスとか
勝ち組負け組とか全然関係ない、ということだと思った。
女性たちは、いつでも、誰でも、どんな地位にいても、
ねじふせられてしまうことがある。
口惜しさと恥ずかしさで、ひとりで泣く夜がある。
そのことを言いたいんじゃないかな。

FOX社のCEOロジャー・エイルズは、
こんな化石みたいな男、どこに埋まってたの、ってくらい
絵に描いたような天然系セクハラ差別じいさんだ。
「女たちに十分な機会を与えて稼がせてやったじゃないか」
「何から何まで面倒を見たのだから多少の見返りは当然」
こういったものの言い方を、実に頻繁にする。
「俺が~~してやった」。
どうせ女は、自分では何もできない。
本当にそう考えていることを隠そうともしない。
しかも全然、悪気がない。

気持ち悪い男が支配する、気持ち悪い会社の風土に、
でも結局は、女性たちも染まっている。
彼女たちは、もしも誰かに
「イヤな目に遭っているのに、どうして辞めないの?」
と、聞かれたら、こんな風に答えるんだろう。
「生活していかなくちゃならないから」
「イヤなことも多いけど、キャリアアップできる環境だから」
あくまで自分の考えでそこにいるのだと。
でも、自分の考えを貫いているようで本当は
重要なことを考えることが不可能な状態に陥ってはいないか。
「誰かの意思を忖度して自分を押し殺していないか」
「貫いているその部分は本当にそんなにも大事なものか」
重要なこととは、そういうことだ。

このレビューを書いているわたしは、女性だ。
振り返ってみると、
「女性であることを理由に抑圧されている」と感じたことは
どうも今まで、あまりなかった気がしている。
「女だから我慢しなさい」的なことを言われたことは、
確か、なかった。
でも、それは本当に、たまたま自分はなかったというだけで、
実際は、すぐそばに常にあったのだ。それに、今もあるのだ。
ただ、抑圧を当然のこととして(場合によっては積極的に)
受け入れる女性もいるだろう。
何ごとも、黙って言われた通りにしている分にはラクだから。
わたしにはわたしの意思がある! 上から抑えつけないで!
そう声をあげるのは、ものすごく大変なことだ。
それは、人によっては、
女はあれしろ、女はこれはするな、
女はこうであるべき、女のお前にはできない、
・・・そう言われるのをガマンすることよりも、大変だ。
とても難しい問題だよな。
女であることを理由に抑圧されているとは思わない、と
つい今しがたわたしは述べたけど、気付いていないだけかも。
何百年も何千年も前から、社会構造の基礎の部分に、
性差別のコードが組み込まれているとしたらどうだろう。
生まれた時からずっとその社会で生きてきたために、
抑圧されていることに気付いていないだけなのでは。

ロジャー以外にも、セクハラ思考・女性蔑視の男どもは
作中にたくさんいたよな~。
ニュース映像の中に登場するドナルド・トランプは言うに及ばず、
「セクハラされるってことは君がそれだけセクシーってことだよ」
とか言うメーガンの同僚とか。
う、最悪だ・・・

3人の女性が力を合わせてセクハラと闘う、といったような
物語を想像していたんだけど、
『スキャンダル』はそういう感じではなかった。
レッチェン、メーガン、ケイラの3人には、
それぞれに異なる立場というものがあった。
セクハラ提訴騒動に関して、この3人が連携する局面は
ほとんどなかった。
同じ会社の現職であるメーガンとケイラでさえ、
直接言葉を交わしたのは、物語も中盤に入ってからだ。

3人の立場と関係性を説明しておくと、
彼女たちはみんなFOXニュースのアナウンサーだが、
レッチェンは退職、メーガンとケイラの2人が現職だ。
レッチェンはFOXニュースの名物キャスターだった。
在職当時、ロジャーのセクハラを受けた彼女は
退職と同時に、セクハラ被害でロジャーを提訴する。
「自分と同じ目に遭った女性社員は他にもいるはず。
 彼女たちが名乗り出て、訴えを補強してくれる」
レッチェンはそう信じていた。
だが、ことはそううまく運ばない。
現職のキャスターであるメーガンは、グレッチェンが
CEOを訴えたことを知って、内心激しく動揺する。
実は彼女も、かつてロジャーにセクハラをされたのだ。
メーガンはFOXの看板として社内で一目置かれている。
CEOが提訴されたというこの問題について、
彼女が何か意見を述べるのを、社内の誰もが待っている。
メーガンも、それをよくわかっている。
だが、自分も被害に遭ったということがもし知られたら、
「セクハラに遭ったメーガン」と思われるならまだしも
敵を作ることも少なくない彼女の場合
枕営業でのしあがった」的なイメージが付きかねず
キャリア形成にも影響するだろう。
どう動くべきか決めかねて、彼女は苦悩することになる。
ケイラは若いキャスターで、一時はグレッチェンの部下だった。
だが、大きな仕事を任せてもらえないことにしびれを切らし、
レッチェンと袂を分かって独自に出世の機会を探り始める。
そんななか、ロジャーCEOと直接話す機会を得ることに成功。
自分を売り込もう、と躍起になるケイラだが。
・・・

こうした関係性を理解して、物語を観ていくと、
エレベーター内で3人が乗り合わせるショットは示唆的だ。
同じひとつの闘いに飛びこんでいく3人なのだが、
手に手を取って、というわけではない微妙な感じ。
牽制し合っているような雰囲気さえあった。
これゆえに、セクハラ問題は根絶しにくいのでは。
被害者同士であっても、協力し合うことが難しいのだ。
それでも、誰かがやらなくちゃ、声を上げなくちゃ、
そうしないと社会は変わっていかない。
レッチェンの決意に応えるように、
やがて女性たちが勇気を奮い起こしていく。
カッコよかったと思う。

ケイラは、なかなかの野心家だけど、
あまりにも純で、何ひとつわかってやしないお嬢さんだった。
レッチェンが制止するのも聞かずロジャーの周辺をウロチョロし、
出世の糸口をつかみ取ろうと、必死だ。
きっと今まで、どんな夢も、頑張ることで叶えてきたのだ。
頑張ることは尊いことで、声を上げれば必ず聞き届けられて、
聞いてくれる人は当然「ちゃんとした」人だと、信じている。
レッチェンは、若いケイラのためを思って止めたのだが、
ケイラには「私を妬んで、邪魔しようとしている」
と言った風にしか、思えなかったのだろう。
結果、ケイラは考え得る最悪の形で、会社の裏の顔を知る。
あまりにまっすぐで正直すぎて、彼女が気の毒になった。
「(CEOのセクハラに多くの女性社員が悩んでいることを)
 知っていたのに、声を上げてくれなかった。あなたは
 メーガン・ケリーなのに! 権力を持っているのに!」
そう言って、ケイラはメーガンを責めた。
メーガンの立場も、ケイラの気持ちもよくわかるので、
観ていて胸が苦しくなるシーンだった。

機を見るに敏で、上昇志向が強いメーガンは、
他人を押しのけたり、自己保身に走ったり、
けっこう、やることやっている。
同僚女性たちを守るために恐れることなく戦う・・・的な
わかりやすい英雄としては造型されていない。
「セクハラは事実だけれど、一方で、
 能力を正当に評価し起用してくれた
 ロジャーに感謝しているし、
 彼のそういう所が好きでもある」
そんな風に語る場面もあった。
気持ちが非常に良くわかる。
案外そういうものだ。
また、ロジャーも、家庭にあっては良き夫だった。
ロジャーとその妻の夫婦仲は、円満そのものだ。
妻は、セクハラの確たる証拠の存在を知るまで、
夫の潔白を固く信じていた様子だった。

実際的には、ハラスメントというものは、
どちらがどうとも判定しにくい背景のうちに、
日常のできごとの、自然な流れのなかで、
ウスボンヤリと発生するものなのだ。
気のせいだったような感じもするから、
傷付いた気持ちごと、なかったことにしてしまう。
それだからこそケイラのように、メーガンのように、
被害に遭った人は、自分自身を責めるのだ。
「私はいったいどの段階で失敗したのだろうか」
「なぜあんな状況になることを許してしまったのだろうか」
「私にも悪い所があった」
「あの言葉で勘違いさせてしまったのかも」
「あんなスカートをはいていたからいけなかった」
・・・

ケイラとメーガンが、
ロジャーと寝たのか、それだけは許さなかったのか、で
一瞬烈しくぶつかり合うシーンは痛ましい。
メーガンは、断固拒絶したことを誇りとしている。
自分がそれでもここまでのし上がれたのは努力の賜物、と。
でも、ケイラは、ロジャーに逆らえなかったのだ。
同僚に真実を打ち明けた彼女は、こらえきれず
「私、すごく不潔・・・」と涙する。
優しくケイラをなぐさめる同僚の声に泣かされた。

騒動が起こってから3年と、まだ日が浅いのに
その実在の事件と、存命の人物たちをベースに
これほど真に迫るドラマを作ってきたのは勇敢だ。
最近のハリウッド映画は過去作品のリブートや
アメコミの実写映画化ばかりで、興味がないとつまらないけど、
そのハリウッドが、なんだか本気を出してきた感じがした。
こういう社会派の映画も、どんどん作られていって良いと思う。

『初恋』

 

英題:FIRST LOVE
三池崇史監督
2020年、日本

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【良作だった。】

この映画のこと全っ然、嫌いじゃないわ(笑)
最近、超傑作ばっかり観ていて。
アイリッシュマン』と言い『ミッドサマー』と言い。
こんなのばっかり観ていたら、
頭がおかしくなるよ。感動し過ぎて。
そんなわけでここはひとつ愛すべき地雷系映画を
2~3本も観てほっとしたいとか偉そうなこと考えたんだよね~
そのつもりで観たんだけど、『初恋』。
目論見は完全に外れた。
これ、すごく楽しい映画だったんじゃないかな?

 

【どう考えても大した話じゃない】

あれだ、一言で言うと、
大した話じゃないよね! この映画のストーリーって。
ボクサーの青年が、
ひょんなことで出会ったワケアリの女の子を助けるうちに、
どういうわけかヤクザと中国マフィアの抗争に巻き込まれ、
嵐のような一夜を生き抜くはめになる。
この青年、生後間もなく親に棄てられており、天涯孤独。
しかも実は重い病気が見つかって、余命いくばくもない。
寂しく生まれて寂しく死ぬのか、と絶望しかけていたが、
狂乱の夜を通して、彼の心の中に何かが芽生え始める・・・
いやほんとに、話としては、びっくりするほどどうでも良い。
言わば、使い古された要素のコラージュ脚本に過ぎず、
この映画を観ていても、登場人物たちがやることそれ自体には
ほとんど、興味が持てなかった。

何度も言うけど、大した話じゃないんだよね!
いや、決してケンカ売りたいわけじゃない。
むしろ、そこが良かった、と言いたいの。
言い換えれば、この映画は、等身大なのだと思う。
ストーリーも、映画としても、身の丈ちょうど。
見栄をはってなくて、好感が持てる。
大したことできてないくせに、やりました感を
臆面もなく出してくるなあ・・・と思った時に、
わたし、その映画が嫌いになっちゃうんだよな。
具体的なタイトルをここで挙げるのは、品がないので
やめとくが、実際あるよそういう作品はいくつも。
「何か鼻持ちならねえな。この映画」って。

三池崇史監督の作品には、割とこの
カッコつけない、いさぎよさを感じることが
多いな、と思うんだけど、どうだろう?
監督自身の姿勢が、そっち系なのかもね。
自分自身を過大評価していないと言うか。
できてないくせに、やってやりましたよ感を出さず、
でも、できることは精一杯やる、って感じか。
考えてみれば、かえって難しいことかもしれない。

 

【魅力あるキャラクター:レオ/窪田正孝

キャラクターの個性が際立っていた気がした!
役者さんたちがきっちりと仕事をしてくれたことも
凡庸な物語を最後まで楽しく観られた一因だと思う。

主役のレオを演じたのは、窪田正孝だ。
ちなみに巷では、ベッキーの振り切れた怪演が
とにかく突出して大好評らしい。
確かに、彼女もホントに良くやっていた。
だがわたしは、窪田正孝にこそ最高の賛辞を送りたい。
この役者さんの演技を初めてまともに観たけど、
レオの、死んだ魚みたいなどんよりとした眼が、
光を帯びて、きらきらしてくるプロセスを、
段階的に巧みに演じ分けていたと思う。
騒がしいとかセクシーとか、見た目で表現できるキャラなら、
演技経験が浅くても、まだ何とかやりようがありそうだ。
だが、内面が徐々に変化していくレオのような役柄は、
本当に力のある役者でなければ務まらないのでは。
エピローグの試合のシーンで、人が変わったように
全身で勝利の喜びを表現する所、素晴らしかった。

【魅力あるキャラクター:加瀬/染谷将太

あと、サイコヤクザ・加瀬役の、染谷将太
『WOOD JOB! 神去なあなあ日常』(2014年)
パンク侍、斬られて候』(2018年)の時も思ったけど
何か、まだ本気出してなさそうに見える。恐ろしい。
加瀬は、自分が所属している組が、いろんな意味で
斜陽の時を迎えつつあることを察知している。
ここは、もらうものもらって、どうにかうまくトンズラしたい。
陰でコソコソ画策しているが組にはそれを隠しておきたくて、
対立している中国マフィアに自分のヘマをなすりつけようと、
聞こえよがしに「中華野郎かーーー!!!!」と叫ぶ
わざとらしい演技がすごくうまかった。笑った。

 

【魅力あるキャラクター:権藤/内野聖陽

組のナンバー2、権藤を演じた内野聖陽も、
いつもながらの名演。すごくカッコイイ。
設定としては多分、彼の亡き父が前組長だったんだろう。
父は、おそらく権藤が服役していた間に死んだ。
(物語の冒頭で、権藤が刑務所を出所し、
 まず父の墓参りに行きたい、と言う場面があった)
そのため、権藤は跡目を継ぐことができなかった。
現組長は別の人物が務め、「代行」と呼ばれている。
「代行」が組長になったことそれ自体は、
権藤も服役中から把握していて、表向き遺恨はないようだ。
「代行」が跡を継ぐことは、父の遺志でもあったのだろう。
だが「代行」の言うことが今一つ権藤に響かない様子から、
後継問題が、お互いの間のわだかまりになっていることは
否めないだろう。
また、組員たちも内心では権藤に組長になって欲しいと
と思っていることが、うかがえる。
だからこそ、権藤が「代行」の意思に反して、
中国マフィアへの宣戦の号令をかけた時、
組員どもはみんな、嬉々として権藤に従ったのだ。
・・・要するに、あのヤクザたちはヤクザたちで、
内輪でけっこういろいろある、ということだ。
もし、権藤と「代行」の関係にちっとも問題がなく、
「代行」の言い付け通り、権藤が自重していたら、
中国マフィアとの正面衝突も回避されたはずなので、
この物語自体が、生まれなかったことになる。
まあ、どうでも良いと言えばどうでも良いのだが、
作中、具体的に語られなかった部分なので、想像してみた。
この通りの設定だったとしても、語らなかったのは正解だ。
いちいちこんなの説明するのに時間を使っていたら
話がムダに複雑になり、いったい何が言いたい映画なのか、
いよいよ全然わからない感じになっていたと思う。

【アラも多いが、なんだか観ちゃう】

この映画ときたら、
観てるそばから何それ!!!! って思った所も
くさるほどあった。それは確かだ。
先に言った通り、ストーリーなんかヨレヨレだし、
行われていることに興味が持てない、という点も問題だ。
終盤とか、スタントが雇えなかったのか知らないが、
アニメ演出が唐突にぶちこまれたり、意味わからない(笑)
(そもそもあの場面、警察は、駐車場ノーマークか・・・)
だが、三池監督の映画は大抵、多少ポンコツだと思う。
なのに観始めると、観続けることができてしまうのだ。
レオの終盤のバトルシーンを、もっと引きの映像で
しっかり観たかった、とかいろいろあるけど・・・。
でもバイオレンス描写が、ちゃんとそこそこ痛そうで、
そういう所はけっこう好きだったな。
まあ、死ぬほど殴られたり斬られたりしていた割に
権藤もレオも、回復早すぎないかなと思ったけど。
レオなんか、顔、まったく腫れていなかったし・・・
あと、どうしてもいっぺんこれだけは言っておきたいのだが

パトカーの数!!!!

【モニカを見届ける】

騒動が収束したあと、モニカが歩み始めた道を、
眼をそらすことなく描いていたのは、とても良かった。
この手の映画で、ああいう所まではっきり描いたものは、
わたしが観てきた限りではあまりなかったような気がする。
「そうだ、確かに彼女は、こうしなくちゃいけない」
そう思って、観ているこっちがちょっとドキリとした。

 

【ラストシーンが秀逸】

静かで、美しいラストシーンだった。
初めて観た映画にも関わらず、
あのふたりの後ろ姿をみた時、
これで終幕だ、これ以外の終り方はない、とはっきりわかった。
納得のエンディングだったと思う。

 

【レオの余命の問題をめぐって】

レオの余命をめぐる、あのエピソードについてだが・・・
つまり、MRI画像の取り違えだったことが発覚して、
実はまったくの健康体だったとわかる、という。
むちゃくちゃな。
そんなバカな話あるか! 普通に余命わずかって
設定のまま駆け抜けときゃ良いだろ、という
意見もまあ、あるのかなと思う。
その方が哀愁が漂って、クールだし。
でも、どうだろうな。ウーーン。・・・
思いは人それぞれにあるだろうと思うけど、
わたしは、あれで良かったのかなと思う。
どうせ死ぬんだからもう全部どうでも良いと思ってた、
だから銃撃されても、ヤクザの殺し合いの現場にいても、
なんとか立っていられた、
でも、どうやら自分は健康らしいとわかった、
そうとわかったら急に今の状況が怖くてたまらなくなる、
銃を握りしめた手が、今さらブルブル震え出す、
でも、じゃあ俺はここからどうする?
・・・激しく揺れ動き、選択を迫られるレオの心境が
鮮やか過ぎるほど鮮やかに伝わった。
これは、実は健康です! というマンガみたいな展開が
あってこその効果ではないだろうか。そしてレオは、
「やっぱり俺帰ります、あとはひとりで頑張って」
なんて言って、モニカを置いて行く男じゃなかった。
自分の意志で、あの場にふみとどまることを選び、
再び勇気を奮い起こす所は、最高にクールだった。

 

【『初恋』の意味を考えてみる】

そこへきて、この映画のタイトル『初恋』について、
考えてみるわけなんだけどねえ。
この物語って、
「レオが初めて、自分を大切にするようになるまで」を
見守ったものだったんじゃないかな、って思った。
彼はモニカに恋をしたみたいだったから、
その「初恋」がもちろん第一義なんだろうけど。
レオが天涯孤独であることを、思い出してみて欲しい。
生まれてこのかた慢性的に自暴自棄、安定的に絶望していて、
時間を浪費するだけの日々だった。
自分のことがちっとも大切じゃない人生だったのだ。
それが不可逆的な死をつきつけられ、さらに恋を知り、
そのうえで命を再び与えられるという
めちゃくちゃな体験をすることによって、
ようやく「命が惜しい」ということを、つまり
自分の人生がどんなに大切かを、知ったのだ。

『初恋』が、
レオが自分自身の人生を愛するようになるまでを
描く物語だったとしたならば、
彼に刹那の馬鹿力で暴れさせるだけではダメだ。
命をその腕に確実に抱かせたうえで、彼自身の心で、
これからどうするかを決めさせる必要があった。
わたしはそう思う。

何といっても、この映画を観る人は、
みんなレオのことが大好きになるはずなのだ。
誰も、彼が死ぬことなんか望まないだろう。
たとえレオの愛したモニカが生き延びて幸せになっても、
かんじんのレオが近い将来死ぬという設定が残った時、
わたしたちはこの映画を、気分良くおうちに持ち帰れるかな。
確かに世の中には、酷な結末で締めくくることによって
観る人の心にいつまでも重いものを残す映画がたくさんある。
でも、『初恋』がそれである必要は、必ずしもないのでは。
そんな甘っちょろい弁護をしてみたりする。

だが、まあ、レオが健康であることはわかったわけだが
彼の代わりに天国から一転地獄に叩き落とされた病人が、
確実にひとり、いるわけだ。
MRI画像の「取り違え」だったんだから。
そこを考えるとちょっと気が重いよね。
画像の読み間違えとか、撮影時の不具合とかで、
病巣なんかなくて、病人なんていないってオチだったら
より一層気分が良かったんだけど
そりゃさすがにやり過ぎか・・・

 

【血みどろムービーだけど一度観てみて!】

窪田正孝を筆頭に役者さんたちの演技が光って
すごく楽しむことができた。
ハードなバイオレンス描写さえ大丈夫であれば、
ぜひどなたも観てみていただきたい。

『アイリッシュマン』

 

原題:The Irishman
マーティン・スコセッシ監督
2019年、米国

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【若返りの映像技術に驚嘆】

デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ぺシの
主要3キャラの、姿かたちの映像表現がスゴかった。
老いていく所なら、どうにでも見せようがあるだろうけど、
若い姿、それも役者の実年齢よりも若い姿を表現するのは至難だろう。
いったいどうやって、彼らをあんなに若く見せたのか。
クローズアップにも耐えるリアリティを確保して。
80に手が届く役者たちが、40歳代や50歳代の自分の姿を
すべて自分の体で演じ切っていた。信じられない!


【2回観たら案外スンナリ】

2回観た。
マフィアの抗争、政府と裏社会、カネと利権、
話が複雑そうで、きっと全然わからないと思っていた。
1回目は本当にその通りだった。でも2回観ると、
不思議なほどするすると頭に入ってきた。
ケネディファミリーとマフィアたちの黒い関係も
キューバ革命の裏事情も、正直言って、知らなかったが、
この映画で少し、学ぶことができたのは良かった。

 

【『労働組合』がパワフルすぎる】

それにしても、産業界の一部門の労働組合が、
中央政府も無視できないほどの発言力を持つなんて。
一流ホテルのパーティールームで大会をやったり、
支部長ひとりのために作られたテーマソングがあったり、
ものすごい盛り上がりようだった。
今の日本じゃ、あんなのとても考えられない。
わたしは数年前、勤務先に未払い賃金の支払いなどを求めるために、
1人でも入会できるNPO法人労働組合に加わったことがある。
その時、わたしの団体交渉を仕切ってくれた組合員の方から
いろんな話を聞かせていただいた。その限りでは、
現在の日本では、一般企業の労働組合も、産業別組合連合も、
これ以下はないというほど弱体化しており、
労働者の権利のために真剣に活動している所はきわめて少ない、
ということだった。
アメリカではどうなのかね。あちらの労働組合も今ではやはり
かつての「チームスター」ほどの活況を呈する所はないのかな。
フランクの老人ホームの、若い看護師の女性は、
ジミー・ホッファのことなんて全然知らないようだった。


【穏健なラッセルが陰険】

スコセッシ監督は、マフィアが登場する映画を良く作る。
彼の描くマフィアは、わたしの眼には陰険に映る。
アイリッシュマン』でも、大の男がヒザ突き合わせて
ひそひそ話す場面が何度もあり、ただでさえ感じが悪い。
しかも話す内容は「人殺しの相談」というのが、さらに最悪だ。
ラッセル・バファリーノが、暴走するジミー・ホッファに
自重しろと最後通告するシーンがあった。これは、要は
「これ以上俺たちの気に入らない動きをしたら殺すよ」だ。
それを、
「俺じゃないが、ある人が君のことを『やりすぎだ』と言ってる」
「俺じゃないが、俺の友人がみんな、心配してるんだよね」
持って回って、イヤな感じだ。
それに、決して自分の口から「殺すぞ」「殺せ」と言わない。
根回しをして、匂わせて、相手に忖度させる。
何だこの男は。気持ち悪い(笑)。
ラッセルは、裏社会で起こる悶着ごとを解決するのに、
比較的穏健な手法を好んだことで有名なのだそうだ。
穏健だか知らないが、わたし全然好きじゃない。
俺がムカついたからお前を殺す、とハッキリ言え。
ジョー・ぺシ最高。最高に気持ち悪い(笑)。


【ジミーは人の言うこと聞きゃしない】

きかん坊でどうしようもないジミー・ホッファを、
アル・パチーノが好演していたおかげで、
それはもう素晴らしくイライラさせられた3時間半だった。
フランクは、あの男に何十年も耐えたのか。えらい。
ジミーを含む4人で、車で移動するシーンがあったが、
空気を読まないジミーがまた、やいのやいのと騒ぐので、
車中の雰囲気が非常にビミョーな感じになっていた(笑)。


【長大な物語のなかに『人の心』】

スコセッシ監督のマフィア映画にしては、
暴力描写が烈しくない印象だった。
(とはいえ少なくとも20人は殺されていたが)
3人の男たちを中心とする複雑に入り組んだ人間関係が
枯れた、控えめの表現で描き出されていく。
エピソードが盛りだくさんのようでいて、
浮かび上がって見えたのは結局、切ない人の心だった。
ここさえ変わればな、と思う所は頑として変わらず、
変わらないで欲しいと願った所に限って変わっていくのが
人の心だね。自分も、他人も。


【人を殺す:フランク・シーランとクリス・カイル】

フランク・シーランは、
もう誰にも自分の心を理解してもらうことができないのだ。
クリント・イーストウッド監督の
アメリカン・スナイパー』(2014年)を観た時も、
クリス・カイルに、似たようなことを感じた。
思えばフランクもクリスも、
もと軍人で、戦場で人を殺した経験がある点が同じだ。
人を殺すか殺さないかの境目を超えて殺す選択をすることは
人にとって何か、決定的なことなのだろう。
わたしが思うに、人を殺すということは、
誰にも理解してもらえない境地にひとりで足を踏み入れることだ。
たとえ死んで生まれ変わっても拭えない、穢れを背負うことだ。
誰かと共謀して行った殺しだとしてもそれは同じ。
すべて、ひとりで背負わなくてはならない。
殺したことがなかった頃の自分には決して戻れない。
もっとも、フランクとクリスは似ているようで違うと、
言う人もいるだろう。
フランクは戦争が終わっても裏社会で人を殺し続け、
クリスは戦争が終わったらもう人を殺さなかった。
その点では、確かにこのふたりは違う。
でも、わたしが思うに、一度でも殺したなら、同じだ。
続けようが、やめようが、ことの本質は変わらない。

老いたラッセルを見ていると、
わたしの感じがそう的外れでもないと思えた。
ラッセルは、教会に通うようになった。
でも、彼は、フランクを誘わないのだ。
「教会に行くけど、一緒にどうだ」とは言わない。
「お前もいつかわかる」。
ラッセルは、感じていたんじゃないかなと思う。
これはひとりで引き受けることだ、
誰かと共有することではない、ということを。


【フランクが欲したもの】

フランクには、はたして何か、欲しいものがあったのか。
若い頃の彼を見ていると、それがまだ少しはわかったのだが。
普通の仕事をしていたのでは望むべくもない金が、
裏稼業なら容易に稼げる。
家族に良い暮らしをさせてやれることが、
やりがいだったのかな、と思えるフシがあった。
副収入を得ようとして、危ない橋も渡っていたし、
稼いだ金を妻に渡す時には、誇らしげな表情だ。
でも彼は、愛娘のペギーに嫌われてしまったし、
家庭には落ち着ける場所を見出せないようだった。
ではフランクにとってのもうひとつの世界である裏社会はどうか。
確かにラッセルには弟同然に愛され、
ジミーには一番の親友として遇されていた。
だが、二人の板挟みとなって良いように使われていると言えば
その通りでもあった。
彼らといる時にフランクが笑顔でいることなどほとんどない。
でもフランクは、彼らの信頼を勝ち得たことを
喜んでもいるようだった。
どういうことなのだろう。


【暴力を振るっても良い】

もしかするとフランクには
ラッセルたちとのつながりが、必要だったのかも。
それがフランクにとって幸福ではなくても。
なぜなら、わたしが思うにラッセルやジミーは、
フランクの内なる暴力性に価値を見出してくれた。
身もふたもない言い方をすれば、
彼らはフランクに、思いっきり暴力を振るわせてくれた。
元もとの資質も多分に関係しているのだろうが、
従軍体験において、彼の暴力癖は完全に覚醒してしまったのだ。
それはフランク自身にも、どうしようもなかったのでは。
人が血まみれで苦しむさまを見るのが愉快でしかたなくて
それを追求することが人生のすべて・・・などといった、
偏執的な所まで到達していたようにはさすがに見えなかったが、
少なくともフランクの中に根ざした暴力への性向は、
例えば「数日に1回無性にタバコが吸いたくなる」的なことと
同程度くらいの依存性を帯びていたのではないか。
それは、本人にどうにかできるものではなかった。だから、
ラッセルやジミーとの関係はその意味でぜひとも必要だった。
彼らはフランクの暴力性を疎まず、むしろ重用してくれた。
暴力を振るってくれよ、強いお前に居て欲しい、と言ってくれた。
フランクは、ラッセルたちといる時に「幸福だなあ」とは
思っていなかったのかもしれないが、
彼らとの関係がなければ、生きることが難しかったのだと思う。
哀しいことだが、暴力性もまた、フランクという人を形づくる
不可欠の一部となってしまっていたからだ。
ただ、フランク自身にはそんな明確な認識はなかっただろう。
俺の内なる黒い欲求が、裏社会との絆を欲している、などと
省察する性格には見えない。


【家族も裏社会も必要】

一方で、フランクは若い頃も晩年になっても一貫して
家族との関係がうまくいっていないことを哀しんでいた。
フランクには、家族も、ラッセルやジミーとの関係も
どちらも必要だった、ということだと思う。
家族を愛せる自分でいたいし、
暴力的な世界にも、抗いがたく惹かれてしまう、
とでも表現した方がより正確かもしれない。
切ないのだが、本当にフランクには両方が必要だった。
だが、結果的にフランクと家族の関係は修復困難なレベルで壊れ、
ラッセルやジミーたちはみんな、フランクを置いて去った。
両方必要だったのに、どちらからもはぐれてしまったのだ。


【土葬の理由:ワンチャンスはあるか】

フランクは「部屋のドアをいつも少しだけ開けておく」
という、かつてのジミーの習慣を受け継いだ。
ジミーは人の恨みを買いやすい立場だったから、
この習慣は身辺の用心のためだったのだろう。

ホテルで、フランクの寝室に通じる扉を

半開きにしたのは、

「お前のことを信頼しているよ」の

印だったかもしれないが・・・。

だがフランクの場合はどうだろうか。
彼は、死後、土葬にしてもらうことを希望する。
「死んではいるが終わりの感じがしない」からだと言う。
また、晩年にはラッセルと同様、信仰に親しみ、
神父と一緒にお祈りをする時間を持つようになる。
だが、傷付けた人たちに謝罪をしてはと薦める神父に
「そんなことできるわけないだろ」。

(実際のセリフは『そんな電話かけられるわけないだろ』だ。これは、前の方のとあるシーンを受けたセリフなので、説明が難しい。気になる方は、映画を観て確認してみていただきたい)
ものごとが完全に終わってしまうこと、
閉じてしまうことを避けたい、という願望が見え隠れするように思う。
自分の気持ちをペラペラ話すタイプの人物ではないので
これはわたしの推測だが、
「いつか、正しくチョイスできる時が来るかもしれない」
「その時こそは、ヘマはしない」
そう思っていたいのかなと。
何を正しく選ぶのか。あえて言語化するならば、
自分が住まうべき世界、だ。
でも、先に述べたことだが、
わたしが思うに「人を殺す」ということは、
誰にも理解してもらえない境地にひとりで足を踏み入れることだし、
たとえ死んで生まれ変わっても拭えない、穢れを背負うことだ。
哀しいのだが、命がまためぐったとしても、
フランクは変われないんじゃないかな。

わたしは人を殺したことはないが、
もう誰にも自分の本当の気持ちを語ることはできない、
という感じは正直言って、よくわかる。
だからひょっとして自分もフランクみたいな感じに
死んでいくんじゃないかな、とか思ったりした。

『ミッドサマー』

※鑑賞後にお読みくださいますようお願いいたします※

原題:Midsommar
アリ・アスター監督
2019年、スウェーデン・米国合作

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くそ~ 何なんだこの映画は~。
スゴイ~。
超カッコイイ~。

観たこともないような展開の連続だったのに、
どこか懐かしいような、ずっとこれを待っていたような、
長い間会いたくても会えなかった人と会った夢を見ているような、
観ているうちにそんな気もしてきた。
探ろうとすればするほど逃げていくたぐいの感覚だ。
直感でしかないが、あえて言うならばこの物語は
わたしの「前世」とか、何かそういう系の、
意識外の領域に到達してきていたのかもしれない。

衝撃的な事件が次々と起こるので、心が乱された。
とても複雑な映画だった気がする。
いや、いろんな視点から観て思いをめぐらすことができる
多層性を備えていた、と言うべきなのかも。
露悪的としか言いようのない過激なグロ描写が多かった。
むごい死に方をした人の顔面が
おもいっきりクローズアップされたのにはまいった。
ミートタルト、それ、何のお肉で作ったんだ! 言ってみろ!
いや、ダメだやっぱり言わないで! お願いします!
クリスチャンのグラスだけ飲み物の色が違いますけど!
それに、クマさんのところ・・・。
いやあ・・・笑って良かったのか、アレは。
まあ挙げ出したらキリがない。
何てものを見せてくれるんだ!
普段使わない価値観の枠組みで観ることを要求されるので、
放っておくと頭がかなり混乱した。
こういうのこそ、まさにカルト映画だと思う。
価値観の転換を(実験的に)迫られるのだ。
知っているのと別の世界をつきつけられるのだ。

だが、全然ついていけないということはなかった。
いろいろな視点から観ることができると述べたが、
わたしの場合は、ヒロインのダニーの視点で、
「ダニーが、新しい人生を選び直していく物語」と
とらえて観ていった。
その一点においては、シンプルに理解できた。

ラストの、ダニーの表情は気になったよなあ。
狂気の果ての愉悦に、身を任せてしまったんだろうな。
彼女はあのまま、共同体に同化していくのだろう。

アメリカの、ごく普通の女子大生が、
縁もゆかりもない北欧の、宗教的コミューンの一員となる。
人生の一大転換にしても、ドラスティックにもほどがある。
これほどまでに劇的に人生の舵を切ってしまった人を、
ダメだよ、こっちに帰っておいで! と説得できるか?
よほど魅力的な環境を整えたうえで迎えるのでなくては、
到底無理な相談だろう。
なぜなら、その人が舵を切ったのは、おおざっぱに言えば
「今までの環境が不満だったから」なのだ。

1年前に家族全員を失ったダニーには、帰る場所がなかった。
彼女は、独りぼっちになることを恐れ、不安定になっている。
今、ダニーをこれ以上悲しませるようなことをするのは、
非常に危険・・・というのは、誰が見ても明らかだった。
ダニーは、安心して寄りかからせてくれる人を求めていた。
頼みの綱は、恋人のクリスチャンだ。
でも、ふたりの関係はうまくいっていない。
繋ぎ止めようとすればするほど、彼の心は離れていく。

ダニーは、ホルガの村にやってきて3日目の夜、
男たちが自分を置いて逃げていく、という悪夢を見る。
独りぼっちになることが、夢にまで見るほど怖いのだろう。
でも、よくよく考えると・・・なのだが、
ダニーの、独りになるのが怖いという気持ちの目的格は、
「クリスチャン」ではなかった。
他の誰でもなくクリスチャンに置いて行かれるのが怖いなら、
あの悪夢は「男たちが逃げ出す」のではなく、
「クリスチャンが逃げ出す」という内容になるはずでは。
でも彼女の夢の中で、クリスチャンの顔はちっとも見えない。
おそらくダニーは、必ずしも、
「クリスチャンに」去られるのが怖いわけではないのだ。

何人かの人が、異口同音にダニーに尋ねる。
「あなたは本当にクリスチャンに守られていると感じるか」
ダニーは、うまく答えられない。
「ただひとりクリスチャンだけが私を安心させてくれる」
とは、一度も言わない。でも、不思議なことに、
クリスチャンが自分を安心させてくれないことを、
ダニーがそんなに不満に思っているようには見えない。
そんな中、ホルガの異様さについていけなくなった青年が、
恋人の女性を置いてきぼりにして村を出て行ってしまう、
というできごとが起こった。
この一件にはダニーもそれなりに動揺していたが、
彼女は、そばにいるクリスチャンに聞こえよがしに
「あなたも同じことをしそう」とつぶやいただけで、
その口調は、意外なほど冷めたものだった。
あれっ、結構落ち着いているんだな、と思った。
ただでさえ不安定になっている所にこんなアクシデントが起こったら、
ダニーはパニックを起こしてクリスチャンを責め立てそうなものでは。
あなたはあんなことしないよね? 私を置いて行ったりしないよね?
でも、ダニーはそうならなかったのだ。
やはり、突き詰めて考えると、
ダニーが必要としていたのはあくまでも
「心行くまで依存できる存在」であって、
「クリスチャン」ではなかったことになると思う。
だが、長年、恋愛関係にあるのだし、
「私はクリスチャンを愛していて、彼が必要」
という気持ちを手放すのが難しいのは当然だ。
その考え方をやめるのは、なかなか難しいだろう。
欠落を埋めてくれる新しい出会いでもないことには。

思うに、ダニーは、ホルガに滞在することを通して
古い考えを捨て、新しい考えを選び取ったのではないか。
古い考えとは、
「私が必要としているもの=家族=クリスチャン」
新しい考えとは、
「私が必要としているもの=家族=ホルガ」
「必ずしも必要でないもの=クリスチャン」
だ。
ニーズのすべてをクリスチャンで賄おうとしてきたが、
今やダニーは、ホルガという家族を獲得したので、
これからは、「必要でないもの」という役割だけを、
クリスチャンに振り分ければ良くなった。
「家族」と言うと、今のだいたいの社会規範では
すなわち血縁関係、というイメージだけど、
原初的な宗教観に依拠して構築された共同体では、
生命のサイクルという運命観を共有できる者こそが
すなわち家族なのだろう。
だからホルガの側にしてみれば、
新しく迎える家族が、外部から来た者でも、かまわないのだ。

いつからだったかはっきりとは指摘できないが、
ダニーはホルガで過ごすうちに、少しずつ
この共同体の中にいる自分を肯定していき、
同時に、自分がクリスチャンを必要としていない事実を
受け入れていった。
それはクリスチャンとマヤの行為を目撃したことで決定的となる。
メイクイーン(豊穣神のようなものか)に選ばれたダニーが、
生贄に誰を選ぶかは、もう答えを聞かずとも明白だった。
もちろんその選択には、痛みが伴ったように見えた。
長い付き合いのなかで育んできた情があるから。
でも、生きていくためには避けられないチョイスだ。
この1年間というもの、ダニーはほとんど天涯孤独だった。
彼女はみじめそのものだった。
恋人からも、その仲間たちからさえも疎んじられているのに、
愛されていることを確認しようとして、なおもすがりつく。
恋人の機嫌を損ねないように何十歩も先回りして気を回し、
そのくせ、何でもないわ、という顔をしようとしている。
はたで見ていても、みじめったらしいったらなかった。
そんなダニーが、ホルガでは女神扱いされ、皆に必要とされた。
悲嘆を共有してくれる心優しい仲間が、たくさんできた。
今、もし、この共同体で生きる道を選ばなかったらどうなるか。
自分を愛してくれる人なんて一人もいないアメリカに帰り、
アパートの薄暗い一室から、独りで全部やり直しだ。

ホルガは、女性優位の社会構造が確立された共同体だ。
尊崇の対象が、北欧神話の始祖神ユミルにあるようだから、
それに沿ってシステムを構築すれば当然こうなるだろう。
女は、子、命を生む存在だ。女から生まれた女が、
いずれ成長して男を迎え入れ、種を宿して、また子を生む。
生きとし生ける者の生は、女によってめぐっていくのだ。
大いなる生命のサイクルという観点で見ると、
男は、必要でない・・・ということはないにしても、
女に種を蒔くこと以外、これと言って「役割」がない。
わたしの言い方はザツかもしれないが、まあ、そんな要領だ。
そんな思想形態に貫かれた社会構造の中で、
クリスチャンはマヤに種を蒔き、
しかも、メイクイーンに捨てられた。
ホルガにおいては、これすなわち「完全に用なし」だ。
つまり、クリスチャンは・・・。

こりゃスゴイことになったなあ・・・と思いながら
成り行きを見守るしかなかった。
クリスチャンにはお気の毒としか言いようがない。
でも、当のクリスチャンは、共同体の長と話をしたあたりから、
「観念しました」って言う表情を浮かべていた。
この共同体にいる間はもう、流れに身を任すしかねぇな、
何を言っても通用しねぇんだもんな、という感じだった。
彼はジョシュほどまじめに学問をおさめていなかったので、
自分の最終的な運命までは予測できなかっただろうが、
「もうどうしようもないのだ」ということくらいは、
彼なりに察知していたと思う。

それにしても、
クリスチャンの眼に映るマヤは、息をのむほど魅惑的だった。
全篇にわたって、凄絶なまでに映像が美しい映画だったが、
この、マヤのシーンは、特に良かったな。

共同体の者たちが、周到にダニーをノセていったことは確かだ。
勘所を押さえて、いくばくかのドラッグの力もかりつつ、
丁寧に、丹念に、選択肢を摘み取って追い込んでいき、
ダニーが共同体にとって望ましい選択をするように仕向けた。
このやり方は、どう理解すれば良いだろうか。
ズルい、のかもしれない。
物語を観ていた人の中には、こう思った人もいただろう。
「クスリを使うなんてただの洗脳じゃないか」
「こんなものは、救いとは言いがたい」
「ヤクを盛られて、優しい人たちに慰めてもらって、
 わかるよ! と一緒に泣いてもらって癒やされて、
 ファミリーをゲットして、良かったね・・・
 そんな結末は安易そのもので、受け入れられない」
「どこぞの悪徳宗教か!」

だが、この物語のなかでダニーが選び取った道が、
観た人本人の価値観に照らして「正しくない」ものだとしても、
そのことと、映画の価値とは、何の関係もないだろう。
映画は「正しい」ことを伝えるためのものではないのだから。

わたしは、ダニーの視点で一面的に物語を把握したにすぎない。
もっと大きな視点でとらえ直したら、
この映画の包括的なテーマも見えるのかもしれない。

ひとつ確実に言えるのは、この映画が、
現代文明社会の一般的な価値観とはまったく別(真逆?)の
パラダイムを提示したものだ、と言うことだ。

現代の欧米ではキリスト教的宗教観が支配的なはずだが、
ホルガは、はるかキリスト以前の、神話に拠った共同体だ。
キリスト教から見たら、未開の野蛮な宗教ということになる。

わたしたちは、
「広い世界に踏み出して、個人の力をのびのび発揮しよう」
的コンセプトを、進歩的で開放的なものだとして受容する。
だが、ホルガでは
「小さな共同体の中で、一つのことのために皆で協力しよう」
が徹底されている。

わたしたちの社会はどうしたって男性優位なのが現実だが、
ホルガは完全に、女性優位のシステムで回っている。

全部、反転していた。
しかもホルガはそれでうまく機能していて、
ダニーはそのホルガに救われる。
現代の思想の支配的潮流にあからさまに逆行する価値観を
あたかも「良いもの」であるかのように提示していたのが
『ミッドサマー』という映画だったのだと思う。
※まあ、わたしがわざわざ言うことでもないとは思うが、
 「監督が『みんなホルガの人みたいに生きましょう!』
  と本気で言っている」
 わけでは断じてない、ということには注意が必要だろう。

幸福のようには到底見えない幸福というものも
この世にはあると思う。
付与された条件下で何に喜びを見いだすかは人それぞれだ。
誰にも否定はできないと思う。

『ミッドサマー』を気に入るか嫌悪するか、
はたまた特に何も思わないか・・・は、観た人それぞれだ。
でも、好きor嫌いを判じてハイ終わり、ではなく、
好き嫌いを飛び越えた所でこの映画をとらえ直してみて、
いったいこれって何だったのかな、と
考えてみるのも悪くないのではないかな。

『37セカンズ』

英題:37 Seconds
HIKARI監督
2020年、日米合作

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不器用な映画だったような気もしないことはないが、
それを補ってあまりある良い所がたくさんあった。

良くできた「感動ポルノ映画」に
まんまと感動してしまったと思いたくなくて、
最後まで、自分の気持ちに疑問符を付けて観ていた。
「障害のある人を主人公にしなくても、この物語は
 十分に良いものになったんじゃないだろうか?」

だけど、あの素晴らしかったクライマックスから
逆算して考えた時に、
「やっぱり身体障害者であるところのユマでなくては、
 あのクライマックスを、ここまで良いと
 感じることはできなかった」
そう確信した。
わたしは、この物語の最高潮は、
「でも・・・・・・私で良かった」
の所にあったと見ている。
このセリフが最高に活きたのは、
主人公がユマだったからだ、と思うのだ。

ユマは、きわめて素直で、偏見が少ない性格だ。
また、経験やものごとを吸収する心の力が、非常に強い。

きわめて素直
…漫画のアダルトシーンにリアリティを付与するためには
 作家自身に性体験がなくては・・・とアドバイスされると
 あ、そうなんだ! とすぐさま夜の街に繰り出した。

偏見が少ない
マッチングアプリで会う男性がどんなに「アレ」でも
 接し方にまったく分け隔てがなく、誰とでもちゃんと
 会話を成立させることができていた。

心の力の強さ
…知らなかった自身の過去と出会う旅に出たばかりか、
 成長への足掛かりを得て帰ってくることができたのは、
 彼女の心がしなやかで、さまざまなトラブルやショックに
 過度に打ちのめされずに、前に進むことができたからだ。

減菌室のような環境で大切に育てられてきたうえに、
知識はあっても経験を踏む機会がなかったことが、
彼女の性格を作り上げた、一つの要因だと思う。
良いとか悪いとかの問題ではない。
とは言えもう23歳の大人の女性なのに、
そこまでがっちりと保護されてきた理由はどこにあるのか。
生まれながらにして体が不自由、ということに他ならない。
良いとか悪いとかの問題ではない。
※それにしてもユマの母の、やや目にあまる過保護っぷり。
 演技が良かったために、固唾をのむほどの迫力があった。
 ユマを四つん這いにして服を脱がせるシーンは
 ちょっと目を背けてしまうような生々しさだった。
 母娘の間では、あれはお風呂に入る時の単純作業なんだろうが、
 ああいう言わば屈辱的な姿勢を、毎日毎日とることが、
 ユマの自立心の芽生えを摘み取ることになっていなかったかとか
 うがちたくなった。
 「じゃあやってみなさいよ自分で!!!」。
 ああいう追いつめられ方は身に覚えがある。良くわかる。
 ユマは徹底的には追いつめられていなくて、
 このお母さん優しいな・・・、と思ったけど。

ユマという人物と、彼女の体のことは、切り離せないだろう。
「障害のある人を主人公にしなくても、この物語は
 十分に良いものになったんじゃないだろうか」
と思ったと、先に述べた。
もしこの物語が目指そうとした所が、
「保護者の激しい抑圧から逃れようとする子どもの
 サバイバル劇」にあったとしたら、
確かにユマは、身体障害者でなくても良かっただろう。
23年間親に虐待されてきた若い女性などでも良かった。
でも、わたしが思うに、『37セカンズ』のテーマは、
抑圧からの逃避ではなかった。
人が自分を知り、受け入れるまでを、描く物語だったのだ。

人のアイデンティティとは、いつも絶対にこれ、という
定まったものがあるのではないと思う。
他者と関わっていくなかでさまざまな価値や意義が生まれ、
その生まれたものを見て、ああ自分とはこういう人間なんだな、と
自分のさまざまな姿を知っていく。
人が在るというのは、その繰り返しのはずだ。

だから人が「私とはどういう人間か」を劇的に知る・・・
そんな物語を作りたければ、主人公はこんな感じの人だ。
・・・今まで本当にひとりの他者とも関わってこなかったか、
変わり映えのしない狭い人間関係の中で生きてきたために、
ある決まった角度から見た自分の姿しか知らない人。
しかも、「私とはどういう人間か」について
今までとはまったく違う答えを得た時に、その感覚を
より強烈に、より鮮烈に体験できそうな心の持ち主。
だからこの物語の主人公は、心が澄んでいて吸収力の豊かな、
ユマという人物である必要があったんじゃないだろうか。
そのユマは、身体障害者だ。言わばそれだけのことだ。
でも、障害も、ユマという人物を形成したひとつの要素なのだ。

「でも・・・・・・私で良かった」。
これは、長い独白に続く、ユマの結論なのだが、
この言葉には、意味が二つあるように思った。
一つは、
「障害を持ったのが双子の姉でなく、私で良かった」。
もう一つは、
「障害を持ったけど、でも、その私という人間に
 生まれてくることができて、良かった」。
わたしには、この二つの比率がユマの心の中で
どれくらいなのか、わからなかった。
同率くらいだったような気もしたし、
両方がないまぜになっていたような感じもした。
「でも」のあと、長い長い沈黙があった。
この間、仰向けに横たわったユマの胸が、
何度も、大きく、ゆっくりと上下した。
「私で良かった」という結論の重大さが、良くわかった。

帰宅したユマが、母に1冊のスケッチブックを手渡した。
そこには旅先でずっと描いてきた思い出のイラストが満載。
ページをめくる母の手が、ある所でぴたりと止まり、
その眼から、大粒の涙が落ち始める・・・。
あの涙は、彼女がこれまでに体験してきたのであろう
数えきれないことどもの重みを伝えて、
あまりにも感動的だった。
母が流したあの涙を見た時、
なんだかこの映画の、多少の不器用な所や
たどたどしさなんかが、全部許せるような気がした。
例えば話を深刻にし過ぎないようにという一種の照れ隠しか
たまに挿しはさまれる無意味としか思えないアニメーション・・・
父がユマに送り続けていたという絵ハガキのイラストが
50がらみの男性が描いたにしてはあまりにも少女漫画チック・・・
タイに2人で出かけられるほどの資金をどこから調達したのか・・・
(障害者向け性風俗サービスのお姉さんが、困った時には
 お金を貸してくれそうな様子ではあったが・・・)
トシくんは旅の間、仕事をどうしていたのか・・・
ユマの母の仕事(どうやら人形作家?)の設定が
いくらなんでも作り込みすぎではないか(怖い)・・・
唯一の友人サヤカや、マッチングアプリで出会う男たちの
カリカチュアライズの過剰感・・・
ちょこちょこ、こういうのが気になったのだが。
でも、ユマの母の涙が、全部洗い流してくれた。

ずっと母の庇護を受ける立場だったユマが、
逆に母を癒やす立場へと変わった、あの終盤の場面は
ユマが、今まで見せられてきたものとはまったく違う
新しい自分の姿を知った・・・ということを告げる
とても良いシーンだったと思う。
ユマは、他者と関わったことがまったくなかったわけではない。
母や、友人のサヤカなどとのつながりがあった。
だから、彼らとの関わりの中で、
「自分とはこういう人間なんだ」というのを
それなりに見たことはあったはずだ。
だが、それは非常に限定的で、固定されたものだった。
しかも、その人間関係の中で見える「ユマ」像は、
今やユマをまったく幸せにしてくれなかった。
ユマから自分で生きていく力をも奪いかねないものだった。
ある人間関係の反射のなかで見えてくる「自分」像が、
自分を幸せにしてくれなくなったら、
その人間関係から離れるか、新たな人間関係のなかに
飛びこんでいく、という方法が考えられる。
それ以上「自分」を嫌いにならないために、
動くことが必要なわけだ。
ユマは、ずっと、それが許されてこなかった。
だが、それをやることに成功したのだ。

こうやって、たくさんの人と関わって、
さまざまな自分の姿を知っていくことが、人生なのだと思う。
それは障害があるかとか、車いすに乗っているかいないかとか
まったく関係なく、人間すべてに言えることのはずだ。

『男と女 人生最良の日々』

原題:Les Plus Belles Années d'une vie
クロード・ルルーシュ監督
2019年、フランス

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観るには50年くらい早かった。
この物語の男女の気持ちに共感できるほどの
人生経験も恋愛経験も、わたしにはない。
それに今観なくちゃいけない映画、ではなかった。
でも、わたしがどうであるかは関係なく、
この映画は、今、撮られなくてはならなかった。
関係者が高齢なので、今よりあとでは
作れなかったかもしれない。

男女が再会し、思い出を語り合って
あわよくばまた・・・みたいな物語ではなかったし、
老いらくの恋に花が咲き・・・的な話でもなかった。
そもそもラブストーリーか?? これは。

53年前の『男と女』のキャストがそのまま出演、
監督も、クロード・ルルーシュが続投。
もう本当にお歳だ。主演のふたりも、監督も。

物語は、とりとめがなく、おぼつかなかった。
少なくとも「テンポが良い」って感じではなかった。
絶対、30歳や40歳の監督が作ったんじゃないな、とわかる。
例えば若かりし頃のジャン=ルイが、アンヌに会いたくて、
早朝の街を車で疾駆する、回想シーン。
ジャン=ルイはレーサーなので、
運転は、速度を出していても危なげがなく、見事だが・・・
これが、異様なまでの長回し
視点はずっと車中から前方正面を見つめる
ジャン=ルイの主観から微動だにせず。
それでひたすらパリの街を走る走る。
ただ一定の速度でパリの街を駆け抜けていく、車。
止まらない。ずっとだ。
え、いつまでこのシーンが続くの・・・?
というかこれ、何を言おうとしているシーンなの・・・?
心配になってくるが、おかまいなし。
こうした掴み所のないシーンが、他にも散見、いや頻出する。
そして壊れたジュークボックスか何かみたいに
「ダバダバダ♪ ダバダバダ♪」の音楽が
これまた、断続的に、繰り返し繰り返し・・・
監督がお歳だということを、実感させられた。
好きなよう~に作ってますけど何か問題でも? って感じ。

だが、そのことが、全然イヤじゃなかった。
そこには、他では得難い、良さがあった。
この映画で綴られるエピソードの大部分は、
老いた人の心に眠る、宝石のような「思い出」だった。
それを見守ることが、気持ち良かったのだ。
先に述べた、早朝の街をかっ飛ばす場面だけど、
このドライブシーンを観続けるうちに、
わたしはいつしか、何も考えなくなっていった。
こんな変化に乏しく意味不明なシーンを、
長回しで見せるなんて、時間の使い方がヘタだなあ、とか
何を伝えるためのシーンなんだろう、とか
最初のうちは思っていた覚えがあるんだけど、
しまいにはどうでも良くなっていった。
思考を手放すことは、気持ちが良かった。
どうでも良い! 知ったことか! ではない。
考えなくて良い、という安心感だった。

・・・上手なドライバーが運転する車に乗せてもらって、
助手席に座りはしても「ナビとかしなくて良いよ」って
言ってもらって、全部お任せ状態でドライブするのは、
最高に快適なものだよね。
ずっとこのまま乗っていたい、という気持ち。
それだ、この映画は。
深い安心感があって、気持ちが良いのだ。
ストーリーテリングも演出も、散漫で抑揚に欠け、
っていうか、話、っていうほどの話がないし・・・、
全体に統制が取れていなくて、ヨロヨロしていたことは、
否定のしようもないのだが、
でも、不快に感じた瞬間は、一瞬もなかった。
この「快適さ」にこそ、この映画の価値が
集約されていたように思う。

仮に、もっと若い映画監督が、
53年前のキャストで『男と女』の続編を作ったら、
さぞかしくっきり起承転結があって理解が容易な、
「ちゃんとした」お話、になったことだろう。
だけど、わたしがそれを観て良いなと思ったかどうか。
わからないが、多分、思わなかったんじゃなかろうか。
この映画の監督がクロード・ルルーシュであることは、
正解だったんじゃないかな。
歳老いた映画監督が、歳老いた役者たちと再会して、
お互いをいたわりながら、丹念に撮ったんだろうね。
長丁場は体力的に厳しいから、限られた期間の中で、
1カット、1カット、ムダにせず作っていったんじゃないか。
現場の雰囲気は、スクリーンを隔てても伝わることがある。
この映画のそれは優しくて、とっても良い。
生涯で一番愛したあの女が、
53年の時を経て俺に会いに来る、か。
女好きの、フランスの爺さまが抱きそうな
理想のターミナルケア幻想!
いかにも男が考えそうなプロットだ。
だが苦笑を禁じ得ない中にも、
いじらしい気持ちにさせられたのは、やはり、
老人が作った映画が醸す、
優しい手触りによるものではないか。

ジャン=ルイは、アンヌよりも少し、
衰えが進んでいるように見えた。
夢とうつつのはざま、正気とボケの中間地点を
ふわふわと往来しながら暮らしている。
ハットなんかかぶって、おしゃれだけど、
顔を良く見ると、鼻毛がのびていたりもする。
でも、昔のことは本当に良く覚えている。
アンヌの眼が好きだった、
髪の毛をかきあげる仕草が色っぽかった、
声が良かった、
電話番号は何番・・・と、
宝物を数え上げるように語る。
「逃げようと思っているんだけど、君もそうしたいかい」。
アンヌが「ええ、そうね」と言ってやると、
表情がパッと華やいで、いかにもうれしそう。
脱走を計画したことなど、すぐ忘れてしまうのだが。
「明朝5時に脱出するから、落ち合って逃げないか」。
話がちょっと具体的になってくると、アンヌは
「仕事もあるし、ムリよ」と、現実的だった(笑)。
アンヌが、ジャン=ルイを外に連れ出すというエピソードが
数回あったが、これはジャン=ルイの幻想らしかった。
「アンヌはたびたび面会に来ているが、
 ジャン=ルイがたいてい眠っているので、
 会えないことが多い」
と語られていて、
ふたりの面会が実現する頻度は、
どうやらそんなに高くないことが伺える。
一方で、ジャン=ルイの認知症状については、
本当にボケているのか、ボケを演じているのか、
「?」と思わされる描写もあった。
医師は、記憶機能のテストの結果は良好、と言う。
息子は「父は演じることが好きで、それが度を超してしまう」。
この発言をそのまま受け取ると、ボケている演技をして
皆をからかっている、・・・というような解釈になるが、
それで施設に入れられて不自由をかこつんじゃ世話ないし、
それに、普通、好きな女の前では、
あくまでカッコ良くありたいと考えるものでは? 
ましてジャン=ルイのような男なら、なおのこと。
だがジャン=ルイは、アンヌの前で、
つい数秒前に自分自身が言ったことを忘れて
「そんなこと誰から聞いたんだい」などと
記憶混濁はなはだしい発言を繰り返す。
彼の認知症状が演技だなんて、
すっかり納得することはちょっと難しいように思う。

わたしは、全体としてジャン=ルイは、幸福な夢のなかに
まどろむように生きている、という印象を受けた。

こう言っては何なのだが、
アンヌはまだ元気だから、ジャン=ルイほどには
心が解き放たれていないのかな、と思った。
仕事があるからと、脱走の誘いを断ったのも、
現実的という意味でまさにそういう感じなのだが、
ジャン=ルイと53年ぶりに会ったあとの彼女の言葉が、
何しろ印象的だった。
「これほどまでに愛されていたとは」
「わたしたち、別れるべきじゃなかったのかも」
「会いに行く時、ドキドキした」
「また会いに行きたいわ」・・・。
「現役感」みたいなものをすごく感じたんだけど、どうだろう。
もちろんジャン=ルイに、こうしたリアルな欲求が
全然ない、とまでは思わない。ちょっとはあるはずだ。
その証拠に、
施設の許可を得て出かけるドライブ(という幻想)では、
1回目はアンヌが、2回目はジャン=ルイが、
突然、拳銃を取り出し、邪魔者を撃ち殺す。
拳銃なんて物騒なものが、なぜ登場したのか。
この映画は全然、そういう感じの物語じゃないのに。
下世話なのだが、あれは
彼らの心の中にちらつく熾火のようなリビドーの
メタファじゃないのかな、とわたしは思う。
積極性、攻撃性、と言い換えても良いかもしれないが。
だから、わたしは、ジャン=ルイの心の中にも、
性的なものを含む、欲求がちゃんとあると思うのだ。
だが基本的にはジャン=ルイは、
甘美な恋の思い出を愛でて悦に入っているだけ。
それ以上、何の期待もしていないようだ。
でも、アンヌは少し違う。
彼女の思いはいつも、未来へと向いている。
自分でものごとをコントロールできるという実感を、
まだ、手放していないのだろう。
アンヌは、ジャン=ルイの元に頻繁に顔を出すようになり、
会話によって、彼の記憶を刺激しようと努めていた。

終盤。ジャン=ルイが
「こんな時間を、前にも過ごしたような気がする」。
するとアンヌは、声に笑みを含ませて
「あなたの夢の中でね」。
これをどう解釈するかは、観た人それぞれだと思うが、
わたしは、
「あなたの夢の中で、きっとわたしたちは一緒で、
 楽しい時間を過ごしたのね。
 でも、現実のわたしは、まだ、夢のなかで
 あなたと一緒にまどろむことはできないの」
つまり、
あなたはそうかもしれないけど、わたしは違う、
わたしたちは別のフェイズにいる(今はまだ)
・・・というようなニュアンスを受け取った。
彼が元気になってくれれば、と張り切るのをやめて、
今の彼を受け入れることにしたのかな、とも思う。
ジャン=ルイは、今のままで十分に幸福なのだ。

昔の恋人同士が再会しても、
この映画ではふたりの間に、恋愛めいた何ごとも
起こりはしなかった。
でも、ベンチから車いすに移ろうとするシーン。
アンヌが、ジャン=ルイの手を取って、介助した。
観ていた限り、これが、ふたりが触れ合った、
最初で最後のシーンだった。
ジャン=ルイの前に立って両手を差し出したアンヌは
十分かくしゃくとしていたが、足がかなり細くて、
良く見ると、わずかにだが背中が曲がっていた。
ジャン=ルイが車いすに落ち着くと
「できた」と言ってふたりで笑い合う。
このシーンは・・・何と言えば良いのか。
とにかくすごく良かった。

この映画から受け取ったのは、心地良さだった。
観ていて、ゆったりくつろげる映画。
それで思ったのは、

いずれ、わたしの経験も、時の中に溶けていくんだろうか。
つらかったことも、烈しい思いも意識と共に溶け出して、
柔らかい毛布みたいな感じの思い出にかたちを変え、
老いるにつれ活動を停めていくわたしの体と心を、
心地よく、くるんでくれるのだろうか。
ジャン=ルイの思い出が、彼を優しく包んでいるように。
本当の経験から溶け出した思い出ばかりでなく、
願望が創り出した幻想が、そこに混じっていたとしても、
いずれそんな柔らかいもののなかで、
ゆっくりと眠ることができるのかもしれないと思うと、
ただただ傷付いた経験も、当時はただ苦しいだけだった恋も、
抱えて生きていくことができる気がする。

物忘れがひどくなってきた頃や、
もうすぐお迎えが来るかもという頃に観ると、
心のお守りになってくれる映画・・・というものが
もしあるとすれば、
それは、この作品のようなものかもしれない。

『グッドライアー 偽りのゲーム』

原題:The Good Liar
ビル・コンドン監督
2019年、米国

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www.youtube.com
ヘレン・ミレンイアン・マッケランのお芝居を
2時間も観ていられて単純に楽しかった。
このくらいのお年頃の役者は好きだ。

さて、この映画は、という話なんだけど、
物語は良かったが、見せ方で失敗していたかも。
「騙し合いの物語」であることは最後まで伏せておいて、
気付く人は気付く、程度にしてくれた方が良かった。
「さて、あなたは見抜けますか?」くらいの。
2回観ずにはいられなくなるくらいの。
ストーリー展開が、鼻で笑ってしまうほどの親切設計。
主演のふたりも、騙し騙されの眼の演技が露骨すぎた。
こっちだってバカじゃないんだから、そこまでやらなくて良いよ。

ともかくはじめから、ロイがベティを騙すだけでなく
「両者の騙し合い」の物語だということが明示されるので、
さて、それではお互いにどうやって、アドバンテージを
取っていくのかな、という所が注目ポイントになったのだが、
・・・思えば冒頭のシーンからすでに、ロイ(イアン)には
負け風が吹きまくっていた。
ベティにボコボコにされる結末しか見えなかった。
ロイを見ていると、彼が詐欺師稼業を「楽しんでいる」のではなく
金に「執着」しているからこそ詐欺師をやらずにいられないのだ、
ということがわかり、しかも、その強い執着の理由も、わかってくる。
でも「それだとベティには絶対に勝てない」、ということだと思う。

ロイが本当に欲しいのは、金ではなく、愛なのだ。
だけど、愛したことも愛されたこともないので、
愛がどんなものかわからない。
いざ目の前に愛を差し出されて、これをあなたにあげると言われても、
彼にはとても信用できないのだろう。
でも、ロイの心には、孤独という巨大な穴があいている。
それを、愛の代わりに金で埋めようとした。
ロイの人生は、ただただ、それだけのものだったと解釈した。

ロイがベティに惹かれていたことは、観ていれば明白だった。
ベティを騙すのは良いが、生活できるように少しは金を残してやれ、
相棒にそう言われると、ロイはいやにイライラして、意地になった。
何としても全財産を奪う、と言ってゆずらない。
ベティへの愛に絶望していたからこそ、
余計にベティの金にこだわったのだろう。
聞かれてもいないのに彼はベティの悪口をいいつのる。
退屈な女だ、平凡だ、手取り足取り世話してやった。・・・
その言い草から、ベティに「おかん」的なものを
すかし見ていることが、感じられてならなかった。
歳を取っても結局は、ママのキスを待っているボクちゃんなのだ。
だが、彼が何十年もそこから成長せずグズグズやってきた間に、
ベティは不屈の意志で必死に生き、穏やかな暮らしを勝ち取った。
ベティは、強い、大人の女だ。
ボクちゃんが彼女と張り合った所で、勝てるはずもない。

はたして、悪かったのは戦争か。
戦争のせいでああなったみたいな描かれ方だったけど、
ロイはベティと出会った時、すでにダークサイドに堕ちていた。
戦争のせいどころか、むしろ彼は「戦争のおかげで」、
人生を一からやり直せる、というとらえ方で、
「あの一件」に便乗していた。しかもそこまでやってなお、
みずから暗黒の世界を選び取り、そこに棲み付いた。
言いたかないが、ロイって、元もと性格が暗いのでは。

若い頃のロイは結構良かったんだけどな。ただならぬ陰気さで。
あの感じで成長していたら、ベティと良い勝負ができたかも。
老年の彼も、サイコパス感を時々は見せてくれていたのだが。
でも長続きしない。地のボクちゃんがどうしても出てしまう。
歳だから、感情の栓のしまりがゆるいと言うか。

ロイはこのように人間的な欠点の多いキャラクターだが、
そんな彼にも、最後まで一緒にいてくれる友人がひとりいた。
ベティから全財産を奪うのはやめておけ、と忠告した人物だ。
でも、この相棒の友情を、ロイがかみしめる時はもう来ない。
そう思わせる結末になっていたのは寂しかった。
ロイは、ストローをくわえさせてもらっても、
口の端からダラダラと飲み物をこぼしてしまう、
まさしく「ボクちゃん」になってしまったのだ。

終盤に、秀逸なシーンがあった。
かわいい孫娘たちが、泉で水遊びをしている。
だが、その楽しそうな笑い声が、ベティの耳には不吉に響く。
心配そうに声を張り上げる。
「気を付けて! 思ったよりも深いわ」。
・・・とっくの昔にロイを許したと、ベティは語った。
恨みなどというものは超越してしまったの、と。
では彼女を突き動かした気持ちはいったい何だったのか。
名前が付けられない気持ちを抱くことも、人にはある。
気持ちの名前がわからないと、とても苦しいものだ。
ベティはそんな苦しみと戦い続けてきたんだろう。
のたうち回るような、心の奥底から発火するような、
烈しい感情と向き合ってきたんだろう。
「深淵を覗き込む時、深淵もまた、君を覗き込む」だ。

ベティは、苦難から学ぶ強さを持った人だった。
私がこんなにつらい目に遭ったのだから、
みんなも私と同じ目に遭えば良い! ではなく、
大切な人には私のような目には遭って欲しくない、と
考えることができる人、ということだと思う。

孫娘たちが遊んだ泉は、「深淵」のメタファじゃないかな。
愛しいあの子たちは、暗黒に足をからめとられることなく、
安楽な光の道を歩んでほしい、という
ベティの願いが現れた場面に思えた。