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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ひとつの太陽』

 

原題:陽光普照
英題:A Sun
チョン・モンホン 監督
2019年、台湾

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【あらすじ】

自動車教習所で働く父、
美容師の母、
医大を目指す、品行方正で優秀な長男、
傷害事件に関与して少年院に入った次男。
どうしてもうまく回らない不器用な一家が、
それぞれにもがきながら、生きる道を探っていく。

 


イーストウッドっぽい?】

雰囲気が良くて、優しい映画だ。
中低音域の金管楽器による朗らかな独奏に彩られて、
とてもゆっくりと、物語が進行する。
ハードな事件が次々と発生するが、
その割には不思議とショックが少なく、
あ、そうなんだ~、って感じで見守っていられる。
作り手が登場人物たちに注ぐまなざしが温かい。
そんなこんながどことなく、
クリント・イーストウッド監督の映画を思わせた。

 

【セリフに頼りすぎか?】

登場人物たちの心情の説明において、
セリフに頼りすぎかな、という気は少しした。
でも、それ以外の方法での説明をなまけていたか? 
というと、のちほど詳しく述べてみるが、
別に全然そんなことはなかった。
単に、いつも観ている映画と「文法」が違うので
勝手が違う気がしただけかもしれない。
個人的には台湾製の映画は普段観る機会が少ないし、
台湾という国についても、
文化観、価値観、死生観、何もかも、
未知のことばかりなのだから。

 

 

【心情描写の工夫:光と影】

原題の「陽光普照」は
「太陽はすべてを普く(あまねく)照らす」
という意味らしくて、これは一家の長男アーハオが
ガールフレンドに聞かせた、とある話の中の言葉だ。
この映画にとっての、キーワードにもなっている。
この映画においては、光と陰翳が、
登場人物たちの状況や心情を表現するのに
とてもうまく用いられているのだ。

例えば冒頭、
アーフーとその悪友ツァイトウが事件を起こす場面。
このシーンは視界不良の雷雨の夜に繰り広げられる。
アーフーの過ちが、一家の運命を狂わせる、ということを
この夜の大雨が雄弁に物語っているのでは。

実際、アーフーの事件以降、
特に長男と母が登場する場面は、暗いものが多くなった。
長男は、親の期待が自分に一層のしかかるであろう未来に
責任というよりはプレッシャーを感じていたようだった。
そして母は、出来が悪くても次男アーフーを案じ、
彼の少年院での生活やら将来のことやら
あれこれ思い悩んで、心を痛めている。
家族の未来を憂う、まじめな二人だ。
だから、彼らは暗闇の中にいる。

でも教習所の教官の父は、妻や長男とは真逆だ。
いつも、わざとらしいほどカンカンの日差しの下にいる。
彼は、やんちゃな次男を、傷害事件を機に完全に見限り、
俺は知らんもんね! とばかりに仕事に精を出し始める。
次男の事件の被害者家族が職場に乗り込んできて、
慰謝料を払え! と騒ぎ立てるアクシデントが起こるが、
それでも、しんきくさい家にいるよりも、
働いていた方がずっと気楽だ、といった感じ。

だけど、ある時、一家にさらなる大事件が起こる。
この場面は、朝まだきの濃い青色の中にすべてが沈んでいた。
次男の事件とかいろいろあっても、
これまでは何とか踏ん張って来た一家だが、
ここで、奈落の底の、さらに底へ、叩き落とされた。
あの未明の集合住宅のシーンは、でも、きれいだった。
この映画の中で一番好きな映像だったかも。

この光と影の条件設定に、明らかな変化が生じたのは、
アーフーの年下の彼女シャオユーの妊娠が
判明するあたりからだ。

母はシャオユーと孫のケアに生きがいを見いだす。
これまでは夜の店の女性たちを顧客としてきたが、
シャオユーの将来のためにテナントを借りて、
日中の美容室を開業することを決意する。
陽の光を浴びて開業準備に奔走する彼女は
元気を取り戻してかなり健康そうに見える。

一方、家族に背を向け、
仕事にばかり打ち込んできた父親の方は、
夜の幻影に、惑わされるようになっていく。
刑期を終えて出所してきた次男とも
なかなか素直に向き合うことができず、
不器用な彼は、孤独の中、徐々に思い詰めていく。

出所したアーフーは、人生を立て直そうと必死だ。
しかし、そこに前述の悪友ツァイトウが現われ、
アーフーを暗い闇の世界へ引きずりこもうとする。
「お前のせいで俺は散々な目に遭ったのだから
 お前だけ幸せになるのは許さない」
そんな感じの、陰湿な絡み方だ。

アーフーは仕事をかけもちし、妻子のために頑張る。
だが、カーショップの仕事の当番は「夜」であり、
洗車を任されている高級車は「漆黒」のベントレー
かけもちのコンビニ店員の仕事も「深夜」シフト。
闇との縁が、まだ完全には切れていないことが、
そこかしこから感じ取れる。
アーフーを常に「夜」の中に配置することで、
彼の暮らしがまた不安定で、
いつ何が起こるかわからない・・・ということを、
暗示していた気がする。

そして物語は、
オープニングと良く似た、雷雨の夜を迎える。
・・・
できすぎと言っても良いくらい、
良く考えられた表現手法ではないだろうか。

 

【笑わせようとしてくる豪胆さ(笑)】

唐突に投げ込まれるユーモアには笑った。
アーフーの獄中結婚の場面。
なんでおやじさんが血圧測ってたのか謎(笑)
測定器のやっすい電子音が静かな室内に響き渡り
気まずさMAXでわたしの胃がキリキリと軋んだ(笑)
婚姻の手続きをする役人(あるいは聖職者)たちも
おもしろすぎた。
ああいう所で笑わせようと仕掛けてくる
作り手の神経がスゴイよ。もう、サイコだよ(笑)

少年院の仲間たちが、
アーフーの出所を祝福する場面は良かった。
最初は殴り合いのケンカとかしていたのに。
とても感動的で、泣きそうになった。
この祝福のシーンは、ぜひ、実際に鑑賞して、
ご自分の眼で確認してみて欲しい。

 

【ガンコ親父が走り出す】

四角四面で、口ばっかりで、
とにかく不器用な父親と、
それに粛々と従わざるをえない妻子。
旧式できゅうくつな「家族観」を内面化し、
その内側に閉じ込められた家庭の
崩壊と再生の物語だった気がする。

あの父親は、けっして悪い人ではないんだけど、
まあ、絶望的なまでに古くて、ガンコなのだ。
俺のこういう所が良くないんだ、
家族をばらばらにしてしまったのは俺なんだ、と、
仮に自覚できたとしても、
今さら自分を変えられる柔軟さも、若さもない。
でも、でも、今のままでは・・・。
そんな思いに駆り立てられて、父は突如、動き出す。
もう、問題がコジレにコジレてどうにもならなくて、
ものすご~~~く長大な補助線を引っぱらないと、
解が導き出せなかった、というのが伝わってきて、
切なかった。

 

【この家族だけが特別なのか】

光ある所必ず闇がある、と良く言われる。
「陽光普照」、つまり
「太陽はすべてをあまねく照らす」のであれば、
太陽の恩恵を受ける者、つまり、すべての人間が、
何かしら必ず、負の側面、闇の側面を
背負っていることになる。
『ひとつの太陽』の登場人物たちは言わば、
この人間存在の真実を象徴する存在なのであって、
彼らだけが特別に不幸とか、特別に間違っているとか、
そういうわけではないのだと思う。

闇を背負った人びとの、
かなしみを描く物語にも関わらず、
鑑賞後には不思議と心があたたまっていた。

愚かで哀しい「人間」と、「家族」への、
作り手の思いが込もった、良い映画だ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

原題:I, Daniel Blake
ケン・ローチ監督
2016年
英・仏・ベルギー合作

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英国北東部で暮らす大工職人のダニエル・ブレイクは、
心臓の病でドクターストップが出て働けなくなり、
役所に休業手当の申請をするも「就業可」として却下される。
この理不尽な審査結果に、不服申し立てをしたいのだが、
手続きのあまりの煩雑さにくじけそうな日々。そんな中、
ダニエルは貧困にあえぐシングルマザーのケイティと出会い、
彼女たちと交流を深めていく・・・。

冒頭の、電話による聞き取り調査の段階で
もう何か、絶望的なまでに、ズレてたよな・・・。
ダニエルが、俺の病気は心臓だ、って言っているのに、
老人性の認知症か何かだと頭から決めつけられていたね。
役所は
ダニエルの休業手当の申請を却下する、という結論ありきで
ことを進めている風にさえ見えた。

公的機関への不信感が強いあまり、
無謀な金策にかけずり回り、身も心も疲弊していくケイティ。
納税者としての誇りから社会保障制度を信頼してきたゆえに
それに裏切られたと感じた時の失望も深かったダニエル。
この対比が、簡素な脚本の中にしっかりと描写されていて、
本当に、観ていて心が痛かった。

ケイティサイドも、考えると興味深かったのだが、
わたしがこの映画の中でもっとも印象に残った所に
絞って、この記事を書いてみたい。

それは、終盤のダニエルのある表情だった。
背景としては、
彼は病気で働けないので休業手当を申請したいのに
却下されたので、不服申し立ての手続きを検討している。
しかし、その手続きが遅々として進まないために
収入ゼロの状態におちいってしまっている。
そこでダニエルは職業安定所のすすめを受けて、
日本で言う失業給付の申請も並行して行っている。
日本のそれと同様、規定に応じて求職活動をした証明を
提出して認められれば、給付金が下りる仕組みだ。
だが、先に述べた通り、ダニエルは病気で働けないのだ。
だから就職活動といっても形だけのものとなってしまう。
履歴書を読んだ企業が、ダニエルを欲しがったとしても、
「実は病気だから働けない」と辞退するしかないのだ。
この愚かな茶番にほとほと嫌気がさしたダニエルは、
こんな屈辱的なことは、もうとてもやっていられない、
失業給付金の申請はやめるよ、と安定所の職員に話す。
その直後、彼は職業安定所の外壁に、ある落書きをする。
通報され、間もなくダニエルは逮捕された。
しかし、初犯のため「口頭注意」で済む旨を告げられ、
もう決してやってはダメだよ、と警官に諭されて、釈放される。
・・・
わたしの胸に何かすごく迫ってきたのは、
この、警官の説諭を受けている時のダニエルの表情だった。

わたしには、彼が、安堵しているように見えた。
しかも自分自身のそのような感情に、
いたく失望しているように見えた。
安堵とはこの場合、
「刑務所に行かなくて良いんだ。ほっ・・・」の
安堵、ではないと思う。
何といったら良いのかなあ。
「相手が内心、俺を見下していることはわかっている。
 でもそれでも、いくらか優しくしてもらえた・・・。
 うれしい」
みたいな感じの安堵だ。

うまく説明できるかわからないけど・・・
資本主義社会で生きていると、
「経済活動に失敗した」たったそれだけのことで、
人としての価値がゼロになったような感覚を
味わうことになりかねないんだよな。
それは経験的に、強く感じることだ。
わたしも病気で一時働けなくなったことや、
失業したことがあるのだが、あの時は、
「自活ができない」という状況になったことで、
すごく迅速に、かつ深刻に、自分の心が傷付いて、
いじけていくのを感じた。
「働いて、人に頼らず、借金もせずに
 大過なく暮らし、請求書の支払いをし
 税金を納める」
これが今までできていたのに、できなくなるのは、
恥ずかしいこと、みじめなこと、という感覚だ。
恥ずかしいことだと人に思われる、という感覚だ。

そして、わたしの場合はそんな時、
健康保険組合ハローワークの人の
ふるまいに、救われていた。
手当や給付金の受給のたびに、
恥を上塗りされたように感じずにすんだのは
彼らのおかげだと思っている。
「あなたは無職の失業者ですね。
 わたしはそんなあなたが
 お金をもらえるように、してあげる人です」
とか思っていると、
彼らはわたしに決して思わせなかった。
普通にルールを守って普通に申請をして、
受け取る資格があるものをただ受け取る。
わたしのその立場を、一貫して守ってくれていた。
早く的確、過不足がなく誠実、
そんなふるまいによって。
当然のようできわめて高度な、対人スキルではないか。

でも全世界の職業安定所のすべての職員さんが
そうしてくれるわけじゃないのかも。

自分の経済活動を回せていたけど今は回せない、
ちゃんと生活できていたけど今はできない、
たったそれだけのことで、人の心はすごく
参ってしまうものなのだ。

この屈辱感、この奇妙にいじけた気持ちは
体験してみないとわからないと思う。

ダニエルは
「ちゃんと税金を納めてきた」ことを
人生のささやかな誇りとしている。
それだけに、社会福祉への信頼は厚い。
だって自分の街の福祉の一端はまぎれもなく、
自分の税金でまかなわれている。
ならば自分が生活に困った時にそれを頼るのは当然だ。
なんら恥じるところはない。
当然の権利なのだ。
ダニエルはそう考えている。
だが、彼のこの信頼に、彼の街の福祉はどう応えたか。
ただでさえ弱ってきていたダニエルの心を
いっそう疲弊させていかなかったか。
ダニエルが書き残したメモが痛ましい。
「施しはいらない」
「私は人間だ、犬ではない」
「当たり前の権利を要求する。
 敬意ある態度というものを」

ダニエルは警察署での一件を境に、
加速度的に憔悴していったように見えた。
働けないのに、金が欲しくて形ばかりの求職活動。
「俺には屈辱だ、ほとんど拷問だ」
前からそう言っていた。
しかも、それでも頑張って求職活動証明を提出しても
「証明書類が不十分。あなたは不誠実な求職者なので
 処罰審査になります。もちろん給付金は出ません」
とか言われてしまう。
この日々にほとほと参っていたことは確かだろう。
だがダニエルの心に決定的な打撃を与えたのは、
そうした求職活動の日々よりもむしろ、
警察署でのできごとの方だったのではないか。

逮捕されたのに口頭注意で済んだのは、
ダニエルに犯罪歴がないからだった。
「前科がないから口頭注意で釈放です、
 でも次は決してない。トラブルには近づくな」
ダニエルと向き合って立って、そう話した警官は
なにも「うわー親切な人だなあ!」とかいうほど
特別に紳士的なわけではなかったと思うが、
ここまでずっと、
良く言えば機械的、はっきり言えば下に見た対応をする
安定所の職員たちを見てきたせいか、
わたしの眼には警官が「まっとう」に映った。
当事者であるダニエルには余計に、
そう感じられたのではないかな、と想像する。

そんな警官とのやり取りの中でダニエルの心のなかには
いくつもの複雑な気持ちが去来したんじゃないかなと思う。

犯罪歴がないから刑務所に行かずにすんだ。
奇妙な話だけど
「逮捕されるような行為をはたらいた」ことで
「これまで普通のまじめな市民だった」ことが
かえって証明された。
「そうだ、俺は普通の市民なんだ、当然だ。
 無気力で物欲しそうな野良犬みたいに
 扱われる筋合いはないんだ」
という、誇り。
「おこない正しい市民としての実績を、
 自分自身の行為で汚してしまった」
という、羞恥心。
短い期間で、正常な判断力や良識を失い、
いつもの自分だったら絶対にするはずのない
見苦しい行為をしてしまったことへの、おののき。
そして、
「警官は俺を、毎日のように処理している
 何人もの軽犯罪者とか荒くれものの
 一人としてしか見ていないんだろうけど、
 俺が普通のまじめな市民だったと認めてくれた。
 俺とちゃんと向き合って、話をしてくれた・・・」
という、みじめったらしい喜び。

自分がこんな気持ちになることがあるなんて、
今までダニエルは想像したこともなかっただろう。
経済活動を送る能力を一時的に失ったことによって、
社会と関われている、という大切な感覚を
失った気がしていた所へ、
警察署という思いがけない場所でそれをかすかに見出して
「うれしい」と思ってしまった。

「見下されていることはわかっているけど、
 普通の人として優しく接してもらえた」
物欲しげな野良犬根性とでもいうべきものが
自分の心に芽生えたのを自覚してしまったこと、
それこそがダニエルを、
もうこれ以上少しも頑張れないほど
打ちのめしたのではないかなと思う。

『きみの鳥はうたえる』

三宅唱 監督・脚本
佐藤泰志 原作
2018年、日本

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好みではないが、すごい良作だなこれは、と感じた。

原作小説は未読のまま観た。
でも映像だからこそのことを、わざとらしくない範囲内で
いろいろ盛り込んでいる感じがして、良かった気がする。

ほとんど何も起こらない物語だからなのか、かえって
登場人物たちの小さな行動や口調などに注意が行きやすく
そこにいつも何かしら「おっ」と思わされる所があった。

・職場の同僚にいきなり襲いかかる「僕」の鬼の形相が
 鏡ごしに見える構図になっていたのが怖くて良かったし、

・サチコのひとつひとつの細かな行動も、なんか良い。
 すれちがいざま、ヒジにタッチする、とか
 約束をすっぽかされて本当なら怒って良い所をそうせず、
 「これ食べる?」といってランチをそのままゆずるとか
 なんなんだそれは・・・なぜ君はそれをするんだ・・・
 謎すぎる感じが、何か個人的に好きだった。

・こと「僕」とサチコの関係に関してはすべて、
 サチコからの投げかけがあって初めて、事態が動く。
 それがなければ本当に最初から最後まで何もない。
 
・朝早く、母の見舞いに行くために静雄が支度をしていると
 「僕」が無言で、長袖のきれいなシャツを出してよこす。
 多分、自分の手持ちの服を貸してあげたんだろう。
 おっかさんに会うのだからマシな格好をして行け、みたいな。
 何かああいう所も非常に良かった。


「すぐわかること」「速いこと(インスタントなこと)」が
すなわち「良いこと」のようにとらえられやすい昨今だが、
それで考えたらこの映画は「悪い映画」になると思う。
登場人物が、あまり自分の心の中を語ってくれないし、
表情もほとんど変えないので、いろいろわかりにくい。
何回か、「僕」や静雄による独白が挿入されるのだが
「そういうこと考えているのね」と思わせてくれる独白ではない。
むしろそれを聞くと余計に謎が増えて「え、結局なんなの?」。

わかりにくいと言えば、この映画の登場人物はみんな
見た目の印象と中身が、かなり違う。
地味子さんに見えるサチコが、実は恋多き女性だ。
不誠実な奴だとみんなに言われてる「僕」が実はそうじゃない。
静雄も無気力、自堕落に見えて、意外といろいろ考えている。
「『持ってる』大人の男」、「実直な勤労青年」、
サブキャラたちのそんなイメージも、
すべてがひっくり返される。
わたしなんかは、だからラストの
「僕」とサチコの急速展開に
「え、そういうこと考えてたの君!!!」
って、すごく驚いた。
結果、迷わず即リピート鑑賞した。観返してみると、
ちゃんと「そういうこと考えてる感じの『僕』」が
そこかしこにきちんと提示されていた。
思い付きの演出ではなく、
ちゃんと計算のうえでお膳立てされているのだ。

サチコを演じた石橋静河という女優さんが良かった。
とにかく自然。どこか色っぽい。
ダンサーでもあるそうで、
クラブで踊る姿がのびのびとして、とても素敵だった。
また、背中越しの着替えのシーンが繰り返し入るのだが、
白い肌と、ムリなく付いたしなやかな筋肉がすごく魅力的。
職場の後輩に「(『僕』との)セックスはどうでしたか」
と聞かれて「ちょうど良い」と答えるのとかちょっと参った。

サチコと静雄の二人で、
泊りがけのキャンプに行く展開があった。
その肝心のキャンプのシーンがまったく描かれなかった。
二人が帰宅した所から、そっけなく話がつながれていった。
このやり方には「おっ」と思った。
キャンプに何日間行っていたのかもわからないし。
出かけていた間、この二人に何があったのかなと
想像をめちゃくちゃ掻き立てられた。

「僕」は、他者に期待せず、他者にあまり興味がない。
他者との間に関係のようなものを持ったとしても、
その関係に名前を付けることを極端に嫌う。
自分の行為が他者に何かしら作用する可能性がある、
という当たり前のことさえ、意識の外のように見える。
実は静雄にもサチコにもちょっとそういう感じがあった。
(「僕」が一番、その感じが顕著ではあるのだが)
他者とコミットしたがらない理由を仮に彼らに聞けば、
「縛られたくない、身軽でいたい、自由でいたい」
と答えるのかもしれない。
でも「自由でいたい」と思っている彼らでも、
たまにはやっぱり、自分の気持ちや他者との関に
名前を付けたい、と思うことがあるのだろう。
友達なのか、恋人なのかとか。
悔しいのか、うらやましいのかとか。
名付けの行為とひきかえに、
自由の持ち分をいくらか手放すことになっても。
あの「僕」とサチコのラストシーンは
多分彼らの「名付けの行為」を描いていたんだろう。
けど、
「そうです、そして自由と引きかえに責任を持つ、
 それこそが『大人になる』ということなのです!」
などと言った評価のしかたをするのは
この物語にはそぐわない、と感じる。

「僕」が最後にあんな行動に出て、
「大人になった」からといって、
今後の「僕」が、まるで生まれ変わったように
何ごとにも誠実で責任ある行動を心掛けるようになる
・・・そんな展開は、ありえないだろう。
人の心とは、歳がいくつになってもまあ、
あのくらい散発的で一貫性を欠いて当然、くらいに
思っていた方が良いのでは。
「『若さ』って、無くなっちゃうものなのかな」
というセリフがあったので、
「僕」も、静雄も、サチコも、もしかしたら、
厄介な世事と距離を置ける期間を極力引き延ばしたい、
社会の面倒なこととは無縁の解放された存在でありたい、
的なことを多少思っているのかもしれないが、
それでも、
薄汚れた建物の壁や、空を散らかすように錯綜する電線や、
酔っ払いが吐いたあとやら何やらで構成された、
あの街の中に、ちゃんと彼らは組み込まれていて、
全部、彼らの暮らしの一部だった。
「僕」たちがそれを望むか否かに関係なく。
入院した母につきそう静雄は、
「三人で過ごした部屋のにおい」だけでなく
「街のにおい」も「思い出そうとした」ものの、
「どうしても思い出すことができない」・・・と語る。
もし彼が、本当に、
社会と遮断された所でいつまでも好きに生きていたいと
思っているのならば、
「街のにおい」までも思い出したいのに、できない、
という表現は、出て来なかったのではないかと思う。

だから
「彼らは自由でいたくて、
 それは『青春』、ということです。
 自由とひきかえにしても、何かに対して責任を持つ、
 それは『大人になる』、ということです」
みたいな、とらえ方はしたくないかなと思う。
そんな子どもと大人の二元論みたいな
単純なことじゃないのだ。

こんな感じの人間関係を、体験することが
人には時々あるものだ。
体験していれば、この物語にも共感しやすいと思う。
でも「体験した方が良いかどうか」で言うと、
それはわたしにはわからない(笑)

『ゴッホ 最期の手紙』

原題:Loving Vincent
ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン監督
ドロタ・コビエラ、ヒュー・ウェルチマン、ヤツェク・デネル脚本
2017年、ポーランド・英・米合作

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芸術家ゴッホがフランスのオーヴェルで拳銃死を遂げて1年。
人生にちょっと行き詰まってジリジリしている一人の青年が、
ひょんなことから一通の古い手紙を預かり、
本来受け取るはずだった相手に届ける役目を務めることとなる。
その手紙は、今は亡きゴッホが弟のテオにあてて書いたもの。
投函されず、ゴッホの死の床となった宿に残されていたのだった。
1年越しのメッセンジャー役を、イヤイヤ引き受けた青年だが、
生前のゴッホと接点のあった人びとから話を聞くうちに、
ゴッホの最期について疑問を抱くようになっていく・・・。

いまだ真相が判明していない「ゴッホの最期」をめぐって
静かに繰り広げられる、サスペンスストーリーだった。
結構ちゃんとセリフ劇で、ちゃんとサスペンスだった。
映像表現の手法の斬新や美しさを楽しむだけの作品に
止まってはおらず、その先のことをやろうとしていた。
そこに作り手の心意気を感じて好感を持った。
作り手がやろうとしていた「その先のこと」とは多分、
「生前のゴッホはきっとこういうことを
 思っていたんじゃないかな」
ということを、
ゴッホの絵画を動かして物語る」
という手法によって再現する、というものだった。
本当に相当愚直に、真剣に、それに取り組んだようだった。
エンディングを観ていて驚いたのは、
ほんのちょっとしたシーンにも、
まったく手を抜いていなかったらしいことだった。
物語の主要なキャラクターだけでなく、
一瞬、画面上に登場するだけのキャラ・・・
例えば、ゴッホが、可愛いねえと言ってだっこした、
よその家の子とか、そういうちょっとしたキャラでさえ、
適当に架空のモブキャラを作ったのでは断じてなかった。
ゴッホと付き合いのあった人やその子孫が保管していた、
古い写真に写り込んだ人などを細かく検討し、
雰囲気の良く似た役者を念入りに集めて、
ひとつひとつのシーンを作りこんでいったらしい。
まじめ~。

この物語の中では、
ゴッホと関わった人で、心ある人はみんな、
ゴッホの孤独とその死について、
それぞれの形で責任を感じてしまっていた。
自分があんなことを言ったから、
ゴッホが傷付いたのではないか。
自分があんなことをしなければ、
ゴッホはあそこに行かなかったのではないか。
そんな風に思ってそれぞれに悔やみ、
気に病んでいるように見えた。

彼らはみんな、
ゴッホの死という、過去のある特定の時間の中に
自ら閉じこもっていて、
そこから出ようしている感じの人はいなかった。
ゴッホが死んでやっと1年という設定だったので、
ムリもないかもしれないが。
「あいつは人に迷惑をかける変人で、
 不気味な行動が多くて、町の鼻つまみ者だった」
そんな風に決めつけていられる人たちの方が、
よほど人生がラクに見えた。

心に癒えない傷を負ってしまった、
大勢の人たちを見るのはつらかった。
ゴッホにしてみれば、
自分が死んだことによって、
周りの人びとをこんなに悲しませるつもりは、
さらさらなかったと思うので、
遺された人びとがこんなに苦しんでいることを、
もし天国のゴッホが知ったら、
さぞかし心を痛めるだろうな、と感じた。

人と人との関係というのは難しい。
ちょっとした一言や何の気なしの言動が、
大切だった人間関係を、修復不可能なほど
破壊してしまったりするんだよな~。
失ってみて初めて気付くんだよね・・・、
大切だったのだ、ということが。
それに、人間は、お互いに、
いつ死んで二度と会えなくなるか、わからない。
テオのその後などは、あまりにも痛ましかった。

でも、ゴッホの周辺の人びとにとっては、
そのつらい気持ちも、ゴッホとの思い出の一部、
という感じなのだろう。
だから、どんなにつらくても、
そのつらさを手放したくない、という風にも見えた。

メッセンジャーを務める青年ルーランは、
父親がゴッホと知り合いだった関係で、
生前のゴッホを一応知っているのだが、
他の人たちほど深く関わったわけではなかった。
ルーランは年齢的にとても若いこともあり、
この物語の、未来の希望と言える存在だった。
晩年のゴッホを診ていたガシェ医師が、
ある書簡を、ルーランに譲った。
それは心身とも充実していた頃のゴッホが、
テオに送った手紙の写しであり、
画家の道を歩む決意と希望が明るく綴られていた。
ガシェ医師はルーラン
「これから旅を始める君に、これをあげる」。
このシーンを観た時に、あることを思った。
この映画はゴッホの死についての物語ではあるのだが、
実は、ゴッホがいかに生きたかを語る物語だったのだ。
そして、その生は、これから生きていく人たちに、
確かに美しい何かを伝えようとしていると感じた。
心を病んでいた時、ゴッホはもしかしたら
「自分はこの世界に愛されていない」と
感じたことがあったかもしれない。
でも、彼自身は、いつもこの世を愛していたのだろう。
草木や花や、空の星や、生きとし生けるものを愛し、
可愛い子どもも、若く美しい女性も、老人の顔のシワも
しっかり見ていて、そのままの姿を描き残していた。
彼が人生を、世界を、前向きに受け入れていたことは、
彼の絵を観ればわかるのだ。
「この世界には、生きて、描く価値がある」
間違いなく、ゴッホはそう信じていたんだろう。

思い出に閉じこもってしまった友人たちの心にも、
ゴッホのそんな温かい思いが、いつか伝われば良いのだが。

『エル ELLE』

原題:Elle
ポール・ヴァーホーヴェン監督
2016年
仏・独・ベルギー

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2回観た。
ミシェルという特異な、言わば「怪物」と
彼女を相手取るにはあまりに弱すぎた、男たちとの
残酷な対比を描き出した物語だった気がする。

当たり前のことを言うようだが、
鑑賞者を90分でも2時間半でも、
その映画の世界に集中させるには、
ストーリーやキャラクターの設定に、
リアリティを持たせる工夫が絶対に必要だろうと思う。
どう考えてもありえないだろ! っていう物語でも、
少なくとも上映時間の間だけは、
鑑賞者に「ありえる!」と、信じさせないといけない。

わたしは、映画を観終えたあとに
「良く考えるとアレっておかしいよな~」って、
設定上のおかしな点や、不備に気付くことは割とあるし、
それは別に、あっても良いよな、と思っている。
でも観ているその最中は、
「おかしいよねえ?」とか絶対に思いたくない。
それは、鑑賞中に我に返らされる、ということを意味する。
そんなこと一瞬でもあったら、すっごく幻滅してしまう。
「ツッコミ待ち」の作品というのも世の中にはあるので、 
そういうのであれば、もちろん話は別なのだが・・・。

『ELLE』は、
ヒロインの素晴らしいキャラクター造型という点で
「作品内における絶対的なリアリティの構築」という、
優れた映画に必要なことを、高度に達成していたと思う。
わたしはミシェルという人物の特異性にすっかり夢中になった。
ミシェルは多分、「狂人」あるいは
「超人」の域に達している人じゃないかと感じた。

良く考えると、ミシェルのような人が
実際に存在することはまずない、と
言わざるを得ないと思うのだ。
父親が無差別大量殺人の罪で終身刑で服役中、
そのせいで幼い頃からメディアリンチを受け、
世間の好奇の目にさらされ中傷されてもきた。
警察機構への不信感も強い。
そんな風に育ってきた人が、社会を信頼し、
心すこやかに成長できるとは考えにくい。
不名誉な形で顔と名前をみんなに知られているのに、
会社経営者の地位にまでのぼりつめ、
まがりなりにも家庭まで持つ、
こんなことが可能だろうか?
完全にムリとまでは言わないが不可能に近い、
それが現実じゃなかろうか。

でも『ELLE』のミシェルは
その「不可能に近い」ことを成し遂げた人として描かれる。
とすると、
彼女の精神の強さたるや、並大抵のものじゃない。
とてつもなく狂人、いや、強靭ということになる。
この映画では、実際、
ミシェルの驚嘆すべき強さがこれでもかと描き出される。
自分の望む人生を手に入れるために、
自分と関わるすべての人を、喰らい尽くしてきた。
そういう人物として描かれていたと思う。

ミシェルの性的嗜好には、
相当アブノーマルな所があるのだが、
これも社会的圧力の中をサバイブしようとした結果、
カウンター的に芽生えたものだったんじゃないかな。
「類は友を呼ぶ」で、彼女のアブノーマルさは、
変態性欲者の隣人・パトリックを惹き付けてしまい、
二人は危険な肉体関係に陥っていった。しかし、
パトリック程度のヘンタイでは太刀打ちできない。
ミシェルは、彼をも頭から丸呑みにしてしまうのだ。

『ELLE』のストーリーの中でミシェルは、
「命」に関係するさまざまな事件に遭遇する。
小鳥の死のようなものから始まって、
母の急死、服役中の父の死、パトリックの死、
親友アンナの子どもも、死産だったらしい。
それから、初孫の誕生。
彼女の身辺で起こるこれらの鮮烈な事件は、
他者への共感力が高いとは言えないミシェルの心にも
それなりに変化をもたらしたようだ。
ミシェルは、
「これからは他人を傷つける嘘をやめる」と言い出し、
まずアンナに、彼女の夫と不倫していた事実を告白。
パトリックにも、彼との不健全な関係をやめると宣言し
また彼の行為を警察に通報すると告げた。

パトリックがミシェルの宣言を
どう受け取ったかは、微妙な所だったが。
パトリックは何しろ変態性欲者で、
危険なシチュエーションに興奮するタイプだ。
「妻にバレちゃうかも」とか、
「警察に通報されるかも」とかいうことも、
情事のスパイスくらいにしか思ってなかったのでは。

でもいずれにしてもミシェルは、
パトリックとの間違った関係をやめると、決断できた。
でも、パトリックはそれができない人だった。
不倫が大切な妻を傷付ける行為だとわかっていても、
自分の欲求を満たす行為をやめられない。
このあたり、ミシェルの「強さ」と、
パトリックのもろさが際立っているように思う。
でも、これは
ミシェルを極度に同情的に評価しての「強さ」だ。
もっと深読みすると、話が変わってくる気がする。
確かにミシェルは彼女なりにいろいろ考えて、
「これからは他人を痛ぶって楽しむような
 生き方はやめよう」
と考えたのだろう。
でも、パトリックとの関係については、
これを本当に清算したいと思っていたのか謎だし、
彼をこんな風に扱うなら、結局、他の人間のことも
同じように扱っていくんじゃないか、という感じがする。
というのも、
そもそもミシェルは大変な警察嫌いで、
警察と関わり合いになることを忌避していたので、
パトリックの行為を本気で通報する気だったか微妙だ。
それに、パトリックと別れた直後、ミシェルは
戸締まりを徹底せずに家に入った。
何度か背後を振り返って外をうかがい、
パトリックが追って来るのを待つ様子も見せた。
案の定パトリックが家に侵入してきて彼女を襲う。
ミシェルは反撃したが、形ばかりの抵抗に見えた。

パトリックを撃退したのはミシェルの息子だ。
息子が追いかけて来てくれるであろうことを
ミシェルは始めから読んでいたっぽかった。
自分の人生からパトリックを永遠にしりぞけるために、
息子を利用したのではないか。自ら手を下すことなく。
ただ、息子にパトリックを殺してもらうことまでは
期待していなかったかもしれない。
それどころか、息子が来てくれなかったとしても
別に構わない、とさえ思っていたかも。
あの局面でパトリックを撃退できなくても、
単に、彼との関係がもうちょっとの間続くだけだから、
ミシェルとしては、そんなに困らなかったはずなのだ。

暗い過去を「バネにした」と言えば聞こえは良いが、
自己正当化の材料にし、周囲の人間を不幸にしてきた、
それがミシェルのこれまでの人生だったのだと思う。
そういう生き方は良くない、と気付いたために、
彼女なりにいろいろと改悛を試みたようだが、
パトリックとの関係は、
「ま、終わるまでは続けても良いかな」と
思っていたんじゃないかな・・・。

この映画はミシェルのレイプ被害を端緒として始まる。
暴行を受けたという点において確かに彼女は被害者だ。
だけど、人生という、もっと大きな枠組みの中の
レイプ被害、ということで考えてみると、
ミシェルは結局、レイプされたという事実さえも
自分の人生に効率的に働くように、
利用してきたように見える。

過去に重い影を落としてきた両親が死んだ今、
人生やり直そうかしら、と思ったこと自体は本心だろう。
でもパトリックの扱いを見る限り、彼女の生き方は
これまでも今後もあまり変わらないんじゃないか。
「いつ私の前から消えてもらっても良いんだけど、
 性の相手として役に立つ間は利用させてもらおうかしら」
みたいな感じだとしたら
パトリックを意思ある一個の人間として扱っていない点で
これまでの人間関係の作り方と何ら変わらない感じだし、
それを変革していくには相当時間がかかるのでは。

でも中には、
ミシェルの何もかもを知っていながら、
それでも彼女を愛する人間がちゃんといる。
親友のアンナだ。
アンナは夫とミシェルが寝ていたことを知っても、
ミシェルとの関係を切ろうとはしなかった。
母の墓参りをしていたミシェルの所にやってきて
彼女と和解し、しばらく同居しようと話し合う。
「あなたの夫を好きでもなんでもなかった。
 ただ寝たかっただけ」
ミシェルのひどい言い草を、アンナは
「言いわけにもならない」
と手厳しく退けたが、眼は優しく笑っていた。
ふたりが楽しそうに語り合いながら、
墓地をあとにするラストシーンを観た時、
「うわあ・・・ 
 これからもミシェルは
 周りの人間を食い物にして
 幾多の屍を積み上げながら
 パワフルに生きていくんだろうなあ・・・
 なんならアンナもそれに協力するんだろうなあ」
と連想して、ちょっとゾっとしてしまった。

Netflixドラマ『FOLLOWERS』-第9話

 

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)

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【第9話 あらすじ】

完成させた映画を何とか発信しようと奮闘するなつめ。
我が子の病気で仕事に遅れを出してしまったリミは、
自分の選んできた道が誤りだったのかと悩み始める。
スエオと結ばれたエリコが選ぶ、新しい生き方とは。
あかねはマンションの隣人男性と仲を深めていくが・・・。
そして今年も、女性の活躍を称える表彰式が
華やかに催される。
プレゼンターのリミは女性たちにどんなエールを送るのか。




【これだけは解消しておきたい『FOLLOWERS』の疑問】

やっと最終話だ・・・
できることなら一刻も早く
脳からこのドラマの情報を消去したいが、
その前に、考えておきたいことがひとつ。 
それは、前にも、ちらっと言ったんだけど
つまり、こういうことだ。

「主人公であるところのリミが、
 ちっともステキな大人に見えず、
 むしろ非常にみじめな立場に
 追い込まれていっているように見える。
 これは製作者側の意図によるものか。
 そうであるならば、そのことによって
 製作者は一体、何を言おうとしたのか」

そして個人的には、この疑問への答えは
最終話における リミとあかね に
見出せたように思われた。

 

【それぞれの選んだ道:エリコとゆる子】

これまでにも指摘してきたことだが、
リミたちって、ものごとへの対処のしかたが
とても短絡的だ。
何か困ると、すぐ人間関係をリセット。
困ったら、人との関係を切って、
自分だけ先に進む(逃げる)ことで解決する。
エリコが、会社経営は若い子たちに任せて
あたしは夫と農園をやるわ! とか言い出したのも、
ゆる子ちゃんが、せっかく結婚したのに、
あっさり出戻って来たのも、
彼女たちの「人間関係リセット癖」と
「傷付きたくない病」との合併症状が
顕著に出た結果だとわたしは思う。
なまじ経済力があるから、行動がダイナミックで、
なんかカッコ良いことやっているように見えるけど、
要するに、切って逃げての繰り返し(笑)

エリコとゆる子の8~9話における行動は
今 紹介した通りだ。
残るはリミとあかねなのだが、
先にリミを見てみよう。

 

【リミの選んだ道は『謎』!!!】

リミちゃんはね~え、
・・・
実の所、一体どうなったのかよくわからない!
マジか! 
おいっ! ほんとなんなんだこのドラマ!
行動の内容はどうあれ、一応この最終回では、
登場人物がみんな
「それぞれの道を選び取って前に進む」
という結末を迎えていくのに、
リミの道は、まったく不明!
主人公なのに! そんなのアリか!

彼女、大事な仕事で失敗してしまって、
最終話の序盤で、顧客に謝罪に行くんだけど、
結局、取引を切られてしまって、泣いてた。
そりゃもう、ひどい落ち込みようだったよ。
飛び降りちゃうんじゃないかと心配したわ。
でさ~、あれだけのことがあって、
そのあと何かこう、心境の変化とか・・・
育児と仕事を両立するフォーメーションの再考とか
具体的に・・・リミちゃんさ、何か考えないの?
何かしようと思わないの?
何かないと、わからないんだけど。
ないんだよ!

ただ、リミにとって都合が良いことが
最終話でいろいろ起こってはいた(笑)
まずゆる子ちゃんがね~、帰って来てくれたでしょ~。
ゆる子ちゃんはデキる子だから
手土産に大きな仕事を取って来てくれたので、
失った取引分を補って余りある結果となる。
さらに、なんと「子どもの父親やっぱタミオかも説」浮上。
リミのお母さんとタミオが「偶然」つながって、
タミオと再会できる日も近いようだった。
・・・

この通り、欲しいものは全部手に入った。
だけど、リミが自分で考えて決めたもの、
それを獲得する代わりにリミが手放したもの、
リミが自ら変えたもの、行き先、目的・・・
どれひとつとして、物語の中で描かれない。
謎過ぎる。
なぜ主人公のリミだけ、行動も思考も
こんなに停滞してしまったんだろう。
もう最終話だっていうのに。




【元もとは何を言おうとしたドラマだったのか】

強いて言うならば、だが、
なつめの自主製作映画を観たリミが、
「若いって良いな、まぶしいな」みたいなことを
呟いていた。で、その直後、
例のウーマンなんとかアワードのスピーチで、
「わたしは、彼女たちの作品と
 世代との出会いを通して」、
勇気をもらいました、的なことを語る。

ドラマ『FOLLOWERS』のメッセージって
元もとは、この辺にあったんだろうな。
単純に、
世代を超えて刺激しあい、一緒に成長しよう!
わたしたち女性が、社会を元気にしよう!
そんな感じのガールズエンパワーメント路線で
行くつもりだったんじゃないのかね。

それが、多分どこかで話がおかしくなったんだよな。

「彼女たち」にパワーをもらった、と語るリミが
その力を自分の人生にどう生かすつもりなのか、
言葉でも行動でも一切、示さずじまいなので
このスピーチも、脚本上、無価値と言う他ない。

なぜリミだけが特に、こうなのか。
彼女だけ、何もわからなくて、
何かした、って感じがない。

まあ今のリミには、赤ちゃんのお世話という
大事な仕事があるので、写真家活動の方は
セーブしていくのかな、みたいな。
じゃあ若い世代から受け取ったパワーを
今は静かに蓄電しておくのかな、みたいな。
そんな風に解釈してあげるのが現実的・・・なのか?

 

【リミだけに与えられた『仕事』】

元も子もないことを言うようで恐縮なのだが、
「リミの出産」は、最終回にこそ持ってきた方が
ポジティブで、動きのある終幕になったのでは。
冷静に考えてみれば「出産」「育児」ほど、
「オラに元気を分けてくれ!」な仕事もないよな。
体が裂けて血まみれのなかやっと生み出した人間に、
休息時間を削り、自分自身の血液を分け与えて、
その子が死なないように生命維持活動を助け、
食わせて、風呂に入れ、服を着せ、教育を施し、
小遣いもやり、生意気を言われてもひたすらに耐え、
独り立ちできるまで、18年だか育てる・・・
スゴイ仕事だ。こんな偉業が他にあるだろうか。
しかも報酬は支払われない!!!

女性と仕事、女性の活躍、女性の社会進出、
『FOLLOWERS』は、そういうことを熱心に言い立てる。
だが人間で子どもを産むのは女だけだ。
それは差別とか多様性とかフェミニズムとかじゃなく
ただの現実だ。
そしてこのドラマの中で「赤ちゃんを産む」という
行動を取るのはリミだけ。
少なくともこのドラマにとって、出産は、
リミだけに与えられた、重大な「仕事」だったのでは。
なのに全然まともに描いてなかった。彼女の出産を。

そうか、
本当に「クライマックス」になるべきだったのは
リミの出産、だったのか・・・。
なのにリミの出産エピソード結構早めにスルーしたよなあ。
ドラマ的には、そりゃ産んだらリミはお役御免だよな。
リミというキャラクターの、作中における稼働率が、
「出産」を境に休息に低下していき、
最終話で完全にゼロに。・・・それも道理だわ。
だって彼女の仕事、終わっちゃったんだから。
もちろん、蜷川実花監督は、
ママになったら女は社会で活躍できません
なぜならママになったのですから!
と、言うためにこのドラマを作ったのではない、と思う。
でも、哀しいかな結果的に『FOLLOWERS』は、
まさにそのことを指し示して終幕しているのだ。
このドラマが、
「ヒロインの完全なる停滞」を描き出して終わる
というシュールにもほどがある終わり方をしたのは、
製作者が意図したものじゃないと思う。
脚本に重大な不備があったために「そうなってしまった」のだ。
『FOLLOWERS』の脚本を書いた人は、
この物語におけるリミの「仕事」が何であるかということを
誤認してしまっていたんだろう。



【あかねは隠れたキーパーソン?】

先に述べたように、
このドラマが本来言わんとしていたことは
世代を超えてエンパワーメントし合おう!
女性の力で社会を元気にしよう!
・・・多分そんなことだったのだろう。
そしてこれを体現するキャラクターがちゃんといた。
それはリミでもエリコでもゆる子でもなつめでもない。
あかねだ。

あかねは会社と袂を分かって独立、秘蔵っ子SAYOを
バーチャルアイドルとして生まれ変わらせるのだが
この映像製作か何かで(詳細な説明はなかった)、
彼女はどうも、なつめたちの力をかりたらしかった。
なつめなんて身の程知らずの生意気な口をきいて、
あかねの元から去っていったタレントだというのに、
その若造に自分から接近して、頭を下げたのか。
あかねはなかなか柔軟だし、真摯だよなあ。
頑固で旧い「リミちゃんのお友だち」にしてはね。
ビジネスパーソンとしての胆力が段違いだ。
次期社長候補などと言われていただけある。
正直言って、あかねのこと、ちょっと見直したよ。

 

【キャラの重要度の設定がおかしい】

そこからいくと、このドラマ、
キャラクターの重要度の設定というか
力点の置き方もビミョーだったんだろうな。
リミの物語上の「仕事」が「出産」なら
あかねの「仕事」は、仕事でしょ、明らかに。
もっと、リミとあかねの対照性を
ゴリゴリ押し出すべきだった、ということになるね。
でもあかねって、実際には重要度低い役だったよな。
リミ勢の中で、一番目立ってたのは明らかにエリコだ。
エリコこそ役回りという意味ではむしろコモノだったのに、
ドラマ全体で見ても、ダントツ一番目立ってた(笑)
夏木マリさんがカッコ良すぎたのだ(笑)

リミと、次世代サイド代表のなつめが
直接出会う瞬間を、わたしはずっと待ってた。
なつめがリミの古い価値観や臆病な思考様式を
ダイナミックに喝破する展開に、心から期待してた。
でも、リミが予想以上にお気の毒な扱いとなり、
役としての稼働まで、ストップしてしまったからな・・・
リミとなつめの激突どころではなくなってしまった。

ただ、一応、エピローグで、リミとなつめは邂逅した。
いろいろ経験を積んで自信がついたらしいなつめは、
リミのカメラの前で、のびのびとポーズを取る。
若さと希望にあふれ、輝くように美しいなつめを
リミは本当にまぶしそうに見つめていた。
不憫だ・・・リミが輝いていないわけではないのに。
単純に、脚本の問題で、リミの方がほんのちょっと早めに
仕事が終わってしまった、というだけのことなのだ。
なのにあれは、あまりにもアレな幕切れだよな。
「若いってステキね。
 わたしはもう何もできないわ。
これからは半隠居みたいな感じで
気が向いた時に、この子みたいな
輝いてる若い子を撮ろうかな。
(ちなみに育児はお母さんに丸投げよ)」
とか考えているようにさえ見える・・・
なんてむごい結末だ。

 

もし監督が最初から意図して、
リミをこういうみじめな役回りにしたならば、
とても斬新で残酷な試みだと、思えたと思う。
子どもを産んだら女は社会的にお役御免、
もう活躍しなくなるものなのです、・・・なんて 
今の主たる社会的潮流に真っ向からケンカを売る
野心的スタンスに他ならない。
もしこのドラマが本気でそれを言おうとしたならば、
おっ、おもしろいことやろうとしてるな! 
って、思ったと思うよ(主張が正しいかどうかは別として)。
ただそれは、作品の完成度さえもっと高ければ、だ。

このドラマの完成度は最低レベルと言わざるを得ない。
監督がそのつもりじゃなくてもこの作品は、
ムダなメッセージとか信号とかを発しまくり、
わたしをモノスゴく混乱させる・・・。
一生懸命、肯定的に考えようとしてきたけど、
徹頭徹尾、全方位的に、意味不明な物語だった。
わからないなりに押し通して見せる爆走力もなく、
観ていて、ただ、ひたすらに疲れたのだ。

仮に何か、構造的におもしろいことをやったつもりでも
これじゃあ、ただ単に監督のひとりよがり、
そして監督の「あきれるほどの見識不足」、
そういう話にならざるを得ない・・・

残念だ。
心情的になぜか今スゴクしんどい・・・
このドラマをもう二度と観なくて良いという幸福感に
ひたれるようになるまでには、今少し時間がかかるかも。

個人的に心配なのは、このドラマのキャスト陣のことだ。
役者さんたちには何の落ち度もなかったとわたしは思う。
彼らはみんな与えられた仕事を完璧にこなしていた。
このドラマに出たことが、
彼らのキャリアの汚点とならないよう、
祈らずにはいられない。

Netflixドラマ『FOLLOWERS』-第8話

 

 

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)

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はあ・・・
やっと第8話まで来た。
まだあと1話分 残ってるのか・・・
辛。



【第8話 あらすじ】

なつめは一大決心し、念願の映画製作に着手する。
男の子を出産したリミは、仕事と育児の両立に苦戦。
ゆる子は恋人にプロポーズされ、人生の岐路に立つ。
あかねがマネジメントしてきたミュージシャンのSAYOは、
所属事務所から見放され、活動の場を失う・・・。



【第8話 疑問・謎】

リミたちお姉さん勢ときたら、
ものごとへの対応が、幼稚で短慮で目に余る。

何か困ったことが起こった時、このお姉さんたちは、
まずそこにある「人間関係」を、やめようとする。
自分から相手を切り離す、という選択をするのだ。
というかそれしか対応のしかたを知らない。
相手と話し合って、問題を解決できないか考える、
そのような選択肢は、模索さえしない。
勝手に決めて一方的に切る、それだけだ。

リミは、ゆる子が恋人との結婚を望んでいると知ると
すぐさま職場の人員を増強し、ゆる子に解雇通告。
10年一緒に働いた、自分の右腕の今後の話だってのに
お手軽だなオイ・・・

ゆる子も、恋人に「結婚してアメリカに行こう」と
言われたことを、リミにひとこと相談さえせず、
人知れずあきらめて、恋人と別れて・・・。

会社がSAYOを必要としていないと知るや、
あかねは、会社から、自分とSAYOを切り離した。
まあそりゃできるものならやれば良いとは思うが・・・
あかね自身がSAYOの音楽に本心から惚れ込んでいる
ということを示す描写が脚本上まったくないために、
SAYOを道連れに独立したことも何か納得しにくい。
SAYOから表現活動の場を奪わないために、
SAYOの才能を証明するために、・・・みたいな
利他的な動機を感じにくいのが、なんかな・・・
「SAYOをここまでの売れっ子にしたのは私の力よ」
つまり自分のために独立した、としか受け取れない。
別に良いけど。

リミの仲間内では一番の人生の先輩であるエリコでさえ
自分の病気が発覚すると、恋人との関係を一方的に切った。
病気のことをちゃんと話さず、相手の意向を聞きもせずに。
年若い恋人の将来を思って身を引いた風の描写だったが、
彼女ののちの言動を見ていると、やっぱり単に、
自分自身が傷付きたくなかっただけ、に思える。

まとめると、多分リミたちは、
他者を全然、信頼してないな。
自分が必要な時に必要な分だけしか、
「他者」から引き出そうとしない。
他者の何を引き出すかと言うと、
能力、愛情、言葉、ぬくもり、いろいろだが。
相手がどう思うかはわからない、
何もかも失うことになるかもしれない、
でもとりあえず自分をさらけ出して委ねる、
・・・そういうことをしない、リミたちは。

 

 

【第8話 好感】

なつめたち若者サイドは、
臆病だけど、お互いを信頼する姿勢を備えている。
信頼というか、やや無謀と言っても良いほどだ。
臆病なのに無謀(笑)
それに、協力してことをなすという選択肢も知っている。
人とつながり、頼ることで、可能性を拡げていく。
映画を作りたい! 監督はヒラクだよ! 
なつめが、ヒラクの映画製作の技量も知らないのに、
ポン! と自分を丸投げした場面は良い。可愛い。
この子なに、こわ!!! と思ったけど。

エリコに別れを告げられてしょげていたスエオに
ハッパをかけたのは、エリコの一人息子だったね。
彼らのプロポーズ大作戦はかなりアレな仕上がりで、
プールが、不潔きわまる殺人現場か何かに見えたが、
真剣さは伝わって、まあまあ好感が持てたよ。


【ふと走る悪寒】

話は変わるけど 
リミよりも、彼女のお母さんの方が
新しい価値観を柔軟に受け入れていってるね。
回を追うごとにおしゃれになっていってるし、
いろんな人からいろんなことを吸収して、
マイペースで日々を楽しんでいる。
あの描写も何なのかね、育児の件。
お母さんは、ミルクも活用したら、と助言する。
だがリミはあくまでも母乳育児にこだわる。
搾っても出ないものは出ないのに、そうすることが
「(我が子に)できる限りのことをしてあげる」
ことだとかカンチガイしているのは、リミの方だ。
一生懸命なのは結構なのだが・・・、
「できない、じゃあ他の手を探そう」みたいな・・・
リミちゃんてそういうの、あんまりない人?

なんか怖くなってきたんだけど。
結論めいたことを先に言っちゃうんだけど、
もしやリミとその仲間たちは、
新しい世代の踏み台にされ時代に取り残される、
そういうポジションに配置されているの?
だって母親世代にまで置いて行かれちゃってるよ。
しゅ、主人公なのに? 
リミ主人公なのに?
え、このドラマって、そんな実験系?
監督は、自分が何をやろうとしているか
ちゃんとわかっているのだろうか?

マジか。
もし本当に 先を行く世代と
それを見送る世代を描く中で、
主人公を「見送る側」に設定してるとしたら
けっこう斬新だし残酷だし・・・
すいませんなんかちょっと監督
病んでませんかね・・・
正直言ってそんな構造、思ってもみなかった、
ここに来るまで。

え~・・・ も、もうあと1話しかないぞ。
どう収まっていくんだ、この物語は!!!