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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

Netflixドラマ『FOLLOWERS』-第7話

 

 

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)

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まだこのあともう2回分も観るのか・・・
苦。



【第7話 あらすじ】

入院前日、仲間たちに病気のことを告白するエリコ。
夢をあきらめて実家に帰る決意をしていたなつめは
あるアドバイスに勇気を得て、新たな一歩を踏み出す。
リミは、いよいよ出産の時を迎える。




【第7話 疑問・謎】

自分がこのドラマを好まない理由、
何がしたいんだこのドラマは、と思わされるポイントは、
ものすごく多方面にいっっっぱいある気がしていた。
でも、第7話にきて、
「意外とひとつに集約されるのかも」
という思いが強まった。
わたしの言葉でまとめるとそれは、
「リミたちが、素敵な大人に見えない。
 自分もリミを見習いたい、とは思えない。
 だが果たしてこの作品の作り手的には
 それで良かったのか」
みたいなことだ。

このドラマのメインキャラを大別すると
リミたちはちょっとだけお姉さんサイド、
なつめたちはリミの背中を追う若者サイド、
ということになるだろう。

で、そのお姉さんサイドは、
しょっちゅう集まって宅飲みとかして、
子熊の兄弟みたいにいちゃいちゃゴロゴロしてるわりに、
お互いの心に触れることからは徹底的に逃げている。
それ、どうなの、って感じするね。

エリコが病気のことを明かすシーン。
彼女が病気だと初めて知らされたというのに、
リミもあかねもゆる子も、自分の気持ちを言わない。
「病気で悩んでたのにずっと隠していたのね。
 つらかったよね」
「詳しく話を聞かせてくれる?」
言わないんだよな~。
精一杯気取ってカッコつけてるエリコが痛々しいよ。
ゆる子ちゃんなんて、言うに事欠いて
「手術すれば大丈夫なのよね・・・?」。
大丈夫かどうかなんてわかるかよ(笑)!!!
て言うか一番それ知りたいのはエリコ本人だわ。

「自分で決めたら何が何でも進む人」
それがエリコだ、とはリミの言だが、
「だからエリコが決めたことに対して
 私たちは何も言えません」
なんてことは、ないよな。
何か言いたければ、言えば良い。
エリコの告白を聞いた。
病気だなんて、初耳だった。
それぞれ何か、思う所があって当たり前だ。
「なぜ今日まで黙っていたの。水くさいよ」
「スエオと急に別れたのも病気が理由なの?」
「力になりたい。どんなことをして欲しいか教えて」
エリコがそれにどう反応するかはわからない。
真っ赤になって怒り出すかもしれない。
でもエリコが怒るからとかなんとか以前に、
思っていることがあれば、言って良いはずだ。
なぜ誰も何も言わないのだろう。
全員が全員の出方をうかがい、
エリコのリアクションを警戒し、口を噤む。
「エリコのために」には見えなかった。
「自分がヤケドしたくないから深入りしない」だ。

だが、そんなのって友だちと言えるかね?
あれが成熟した大人の人間関係のあり方か?
思っていることがあっても言わないのが大人?

あと、蒸し返すようだが、
「決めたら何が何でも進む」って言うけど、
エリコは別に、病気になろうと自分で決めて
進んでなったわけじゃないだろ。
エリコが乳房を切除することを指して
「決めた」、とおそらく言っているんだろうが、
エリコのおっぱいも大事だが、それよりもまず
生命の方を心配したらどうか。
なぜ、友だちの生命が危ぶまれている
目下の現実をスルーしてまずおっぱいなんだ(笑)
おっぱいは女の命とかそういう深げなことを
考えるキャラじゃないよねこの人たちは。
現実から目をそらしているだけだ、要するに。

今時の若いもんは他者と本音で向き合わない、
濃密な人間関係を避ける、といった声が
何かというとオトナサイドから聞かれる昨今だが、
このドラマの中に限って言えば
他者と向き合わず、逃げてばかりなのは
むしろそのオトナサイド、リミたちだと思うね。

リミたちはみんなそれぞれの分野で成功を収めている。
経済的に完全に自立、おしゃれで自由な暮らしを満喫。
「カッコイイ女」とはこういうことさ! って感じだ。 
だが心が、華やかな見た目にまったくそぐわない。
内面が幼稚で荒廃している。
女子中学生みたいな幼さだ。
「小金」「スキル」「行動力」を備えてるだけに、
ある意味たちが悪い。

なんかな~。全然こう・・・お姉さんサイドがさ~
本質的に「素敵」じゃないんだよな~
で、果たして作り手側は、
リミたちのカッコ悪さを、どう考えているのだろう。
意識的にリミたちをショボく描写しているのか?
そのつもりで最初から物語を作ってきたのか?

だとすれば、やっぱりわたしとしては、
もうこれは最初の最初の方から言ってきたことだが、
なつめとリミが直接語らう展開が早く訪れて欲しい。
「リミさんって、パッと見、いかにもイケてる
 ハンサムウーマンだけど、中身が中二ですね」
「私、リミさんみたいにだけは絶対ならない!」
なつめにダイナミックにダメ出しされるリミを
早く観たい。
でなきゃ物語をなつめたち若い世代と並行して
描いてきた意味が良くわからないし、
このドラマ自体、成立しないことになると思う。

でもその見通しもさ~、
すでに怪しいんだよな~。
だって、役者の夢をあきらめて
実家に帰ろうとしていたなつめが翻意する、
最終的なきっかけってのがさ~、
よりにもよってリミからのメッセージなんだよ。
「汝の道を進め、そして人々をして語るにまかせよ」
えーーーー・・・・。
いやあ・・・ご立派ですこと・・・
リミ、結局、キャラ的に
イケてるのイケてないのどっちなの(笑)

 


【第7話 好感】

リミたちお姉さんサイドと対照的に、
若者サイドは、あれで結構ちゃんと
「濃密な人間関係」をやっているんだよな。
サニーちゃんがなつめに告白するシーンとか
案外なほど、良かった。
なつめが、「ごめんね」と言って涙した時、
ああ、これで良い、と何かわたしも納得したな。
二人の心が通っていることが明確に伝わったし、
アーティストであるサニーちゃんにとって、
なつめへの愛がどういうものなのかも理解できた。
このドラマの病巣の95%は脚本にあるというのが、
わたしの基本的な考えなのだが、それでも一応
「サニーちゃん片想い案件」では脚本上、
必要十分の説明がなされてきていたんだろう。
「自分の気持ちに素直になれば、
 怖いことなんて何もない」
とても良いよね。このセリフ。
煎じて飲めば、ふがいないリミたちも多少変わるだろう。

若者サイドのストーリーで、たま~~~に
「おっ、ここは何か良い」って思うのは、
なつめたちの方が、
お姉さんたちよりはまだしも、
心ある人間関係を築けているからかも。

 

 

【まとめ・・・】

『FOLLOWERS』における自分の疑問は
「リミたちが全然ステキじゃないのですが」
という点に集約して良いような気がしてきた。
このドラマのおかしな所を挙げたらキリがない。
各話につきいちいちそれをやっていたら大変だ。
物語も終局に向かいつつある今、ここからは
「カッコ良くないお姉さんたち」という視点で
このドラマを観て行こうと考えている。

『スノーピアサー』

 


原題:설국열차
英題:Snowpiercer
ポン・ジュノ監督
2013年、韓国

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近未来、地球温暖化問題への抜本的な対策として
化学薬品「CW-7」が散布された結果、
世界は、氷河期のような気候に逆戻りした。
生き残ったわずかな人類は、
走り続ける列車の中で命をつないでいる。
車内は、前方車両の富裕層がすべてを支配し、
最後尾の貧困層は差別され、屈辱に耐えている状況。
最後尾グループのカーティス(クリス・エヴァンス)は
長年あたためてきた反乱の計画を、ついに実行に移す。
先頭車両まで押し進み、支配者層から車内の主導権を
奪取しようとするのだが。
・・・

ポン・ジュノ映画って、
自分の心の中の非常にイケナイ部分を、
絶妙にコチョコチョされる感じというか・・・
ブラックユーモアのセンスにも魅かれるし、
説明しにくいが割と好きだなわたしは。

移動し続ける密室空間内で起こる反乱劇という括りでは
小林多喜二の小説『蟹工船』が真っ先に連想されるが、
あの映画版の『蟹工船』(2009年)、ヒドかったな~。
ケンカ売ってんのかってくらい決定的な駄作だった。
あれと比べると『スノーピアサー』ははるかに良い。
蟹工船』とは雲泥どころか神とウンコぐらいの差だ。

メイソン総理役のティルダ・スウィントン
役作りが完璧すぎて、彼女だとなかなか気付けなかった。
「小学校」車両の、女教師を演じた女優さんも良い。
恍惚の表情で白目むいてオルガン弾いてて笑った。

 

【ツッコミどころもそれなりに】

冷静に考えるとおかしい所もなくはない。
例えば
カーティスの反乱のキーパーソンは、
列車のセキュリティシステムを構築した
ミンスソン・ガンホ)だ。
反乱軍は、彼に各車両の扉のロックを
解除してもらうことによって前進する。
だけどこのミンスが大したことやってない(笑)
ロック解除と言っても、割と素人みたいな手段。
「配線をショートさせる」みたいな。
扉を蹴破っちゃった方が早くないか。

あと、
列車も線路も頑丈にもほどがある。
特に線路の方は少なくとも17年間メンテナンスなし
ということになるが、それで良く走り続けられるな。
実際、軽い地盤崩落とかで線路がつぶれてる所があり、
ムリヤリ走り抜けて、難を逃れたりしてた。
来年また同じ所を通るのに、どうするんだろ。

とか 他にもいろいろ。 

 

【疑問 1:CW-7論争と列車敷設計画】

疑問としては、
地球の気温を最適化するはずだった化学薬品の
使用の是非をめぐる議論は、7年続いたそうだ。
列車の敷設計画と、この論争、
どっちが先に始まったんだろう。
「小学校」の先生によれば、
列車の開発責任者ウィルフォードは
「CW-7が地球を凍らせると『知っていた』」。
いや、「知っていた」って何だよ(笑)
こんなすごい列車作っちゃう大企業のトップが
地球が氷河期に逆戻りすると「知っていた」? 
それなら列車なんかよりも、
温暖化を阻止する研究に投資すれば良かったのに。
・・・ってムリか・・・
三度の飯より列車、それがウィルフォードだもんな。 

 

【疑問 2:エドガーの『肉の記憶』】

良く考えると怖いな! と思ったのが
カーティスの弟分エドガーの「肉」の記憶だ。
「肉の味って覚えてる? 俺はもう思い出せない」。
列車が「走るシェルター」となった17年前の時点で、
エドガーは「赤ん坊」だった。
カーティスの回想によれば、
当時、列車の最後尾には肉はおろか水の配給もなく、
しばらくしてやっと配られるようになった食料は、
プロテインブロックなる、ようかんみたいな代物。
最後尾車両の人びとは以来17年、食べ物と言えば
プロテインブロックしか口に入れてないようなのだ。
でも肉の味を「思い出せない」という口ぶりからは
肉を食べた過去を、データとしては認識している、
という感じを受けないだろうか。
味は忘れたが食べたこと自体はあると知っている。
そんな感じ。
赤ん坊だったのに? 具体的に、何歳? いつ?
17年本当に毎日「ようかん」ではなくて、
何かの記念日とかには、焼き肉のカケラくらい
ありつけるのか? 
それならそれで良いが。
最悪の場合、本当に17年間ブロックだけの場合、
エドガーの肉の記憶」問題は、
重大な話につながっていくと思う。

最後に肉を食べた時、エドガーは何歳だったのか。
その時、いったい何の肉を食べたのか。
事情しだいでは、
・・・物語の核心の部分に触れてしまうから
あまり詳しくは書かないのだが・・・、
罪の意識に苦しんできたのはカーティス一人では
なかったのかも、ということになるよ。

 

【納得の結末:贖罪と雪】

ラスト、カーティスは、
ああなって良かったんじゃないかなと。
彼、そんなに強い人ではないようだったので。
罪滅ぼしをしたければ機会はあっただろうが、
どんなに頑張ったとしても、彼の心の傷が、
本当に癒える日は、来なかっただろうと思う。
背負いきれないことをやってしまったのだ。
一時の恐怖に駆られて。
背負いきれなくなるとは知らずに。

カーティスのためを思うとこれ以上は酷、と感じた。
ミンスは、外界が徐々に暖かくなってきていることに
希望を見出していたが、
カーティスは、ミンスとは事情が違う。
雪解けの時を待ちなさい、なんて、酷だ。
いつか外に出られるかも、なんて
カーティスにしてみれば最悪の「可能性」だ。
列車の中にこもって死ぬまで暮らすなんて、
異常事態以外のなにものでもないが、
カーティスの立場としては、異常事態なればこそ、
まだ何とか免罪されている気がするのだろう。
でも、外の世界に戻れてしまったらどうか。
自分のしたことと改めて向き合わざるを得ない。

雪はきれいなものも汚いものも
真っ白に覆い隠してくれる。
その雪がとけることは、
眼を背けていたかった自分の穢れを、
ハッキリと突きつけられることに他ならないだろう。
カーティスにそれは耐え切れないと思う。
彼は列車の中で、もう十分すぎるほど
闘ったんじゃないかな。

『アンカット・ダイヤモンド』

原題:Uncut Gems
ジョシュ・サフディベニー・サフディ共同監督
2019年

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個人的には趣味じゃなかったし、
物語としてもさほどおもしろい、って感じじゃなかった。
これが傑作かどうかという話となると、良くわからない。

だけど、とにかくすさまじい爆走感に押し切られた。
圧倒されるままに最後まで観ちゃった。
終盤30分くらいから展開にますますドライブがかかって、
なんか、嘔吐を催すほどだった。
おしゃれで奇妙にイノセントなあのBGM、良かった。

また「A24」か~。「A24」最近良く見かけるなあ。
「A24」が噛んでる映画には、してやられる率高いな。

『アンカット・ダイヤモンド』の主人公・ハワードは、
結構やり手の宝石商だが、ギャンブル狂で借金まみれだ。
儲けた金も借りた金も商品までも賭けに回してしまうし、
それでスッてまた借りるので、自転車操業どころじゃない。
取り立てから逃れるために、違法行為にもバンバン手を染め
金策に駆けずり回る毎日を送っている。
そんな時、エチオピアから横流しさせたオパール鉱石が到着、
これにNBAのスター選手ガーネット(本人)が興味を持つ。
よせば良いのにハワードは、これこそ最大の好機とばかり
あまりにも危険な、一攫千金作戦に売って出る・・・

口先だけで生きてきた、って感じの男だ。ハワードは。
「俺以外の人間は全員サル」とか思っている印象。
私生活も最悪で、店の女性スタッフとの不倫関係は
とっくに妻にバレてて離婚寸前なのだが、それでも
家庭の中にまだ自分の居場所があると思いたいのか、
ガラでもない家族サービスに一生懸命だったりする。
ダメ男としてきわめて純度が高い。
アダム・サンドラーの演技、完璧だあ。
人をバカにしくさった顔、腹立つ(笑)。

元もとハワードの人生は詰んでいた。
彼はオパールを起死回生のトラの子と考えていたが、
実際にはむしろ終局への鍵だったのではないか。
神秘的な輝きを放つあの美しい石が、
彼の最後のベットを根こそぎ刈り取っていった。

取り立て屋に殴られて鼻血を出して
ひいひい泣いているハワードを照らすのは
宝石の高貴な輝きではなく、
ポンコツ事務所の安っぽい蛍光灯だ。
どんなに背伸びをしても、
それが彼の、本来の、現実なのだと思った。

イヤ~それにしても
この映画に登場する他のどのキャラクターよりも
ハワードが一番、人生を楽しみまくってたな。
喜び、哀しみ、恐怖、あせり、ありとあらゆる感情が
寄せてはかえす大波のように襲いかかってきて
ギャーギャー叫んだり泣いたり大騒ぎなのだが
首の皮一枚で全部乗りこなしてくる。
何だこのおっさん(笑)
怖くないのだろうか。懲りないのだろうか。
バカをやめてまっとうに生きようと思わないのか。
わたしには到底理解できないけど、
ハワードはめちゃくちゃ楽しそうだった。

「金の切れ目は縁の切れ目」と言われるが、
ハワードの縁は不思議なことにすべて
「金がないこと」によってできていた。
映画を観れば誰でもすぐに気が付くと思うが、
劇中で、「ハワード」の名が呼ばれる回数の
多いこと多いこと。
何百回「ハワード」って言うの、この映画!
明らかに意図的な演出だ。
金がないハワードなのに、金がないことによって、
人を引き付け、人に必要とされている。
不倫相手なんか、ハワードのこと大大大好きだし。

ショールームのセキュリティシステムが故障してて、
客を、扉と扉の間の狭い空間に閉じ込めてしまう、
という謎の設定があった。誤ってロックがかかると、
1メートル四方くらいのガラス張りの小部屋ができ、
どちらかの扉が開くまで、そこで待たざるを得ない。
普通そんな所で立ち止まることなんてないだろうから
エアコンも効いてないと思う。夏場とかきっと最悪だ。
この設定、いったい何だろう、と思ったのだが、
あの狭くて小さな空間は、
ラストのカタルシス展開へのパワー充電機だろうな。
小部屋に閉じ込められた人は、カギが開くまでの間、
ハワードがめっちゃくちゃ楽しそうにしている所を
イヤというほど見せつけられることになるのだ。

債権者を含め自分と関わる人たちをナメ切ってて
不誠実な対応を繰り返すハワードに「理」はない。
ハワードのせいで、誰もが割を食わされてる。
理があるのはみんなで、悪いのはハワードだ。

でも世界一、人生楽しそうなのは、ハワード(笑)。
お前はもっと困れ! もっと申し訳なさそうにしろ(笑)。
そんな奴にあんな「ウェーイ!!!」ってやられたら
誰だってたまったもんじゃないよ。
妬まれたんだよ、ハワードは結局。
何か、妙~~に気持ち良い結末だった。
ああなるしかなかったと思うわ、正直。

どういう時に観れば良いのだろう、この映画は。
すごく悩んで人生行き詰った時に観ると良いのかな。
言うても自分はハワードほどじゃないな、と思えて
気がラクになるかもしれない。

『ブレッドウィナー/生きのびるために』

 



原題:Breadwinner
ノラ・トゥーミー監督
2017年
アイルランド、カナダ、ルクセンブルク

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2001年、米同時多発テロ事件直後のアフガニスタンを舞台に
ある少女の闘いを描き出す物語だ。
タイトル『ブレッドウィナー Breadwinner』は
「(一家の)稼ぎ手」という意味だそうだ。
本作品の監督は、パキスタンの避難民キャンプに通って
そこに身を寄せるアフガニスタンの女性たちに取材し、
この映画のストーリーを作り上げたとのことだ。
2001年という設定を踏まえて鑑賞して欲しいと思う。
そんなつい最近のことの物語だとは信じられないだろう。

 

 

【現実と『お話』の世界】

ヒロインのパヴァーナは、つらい暮らしの中にあっても、
「お話」の世界で遊ぶことで、希望をつないでいる。
それは、パヴァーナの家族たちも同じだ。
『ブレッドウィナー』は、
現実世界で彼女たちが直面する困難と、
彼女たちが心の支えにしている「お話」の世界とを、
並行して描いている。
この両軸はそれほど露骨にリンクするわけではないが、
確実に関連している。
「お話」の世界のディテールを検討したら、
パヴァーナたちの闘いの内容も、かなり見えた気がした。

 


【お話:『ゾウの王から種を取り戻した少年』】

パヴァーナが劇中で語る、
「ゾウの王から種を取り戻した少年の物語」の概要はこうだ。
村の作物の種が、恐ろしいゾウの王に奪われてしまう。
種がないと一年の糧となる作物が作れず飢えることになる。
悲嘆に暮れる人びとの姿を見た、村の少年は、
種を奪還するため、ひとりでゾウの王のすみかへ向かう。
道中で出会った老女が、ゾウに打ち勝つヒントをくれる。
戦いの前に、3つのものを揃える必要があるのだという。

1.something that shines 光るもの
2.something that ensnares   わなにかけるもの
3.something that soothes  なだめるもの

旅の中でこれらをクリアしていった少年は、
ついにゾウの王との対決に臨み、種を取り戻す。

このお話、細かく見ていこうと思えば、
興味深い所がもっとたくさんあるのだが、
わたしが特に印象的だったのは、やはり
お話のカギとなる「3つの備え」だった。
この角度から『ブレッドウィナー』を読み解いてみたい。

 

 

【『3つの備え』:獲得するか、棄てるか】

パヴァーナとその家族が
現実の苦難を乗り越えるためにも
ある3つのものが、非常に重要となっていた。
ただ、少年の物語とパヴァーナのとでは、違う所があった。
少年の物語における「3つの備え」は、
道中でゲットする、具体的なアイテムに加えて、
出会った人に頼まれて何かをやってあげるとか、
みんなにバカにされている誰かに優しくしてあげるとか、
そんな善い行いによって知らず知らずのうちに積んだ徳、
それが結果的に「3つの備え」のひとつだった、
という形になっている。
モノを揃えて、戦いの準備をするように見えて、
実は「心構え」を調えていく、という側面もあるのだ。

でも、パヴァーナたちの場合はそうではない。
揃えるとか、調える、とかではなく、むしろその逆だ。
3つのことをあきらめたり、手放したりする。
何のためにそうするのか。それはもちろん、
「生きのびるため」だ。

では、パヴァーナらの闘いにおける

1.something that shines 光るもの
2.something that ensnares   わなにかけるもの
3.something that soothes  なだめるもの

とは、何だったのか?

 

 

【something that shines 光るもの】

わたしが考える所によれば

something that shines 光るもの

は、「ドレスの飾り」だ。
一家で唯一の労働力だった父が刑務所に入れられたので、
次女のパヴァーナが、少年の姿に変装して働こうとする。
でも、11歳の少女に本格的な肉体労働などは難しい。
そこで彼女は、宝物のドレスを売ってお金を作る。
この赤いドレスは、物語の冒頭から出てきていた。
きらきら光る石の飾りがついた、おしゃれ着だ。
一家の暮らしが苦しいので当初から売りに出されていた。
パヴァーナは、できれば売りたくない様子だった。
だが、今や選択肢はなくなった。
着られずじまいだったドレスを彼女は潔くお金に変える。
それはすなわちパヴァーナが、
おしゃれという当たり前の楽しみや喜び、彼女の青春を、
生活のために手放した、ということではないだろうか。

 

 

【something that ensnares わなにかけるもの】

これは何だろう。
日本語字幕では「ensnare」は「わなにかける」であり、
少年の物語ではその通り、戦いの中でワナの工夫が活きる。
だが、自分なりに調べてみた所、「ensnare」は、
「誘惑/誘惑して~させる」という感じを含むらしかった。
そこから、ちょっと発想を飛躍させて、考えてみた。
パヴァーナたちの「something that ensnares」は、
「女性のアイデンティティ「結婚」
ではないだろうか。
その二つを生きるために投げ打ち、または妥協した。
これは論理で説明しきれるものではなかったので、
以下に述べることからおおづかみにしてもらえたら
とても助かるが。

まず、タリバン青年団員の少年が、
パヴァーナにことあるごとにつっかかっていくのは、
本人は無自覚なのだろうが、彼がパヴァーナに、
強く執着しているからに他ならないとわたしは思う。
結婚できる年齢のはずだから妻になれと要求もしていた。
暴力や命令の形でしか、気持ちを表現できないのだ。

パヴァーナの母ファティマは、
この映画の中の、女たちのアイデンティティについて
考えるうえで、参考になるキャラクターに思える。
物語の結末にからむので詳しくは書かないが、
家族離散の危機に直面するシーンで、ファティマは、
従順だったそれまでの様子からは想像もつかない、
驚くべき精神的な強さを発揮して窮地を切り抜けるのだ。

イスラム主義社会の男たちは基本的に
「女は男に従うもの、一人では何もできない存在」
という、男性優位の規範を押し付けることで、
女を支配している所があるようだ。
女たちも、自分や家族の命を守る必要から、普段は
社会のこうした要請に黙って従っているのだろう。
だが「男が導いてやらなければ何もできない」女が、
いざという時に自分の意志を見せ、男に反抗したら、
男は驚くに違いない。
ファティマが窮地で見せたあまりの気迫に、
相手は情けないくらいひるんでいた。

しかし、この映画が十分すぎるほど伝えていることなのだが、
イスラム主義社会において女性が男性に反抗することは危険だ。
女性が彼女らしさを発揮すること、
自分の頭で考えて行動すること、
それ自体が半殺しではすまないくらいの犯罪なのだ。
ファティマたちを追い込んだ男が、反抗されて
こんな捨て台詞を吐いていた。
「(お前の行動は)狂っている。
 (そんなことをしても)死ぬだけだぞ」
社会は、多分、既存の規範に抗ったファティマたちを
地の果てまでも追いかけて罰しようとするのだろう。
それでもファティマは、自己主張をするという命の危険を
冒してまで、家族が共にあることを選択したのだと思う。

パヴァーナの一家が、妥協せざるを得なかったこととして、
「結婚」も挙げられると思う。
家長を失ったことで一家が困窮し、悩んだファティマは
長女(パヴァーナの姉)を嫁がせることにした。
娘の嫁ぎ先に一家で身を寄せて食べさせてもらうのだ。
タリバン政権下では女性の行動や労働が制限されており、
一人で外を出歩く女など発見されれば袋叩きに遭う。
男手のない家は水の確保も命がけだ。
でも、それでは早晩、餓死することになる。どうするか。
考えられる打開策は、他家との縁組しかない。
花嫁の意思を考える余裕はない。
(「(結婚相手は)会ったこともない親戚」と言っていた)
多分これは、強権的イスラム主義社会で生きる庶民たちが
命をつなぐために、かなり普通に行っていることなのだろう。



【something that soothes なだめるもの】

最後に、
something that soothes  なだめるもの は、何か。

パヴァーナと父が、合言葉のようにささやき合う詩に

Raise your words, not your voise
It is rain that makes the flowers grow. 
not thunder.

という一節があった。

「声でなく、言葉で伝えてください
 花は雷ではなく、雨によって育つのだから」

この「声」は、「怒鳴り声」「罵声」のような、
相手の心を抑えつける強いものを指すのだろう。
「soothes」には「心癒す真実」「打ち明け話」
ニュアンスがあるらしい。
「ゾウの王から種を取り戻した少年の物語」では、
少年が、ある哀しい打ち明け話を聞かせることで、
怒り狂うゾウの王を鎮める筋書きになっている。

「声でなく、言葉で伝えてください
 花は雷ではなく、雨によって育つのだから」
本作品のメッセージとしてこの一節をとらえる時、
具体的には、どう解釈するべきなのだろう。
わたしはこんな感じかな・・・と とらえた。

「われわれはみんな、それぞれに傷付いている。
 みんな、誰かしら愛する者を失ってきた。
 ならば、もう縛り合うのはやめて、優しくしあおう。
 お互い事情がわかり、哀しみを共有できるのだから。
 そこから、すべてを新しく始めよう」

この映画はあくまでも映画、お話だ。
現実のアフガニスタンや、
政情不安を抱える世界の各地域には
この映画の描写程度ではすまないような
困難に見舞われている人たちがたくさんいる。
そして、その大きな課題を解決していく手段は、
「お話」なんかではない。それはわかっている。
だけど、それでも、わたしたち人間には、
お話が、心癒す優しい言葉が、必要なのではないか。
希望を持ち続けるため、つまり人として生きるために。

また、たとえ甘っちょろいきれいごとに思えても、
多分、世界平和という理想の実現には、
やはり、真摯な、人の思いが欠かせないのだろう。
それはこういうことを信じる気持ちではないかと思う。
「互いの事情と立場を理解し合おうとする
 不断の努力がいつかきっと実を結ぶはずだ」。

がむしゃらに頑張ればいつか世界平和が実現するよ、
と言いたいわけではない。そうではなくて、
「努力ではどうにもならないことはわかっているが、
 それでも努力なき所に世界平和はありえないのだ」
という痛ましいような信念だけが、
人間の営みを統制するシステム、すなわち「施政」に
生きた人間のぬくもりを加えてくれるのではないか、
ということだ。

映画は、一輪の花が開いて、ツルをのばしていき、
画面いっぱいに広がっていく映像で幕を閉じる。
何度も言うが、映画は映画だ。お話にすぎない。
だが、この映画でパヴァーナという少女を知ること、
苦難の中で生きる現実の女の子たちの存在を思うこと、
それがムダなことだとは、誰にも言えないだろう。
一つの花が咲き広がるこの映画のエンディングのように、
「知ること」が、世界の未来を優しく花開かせる
一粒の「種」になっていれば良いと思う。

『アナイアレイション 全滅領域』

原題:Annihilation
アレックス・ガーランド監督・脚本
2018年
米、英

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タイトルからは、あんまりおもしろそうな感じがしないが、
観てみたら、まぎれもない秀作だった。

この記事を書くためにYouTube上の予告動画を観た時、
スリラー感の強い予告に仕上げられていることに驚いた。
もし予告を先に観ていたら、わたしはこの映画を観ようとは
絶対に思わなかったと思う。怖いから。
実際は予告みたいなハラハラドキドキ満載の感じではなく、
とてもゆったりと、ひそやかに進行する物語であり、
郷愁に似た感傷的な気持ちにさせられる部分さえあった。

今思えばそこが、『アナイアレイション』の特長だった。
何と言ったら良いのか・・・わたし自身の感覚を振り返ると、
このゆるやかな物語の時の流れに身を任せて、
劇中で起こるさまざまな不可逆的事態をあきらめていった。

あきらめる、というのは、未知の事態に直面した時の、
人の態度(受け止め方)のスタイルの一つじゃなかろうか。
最初から「あきらめる」のは難しいかもしれないので、
考え得る限りいろいろとジタバタしてみたあげくの
最終形態、と言った方が的確か。
『アナイアレイション』の中では、本当にたくさんの、
恐ろしいことや理解不能なことが起こり、
ヒロインたちは激しい混乱に陥っていく。
ある者は、目の前で起きたことを錯覚だと言って否定する。
ある者は、ここには居たくないと言って逃げ、心を閉ざす。
理解しきれなくても全部自分の眼で見て確かめたいと言って、
あくまでも先に進むことを求める者もいる。
未知のできごとへの人の取り組み方のさまざまな形が、
『アナイアレイション』の中で見られたように思う。

わたしはこれが「お話」だと知っているから安心していたので、
その分「あきらめる」に到達するのが早かったんだろう。
でも、それだけでなく、この物語の中で描かれていく
世界の変容のあり方が、個人的にそんなにイヤじゃなかった。
『アナイアレイション』は、世界が将来的に
こういう風に変わっていくよ、ということを
人が学び受け入れていく過程の物語とも言えた。
変化の内容がとても静かにゆっくりと説明されるので、
「えー! 世界はこんな風になるの! 絶対イヤなんだけど!」
みたいな強い抵抗感がなく、案外、受け止めることができた。
ヒロインのレナも、
「(目の前で起こることが)到底理解できなかった。
 でも、美しいものもあった」
と言っており、新しい世界に恐れつつも魅かれていった部分が
あったことを認めていた。

もし実際にこの物語のような世界に自分が置かれたら、
どうなんだろうな・・・。
最初は怖いのかもしれないけど。
でも、個体の生と死の境界が、あいまいになるわけだ。
そして、めぐり続ける。場所と形態を転々と変えながら。
「ある」かのようだがなく、「ない」かのようだがある。
ある、ないという概念自体も溶けていくという感じだ。
身を任せてしまえば、それは、全然イヤじゃないのでは。

『アナイアレイション』では、
「見る/見える」「見られる」
「何かを通して(見る)」
というモチーフが、繰り返しあらわれた。
例えば、
夫がヒロインのレナを見つめる静かなまなざし(見る)。
レナは夫にじっと見られて内心動揺する(見られる)。
探査チームの仲間は、ある恐ろしいものを目撃した時に、
「光のいたずらでそう見えただけ」と言い張った(見える)。
探査領域「シマー」で起こる不可思議な現象を、
光のプリズム効果で説明する仲間もいた(何かを通して見る)。
レナは、三方を透明なガラスで囲われた狭い部屋の中で、
大勢の研究員に見られながら尋問を受ける(見られる)。
それから、
探査領域上空は常に花曇りで、太陽光が直接さしてこない。
カメラの視野は「『水の中』の魚」「『録画された』映像」
と言ったように、常に何らかのフィルタを通して事象を映し出す。
・・・作り手側が、「見る」とか「見られる」とかに、
かなり度を越して執着していることがイヤでも伝わってくる。
でもそれが作り手の手クセのレベルにとどまっていなくて
『アナイアレイション』の物語の根っこに関わっていたのが
おもしろい所だった気がする。
シマーというエリアではすべての境界線があいまいだった。
領域が広がる森林地帯は、虹色にゆらめくシャボン玉状の膜に
覆われ(または一帯から虹色の湯気が立ち上っている感じ?)、
レナたち調査隊は、そこに分け入っていくこととなる。
彼女たちはそれぞれの形でこの領域に呑み込まれていく。
リーダーのベントレス博士なんかそもそも何を考えているのか、
心がどこにあるのかわからない謎めいたキャラだったし、
また、チームメイトの一人は、曖昧模糊とした風景の中に、
いつのまにか溶けてしまった(独創的で美しい描写だった)。
シマーで起こる事件がメンバーの心を侵していく展開は
確かに一般的に言えば、恐ろしいものだったが、
でも、何か、ただひたすらに「怖い」という感じとは違った。
少し不自然でやや抵抗を感じるが、いずれ受け入れていく。
わたしはそういうもののように感じた。

終盤で、レナの左腕の内側に浮かび上がった、
八文字型のイレズミ状の文様には、驚いたな。
何度観返しても、序盤の方ではあの文様はなかった。
川下りの時、ぶつけて打ち身ができた、と言っていた。
あの時以降だった、としか考えようがないかな。
でも、打ち身ができた、というあのセリフ以外に、
脚本上、レナの腕の変化についての言及は皆無だった。
あんなにハッキリ変化が表れているのに誰も何も言わない。
レナ本人に至っては、
自分の体が見た目にわかる形で変化したのにそれは気にせず、
顕微鏡でしか見えない自分の血液細胞の変容には怯えていた。

レナが夫に作った「借り」についての描写が
少ししつこかった気はした。
あそこまで露骨に描いてくれなくても、
(しかも同じシーンを2回転用・・・)
序盤でそれをほのめかす描写がちゃんとあったから、
誰でも十分察しがついたと思う。
やや説明過多で、もったいない。
あの部分だけ、エピソードの手触りが生々しすぎる。
せっかく夢を見ている所を叩き起こされる感じがする。
まあ、別にそんなに気持ちの良い夢でもないのだが。

わたしは「シマー」領域で起こることのすべて、
この映画で提示された、世界の未来の姿に対して
正直言って 嫌悪感は全然持たなかった。
自分が仮に当事者となっても気持ちは同じだと思う。
最初はちょっと気持ち悪さを感じるかもしれないが、
いっそのこと死にたい・・・、とまでは思わないだろう。
だから「シマー」領域が拡大していく、という未来像を
個人レベルでは、少しも「悪」とは思わない。
でも、それはもちろん観る人それぞれだ。
人によっては、悪だと思うだろう。

この物語の、世界の未来についての「解釈」に
ちょっと圧倒されたことは確かだ。
考えようによってはこれはもう
「始まっている」未来なのかもしれないと思ったので。

『スチームボーイ』

英題:STEAMBOY
大友克洋監督、2004年

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大友克洋監督の長編アニメ映画としては
有名な『AKIRA』よりも、この作品の方が好みだった。
AKIRA』も大好きだが。

雰囲気が明るくて、楽しく観られるのが良かったのかも。

「お決まりの展開」的なものを、
首の皮一枚で躱していくやりくちが憎い。
例えば終盤で、ロイド老が
ここはわしに任せて早く行け! 的なやつを
カッコよくキメたつもりが、レイに
イヤおじいちゃん、そうじゃなくて! 
とツッコまれる所とか。

ドラマよりも作品世界の描き込みに傾注しすぎたために
ドラマにいくつかの問題が生じたことは否めないと思う。
大友克洋監督は本当に、こういう
人間が、有機的な存在へと進化していく無機物に取り込まれる、
みたいなのが、やりたいんだな。すっごくそれはわかる。
そして大友監督には、それができる。
すごいもんな。この徹底した描き込み。
どのシーンでも、どこで一時停止しても、
画面のすみからすみまで惚れぼれ見入ってしまうもん。

でもなあ(笑)
この映画は、おもに少年少女に贈る「冒険活劇」に、
なろうとしていたと思うんだよ、最初はちゃんと。
それが途中から、作品世界にドラマが併呑されていき、
何だかちょっと良くわからないバランスになっていった(笑)。
元もとは、言わば壮大な父子ゲンカの物語だったのが、
後半になってくるとそれとはあまり関係のない線で、
いろいろと、大規模すぎる騒動が起こってしまい
(ロンドン壊滅規模の大戦闘とか)
わたしなんかはそれであっけにとられているうちに
「物語」を完全に見失ってしまった。
エドワードの腕がああなったのを見た時、
ドラマとして共感することはもうあきらめた・・・。

どこから、とはハッキリと言えないのだが、
この映画を作っていくうちに、ちょっとこう・・・
監督自身、「あ、しまった、マズったかも」と
思ったんじゃないだろうか。
そう思われるフシがあった。

まずキャラクターの造型と人間関係の設定に、
一部、不自然さを感じる。
正直言ってロイドとエドワードが実の父子とは思えない。
とはいえエドワードが父に他人行儀なのは別にかまわない。
父親が息子に一定の距離感を要求する場合も実際あるだろう。
そんなことで本当に血が繋がってるの? とか疑いはしない。
そうではなく、序盤で一瞬映るスチム家の家族写真と、
レイの母の、ロイドへの接し方の親密さから考えた時、
ロイドとエドワードが実の父子という設定に違和感があった。
むしろエドワードは「ロイドの弟子/スチム家の婿養子」。
この場合、自然に感じるのはそっちの気がした。
だが、公式サイトのレイの母の人物紹介ページで
ロイドは彼女の「義父」と紹介されている。↓

::STEAMBOY::

だからロイド老がレイの母の実父でないことは確かなのだ。
再婚やら養女やらの可能性まで考えなければだが、
レイの母が、エドワードに嫁いだことによって、
ロイドが彼女の義父となった、それが事実だろう。
ロイドとエドワードは実の父子なのだ。
でもなんかそれが印象としていまいち腹落ちしないのだ。

でも、ロイドとエドワードが本当に実の父子なのかどうか
それ自体がどうこう、と言いたいわけじゃない。
わたしが言いたいのは、
「壮大な父子ゲンカ」の顛末の物語にも関わらず、
「実の父子じゃないんじゃないか」とか鑑賞者が疑っても
しかたがないような部分をなぜ残したのかということだ。
ここは、はっきりさせるべき部分だったと思う。
でも、劇中ではいっさい説明がなされなかった。
血のつながった親子であろうが、
婿養子であろうが、それはどちらでも良い。
大友監督ならいずれにせよきっとおもしろい話に仕上げた。
問題は、ふたりの関係が「良くわからない」せいで、
ふたりのケンカにも共感しにくい、ということだ。

レイが、城の内部に隠された無数の兵器を発見した時に、
オハラ財団の者たちに自宅を壊されたことを思い出して、
くっそー、と歯がみするシーンがあったのだが、
なんならあのへんとか30秒くらい削ってでも、
ロイドとエドワードの関係を明確にするべきだったと
わたしは思うけど、どうだろう(笑)。
あのレイが「家で暴れられたんだよな~、クソ~」と
思い出すシーン、あれ、正直要らなかった・・・
「見識なき破壊行為への烈しい怒り」は
スカーレットが抱いた感情だ。
美しかった博覧会の展示が破壊されていくのを
目撃した彼女は「ひどい!」と腹を立てていた。
同じ気持ちをレイも抱いた、ということであれば、
これは、作品にとって大切なテーマのひとつだと思う。
ならばもっと前もって、
何なら財団に家を襲撃されたその時に、
「くそ! 何てひどいことをするんだ! 僕の家を!」
と、レイに激怒させるべきだったのではないか。
でも実際にはレイはあの時、いち早く家を脱出していて
我が家が本格的に破壊された所を目撃していないのだ。

この通り、個人的に、
「ここで一言、説明しておいてくれたら」
「もっと前の段階で布石を打ってくれたら」
と思われる所がちらほらあった。
わたしでもそう思うくらいなので・・・、
生意気かもしれないけど、大友克洋監督だったら
気付いたんじゃないかなあ? と思われてならない。
出来上がってきたものを見て初めて気づく問題や
修正すべき微細なバランスの狂い、みたいなものも
きっとあるのだろう。
そこで補正が可能なら良いのだろうが・・・。

まあそんなこんなで、
惜しい! と思った部分がなきにしもあらず。
でも、冒険活劇として十分に楽しめた。
長々述べたので、ここに書いたことが、
あたかもこの作品の重大な欠陥かのような
印象を与えてしまったかもしれないけど、
「改めて考えてみるとちょっとアレかな?」
と思った程度のものだ。

楽しく観られるので、ぜひ機会があればどなたにも
おすすめしたい。

Netflixドラマ『ワイルド・ワイルド・カントリー』

 


原題:Wild Wild Country
マクレーン・ウェイ、チャップマン・ウェイ監督
全6部
2018年3月16日 全話一挙配信(完結)

※以下で、実在特定の宗教組織の呼称を挙げて
 わたしの考えを述べる所がある。
 繊細なテーマなので、どんなに気を付けても
 場合によってはご不快にさせるかもしれない。
 また、事実関係で間違っている所などがあれば
 ぜひ教えて欲しい。 

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www.youtube.com

 

【概要】

1981年~1985年の4年間、米オレゴン州に一大拠点を展開した
宗教的コミューンの実態を、ほぼ時系列どおりに振り返る
ドキュメンタリーシリーズ。以下『WWC』。
関係者への取材と当時の報道VTRを中心に構成されている。
コミューンはインドの神秘思想家バグワン・シュリ・ラジニーシ
戴くもので、ワスコ郡アンテロープシティの広大な土地に
インドから集団移住、自力で開拓して、版図を広げた。
だが共同体の規模拡大につれて近隣住民との軋轢が激化し、
両者は(暴力的手段をも含めた)あらゆる方法で争った。
最終的に、バグワンが国外退去を承諾したことにより、
抗争は収束、アンテロープの拠点は打ち捨てられた。
バグワンはインドに戻ったのち死去、組織は現在も存続している。
コミューンがあった土地は現在キリスト教系組織が所有・運営し、
青少年向けのセミナーやサマーキャンプの会場として用いている。

※以下バグワン・ラジニーシのもとに集ったコミューンのことは
 だいたいの場合において「ラジニーシコミューン」と表記した。
 それ以外の時は、それ以外とわかるように都度明記する。

<エピソードやインタビューに登場するおもな人物>

◆コミューン内部

マ・アナンド・シーラ
コミューンがインドにあった頃からバグワンの秘書を務めた。
オレゴン移住計画を全面的に仕切った人物で、
のちの組織的犯罪行為の首謀者とも目された。

スワミ・プレム・ニレン(フィリップ・トークス)
コミューンの顧問弁護士。

マ・シャンティ・B(ジェーン・ストーク
シーラの元側近。バグワンの主治医的な存在だった医師の
殺害計画に加わった。

マ・プレム・サンシャイン(サニー・マサド)
オレゴンのコミューンの広報担当だった女性。
笑顔が、ぱっと大輪の花がひらくような明るい感じで、
年齢を重ねた今もすごくきれいな人だ。

アンテロープシティの非信徒の住民たち
ジョン・ボワマン、ジョン・シルバートゥース、
マクレガー夫妻など

◆連邦検事関係者など
チャールズ・ターナーオレゴン州担当の連邦検事)
ロバート・ディーバー(連邦検事補佐)

他、多数。各方面の当事者が健在のため、
当時起こったことについて、両方の立場の言い分を、
本人の生の声で聞ける、というのが
このドキュメンタリーのスゴイ所。



【おもしろかった!!!】

1日1話、1週間かけて全6部、夢中で観た。
わたしはわりと宗教や神秘思想の歴史に関心がある方だと
自分では思っているのだが、
ラジニーシコミューンのことは皆目知らなかった。
こんなに派手に活動を展開していたのに!!!
関心があるとか、もう人前で言わないようにしよう・・・。

ラジニーシコミューン側の人びとの回想が良かったな。
彼らはコミューンでの日々を
生涯忘れられない恋の思い出みたいに語っていた。
ニレン弁護士が、バグワン・ラジニーシ
国外退去を勧めた時の話は、
正直言ってわたしもちょっと涙ぐんだ。



アメリカ宗教史とモルモン教会という切り口】

アメリカ」で
「1つの街がそのまま1つの宗教組織」と言うと
わたしは
末日聖徒イエス・キリスト教会」(以下「モルモン教会」)
を、すぐに連想した。
モルモン教会の教徒の人たちは、
19世紀半ばにソルトレークシティに根を下ろすまでに、
どんなプロセスを踏んできたのかなと、思った。
それに、モルモン教会も、ラジニーシコミューンも、
拠点を築く場所として、なぜアメリカを選んだのだろう。
また、両者とも、地域の非信徒の人びとと折り合えず、
争った時期があったようなのだが、なぜそんなにも
激しく衝突することになってしまったのか。
末日聖徒イエス・キリスト教会の概要については、
 Wikipediaなどで調べてみていただきたい。

自分なりに何冊か本を読んでみてちょっと考えた。
結果、彼らがアメリカを選んだ理由と、
非信徒や国家的マジョリティとの衝突が激化した原因には、
以下のことが共通して関わっているように思えた。

・信教の自由が憲法で保障されている
・ありあまる土地
・移民が都市を作りやすい社会システム
・一般の人でも武器を持てる

これはすべて、アメリカの特徴だ。
しかも時代にあまり関係なくずっとある特徴だ。
だから19世紀半ばに米西部に定着したモルモン教会も、
20世紀後半にやってきて定着に失敗したラジニーシコミューンも
時代は違うけど、条件としてはほぼ同じと言えると思う。




【信教の自由が憲法で保障されている】

WWC』の中で、ニレン弁護士も言っていたのだが
合衆国憲法は、
連邦政府が国教を定めてはならない」としていて、
これは1791年以来ずっと変わっていないのだそうだ。
ニレン弁護士は
「われわれは憲法で保障された集会、表現、結社、
 信教の自由という当然の自由を求めただけだ」
と、しきりに主張していた。
でも国としては宗教を定めない、というのと、
一つの宗教の元に集った人びとが街を作って良い、というのは
考えてみれば裏表で、うまく言えないが複雑な問題だと思う。
だがともかく1791年以来ずっと変わっていないということは
初期モルモン教会も、ラジニーシコミューンも、
憲法のもと自由に宗教活動をして良かったのは同じなのだ。



【ありあまる土地】

ラジニーシコミューンが選んだオレゴンの土地に、
当時、彼ら以外の人がいなかったわけではないが
その数はあまり多くなかった。
だがらラジニーシー(ラジニーシ教団の信徒)たちは、すぐに
その地域の政治経済、司法や警察権までも掌握するに至った。
アンテロープシティの近くの牧場を購入し、
従来の拠点だったインドを始め、世界中から信徒を呼び寄せて
大規模なコミューンを作り上げた。



【移民が都市を作りやすい社会システム】

アメリカ合衆国は移民社会だ。
西洋人があまりいなかった所に、
ほんの200年間くらいで続々と入植、という形で
一気に人が流入し、都市が作られて、できた国だ。
そんな経緯があるので、伝統的にアメリカでは、
移住してきた人たちが比較的容易に街を作れるよう
法的なシステムが整備されているという。
これは『WWC』を観ていて驚いたことなんだけど、
オレゴンなどは150人いれば「市」が作れるそうだ。
そんなんで良いんだ!!!
(日本では原則5万人以上が「市」で、他にも要件は多数)
だからラジニーシコミューンもスムーズに市を作り、
通りの名前や店の名前もラジニーシー流に一気に塗り替えた。
市長も警察もみんな信徒で、武装警備も合法的にできた。
また、オレゴンでは20日間州に居住すれば選挙人登録ができる。
アンテロープだけでなくワスコ郡の掌握をも企図したシーラは
この選挙人登録の規定を利用し、ホームレス抱え込みを決行した。
国中の路上生活者たちをコミューンに連れてきて生活を保障し、
郡議会選挙で投票させるようにしたわけだ。
スゴイ行動力だし、財力だ。力技だ。
※ちなみに日本で当該市区町村の選挙人名簿に登録されるには
 住民票登録した日から3ヶ月以上、そこの街の住基台帳に
 住民として記載される必要があるそうだ。

初期モルモン教会も、人がまばらな地域に集団で移住して、
やがて政治を動かす力を持っていった宗教集団だ。
ソルトレークシティの前にイリノイに拠点を置いた頃には、
教祖ジョセフ・スミスが大統領選に出馬表明している(1844年)。
スミスがその後逮捕され、民衆に襲撃されて命を落とすと、
教徒たちは西部の、当時まだ合衆国領でさえなかった土地に
一から都市を作り、これが今のソルトレークシティとなった。
1851年、教会の指導者ブリガム・ヤングが「ユタ準州」の
知事に指名されている(州都ソルトレークシティ)。
でも、この頃モルモン教会は、国の宗教的多数派である
プロテスタントとの衝突を深刻化させていった。
教徒の間で広まっていたデマが元で、
非教徒の人びとを襲撃して殺害する事件が発生。
元もと中央は、モルモン教会がユタの政権を握っていることを
警戒していたので、この虐殺事件を機に武力制圧を決意する。
米陸軍と教会の激突(1857年~1858年、ユタ戦争)の果てに
教会指導者ブリガム・ヤングはユタ準州知事を辞任した。
このできごとの影響で、
ユタが「準州」から「州」になるのには時間がかかった。
準州だと連邦政府の管轄下におかれていろいろ制約があり、
自治権限をフルに行使することができないのだそうだ。
教会が一夫多妻婚を廃止した(1890年)ことを受けて、
ようやくユタは「州」になることができた(1895年)。

誰もいない荒れ地を拓いて理想郷を作る、っていうのは
アメリカの精神的な母とされるニューイングランド
清教徒たちがそもそも志したことだったと思う。
でもいくら誰もいないつもりで入植したつもりでも
本当に人が全然いなかったはずはなく、先住民がいた。
そこへ入植して生活圏を拡げたことは、
先住民の伝統と暮らしを破壊することにつながった。でも、
「私たちが文明化してあげる」
「持ち腐れの土地を有効活用してあげる」
みたいな「上から」目線で、自分たちの選択を正当化した
・・・そんな面はやっぱりあるんだろう。

ラジニーシコミューンが
フロンティアスピリッツを継承してたかどうかは
わからないにしても、『WWC』の中で、シーラは
まるで昨日のことみたいに目を輝かせて振り返っていた。
砂漠同然だった土地を私たちみんなで耕して、
美しい都市を作り上げていったわ!
湖の生態系だって生き返ったのよ! と。

最高に楽しかっただろうな、とは思ったよ。
そんなことをやり遂げたのは、一生の思い出だろう。




【一般の人でも武器を持てる】

でも「私たちは良いことをしています!」
と言わんばかりのラジニーシーの主張を
アンテロープシティの住民はしりぞけたし、むしろ
静かなリタイアライフが脅かされる、と拒絶した。
アンテロープ市民は
コミューン建設の差し止めを求めて提訴した。
これはラジニーシーたちと近隣住民たちの
長い戦いの発端となった。

モルモン教会もアメリカ社会に根を下ろすまでに苦心があり
先ほど述べたように、ユタ戦争などで犠牲が出ている。
ラジニーシコミューンと近隣住民の対立も激烈で、
ラジニーシーたちが宿泊していたホテルが
何者かに放火される事件も起こった。
モルモン教会にしてもラジニーシコミューンにしても
彼らと非信徒との衝突がこんなにも激化したことには
やっぱり「武装する権利が保障されている」という
アメリカならではの背景があるだろうと思う。

ラジニーシーたちが移住後早々に武装し始めたので、
近隣住民たちも競って銃を買い、武装する道を選んだ。
住民たちは「私たちがコミューンを良く思っていないので
ラジニーシーが武力で脅してきている」と解釈したのだ。
アメリカらしい反応だと思う。
「銃を向けられたら銃を向ける」という風にやっていたら、
集団間で争いが起こった時に、それはどうしたって
「暴力」の形でエスカレートしていくと思う。
だが、銃で人が死ぬ痛ましい事件が、
今後どれほど繰り返され、どんなに多くの人が泣いても、
個人の武器保有権が合衆国憲法から削除されることは
まずありえないんじゃないかな、という気がする。




【なぜ武器を持つのかね】

というのも、アメリカの人が武器を持ちたがる背景に
環境条件からくる不安や警戒心があると思うからだ。
前に『ウインド・リバー』(2017年)という映画を観た。
米西部の実情に着想を得て構成されたあの物語の中では、
資源開発会社の作業員とかがみんな銃を携帯していた。
銃なんか絶対に必要とも思えないのに、誰もが持っていて
そのせいで、本当に一瞬にして、
予想だにしなかった惨劇に発展するシーンがあった。
あまりのことに呆然としてしまったのを覚えている。

広大な土地で、知らない人間に会った時、
もしお前が暴力で来るならこっちだって黙っていない、
という気分は
アメリカの人の心の根本的な所にあるのかもしれない。

モルモン教会の人びとが定着を目指した19世紀のアメリカ、
特に開拓地域においては、西洋人はまだ少なかったはずだ。
自分と家族の安全を守るため、その日の糧を確保するため、
武器を持っていなくちゃいけなかったのは当然だったろう。
ウインド・リバー』でも説明されていたんだけど、
現在でさえ、お隣さんの家とか一番近くのスーパーとかまで
車で何キロ、みたいな所に住むアメリカ人は少なくないそうだ。
きっととても不安だろうし、警戒心が高まると思う。
武器を手元に置きたくなる気持ちは、わかる。




【いったんまとめ】

未開発の土地に移住して、私たちの理想郷を打ち立てよう、
これ自体はアメリカでなくてもどこでも夢見ることができるが
アメリカには本当にそれを可能にする広い広い土地、
民主主義に基づいて個人に保障された幅広い活動の権利、
そして暴力に転じる危険性をもはらむ熱く烈しい精神性、
全部が揃っている気がする。
どれも、ある種の人の心を強く惹きつける要素ではあるだろう。
モルモン教会の人びともラジニーシーたちも
あるいはそうだったのかもしれない。

 

 

【日本とオウム真理教

日本でこういう系の話というと
やっぱりまず一番に「オウム真理教」を連想するんだけど、
オウム真理教がどうしてああいうことになったのかについては、
アメリカに備わっている環境条件が日本にあるかどうかで
考えてみたら、ちょっと話が見えてくるのかもしれない。
いや、やっぱりムリがあるか? でも一応やってみよう。

・信教の自由が憲法で保障されている
・ありあまる土地
・移民が都市を作りやすい社会システム
・一般の人でも武器を持てる

信教の自由は日本にもある。でも、あとは全部ないな。
土地が豊富とは全然言えないし、
移民が新しい都市を作りやすいシステムでもないし、
日本の一般人は銃とか持たない。
オウムは確か東京を起点に信者を集め、選挙出馬も東京だった。
人がまばらなエリアを選んで多数派としての地位を確立し、
周到に政治力を伸ばしていったラジニーシコミューンとは
考え方が全然違うようだ。
アメリカと日本とではこの通り環境要件が異なっている。
ラジニーシコミューンが一時的にうまくやった例があっても
彼らとまったく同じ手法で、日本でオウムが何かしたとして、
同じようにうまくいったかどうかはわたしにはわからない。
(もしアメリカでやってたらうまくいったのだろうか・・・)

まだオウム真理教とその事件は「歴史」にまでは
なっていないような気がする。
自分の国のことなのに恥ずかしいんだけど、
実はわたしはオウム関連の事件については、
ほとんど何も知らない。
オウムの組織成立の経緯や彼らの起こした事件について
知識を得てから、この記事を書きたかった気もしたが、
どの本を読めば良いか、誰の研究から学べば良いか、
見当もつかなかった。
今後少し勉強して、何か自分なりに考える所までいったら
この記事に加筆するかもしれないが、
今回の所はここでおしまいにしておきたい。



※参考に読んでみた本
森孝一『宗教からよむ”アメリカ”』講談社選書メチエ
堀内一史アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ』中公新書
森本あんり『キリスト教でたどるアメリカ史』角川ソフィア文庫
高橋弘『ユタ州とブリガム・ヤング
    アメリカ西部開拓史における暴力・性・宗教』新教出版社
ヒュー・ミルン『ラジニーシ・堕ちた神』第三書館
太田俊寛『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇』ちくま新書