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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

Netflixドラマ『ワイルド・ワイルド・カントリー』

 


原題:Wild Wild Country
マクレーン・ウェイ、チャップマン・ウェイ監督
全6部
2018年3月16日 全話一挙配信(完結)

※以下で、実在特定の宗教組織の呼称を挙げて
 わたしの考えを述べる所がある。
 繊細なテーマなので、どんなに気を付けても
 場合によってはご不快にさせるかもしれない。
 また、事実関係で間違っている所などがあれば
 ぜひ教えて欲しい。 

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【概要】

1981年~1985年の4年間、米オレゴン州に一大拠点を展開した
宗教的コミューンの実態を、ほぼ時系列どおりに振り返る
ドキュメンタリーシリーズ。以下『WWC』。
関係者への取材と当時の報道VTRを中心に構成されている。
コミューンはインドの神秘思想家バグワン・シュリ・ラジニーシ
戴くもので、ワスコ郡アンテロープシティの広大な土地に
インドから集団移住、自力で開拓して、版図を広げた。
だが共同体の規模拡大につれて近隣住民との軋轢が激化し、
両者は(暴力的手段をも含めた)あらゆる方法で争った。
最終的に、バグワンが国外退去を承諾したことにより、
抗争は収束、アンテロープの拠点は打ち捨てられた。
バグワンはインドに戻ったのち死去、組織は現在も存続している。
コミューンがあった土地は現在キリスト教系組織が所有・運営し、
青少年向けのセミナーやサマーキャンプの会場として用いている。

※以下バグワン・ラジニーシのもとに集ったコミューンのことは
 だいたいの場合において「ラジニーシコミューン」と表記した。
 それ以外の時は、それ以外とわかるように都度明記する。

<エピソードやインタビューに登場するおもな人物>

◆コミューン内部

マ・アナンド・シーラ
コミューンがインドにあった頃からバグワンの秘書を務めた。
オレゴン移住計画を全面的に仕切った人物で、
のちの組織的犯罪行為の首謀者とも目された。

スワミ・プレム・ニレン(フィリップ・トークス)
コミューンの顧問弁護士。

マ・シャンティ・B(ジェーン・ストーク
シーラの元側近。バグワンの主治医的な存在だった医師の
殺害計画に加わった。

マ・プレム・サンシャイン(サニー・マサド)
オレゴンのコミューンの広報担当だった女性。
笑顔が、ぱっと大輪の花がひらくような明るい感じで、
年齢を重ねた今もすごくきれいな人だ。

アンテロープシティの非信徒の住民たち
ジョン・ボワマン、ジョン・シルバートゥース、
マクレガー夫妻など

◆連邦検事関係者など
チャールズ・ターナーオレゴン州担当の連邦検事)
ロバート・ディーバー(連邦検事補佐)

他、多数。各方面の当事者が健在のため、
当時起こったことについて、両方の立場の言い分を、
本人の生の声で聞ける、というのが
このドキュメンタリーのスゴイ所。



【おもしろかった!!!】

1日1話、1週間かけて全6部、夢中で観た。
わたしはわりと宗教や神秘思想の歴史に関心がある方だと
自分では思っているのだが、
ラジニーシコミューンのことは皆目知らなかった。
こんなに派手に活動を展開していたのに!!!
関心があるとか、もう人前で言わないようにしよう・・・。

ラジニーシコミューン側の人びとの回想が良かったな。
彼らはコミューンでの日々を
生涯忘れられない恋の思い出みたいに語っていた。
ニレン弁護士が、バグワン・ラジニーシ
国外退去を勧めた時の話は、
正直言ってわたしもちょっと涙ぐんだ。



アメリカ宗教史とモルモン教会という切り口】

アメリカ」で
「1つの街がそのまま1つの宗教組織」と言うと
わたしは
末日聖徒イエス・キリスト教会」(以下「モルモン教会」)
を、すぐに連想した。
モルモン教会の教徒の人たちは、
19世紀半ばにソルトレークシティに根を下ろすまでに、
どんなプロセスを踏んできたのかなと、思った。
それに、モルモン教会も、ラジニーシコミューンも、
拠点を築く場所として、なぜアメリカを選んだのだろう。
また、両者とも、地域の非信徒の人びとと折り合えず、
争った時期があったようなのだが、なぜそんなにも
激しく衝突することになってしまったのか。
末日聖徒イエス・キリスト教会の概要については、
 Wikipediaなどで調べてみていただきたい。

自分なりに何冊か本を読んでみてちょっと考えた。
結果、彼らがアメリカを選んだ理由と、
非信徒や国家的マジョリティとの衝突が激化した原因には、
以下のことが共通して関わっているように思えた。

・信教の自由が憲法で保障されている
・ありあまる土地
・移民が都市を作りやすい社会システム
・一般の人でも武器を持てる

これはすべて、アメリカの特徴だ。
しかも時代にあまり関係なくずっとある特徴だ。
だから19世紀半ばに米西部に定着したモルモン教会も、
20世紀後半にやってきて定着に失敗したラジニーシコミューンも
時代は違うけど、条件としてはほぼ同じと言えると思う。




【信教の自由が憲法で保障されている】

WWC』の中で、ニレン弁護士も言っていたのだが
合衆国憲法は、
連邦政府が国教を定めてはならない」としていて、
これは1791年以来ずっと変わっていないのだそうだ。
ニレン弁護士は
「われわれは憲法で保障された集会、表現、結社、
 信教の自由という当然の自由を求めただけだ」
と、しきりに主張していた。
でも国としては宗教を定めない、というのと、
一つの宗教の元に集った人びとが街を作って良い、というのは
考えてみれば裏表で、うまく言えないが複雑な問題だと思う。
だがともかく1791年以来ずっと変わっていないということは
初期モルモン教会も、ラジニーシコミューンも、
憲法のもと自由に宗教活動をして良かったのは同じなのだ。



【ありあまる土地】

ラジニーシコミューンが選んだオレゴンの土地に、
当時、彼ら以外の人がいなかったわけではないが
その数はあまり多くなかった。
だがらラジニーシー(ラジニーシ教団の信徒)たちは、すぐに
その地域の政治経済、司法や警察権までも掌握するに至った。
アンテロープシティの近くの牧場を購入し、
従来の拠点だったインドを始め、世界中から信徒を呼び寄せて
大規模なコミューンを作り上げた。



【移民が都市を作りやすい社会システム】

アメリカ合衆国は移民社会だ。
西洋人があまりいなかった所に、
ほんの200年間くらいで続々と入植、という形で
一気に人が流入し、都市が作られて、できた国だ。
そんな経緯があるので、伝統的にアメリカでは、
移住してきた人たちが比較的容易に街を作れるよう
法的なシステムが整備されているという。
これは『WWC』を観ていて驚いたことなんだけど、
オレゴンなどは150人いれば「市」が作れるそうだ。
そんなんで良いんだ!!!
(日本では原則5万人以上が「市」で、他にも要件は多数)
だからラジニーシコミューンもスムーズに市を作り、
通りの名前や店の名前もラジニーシー流に一気に塗り替えた。
市長も警察もみんな信徒で、武装警備も合法的にできた。
また、オレゴンでは20日間州に居住すれば選挙人登録ができる。
アンテロープだけでなくワスコ郡の掌握をも企図したシーラは
この選挙人登録の規定を利用し、ホームレス抱え込みを決行した。
国中の路上生活者たちをコミューンに連れてきて生活を保障し、
郡議会選挙で投票させるようにしたわけだ。
スゴイ行動力だし、財力だ。力技だ。
※ちなみに日本で当該市区町村の選挙人名簿に登録されるには
 住民票登録した日から3ヶ月以上、そこの街の住基台帳に
 住民として記載される必要があるそうだ。

初期モルモン教会も、人がまばらな地域に集団で移住して、
やがて政治を動かす力を持っていった宗教集団だ。
ソルトレークシティの前にイリノイに拠点を置いた頃には、
教祖ジョセフ・スミスが大統領選に出馬表明している(1844年)。
スミスがその後逮捕され、民衆に襲撃されて命を落とすと、
教徒たちは西部の、当時まだ合衆国領でさえなかった土地に
一から都市を作り、これが今のソルトレークシティとなった。
1851年、教会の指導者ブリガム・ヤングが「ユタ準州」の
知事に指名されている(州都ソルトレークシティ)。
でも、この頃モルモン教会は、国の宗教的多数派である
プロテスタントとの衝突を深刻化させていった。
教徒の間で広まっていたデマが元で、
非教徒の人びとを襲撃して殺害する事件が発生。
元もと中央は、モルモン教会がユタの政権を握っていることを
警戒していたので、この虐殺事件を機に武力制圧を決意する。
米陸軍と教会の激突(1857年~1858年、ユタ戦争)の果てに
教会指導者ブリガム・ヤングはユタ準州知事を辞任した。
このできごとの影響で、
ユタが「準州」から「州」になるのには時間がかかった。
準州だと連邦政府の管轄下におかれていろいろ制約があり、
自治権限をフルに行使することができないのだそうだ。
教会が一夫多妻婚を廃止した(1890年)ことを受けて、
ようやくユタは「州」になることができた(1895年)。

誰もいない荒れ地を拓いて理想郷を作る、っていうのは
アメリカの精神的な母とされるニューイングランド
清教徒たちがそもそも志したことだったと思う。
でもいくら誰もいないつもりで入植したつもりでも
本当に人が全然いなかったはずはなく、先住民がいた。
そこへ入植して生活圏を拡げたことは、
先住民の伝統と暮らしを破壊することにつながった。でも、
「私たちが文明化してあげる」
「持ち腐れの土地を有効活用してあげる」
みたいな「上から」目線で、自分たちの選択を正当化した
・・・そんな面はやっぱりあるんだろう。

ラジニーシコミューンが
フロンティアスピリッツを継承してたかどうかは
わからないにしても、『WWC』の中で、シーラは
まるで昨日のことみたいに目を輝かせて振り返っていた。
砂漠同然だった土地を私たちみんなで耕して、
美しい都市を作り上げていったわ!
湖の生態系だって生き返ったのよ! と。

最高に楽しかっただろうな、とは思ったよ。
そんなことをやり遂げたのは、一生の思い出だろう。




【一般の人でも武器を持てる】

でも「私たちは良いことをしています!」
と言わんばかりのラジニーシーの主張を
アンテロープシティの住民はしりぞけたし、むしろ
静かなリタイアライフが脅かされる、と拒絶した。
アンテロープ市民は
コミューン建設の差し止めを求めて提訴した。
これはラジニーシーたちと近隣住民たちの
長い戦いの発端となった。

モルモン教会もアメリカ社会に根を下ろすまでに苦心があり
先ほど述べたように、ユタ戦争などで犠牲が出ている。
ラジニーシコミューンと近隣住民の対立も激烈で、
ラジニーシーたちが宿泊していたホテルが
何者かに放火される事件も起こった。
モルモン教会にしてもラジニーシコミューンにしても
彼らと非信徒との衝突がこんなにも激化したことには
やっぱり「武装する権利が保障されている」という
アメリカならではの背景があるだろうと思う。

ラジニーシーたちが移住後早々に武装し始めたので、
近隣住民たちも競って銃を買い、武装する道を選んだ。
住民たちは「私たちがコミューンを良く思っていないので
ラジニーシーが武力で脅してきている」と解釈したのだ。
アメリカらしい反応だと思う。
「銃を向けられたら銃を向ける」という風にやっていたら、
集団間で争いが起こった時に、それはどうしたって
「暴力」の形でエスカレートしていくと思う。
だが、銃で人が死ぬ痛ましい事件が、
今後どれほど繰り返され、どんなに多くの人が泣いても、
個人の武器保有権が合衆国憲法から削除されることは
まずありえないんじゃないかな、という気がする。




【なぜ武器を持つのかね】

というのも、アメリカの人が武器を持ちたがる背景に
環境条件からくる不安や警戒心があると思うからだ。
前に『ウインド・リバー』(2017年)という映画を観た。
米西部の実情に着想を得て構成されたあの物語の中では、
資源開発会社の作業員とかがみんな銃を携帯していた。
銃なんか絶対に必要とも思えないのに、誰もが持っていて
そのせいで、本当に一瞬にして、
予想だにしなかった惨劇に発展するシーンがあった。
あまりのことに呆然としてしまったのを覚えている。

広大な土地で、知らない人間に会った時、
もしお前が暴力で来るならこっちだって黙っていない、
という気分は
アメリカの人の心の根本的な所にあるのかもしれない。

モルモン教会の人びとが定着を目指した19世紀のアメリカ、
特に開拓地域においては、西洋人はまだ少なかったはずだ。
自分と家族の安全を守るため、その日の糧を確保するため、
武器を持っていなくちゃいけなかったのは当然だったろう。
ウインド・リバー』でも説明されていたんだけど、
現在でさえ、お隣さんの家とか一番近くのスーパーとかまで
車で何キロ、みたいな所に住むアメリカ人は少なくないそうだ。
きっととても不安だろうし、警戒心が高まると思う。
武器を手元に置きたくなる気持ちは、わかる。




【いったんまとめ】

未開発の土地に移住して、私たちの理想郷を打ち立てよう、
これ自体はアメリカでなくてもどこでも夢見ることができるが
アメリカには本当にそれを可能にする広い広い土地、
民主主義に基づいて個人に保障された幅広い活動の権利、
そして暴力に転じる危険性をもはらむ熱く烈しい精神性、
全部が揃っている気がする。
どれも、ある種の人の心を強く惹きつける要素ではあるだろう。
モルモン教会の人びともラジニーシーたちも
あるいはそうだったのかもしれない。

 

 

【日本とオウム真理教

日本でこういう系の話というと
やっぱりまず一番に「オウム真理教」を連想するんだけど、
オウム真理教がどうしてああいうことになったのかについては、
アメリカに備わっている環境条件が日本にあるかどうかで
考えてみたら、ちょっと話が見えてくるのかもしれない。
いや、やっぱりムリがあるか? でも一応やってみよう。

・信教の自由が憲法で保障されている
・ありあまる土地
・移民が都市を作りやすい社会システム
・一般の人でも武器を持てる

信教の自由は日本にもある。でも、あとは全部ないな。
土地が豊富とは全然言えないし、
移民が新しい都市を作りやすいシステムでもないし、
日本の一般人は銃とか持たない。
オウムは確か東京を起点に信者を集め、選挙出馬も東京だった。
人がまばらなエリアを選んで多数派としての地位を確立し、
周到に政治力を伸ばしていったラジニーシコミューンとは
考え方が全然違うようだ。
アメリカと日本とではこの通り環境要件が異なっている。
ラジニーシコミューンが一時的にうまくやった例があっても
彼らとまったく同じ手法で、日本でオウムが何かしたとして、
同じようにうまくいったかどうかはわたしにはわからない。
(もしアメリカでやってたらうまくいったのだろうか・・・)

まだオウム真理教とその事件は「歴史」にまでは
なっていないような気がする。
自分の国のことなのに恥ずかしいんだけど、
実はわたしはオウム関連の事件については、
ほとんど何も知らない。
オウムの組織成立の経緯や彼らの起こした事件について
知識を得てから、この記事を書きたかった気もしたが、
どの本を読めば良いか、誰の研究から学べば良いか、
見当もつかなかった。
今後少し勉強して、何か自分なりに考える所までいったら
この記事に加筆するかもしれないが、
今回の所はここでおしまいにしておきたい。



※参考に読んでみた本
森孝一『宗教からよむ”アメリカ”』講談社選書メチエ
堀内一史アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ』中公新書
森本あんり『キリスト教でたどるアメリカ史』角川ソフィア文庫
高橋弘『ユタ州とブリガム・ヤング
    アメリカ西部開拓史における暴力・性・宗教』新教出版社
ヒュー・ミルン『ラジニーシ・堕ちた神』第三書館
太田俊寛『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇』ちくま新書

『キング』

 


原題:The King
デヴィッド・ミショッド監督・脚本
2019年
米・豪

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【はじめに・・・】

この映画、おもしろくなかったんですよ!!!
けど、「おもしろくなさ」について語る意味はあると思い、
一生懸命に語ったら、結果、スゴく長文になっちゃった。
ひとえにわたしの力量の問題で、本当に恥ずかしい。
けど、シェイクスピア原作におけるキャラクター造型や
作品の構造と、映画のそれを比較検討することで、
真剣に、自分なりの批判を展開しようと試みた。
また、同じ原作をベースにした作品で、もっと良作を
見つけたので、その簡単な紹介も、最後に付した。
英米古典文学や戦争史劇映画にもしご関心があれば、
ついてきてくださるとうれしい。
作品解釈や知見の部分で間違っているところがあれば
それはわたしの力足らずによるものだ。
どなたか指摘して教えていただければ、すごく助かる。


【おもしろくない。良くない。】

おもしろくないんだよね~。
ついでに言うとちょっと悪質な映画でもあると思う。

ネット上の鑑賞者レビューにざっと目を通して、
批評家と呼ばれる人のレビューもいくつか読んだ結果、
この映画を批判する意見は少ない印象。
だがわたしは全然おもしろくなかった。
いったいこの映画の、何が良かったのか知りたくて、
一応2回鑑賞したが、理解はできなかった。

でもさ結局の所、レビューした人の9割9分がたは
ティモシー・シャラメたん ステキ♪」
しか言ってないよね(笑)
本格戦争史劇の触れ込みだったらしいけど
アイドル映画的消費のされ方の域を出ていないのでは?



【一回でも原作読んだのか】

こんなこと言いたくはないんだけど、
この映画を観た人たちのうち
いったい何人が原作を読んだのか。
シェイクスピア
『ヘンリー四世 第一部』『ヘンリー四世 第二部』
『ヘンリー五世』とできれば『リチャード二世』
映画観る前でも観たあとでも、1冊でも読んだのか。
映画を観る動機なんて人それぞれだから、
一般の鑑賞者の姿勢までどうこう言う気はないが、
批評家とされる方がたについちゃあ話は別だろう。
批評家ともあろう方がたが
この映画をまともに批判しないなんて・・・、
不正じゃなければ、金とか絡んでなければだけど、
原作を読まずにものを言ってるから、じゃないのかね。
だって、一回でも原作を読んでいたら、
「この映画はおかしい」と少しは感じると思う。
「言うのもバカらしいわ」と思ったならしょうがないが、
一人くらいは
「まったくなっちゃいませんね、この映画は」と
言う人がいてもおかしくないと思うんだよ。

西欧の芸術に携わる人は、誰でも、年若い人でも、
当然、古典芸術の教養を身につけてると思ってた。
自分が作るものが西洋芸術史のマップ上のどこの位置付けか、
わきまえて立ち回ってるんだろうと。
西欧文化へのコンプレックスかもしれないけど。
けど、この映画観て、それは思い違いだとわかった。
シェイクスピア知らなくても演劇は作れるし、
教養レベルとかは人によるし、タイミングもあるよね。

 

【絶対やっちゃダメなことをやっている】

それはわかるのだが・・・
だけどこの映画は、問題だと思うな。
ジョン・フォルスタッフが登場するということは、
脚本を書いた人(つまり監督)は、
さすがに原作を意識していたみたいだけど、
その原作の「とらえ方」が的外れだと思う。
脚色にしても、わたしが観ていた限り、
「それだけはやっちゃダメだろ」ってことを、
狙いすましたかのようにやっちゃっていた。

だが、それで結果的に、この『キング』が
原作レイプである! けしからん」
とか目くじら立てるほどひどい出来か? と言うと
そうでもない気がする。
怒りという強い気持ちを煽ってくるほどのパワーは
どうも足りてない作品だ。
単に、内容も、見どころも、何もない、
おもしろくな~い映画。それだけのことだ。

以下にわたしは結構いろいろ書くけど、
この作品に「怒っている」から書く、のではない。
ただ、この映画を観て感じた「おかしさ」について
本腰入れて詳しく語ってみたい、とは考えた。
なぜなら既出の鑑賞者レビューを渉猟した限り
誰もまじめにこの映画の問題点を指摘してないから。

記事の長大さのあまり「わー、なんか怒ってる怒ってる」
って印象を与えてしまうかもしれないけど、
そういうつもりはない。
キレてないですよ。 



【やっちゃダメなこと=個性を奪うこと】

「それだけはやっちゃダメだろ」ってことを
狙いすましたかのようにやっちゃっている映画だ、
わたしはそう言った。
わたしに言わせれば、端的に言うとそれは、
ハリー(ヘンリー五世)とフォルスタッフの、
キャラクターの改悪、と言うか「無個性化」だ。
ハリーは、もちろん物語の主人公だ。
フォルスタッフは、脇役以外の何ものでもないのだが、
ハリーの言わば「影」とも言える、超重要キャラだ。
つまり彼らは言わばこの物語のツートップ。
その二人から、個性を奪い取るだと???
絶対やっちゃダメなやつだ、どう考えても。

「無個性化」という言葉にたどり着いた時、
この記事を書き進めるのが急にラクになった。 
『キング』のハリーとフォルスタッフには個性がない。
そういうこと。言いたかったのはそれだ。


 

【確認:原作のあらすじ】

『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』の
おおまかなストーリーを紹介しとく。
舞台は15世紀初頭のイングランド
ヘンリー四世はリチャード二世から位を簒奪して王となったが
国内外に山積する問題を解決しきれないまま、病を得て崩御
息子である王太子ハリーが、ヘンリー五世として即位する。
父王在位中のハリーは、放蕩ざんまいのドラ息子だった。
宮廷に寄り付かず、政治に興味を示さず、
騎士階級の鼻つまみ者フォルスタッフを始めとする
下町の連中とつるんで遊び呆けていた。
だが新王となるやハリーは改心、
まれにみる偉大な君主として国を治めるようになる。
そしてフランスと激突、アジャンクールの戦いで勝利して
父の念願だった二国統一を成し遂げたハリーが、
フランス王女キャサリンを妻に迎えて大団円。

映画『キング』も、ストーリーは大体このままだ。 



【『キング』のハリーはこうなってる】

ハリーのキャラクターに関して言えば、
原作では(翻訳によって多少イメージは違うんだろうが)
妙~に間が悪くて、誤解されやすい所はあるものの
なかなか快活で豪気で、庶民にも愛される、好人物だ。
ちょっとだけネタばらしすると実はその庶民派キャラも、
ハリーなりの思惑による、仮の姿だったりするのだが、
そんなことはおくびにも出さず、実際わりと本心から
下町に入り浸るダメ王子ライフを楽しんでいる感じ。

だが原作のハリーのこのカラっとしたキャラクターを、
『キング』のハリーは1ミリたりとも受け継いでなかった。
とにかく暗い・・・。覇気のカケラもない。声が小さい。
表情が乏しいので心情や思惑がちっとも見えないのだが、
あえて形容するなら、所与の暮らしに倦んでいる。
何もかもが苦痛で、生きることが嫌でしょうがない。
強いて言えばそんな、内向的で繊細な性格に見える。
だが、ついさっき言ったばかりのことを繰り返すが、
何を考えてるのか本人が言わないから、わからない。
「戦争は無益だ」みたいなことは、たまに言っていた。
また、父親を怪物呼ばわりするほど忌み嫌っていて
「俺は父とは違う」とかつぶやく時もあるにはあった。
父のヘンリー四世は、後ろめたい方法で王になったせいで、
宮廷内に敵が多く、貴族たちの不満を自分からそらすために
外国と戦争する、というやりかたを取っていた所があった。
ハリーは父のそういうやり方を見ていたのであろうから、
「おれは親父とは違う、戦争なんて無益だから、しない」
・・・そう言いたかった、つもりなのだろうか。
だがその彼も臣下に突き上げられ結局は戦争する道を選択した。
だけど開戦を決意するまでのハリーの心のうつりかわりなどは
映画を観ていてもまったく、たどることができないから、
「父と同じ轍を踏みたくないから戦争したくない」と
思っていたのかどうかは、わからない。

そもそも、元も子もないことを言うようで恐縮なのだが
「戦争は無益」とか言う価値観は、とても現代的なもので、
中世ヨーロッパ史劇の人物の脳に搭載すること自体ムリがある。
あと、原作では、ハリーは父王ヘンリー四世を尊重してたよ。
父に対して、内心いろいろ思う所はあったようだが、
その葛藤のあり方は、もっと素直なものであり、
『キング』のハリーみたいな、
クソオヤジ呼ばわりするみたいな嫌い方はしていない。
いったいどこから持ってきたんだ、あんなキャラを。 



【『キング』のハリーがこうなったわけ】

『キング』の作り手たちが、
ハリーのキャラをこんな風に作り変えたのはなぜか?
陰気だけどいかにも何か考えてます、みたいなキャラに。
そのくせ何を考えているか説明を付さなかったのはなぜか。
そこはぜひとも説明が必要な所だと思う。
ネタバレになっちゃうから、詳しくは書かないが、
ハリーの人柄や思考傾向を少しでも丁寧に描いていれば、
あの終盤の、噴飯もののどんでん返しも不要だったろう。
「宮廷には醜悪な奸計と裏切りが渦巻いている。
 それは父の身から出たサビだ。
 俺は父がそのことで苦しむのをずっと見てきた。
 だから俺は王なんかにはなりたくないのだ」
例えばこんな風に最初からハリーに言わせておけばすんだ。
実際、信用していた部下の裏切りの証拠をつかみ、
処刑するという、原作通りの場面が中盤にちゃんとあった。
ああいう場面を他にもいくつか前もって入れておけば、
ラストに、あんなバカな展開は要らなかったのでは。

そもそもハリー自身の人柄や、統治方針とかを、
鑑賞者に知らせるシーン自体がなかったんだから、
ラストをああいう風にする意味もなかったと思う。
もしもハリーに政治をやる気がないのだとしたら、
国の平和が「偽り」か「真実」かなんて、
そんなこと彼にはどうでも良いかもしれないのだ。

わたしなりの考えを言わせてもらうと、
ハリーをあんな暗~いキャラにしたことに、
多分、明確な理由とかはないのだろうね。
ティモシー・シャラメのアンニュイな横顔を、
撮りたかっただけなんじゃないかな。


 

【そして問題はフォルスタッフ】

ハリーについての文句、だいぶ言ったな~。
正直なとこ、言いたいことはまだ山ほどある。
けど、この映画の中で、
わたしがハリーよりももっと気になったのは、
むしろジョン・フォルスタッフのキャラクター造型だ。
というかフォルスタッフについて考えると、
反射するように、ハリーのことも見えやすくなる。
この二人のキャラは、そういう関係性上にある。
わたしはそう考えている。 

原作を読めば一目瞭然、
フォルスタッフはすがすがしいほどのクズ野郎だ。
大酒飲みの大食い、しかもエロじじい、さらに虚言癖、
上の者にはペコペコへつらい下の者はさげすみいじめる。
強盗・詐欺などの犯罪にも手を染め、多重債務者でもある。
歩兵を雇う資格を持つ騎士階級のくせに、すごい臆病者で、
戦って死ぬことを恐れて、戦場ではいつも隠れている。
しかも他人の手柄を平気で横取り。王子の手柄さえも。
嘘だろと思うかもしれないが、本当にこんなキャラだ。

でも、シェイクスピアが作り出したこの
フォルスタッフというキャラクターは、
昔からとても愛されてきたのだそうだ。
原作戯曲を読むとわかるのだが、
ハリーよりもフォルスタッフの方が、断然目立つ。
彼というキャラを一度知ると、忘れられなくなる。
まあ、わたしはフォルスタッフなんか大っ嫌いだから、
王になったハリーがこの男をアッサリ追放する場面で、
本当に胸がスッとするんだけど・・・、
それでも、ヘンリー五世の物語の中での
フォルスタッフの重要性は理解しているつもりだ。


 

【なぜフォルスタッフがそんなに重要か】

なぜフォルスタッフがそんなに重要だと思うか。
わたしの作品解釈では、
ハリーが、当時の支配的潮流だった中世的「騎士道精神」、
君主制に立脚するイデオロギーを体現するキャラだとすると、
フォルスタッフはそのイデオロギーからの人間性の解放、
きらきらと輝く人間の生命力を体現するキャラなのだ。
両者は鏡であり、ヘンリー五世の物語の、二本の柱だ。
両方とも外せない、そういう構造になってる。
フォルスタッフが重要なのは、そのためだ。


 

【物語上の役割:ハリー】

まず、ハリーについて考えてみたい。
彼はこの戯曲のヒーローで、王さまだから、
ハリーが体現するのは騎士としての名誉とか、
たとえ負け戦でも最後の一兵卒まで的な「ヒロイズム」だ。
キリスト教文化圏の物語だから、宗教的な敬虔さも大切だ。
原作のハリーは、何万もの兵の命を背負う重責に慄いて、
あさましいほど神にすがり、勝利の奇蹟をこいねがう。
けど「ヒロイズム」って、人間存在にとっては人工的なものだ。
「王者たるもの」「騎士たるもの」「男子たるもの」
という後天的な教育によって身についていったはずのもので、
誰もが生まれつき心に備えているもの、とは言えないだろう。
でも、ともかくハリーは、王となることによって、
そんな理想的精神に自分を溶かし込んでいく。


 

【物語上の役割:フォルスタッフ】

フォルスタッフは、ハリーとは明らかに違う。
彼は、本当に期待を裏切らない安定のクズ野郎なのだが、
考えようによっては、ハリーよりもずっと人間らしい。
なぜなら、自己保存本能にものすごく忠実だから。
さっき紹介したが、フォルスタッフはひどい臆病者だ。
戦場で逃げるどころか、死んだふりまでして身を守る。
ひきょう者のそしりを免れないだろうし、
わたしもフォルスタッフなんか大っ嫌いだ。けど、
フォルスタッフが臆病だ、ひきょうだという評価は、
中世封建社会のメインストリーム的価値観から見た時の、
ごく限定的なジャッジにすぎない、とも言える。
確かに、戦場で女子どもを虐殺するといったような
明らかに人間の道に反することをやったとしたら、
これはひきょうだ卑劣だと言われてもしかたがない。
でも、絶対勝てない相手と見たらさっさと逃げたり、
死んだフリをして場をやり過ごす、とかならば、
誰だって場合によっては、似たようなことをやるのでは。
山で巨大なクマと遭遇した時、最後の一人まで戦うぞ! 
なんて考える人は、残念だが、おつむが煮えている。
フォルスタッフだけが特別クズとも言えないわけだ。
ちなみに、「ひきょう」なことをするのが得意になると
人間、体裁をとりつくろう言い訳が、達者になるらしい。
フォルスタッフも、どんな時でも決して悪びれず、
バカみたいなホラとマシンガントークで逃げ切る、
一種の機智? みたいなものを備えている。
彼のお得意の適当トークは原作戯曲の至る所でみられ、
心底、へきえきさせられる。

こうしてどっこい生きていくのが人間だ、とするなら
フォルスタッフはまぎれもなく、人間的なキャラだ。


 

【共鳴しつつ分岐する】

フォルスタッフはこう言ってる。
「名誉、面目って野郎が尻っぺたァつっつきやがる。
 だがな、いってえ・・・なんだな、その名誉って奴ァ、
 ただの言葉じゃねえか? 空気じゃねえか?」
(『ヘンリー四世 第一部』第五幕第一場)

これに呼応するかのように、
アジャンクール前夜、ハリーもこんなことを言う。
「庶民が持たず王が持っているものは何だ、
 儀礼だけ、公の壮麗な儀礼だけではないか?
 その儀礼という偶像よ、お前はいったい何者だ?
 <中略>
 儀礼という見栄っぱりな幻よ、お前は王の安らぎを
 巧みに弄ぶ・・・」
(『ヘンリー五世』第四幕第一場)

ここだけ見ても、ハリーとフォルスタッフの道が
対比的に分岐するよう仕組まれていることは明白ではないか。

父のあとを継ぐまではハリーもフォルスタッフと同じだった。
進んでフォルスタッフと同類でいた。毎日バカをやっていた。
イングランド王にしてフランス王という栄誉を手にする前は、
こんな自嘲的な、心の迷いをうかがわせる独白をしていた。
だが、アジャンクールの戦いに勝利したあとの彼はもう、
戦う王となって、脇目もふらず覇道を驀進していく。
対してフォルスタッフは、最初から最後まで変わらない。
鉄壁のクズ野郎であり、あきれるほど人間なのだ。


 

【フォルスタッフの末路】

人間も生きものなんだから、生命の危険が迫れば、
自分だけは助かろうとして、みっともないこともする。
自分だけは他人よりも良い思いをしたい、とか考えて、
いろいろずるいことを企む時だって、あるものだ。
単純に言えばフォルスタッフは、そっちサイド代表だ。
もちろんそんな人間は、表向きはとても嫌われる。
劇の中では、悪者か笑いものになるのがお約束だろう。
フォルスタッフも、まさにそんな感じの扱いだ。
実はフォルスタッフは、ハリーに追放されると、
ショックのあまりボケたようになってしまい、
とてもさびしい末路をたどることになる。
それまで劇中で大暴れしていたにも関わらず、
「フォルスタッフの末路」の場面なんて、
戯曲には一瞬たりとも用意されない。
「フォルスタッフの野郎はボケたらしいよ」
みたいな感じで人のウワサになって、
それであっけなく物語から退場させられるのだ。

ハリーがすっかり改心して立派な王となったことは、
「成長」として、周囲に極めて好意的に評価される。
君主制時代の理想的な秩序の具現者たること、それこそ
当時の英国の社会で、表向き最高の、男の姿だった。
対してフォルスタッフは、
「言うても人間ってこうでしょ!」を体現する存在として
物語の中に生き、与えられた人生をやり抜いて去っていく。
もっと言うと、この戯曲が読み継がれる限り、
フォルスタッフは何度でも人びとの心の中に生まれる。
まるでしぶといゴキブ・・・いや、生命力あふれるキャラだ。

そういうことだと思うから、わたしは、
フォルスタッフもヘンリー五世の物語の
非常に重要なキャラクターだと思っている。
彼はハリーと同じく、この物語の、
屋台骨そのものだからだ。



【『キング』のフォルスタッフはこうなってる】

で、そのフォルスタッフは、
映画『キング』ではどんな風に描かれているか?
それがもう、めちゃくちゃカッコイイのだ。 
彼こそ真の騎士、いぶし銀のロートルナイトだ。
ハリーに信頼され軍指揮官に抜擢される。カッコイイ。
「明日は雨が降るぜ。俺のヒザの古傷が疼くからな」
とか言って、天候条件を活かす奇策を献ずる。カッコイイ。
「戦争なんてろくでもない。俺はさんざん見てきた」
もののわかったことを言う。カッコイイ。
戦場では、何と前衛を率いて真っ先に敵に突っ込んでいく。
もはや誰!

これはつまり、フォルスタッフというキャラクターを、
原作でハリーが代表している中世ヒロイズムサイドに
統合しちゃいましょう、ということなのか?

別に、それはそれで良いとわたしは思う。
原作とは別の、完成された構造を持つ物語として
ちゃんと成立していれば、の話だが。



【ただ奪い去られただけの個性】

いや、残念だけどまったく成立してないのだ。
さっきから言ってきたことだけど、そもそもハリーが
何考えてるのかわからない人にしか見えないので。
戦争に興味はない、俺は父とは違うとか言うけど、
ではどんな治世を目指すか? は明言しないから、
それでは「何を考えているかわかる」とは言えない。
フォルスタッフが「リーダーの心得」みたいなものを
説いていたが、ハリーは下を向いて聞いているだけで
それは違うとも、俺も同感だ、とも言わないので、
何だか良くわからない。

フォルスタッフ、こんな立派になっちゃってまあ(涙)
でも、こういう百戦錬磨のいぶし銀キャラってさ、
戦争史劇ものに、たいてい一人はいるよね。
ただの「そういう立ち位置」なのであって、
フォルスタッフじゃなくても良かったんじゃ?

『キング』はハリーとフォルスタッフから
個性を剥ぎ取った。
五百歩譲って「初期化した」と言っても良い。でも、
それだけのことをするからには、という「何か」をやったか。
残念だけど、何もやってない。
そう言わざるを得ない。
だ~か~ら、
絶対やっちゃダメなことをやっちゃってるんだって~!
明確なビジョンもなしに古典の名作に手を出してさ~!
この二人が物語の構造上どんな役割を持たされているか、
映画の作り手がちゃんと考えようとしていないし、
考えた上での「再構築」にも取り組めていない。
というか「再構築してやるぞ」という気概そのものが、
なかったんだろうね、この映画作った人には。
やっぱりアレでしょ、
ティモシー・シャラメ人気に乗っかっただけ。 

原作戯曲は、もう昔の作品なので、
今の感覚で読んだらピンとこない部分も多い。
『キング』の作り手たちは、あるいは、
その「今の感覚で理解しにくい部分」をカットして、
単純なハリーの成長物語にしよう、と考えたのかも。
でも、ハリーが没個性的で、何考えてるかわからないから
ハリーが成長したかどうかも、わからないんだけど(笑)!
父との関係がうまくいってなかった分、
フォルスタッフに「父親」的なものを求めた、とか
そういう感じのことがやりたかったのか?
確かにフォルスタッフは満更でもなさそうだった。
けど、ハリーはフォルスタッフのこと
「お前は友だち」って言ってたぞ・・・



【他にもこのへんイケてない】

単なる戦争映画としても、見ごたえがないんだよな~。
クライマックスのアジャンクールの戦いの場面も
新しさというものが感じられず退屈の一言。
環境要件を活かす奇策、みたいなのであれば、
アウトロー・キング スコットランドの英雄』(2018年)が 
同じようなことをやってしまってるし、
むしろあっちの方が見ごたえがあった。
そう言えば最近『ブレイブハート』(1995年)を観たけど
あれのさー 騎馬隊を引き付けるだけ引き付けて、
とっさに長槍を突き立てて、騎馬の足を壊乱させる作戦も
良かったよね。迫力があったし、
「作戦がキマッた!!!」という感じがちゃんとしたし、
観ていて楽しかった。
あのキマッた!!! という感じがないよな『キング』には。

クライマックスまでのテンポもダルかったな~。
フランス王太子役のロバート・パティンソンも浮いていた。
マッドな若殿さまの類型って感じで。

役者さんはみんな自分の仕事をちゃんとやっていたよ。
おかげで時々は、場面がまとまってる気がした時もあった。
悪いのは役者じゃなくて監督、脚本じゃないかな。
つまり映画を作ろう、というその段階でもう 
映画が腐り始めていたんだと思えてならない。


 

【『ホロウ・クラウン』観ようぜ】

『キング』観るくらいだったら、同じヘンリー5世なら
英国の2012年~2016年のテレビ映画シリーズ
『ホロウ・クラウン 嘆きの王冠』シーズン1の方が
わたしはずっと楽しめた。

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何たって愚直なまでに原作に誠実。
実写なのに戯曲のセリフをものすごくちゃんと言うから
いつまでしゃべってんだ! ってくらいセリフ長い(笑)!
でも場面の演出なんかはおしゃれに脚色していて、
映像もカラフルで美しいし、観ていて楽しいんだよ。
トム・ヒドルストンのあのハリー、素晴らしかった。
原作を読んでわたしが抱いてきたイメージともかなり近い。
スタイルが良くて、普通にとってもカッコイイし。
それにフォルスタッフも完璧! 大っ嫌い(笑)!

『キング』観るくらいなら『ホロウ・クラウン』観よう。
そしてシェイクスピアくらいやっぱり読もう。
読めばわかるって。そういうの、大事だと、わたし思う。


※記事内におけるセリフの引用は以下から。
『ヘンリー四世 第一部』中野好夫訳、岩波文庫 1993年12刷
『ヘンリー四世 第ニ部』中野好夫訳、岩波文庫 1993年14刷
『ヘンリー五世』松岡和子訳、ちくま文庫 2019年1刷

『いつかはマイ・ベイビー』

原題:Always Be My Maybe
ナナッチカ・カーン監督
米国
2019年5月31日~ Netflix独占配信中

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ご時世がご時世だから気分が暗くなりやすいので
明るい気持ちになりたい気がして、観てみた。

いやあ、どうなんですかねこれは。
わたしは全然ハマらなかったけどねえ(笑)!
物語の中で起こることのすべてに、
ほとんど興味関心が湧かなかった(笑)
でも世評はとっても良いみたい。

観ていて、十分明るい気持ちにはしてもらったし、
パソコンで何か別の作業をしながら、
小さなウィンドウで流しておく分には
ちっとも悪くない映画だと思う。

マーカスがヒロインにそこまで魅かれる
理由が良くわからなかった。
(恋愛なんて人それぞれなので、外野が
 この人のどこが良いの? とか言うのは
 野暮ではあるのだが・・・)

また、彼が今まで人生を一歩踏み出せないでいた所を
良し! 今こそその時だ! と立ち上がった動機も
ハッキリしなくて、いまいち共感できず。

「君のバッグを持たせてくれ!」というセリフも
ちょっと女性に都合の良い男すぎないか、と思った(笑)

だが、ティーンの時に乗っていた車を
十数年だか経ってボロボロになってもまだ使ってたり
幼い頃おそろいで買ったキーホルダーを
未だに持っていたり・・・という
マーカスの異常な物持ちの良さは、
「過去に囚われた男」を表現するエピソードなのだろうと
それくらいは理解できた。

また、これはただの印象なんだけど、
マーカスが人生のコマを前に進めあぐねていたことに、
はっきりした理由なんて特にないのかもしれない。
「なぜ?」とあえて聞けば、彼は多分もっともらしく
説明してくれるんだろうけど、その場しのぎに過ぎず、
「なぜって聞かれても困る」というのが正直な所では。
母親を亡くしたことも、そんなには関係ないと思う。
少なくとも関係があるかのようには描かれていなかった。

ヒロインのサシャの方も、
人物や人生の背景の描写が弱い、と感じたことは
やはり同様だった。
両親と疎遠な理由が、何よりも一番謎だ(笑)
「わたしに両親はいない」とまで言うほど・・・。
疎遠という設定じゃなくても別に良かったと思う(笑)

婚約者との結婚がダメになるシーンで、サシャが、
「あなたのせいで出産に最適の時期を棒に振った」
的なことを叫ぶ。これを聞いた時は、
「あ、そうなの!? そういうこと考えてたの?!」
と、観てるこっちがビックリした。
この段階までは彼女はそんなこと匂わせもしてなかった。
なんならサシャも、仕事人間でナルシストの婚約者同様、
ビジネス上の打算で相手を選んだのかと思ってた。
そういう風にしか見えなかったのだ。
だからパートナーに結婚を延期し別居する、と言われて
サシャがあれほどまでに怒ったのが意外であったし、
まして妊娠を希望していたとは! と驚愕した。
婚約者に対してはいくら本心を隠してても良いけど、
鑑賞者にだけは事前に教えといてくれや(笑)

サシャがシェフの道を歩んだことのきっかけには、
隣のマーカス一家にしょっちゅうご飯をごちそうになっていて
マーカスの母に料理の手ほどきを受けたことが大きかったと
理解しておけば、まあ間違いはないのだろう。
だが、それは「そんな感じで理解しておいてあげます」と、
観てるこっちが精一杯、気を遣った結果の解釈であり、
「そうだったとしか考えられない」というほど強く
設定を印象付ける描写は全然なかった(笑)
マーカスの母との、ある思い出が、あとで活きる伏線だったと
映画を最後まで観た時に、初めてわかった。
だがこれも、伏線が伏線たりえていないもんだから、
「はあ、そうですか~」って感じで終わってしまった。
悪くない終わり方だったとは思うが。

だが好ましい所や、ちょっと新鮮だなと感じる所も、
たくさん見付けられた映画ではあった。
例えば、マーカスは韓国系アメリカ人で、
サシャは(多分)中国系アメリカ人だ。
こうした属性(言ってしまえばこうした人種)のキャラは
ちょっと前の恋愛映画では、
例えば「ヒロインの親友」とかいったような、
サブキャラにすぎなかったと思う。
それがこの映画では、れっきとした主役をはっている。
また、社会的地位も収入も、上なのは明らかにサシャで、
マーカスの方はそうじゃない・・・、という設定も
ちょっと変わったことやっているな、って印象だ。
マーカスもサシャも、お世辞にも美男美女とは言えない所も。

サシャの一番の親友で有能なアシスタントでもある
ヴェロニカが出産したので、お見舞いに行くシーンがある。
そこで、ヴェロニカのパートナーが女性であることが
非常にさりげなく表現されていて、うまい! の一言。
正直に言うと映画を観た時にはこれはわからなかった。
今この記事を書いている途中で、ハッと気付いた。
あれはスゴく、スマートで良かったんじゃないかな。

あと、キアヌ・リーブスが素晴らしかった(笑)
ああいう役柄で、本人役で出てくれる所が
キアヌ・リーブスの、彼らしい所なのだろう。
とても楽しそうに役を演じていて、微笑ましい限りだった。

マーカスとサシャのようなデコボコのカップルだと、
結ばれるまでよりも、そのあとの方が、
数億倍もいろんな困難に見舞われると思う。
続編とかで、二人のその後を描くのもアリではないか。
テレビドラマシリーズにしちゃうと間が持たなさそうだが、
サクッと2時間ならそれなりに楽しい映画になる気がする。

それにしても、
つい先ほど述べたことに関係するのだが、
旧来のハリウッドのテレビドラマや映画だったら
主人公にはならなかったであろうタイプのキャラクターが、
この『いつかはマイ・ベイビー』では主役をはっていた。
これはNetflixが新たに開きつつある扉、なのだろうか。
それとも、単に配給会社を経由する関係で
日本にあまり入ってきにくいというだけで
もともとこのくらいの感じの作品はたくさんあり、
Netflixを通すとこうして触れることができる、のだろうか。

この世にはいろんな人がいて、いろんな人間関係があるから、
それを物語にする以上、いろんな物語が生まれて当然だと思う。
人の多様性を積極的に取り扱っていく姿勢が
Netflixのポテンシャルなのだとすれば、もちろん応援したい。

『シャザム!』

原題:Shazam!
デヴィッド・F・サンドバーグ監督
2019年、米

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『デッド・プール』(ティム・ミラー監督、2016年)ほどの
潔い突き抜け感はなかった気がしたけど、
別にそれが不満、ってわけじゃない。
十分楽しく観た。たまに声出して笑った。
孤児、里親、身体的障害、いじめ、などなど
複雑なことが盛り込まれたストーリーだったけど、
決してシリアスではなく、楽しく観ようね、って感じ。

ビリー少年の笑顔が可愛くてとっても良かった。
大人ビリー=シャザム(ザッカリー・リーヴァイ)に
変身した時にキャラが変わり過ぎだろ! とは思ったけど。
けど、身なりって、びっくりするほど人を変えるので、
あんなムキムキのスーパーヒーローに変身したら、
マインドもそれにつられて、誰でもああいう風に
キャラが豹変しちゃうものなのかも。

それにしても、
「永遠の岩」のセキュリティシステムは一体どうなってるんだ。
あの場所にたどり着くための方法や難易度が場合によって違った。
ドクター・シヴァナは「永遠の岩」への行き方を知ろうとして
その半生のすべてを研究に捧げてきたというのに、
ビリーの義理のきょうだいたちは、ビリーやシヴァナの
あとにくっついていくだけで、簡単に潜入できてしまう。

「永遠の岩」で後継者の出現を待っている魔術師の
人を見る眼はビミョーだなと思った。
どうも、ビリーの時は、ビリーが「良いこと」をしたので、
純粋で正しい心の持ち主だと見込んで招いたらしい。
ではあの魔術師は、世界中の人間の行いをじっと見ていて、
些細なことでも善行をなした人間をピックアップしている
・・・ということになるのだろうか。
でもだとしたら、シヴァナを呼んだ理由は何なんだ。
シヴァナは、「良いこと」を特にしてなかったぞ・・・。
それに、話をビリーに戻すと、
まあ、確かに彼は「良いこと」をした。
義理のきょうだいのフレディを、いじめから救ったのだ。
けど、思いっきり武器を使ってた。
現実にあれをやったらケガではすまない殴り方だった。
子どもも観る映画なので、流血沙汰にはならなかったけど、
果たしてあれを素直に「善行」と言って良いものか・・・。
そもそもフレディのためにしたことってわけでもなかったし。
あの魔術師は、魔力が衰えつつあっただけでなく、
七つの大罪」の影響で、おつむが煮えてきてたのかな。

現実のつらさや、やるべきことから逃げないこと。
弱い立場の人への、思いやりの心。
いざとなったら大切な人を守って戦う勇気。
そんなことを、若い人たちに伝える物語だった。
それをわかりやすく伝えるために、
大人たちのズルくて弱い面が、けっこうハッキリと
打ち出されていたのがおもしろかった。
ビリー少年が母と再会する所とか、実に何と言うか・・・
あの母親の、言い分がね。いやはや・・・。何と言うか。
我が子に対した時に一番やっちゃダメな逃避の形だ、あれは。

敵のシヴァナは怪物「七つの大罪」を使役している。
でも実際に外に出て人を襲うのは7体中6体だけで、
残り1体はいつもシヴァナの中におり、その名は「嫉妬」。
わかりやすくて、なかなかうまい。
ビリーは、
「他の6体に『お前にはどうせできない』と言われて
 ハブられてて、戦いに参加させてもらえないんだろ」
と言って「嫉妬」を挑発し、おびき出していた。
けど、これは実際の所どうなのか。
ビリーの考え方も一理あるんだろうが、
「嫉妬」は、シヴァナのいじけた心の中にいるのが快適で、
中にいたがっているんじゃないかな、と考えたりした。

この通り、普通に考えておかしいだろ! って所が
わりともりだくさんの映画だった(笑)。
吹替版も観たけど、シャザムの声、合ってないし、
そういう所もちょっと、いろいろと・・・。
だけど、まあ、そんなことはどうでも良い。
観てて、気分が上がったし。
ビリー少年役のアッシャー・エンジェルと
フレディ少年役のジャック・ディラン・グレイザーは
心から楽しんで演じているように見えた。
ビールを一口飲んでブー!!!! と吹き出す所や
夜のお店に行ってみる所、実にアホ男子で、笑った。
ラストシーンのフレディの表情も最高。

今回の物語は
スーパーヒーロー・シャザムの「誕生」の物語にすぎず、
人類を救う的な、スケールの大きな話ではなかった。
ただ、魔術師によれば、「七つの大罪」が世に放たれて
世界が壊滅的しかけたことが、遠い昔にあったらしい。
七つの大罪」は今回の物語の中で目覚めたわけだし、
ドクター・シヴァナもまだ何か企んでるみたいだった。
続編があるとすれば、その時は、シャザムはもっと
ワールドワイドな戦いに身を投じていくのだろう。
正直言うと、そんなには興味ないけど(笑)、
せいぜい頑張ってくれ。シャザム!

『パッドマン 5億人の女性を救った男』

原題:Pad Man
R・バールキ監督
2018年
インド

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現代でも女性の月経をタブー視する風潮が根強いインド農村部。
市販の生理用ナプキンは高価で、庶民は気軽に買えない。
手先が器用な職人のラクシュミは、最近結婚したばかり。
彼は妻が不衛生な布切れで生理をしのいでいることを知って驚く。
市販のナプキンを購入して妻にプレゼントするものの、
無駄遣いを咎められ、女の事情に関わらないでと逆に怒られる。
しかし、愛する妻の健康を願うラクシュミはそこであきらめず
衛生的で安価なナプキンを、自力で開発しようと決意する。
でも彼の奮闘は、周囲の人びとの眼には奇異にしか映らない。
世間様に変質者呼ばわりされるようになったラクシュミは、
地域にも、家庭にも、居場所がなくなっていく。

インドの実在の発明家の偉業をたどる物語だった。

ラクシュミが、どことなく
『TAXi』シリーズ(フランス)の
ダニエル(サミー・ナセリ)を思わせた。
役者さんの風貌も何となく似ていると思うのだが、
それよりも、キャラ設定が、ダニエルっぽい(笑)。
大変な奥さん思いで、善良な男なのだが、
間が悪くて、いささかデリカシーに欠ける・・・。

楽しい映画だった。
特に印象に残ったのは、
近所の女性たちが、初潮を迎えた女の子を囲んで
盛大にお祝いする場面があったことだった。
月経を不浄扱いし、言葉にすることさえ忌む風潮と、
思いっきりオープンにお祝いするセレモニーが、
並立している所が、おもしろい。
この感じはわたしの身近にも確かに多少あるとは思う。
でも、インドのような場だからこそよりクッキリと
観測できる現象なのかもしれない。
多様な価値観がひしめきあい、
すべてのことが急速に変化し続けている社会だから、
矛盾するものや新旧のものが同時に一か所に息づく、という
期間としてはおそらくとても短いはずの貴重な一瞬を
目撃することができるのではないだろうか。

ラクシュミの新妻ガヤトリと、
ラクシュミのビジネスパートナーとなるパリーという
ふたりの女性の対照的なキャラクターにも興味をひかれた。
ガヤトリは彼女なりに精一杯、夫を理解しようとするのだが、
昔からの因習をガチガチに内面化してしまっており、
そこからどうしても自由にはなれない、という点で、
どちらかといえば「これまでの時代」の女性の象徴に思える。
対してパリーは都会育ち。名門大学で経営学を学び、
音楽にも才能を示すなど、とても活動的。
一流企業に就職できるはずだったのにその道を蹴って
ラクシュミの事業に協力することを決めるなど、
自分の人生を自分で切り開く「これからの時代」の女性だ。

ラクシュミは、この両方の女性から、力を得て羽ばたいた。
単にインドの女性にナプキンを届けただけではなかった。
生理用品という決してなくなることのない需要に対応する
新しいビジネスモデルを打ち立てて、
女性の雇用創出と自立支援まで成し遂げてしまった。
ラクシュミは単純に愛する妻の健康を願う無学な男で、
フェミニズムを学んだわけでも何でもないのだが、
妻のためになることは女性たちみんなのためになる!
世界の女性が元気になれば、世界全体が元気になる!
という彼の考え方は、
ただしく、フェミニストのそれだった。

試作ナプキンを自分で着用して出来をチェックする
という展開もすごかった。
映画の描写として、ここまでやるとは思わなかった。
なにせ、この映画の慎み深さときたら、
新婚夫婦が寝室で抱き合うシーンでさえ、
完全着衣で撮り上げるほどなのだから。
ラクシュミは肉屋で働く友人に動物の血を分けてもらい、
女性用のパンツまで入手して、自分で試作テストをする。
うまくいったかに思われたのだがズボンが汚れてしまい、
みんなに見られて、恥ずかしさのあまり川に飛び込んだ。
生理中は、衛生面のこと以外に、こうしたさまざまな
心配ごとや、わずわらしさと付き合わざるを得ない。
これは当事者でないと、わからないことだと思う。
ラクシュミは、良くまあここまで踏み込んできたものだ。
変質者呼ばわりされたのも正直、納得だ。

けど、普通の人と同じことしかやらない人には、
普通じゃない偉業を成し遂げることは不可能だ。

笑って泣けるシンプルなサクセスストーリーであり、
お約束の華麗なミュージカルシーンも忘れておらず、
ラブロマンス路線もあきらめていない・・・という
欲張るだけ欲張った、もりだくさんの物語だった。
その割に2時間ちょっとでスッキリまとめたのは偉い。

普段観慣れた「ハリウッド映画」のお作法に
のっとって作られてはいないので、
ややテンポがダルく感じるなどの問題はあった。
いかにも伏線っぽいシーンがあったのに、
最後まで観ても結局なんでもなかったりとか。
(伏線をはったことを作り手が忘れてしまうのか、
 それとも編集ミスなのか笑)
でも、まあこんなもんじゃないかな、とも思う。
映像も音楽も新鮮で、とても楽しめた。

一時は離縁寸前まで行ったラクシュミとガヤトリが
再会できたのは良かったなと思った。
ラクシュミは妻のためにこそ頑張ってきたのだから。

ガヤトリはいつも同じ首飾りをつけていた。
太い黒ヒモに一定間隔で金色の珠を通したもので、
良く見ると、ガヤトリだけでなく、
劇中に登場する女性の多くが似たものを着けていた。
調べた所、ヒンズー教徒の人妻が着けるお守りとのこと。
ラクシュミが変質者の烙印をおされて村を追われた時、
離縁前提のような形で実家に出戻ったガヤトリだが、
別居期間中も、ずっとこの首飾りを着けていた。
きっと心の奥底では、夫を信じて待っていたのだろう。
泣かすなあ・・・

『マーシュランド』

 


原題:La isla mínima
アルベルト・ロドリゲス監督
アルベルト・ロドリゲス、ラファエル・コボス共同脚本
2014年、スペイン

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【いわゆる”謎解きもの”だったのか???】

公開当時、日本でも好評だったらしく、
ネット上に、鑑賞者レビューが多数見つかった。
その大多数は、この映画を、考察しだいで必ず
「答え」が見つかる謎解きもの、としてとらえていた。
ディテールを血眼で観察し、
「謎」を解き明かそうとしている印象だった。

だけど、この映画ははたして「謎解きもの」かね?
わたしは、そう思えない。



【何はともあれ:あらすじ】

舞台は、フランコ独裁体制の傷痕も生なましい、
1980年のスペインはアンダルシア地方。
フアンとペドロの刑事コンビが、
ラス・マスリマス湿地近くの町の警察署に着任する。
ふたりとも、元は首都勤務だったのだが、
それぞれワケありで左遷されてきた形だ。
そこへ早速、憲兵から捜査協力の依頼が舞い込む。
若い姉妹が祭りの夜に何者かに乱暴され、殺されたのだ。
実はここ数年で何度か、似た手口の事件が起こっていた。
フアンとペドロは事件の真相に迫るべく動き出す。
 


【神秘的なオープニング】

オープニングはこの映画の長所の最たるものだと思う。
ラス・マリスマス湿地の空撮映像らしかった。
あんな神秘的な風景は世界中、他のどこを探してもないだろう。
「緑色の血が流れる人間の脳の断面図」に見えなくもなかった。
あれを人の脳だと取るならば、
「緑の血が流れる脳の人=もはや人にあらず」と取るか、
「緑の血が流れても、人の脳である以上、人」と取るか。
このあとで詳しく述べてみるつもりだけど、
フアンは、言わば生きながらにして内面から崩壊しつつある
あわれな人間だった。
あのオープニングは、彼をどうとらえるかについて
何かしら重要な問いかけをしてきていた気もする。


【代表的な考察:「腕時計」説】

ここからは冒頭で投げ込んだ疑問について考えたい。
鑑賞者たちが謎解きに血道を上げていたんだけど、
はたしてそういう映画だったのかねコレは、という話。

ネット上で展開されている作品解釈の中で、
一番多かったのは「腕時計」に着目するものだ。
この「腕時計」説をたたき台に、少し考えてみる。

「腕時計」説をわたしなりにまとめると、こんな感じ。
元もと、ペドロ刑事が、捜査中に知り合った記者に、
重要な証拠品であるネガフィルムの解析を頼んでいた。
ネガを良く見ると誰かが写っているのがわかるのだが
肉眼ではその人物の顔がわからなかった。
事件について詳しく知る人物である可能性が高い。
だから顔がわかるよう解析してくれ、と依頼したのだ。
ストーリーの終盤も終盤、解析結果が戻ってくる。
結局、人物の顔まではわからなかったのだが、代わりに
その人物が腕時計を着けている像が浮かび上がった。
「腕時計」説は、
その腕時計がフアンのものと似ていると指摘している。
(中には「同じ時計」だと断定する意見も)

フアン刑事には、知る人ぞ知る、黒い過去がある。
独裁政権時代、政府の治安部隊のメンバーとして、
反体制派の取締りに当たっていた。
どうも生来、性格的にサディスト傾向があったらしく、
拷問が得意で、部隊随一の殺人鬼として悪名高かったという。
(これは鑑賞者の考察とかじゃなく、物語上の事実)
フアンの時計とネガの人物のそれが似ていることから、
「腕時計」説は以下のように考察する。
ふたりは元同僚で、今まで裏でつながっていたのでは。
フアンは、ネガに写った人物が自分と同じ時計を
着けているのを見て、それが自分の元同僚だと気付いた。
そこで、事件の犯人? に肉迫するクライマックスで、
必要以上に執拗に相手を痛めつけた。
古い知り合いである、この犯人を救うために
あえてあのような手段に出たのではないか。
(「さらなる悪事に手を染める前にせめて俺が息の根を」)
・・・
これが、ネットで盛り上がっていた「腕時計」説の概要だ。

でも、わたしはこの説に賛同しかねる。



【反論 1:そもそも腕時計が似ているか不明】

該当のシーンを何度も観返して確かめた。
そのうえであえて言う。
「腕時計」説は着眼点としても考察の内容としても
ちょ~っとばかり思い込みがすぎるんじゃないかな。

ネガに写った人物が腕時計を着けているのは見えた。
でもブランド、色、文字盤のデザインは判別できない。
ベルトが革製か金属製かも区別できない。
フアンの時計と似ているかどうか。・・・わからない。
また、先ほど「腕時計を着けている像が浮かび上がった」
なんて微妙な表現をしちゃったけど、
要するに、解析されたネガを見て、ペドロが
「こいつ腕時計を着けてるな」と言ったわけではないのだ。
正確には、わたしたち鑑賞者が、勝手にそこに目を付けた。
「あ、この人、腕時計を着けてる」と。
ネガをとらえるカメラ(ペドロの視線)が、
被写体の「腕時計を着けた腕」のあたりを
クローズアップしていたのは事実だ。
「ペドロが被写体の『腕時計』を注視している」ように
確かに見えないこともなかった。
(でも、もっと言えば、クローズアップされていたのは
 腕時計を着けた手首ですらなく、
 被写体の「腕まくりしたヒジ」あたりだったような。
 なぜあのようなカメラワークにしたのか謎だ)

けど、このあとで詳しく述べてみようと思ってるけど、
「腕時計」を手がかりにして
フアンと、ネガの中の人物のつながりを疑うには、
何せこの映画、説明不足がすぎるんだよ。



【反論 2:腕時計が小道具として立っていない】

もしネガに写った腕時計に、
映画的にそんなにも重要な意味が持たされていたとしたら
脚本と演出に致命的な欠陥があったことにならないかね。
だって少なくとももう少しは、説明があって欲しくない?
例えば、
フアンが特定の腕時計を愛用していることを強調し、
その腕時計の由来を、記者にでも語らせる。
(治安部隊員に支給されていた揃いの時計だ、とか)
さらに、ネガに写った腕時計の画像をもっとクリアにし、
ふたりの時計が確かに同じだと明示する演出を加える。
・・・最低でもこのくらいのお膳立ては欲しい所だ。
でないと小道具が小道具にならないと思うんだけど。



【反論 3:フアンが「ネガの中の腕時計」を知らない】

それに、
「ネガに写っている人物が時計を着けている」
とわかるほど、ネガの画像がクリアになったのは、
ひとえに、ネガを詳しく解析したからだけど、
フアンは、最後まで解析結果を知らないままだった。
ペドロは解析を依頼したことをフアンに話していないから。
ネガの存在自体は、フアンも把握していたが、
彼が視認したのは、くしゃくしゃの状態のネガの現物と
被害者の母が現像したらしい写真の、拡大コピーだけだ。
その状態ではフアンの脅威にはならなかったのではないか。
このネガから、俺と、写っている奴の関係がバレてしまう、
・・・まだ、そこまで案ずる段階ではなかったのでは。
解析したから画像が鮮明になったのであり、
鮮明になって初めて、時計を着けているのが見えた。
そしてその解析結果を、フアンは知らない。
フアンが、ネガに写った腕時計を見て、
こいつは俺の知り合いだと気付いた・・・という線は
ないことになる。

 


【反論 4:フアンに焦る様子が見られない】

フアンが、ネガに写っていた人物を知っていたならば、
フアンはもうちょっと何かこう、焦るのではないか。
「できればネガをそっと葬り去りたい」とか、
「誰より先に自分でこの人物を押さえなくちゃ」とか。
でもフアンの行動を見る限り、焦っている感じがない。
フアンは確かに早起きで、ペドロがまだ寝ている間に
何かちょこちょこやっていたけど、
相棒を出し抜こうとして動いていたとまでは言えない。
実際、早起きしても、大したことはやっていなかった。
あまつさえ、事件の重要参考人の、前の職場がわかっても、
フアンは自分でそこに行かず、ペドロを向かわせた。
自分で行きたい、と思うもんじゃないのかな。
ネガをペドロに預けたきり平気でいたのも、おかしい。



【「腕時計説」が浮上したわけを考えてみる】

フアンたちが刑事だから、現場検証などで手を使うので、
この映画を観てるとイヤでも、人の「手」に目が行く。
そこへきて物語の終盤でネガの解析結果の話になり、
腕時計を着けた誰かの手が大写しになったので、
登場人物たちの手元がどうだったか今さら気になって、
フアンの時計がどうとか、考えたくなるのだろう。
そうなるのは人情だとは思う。
だけど注目するべきなのは多分そこじゃない。
ネガの解析結果が明かされるシーンで重要なのは、
写っていた人物が腕時計をしていたこと、じゃない。
(ましてその時計がフアンのと似ていたことでもない)
その人物の顔までは結局わからなかったという事実、
これに尽きるのではないか。



【謎解きものとは言えない映画】

ネガの人物はフアンの過去につながっていた・・・
興味深いけど、本当にこれでいくなら相当工夫しないと
ものっスゴイ偶然頼みの、やっすい話になると思うよ。
その意味でもこの線は、なしかなと思う。
でも、他の8割方まではちゃんと謎が解明された感じ。
一番大事な本筋に関することでわからずじまいなのは、
「ネガに写っていた人物の正体」だ。
これは、わからないとしか言いようがない。
「顔はわからなかった」とわざわざ記者が言っている。
でも、謎が謎のまま、一つ残されたことによって、
いろいろと想像をふくらまし続ける余地は残された。
それで良いんじゃないかと思うけど。



【キーアイテム「ネガ」から深読み】

ここまでは
「ネガに写っていたもの」のことを考えてきた。
ここからは視点を変えて、
この物語のキーアイテム「ネガ」そのものから
『マーシュランド』のことを考えてみたい。

ネガって、色や明暗が反転した画像のフィルムだよね。
再反転させてプリントすることで普通の画像になるわけだ。
ネガから連想するなら
「表・裏」
「反転」
「ネガとポジ」、
このあたりが作品解釈のキーワードなんじゃないかな。

<表・裏>
話を蒸し返すようだが、
登場人物の「腕時計」に着目するとすれば、
わたしがその線で少し気になったのは、
被害者の母親なんだよな~。
あの女性も腕時計ユーザーだったけど、
やけに高い位置に着けてたよね、時計。
専業主婦っぽかった。多分、洗い物とかをするので、
濡れないように、高い位置に時計を着けるのだろう。
あの美しい母親を見ていて、思ったんだよ。
彼女も少女時代に、娘と大差ない目に遭ったのでは?
一見、平凡な町だ。貧しいけれどもおだやかな(表)。
でもあの町ではずっと前から、
人を人とも思わぬ「密猟」が続いているのでは(裏)?
手口が変わり、ハンターも変わるが、昔から連綿と、
続けられていることなんじゃないだろうか。
狩られる側である少女たちは、町を出たがっている。
だが、出る算段を付けたつもりでも、
どこかしらの段階で別のハンターに食われる。
町を出られなかった少女は、やがて家庭におさまるだろう。
高い位置に腕時計を着け、家事に追われる日々を引き受ける。
あるいは、あの狩猟宿の女主人のようにハンターの側に付き、
「密猟」が行われるのを、そっと見過ごすのだろう。
被害者の母は、必死の覚悟でマリナの秘密を代弁したが、
裁判で証言なんてできない、と泣いた。
自分もかつて似たようなことで散々悩んできて、
「私の力では何ひとつ、どうにもならない」と
骨身にしみて思い知ってきたのではないか。

<反転>
『マーシュランド』の時代的背景となっている
「独裁体制から民主主義国家への移行期」を見てみたい。
確かに独裁政権は、人権蹂躙も含めメチャクチャをやった。
フランコが死に、新体制への移行に踏み切ったことで、
胸をなでおろした国民は、多かっただろう。
でも、反対の視点からちょっとだけ想像してみる。
「前の方がマシだった」と言う声もあったのでは?
映画のなかでも描かれていたように、
地方では政情不安から失職者が多数出た模様で、
労働者たちのストライキも頻発したようだった。
それに、こういう言い方もあれなのだが、
約40年にわたる独裁体制下で物価が下落し、
魅力ある交易相手として対外的にアピールしたことが、
のちの観光大国としての良好な印象を醸成したとは言えないか。
また、フランコ政権は第二次大戦で中立の立場を死守した。
とはいえ大戦以前から国内でずっと内戦が続いていたし、
中立維持のために八方にご機嫌取りしてきたせいで
国力は結局かなり疲弊していたのだろうが、
国土を消し炭にすることだけは避けられたわけだ。
めちゃくちゃ語弊のあることを言ってしまったけど・・・
要するに言いたいのはこういうこと。
独裁政権だった。間違っていた。犠牲が出た。
だが、ひっくりかえして見てみると・・・。

いずれにせよ、
今日からこの国は民主主義国家です! と言っても、
何もかもスムーズに新体制に移行するなんて、
不可能だったに違いない。

<ネガとポジ>
こうしたパラダイムシフト期においては、
容易に一言で言えないひずみが生じると思う。
変化に適応できる人と、できない人が出る。
フアンは、できなかった方の人だ。
狂乱の独裁政権時代にフランコ側にいたことで、
己の嗜虐性を解き放つ快感を知ってしまったのだろう。
新時代を生き延びるために、過去を正当化しようとして
ウソも山ほどついてきたんだろうな。
そのせいなのか、もはや何が真実か、
自分でわからなくなっているフシも見受けられた。
それにフアンは開き直りが上手なタイプじゃない。
「そうだ、俺は人を殺すのが大好きなんだ!
 フランコさんが死んじゃったから毎日退屈だ!
 でも、刑事だから今後も銃が持てるし
 これからもスキあらば殺して拷問するぞ!」
・・・そこまで振り切れたサイコ野郎ではないのだ。
心の奥底に押し隠した良心が疼くらしい。
彼は内面から、肉体もろとも崩壊しつつある。

ペドロはそんなフアンの過去(ネガ)を垣間見た。
それでも、自分が知る現在のフアンの方を、
言わば「ポジ」として見ていくと決めたようだった。

【伏線ちょっぴりほったらかし・・・】

最後になるが、
さっき「8割方までは謎が解明された」と書いたけど、
逆に言うと残り2割が最後までほったらかしだった。
だけど、これらが解消されてもされなくても、
本筋には関係ないという気がした。
ヒントもないので検討するのをあきらめた(笑)

・ベアトリスの死後、彼女の家族が姿を消した理由
・フアンとペドロが夜道で見かけた女性は誰か
・祭りの期間中に事件が集中した理由
・口止めの材料になるはずの大事なネガを手放して
 被害者姉妹に送った理由(&送り主の正体)
・わざわざ輸入品のめずらしいネガを使った理由


未回収の謎を残すことで鑑賞者を惑わせて
考察の底なし沼に引っ張り込む魂胆だろうか。
それこそ「マーシュランド(湿地帯)」のように。

『コンテイジョン』

 



原題:Contagion
スティーブン・ソダーバーグ監督
2011年、米

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www.youtube.com

なつかしいですな。以前1回観ましたな。
マリオン・コティヤールが好きで、
彼女が出てる映画をいろいろ観てた中の1本だった。
手元の記録によれば前回の鑑賞は2012年8月3日。

1回観てた、これは今考えると良かった気がする。
もう、今のわたしは、この映画を
非常に局地的な観点でしか観られなくなっている。




【おさらい:言わずと知れた世界の現状】

でもちょっと話が走りすぎた。
一応、ただし書きが要るだろう。
この記事を誰がどういう時に読むかわからないから。

現在、世界は新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の
感染拡大のさなかにある。この「COVID-19」は、
2019年11月末頃に中国湖北省武漢市で症例が確認されて以降、
中国大陸を皮切りに、各国各地域に拡大した。
症状は原因不明のウイルス性肺炎で、重症者、死者も出ている。
2020年3月なかばには、WHO事務局長が世界の状況について
パンデミック相当」との考えを表明している。
わたしが住んでいる日本でも感染は広がっていて
厚生労働省の発表によれば、2020年月6月20日午後現在、
国内の感染者数はおよそ1万8000人、死者数はおよそ940人だ。
世界では感染者数およそ860万人、死者数およそ46万人。

※実は、この記事は1ヶ月くらい前に一度下書きを書いていて
その時にも、感染者数などの統計を、ネットで確認した。
当時は日本国内の感染者数は1万5000人くらい、
死者数は800と数十人くらいだったと記憶している。
毎日最前線で頑張ってくれている医療従事者の皆さんには
頭が下がるばかりだ。
今の所、わたしは特に体調に問題はない。
わたしの身近でも、幸い今の所、感染者が出た話は聞かない。

※もっと詳しい情報は各自で収集してみていただきたい。




【2012年時点での感想】

まだCOVID-19の流行が起こっていなかった2012年に
わたしは一度『コンテイジョン』を観ているわけで、
当時の感想は貴重な気がするから、ここに書いておきたい。

一言で言うと「ホラー映画」感覚で観てた。
どのシーンにも、どのエピソードにも、
恐怖を煽るシリアスな音楽が付いていなかったことと、
時間的にもサクッ、サクッと短く軽く処理されること、
「なぜそういうことが起こったのか」の説明がないまま
急速に話が進んでいくことが、かえって震えるほど怖かった。
レンギョウとか急に出てくるけど何それ! って感じだし
マット・デイモンが無事なことの理由も全然わからない。
そんな、木で鼻くくったような所が他の映画と違う気がして、
カッコイイな! と思って観た覚えがある。

宇宙戦争』(2005年)との近似を見たことも記憶にある。
それは、圧倒的な不条理というものがこの世にはあって、
人間はその前に非力である・・・ということを言っていた点だ。
宇宙戦争』で、地球を侵略してくる異星人たちは、
ものすごく強くて、人類は全然太刀打ちできない。
あんなに何もできないトム・クルーズ、初めて観たもんね。
でも結局、敵の弱点は「えっ、そんなことだったの?!」 
というような所にあった、とエピローグで明かされる。
人類は死に物狂いで対策を考えるし武力抵抗もするのだが、
そんな考えた、頑張った、なんてのとは一切関係ない所で、
非常にあっけなく、防衛戦争に終止符が打たれる。
対して『コンテイジョン』は「敵」が「病気」なので、
治療薬が作られることが「終止符」だとわかるから
その点はちょっと話が違うのだろうが、
「圧倒的不条理と人間」という構図があることについては、
宇宙戦争』と『コンテイジョン』は共通していたと思う。

 



【現時点での感想】

今となっては、わたしはもう『コンテイジョン』は、
パンデミック群像劇としてしか観られない。
どうしても、今の状況に引き寄せて観てしまう。
「今の世界の状況とどのくらい似てるかな」
「自分も罹患したら病院でこういう風にされるのかな」
「死んだらこういう風に扱われるのかな」みたいな。
場面の中で誰かがセキしてるのが聞こえるとドキッとするし。
感染者が人と握手をしたりバスの手すりに触れたりするのを見て
「あ~! 触ってる! 触ってる!」って思うし。
バイオテロ説と民間療法のデマの流布、医療崩壊、都市閉鎖、
モノの買い占め、民衆の暴徒化、生命の選別的な状況の発生、
すべて現実に起こっていることで、良く良く理解できる。
あと、公衆疫学の専門家たちの意見が中央に通らない状況、
政府とその肝いり機関が指揮権を取り上げちゃう展開も、
信じがたいけど、こうなんだ、と今の自分は知っている。
実にいろいろと、わたしたちを取り巻く現状と
近いことが描写されている。




【正しさは人を動かさない】

「正しいことだから」というだけでは人は納得しない、
これも、わたしたちが現状から得つつある教訓だろうし
映画の中でも、さまざまな形で示されていた。
「物理的距離を保つ」
「手を良く洗う」
「体調が悪ければ家にいる」
薬などの科学的な治療法が見つからないうちは、こうした
おのおのの日常の心がけと小さな行動だけが治療法なのだ。
これが公衆衛生の本質だ。
でも、何度そう説明されても、わたしたちは理解しない。
「そうは言っても●●だからしかたがない」
「では何だったらやって良いか」
「こうすればもっと早く済むのではないか」
目をキョロつかせて素人判断で抜け穴を探してしまう。
実践しないなら、理解しないというのと同じことだ。
「不安」がわたしたちを愚か者にするのだとわたしは思う。

慎重になる、静かに待つ、って難しいことなんだよねえ。

 



【理解できるが、寄り添ってはくれない映画】

でも、『コンテイジョン』を観てて、
こういうことじゃない、と感じた部分もあった。
長期的な忍耐を求められる今の生活の中で、
わたしが感じてるのは、
大きな意味では「不快感」「不安」なのだが、
もっと冷たく陰湿な、「何か」とも言える。
わからない程度に徐々に、その「何か」が、わたしを削る。
「自分が感染したら」よりも、
「もしうつしてしまったら」だ。
無症状キャリアなら人に感染させてしまうかもしれない。
1日の終りに「どこかで何か誤った選択をしなかったか」と思う。
それでどこかの誰かが死ぬかもしれない。
自分の誤った選択の内容がやがて白日の下にさらされて、
お前のせいだったと言われるのではないかとビクビクする。
とにかく多方面に気を遣うことを迫られている気がする。
肝心なことを口に出せないまま日々が過ぎていく気がする。
でもその肝心なことが何なのか、考えている余裕はない。
それから、こういうのもある。
「ピリピリせずに、前向きなことを考えましょう!」
「あなたよりももっとがんばっている人たちがいます」。
正直な所これにもややウンザリだ。

こういうのを毎日、消化していかなくちゃならない。
わたしは自分は、COVID-19に罹って死ぬ確率よりも、
この日々の「何か」に削られ続けた末に力尽きる確率の方が
ずっと高いんじゃないかと思っている。

でもそういう「何か」は、
コンテイジョン』には、描かれていなかったと思う。
コンテイジョン』に出てくるのは、
COVID-19よりももっと致死率が高く、
むごたらしい症状の出る、恐ろしいウイルスだが、
ウイルスと戦う人びとのシナリオは案外なほど楽観的で円滑だ。
初の症例確認からワクチンの流通開始まで4ヶ月足らず、
各個のできごとに対して起こる摩擦も少ない印象を受けた。
それでも十分すぎるほど良くできてる映画だと思うけど、
あくまで「もしもシリーズ」、初歩的な思考実験どまりだ。
やっぱり現実はこんなもんじゃなかったんだなって思うよ。
この映画の中で起こる状況のすべてを理解できるけど、
わたし自身の気持ちはどこにも投影できない。

自分も瀕死なのに、隣のベッドの患者のために
毛布を貸してあげようとするミアーズの姿とか
胸に迫るシーンもそれなりにある映画なんだけどな~。

でも、『コンテイジョン』は、別に、今現在、
わたしたちが陥っている状況を予言することを目的として
作られた映画ではない。当たり前のことかもしれないけど。
今観ると本当に「予言されていたみたいだな~」という
気にもなるくらい、いろいろ身につまされるのだが・・・
「予言しときますよ。答え合わせは19年後ね!」
とかいうスタンスで作られた映画ではないので、
かなり的確に言い当ててはいても、
「現状そのままではない」のは当然であり、
何ならやや現状よりもやや見劣りして感じるのも、
無理のない所だと思う。

宇宙戦争』がそうだったように
アルベール・カミュの『ペスト』もそうだったように
やはり、できることなら
より大きな枠組みからこの映画を鑑賞することができれば、
良いのかなと思う。
パンデミック群像劇の形を取った不条理もの」、
「世界の圧倒的な不条理を前に人間に何ができるのか」
を問いかける映画である、といった風に。
普通に「ホラー」感覚でも良いけど。
いつかまた、そういう視点で、この映画を観られる時が
くれば良いんだけどねえ~!!!!