une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『さよなら、人類』

 

原題:EN DUVA SATT PA EN GREN OCH FUNDERADE PA TILLVARON
ロイ・アンダーソン監督、2014年
スウェーデンノルウェー・仏・独合作

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 いままでに観た、どの映画ともまったく似ていなかった。
それだけで、この映画を観ることができて良かった

つごう4回観た。
1回めは「なんだこれは。まったく理解ができない・・・」
2回めは「あれっ。これもしかしてぜんぶセット撮影??」
3回めは「『鳥』の意味が理解できました~」
4回め「あと10回観ても飽きない」
そして本作を心から愛せるようになった。 

 

【オールセットの可能性と、その狂気】

もしかして、これぜんぶ、
セット撮影じゃないかなと思い始めたのは、
2回めに観たときだった。
ビルの窓の中に、人影が見えない。
車やバイクの走行音は聞こえるが、
走ってるところは1回も出てこない。
政治家っぽい、メガネをかけた初老の男性が
これから自殺をするつもりらしく片手に拳銃をぶらさげて
誰かと電話で話してる、というシーンがあった。
このとき執務室の窓からみえる、隣のビルの姿が、
ちょっとだけ、安っぽかった。
それで、これセットなんだろうなと思った。
でも、待てよ、この執務室がセットでできるなら、
フェリーの食堂、理髪店の店内、フラメンコの稽古場、
レストランの前の石畳の路上、
ロッタのバー、
ヨナタンたちが住む単身寮、
学芸会の会場、
「ファラリスの雄牛」、ほぼ全部、
セットでできる。
だったらもしかして、
ロケじゃなかったらとてもできなさそうな
あれやこれやのシーンも、まさかセットなのか???
音の響きかたは、撮影空間の広大さを感じさせる。
馬が何頭も出てきて、ストレスもなさそうに歩いてる。
湖に、ちゃんとさざなみがたっている。
何よりも貨物列車が走るシーンがある(!!)。
これらのシーンはさすがにロケじゃないと、
説明がつけにくいような気もするのだが・・・。
映画の撮影技法のことはわたしはぜんぜん知らないし・・・
たとえば常識で考えにくいくらい巨大なスタジオで
信じられないほど精巧なミニチュアを組んで
近くでみても迫真の背景画を描いて撮れば
「ぜんぶセット、屋外撮影一切なし」も、
不可能ではないのかなと。

まさかセットか、これみんな?という点に思いがいたった瞬間、
感嘆、というよりはゾッとさせられた。
いったい何を考えてるんだ。
そんなことをやるお金があるならロケをやって
もっと動きのある派手な映画を撮るとか
わたしだったら考えると思うんだけど。
お金と力の使いかたへの考えかたが、
全然違う、としか解釈のしようがない。

この、製作者の絶対的な美学らしきものを
がんばって飲み下し、じっくりと観返すにつけ、
こんどは、目を離したくなくなっていった。
偏執的なまでに作りこまれたシーンの数々と、
「残念な人たち」の暮らしから。

 

【構成とあらすじ】

まず「3つの死との出会い」と題して
・ワインの栓を開けようと奮闘し、心臓発作で死ぬおじさま
・死の床にありながら、バッグを手離そうとしないおばあさん
・フェリーの食堂で倒れて急死するおじさま
のエピソードが ぽん、ぽん、と刻まれる。
これらのエピソードに、相互の関連はとくに見られない。

それから
・セクハラフラメンコ教師と彼女につきまとわれる男子生徒
・序章に出てきたフェリーの船長が退職し、
 親戚が経営する理髪店を手伝うことになる。
 散髪は素人であるという事実を、わざわざ告白したので、
 客が逃げてしまう
・なんかいつも会いたい人に会えない、
 行きたい場所に行けない、初老の軍人「当然だが・・・」
・ロッタのバーの60年前のエピソード
・知的障害を持っているらしき子どもたちの学芸会。
 ある女の子が詩の朗読をする、といって登壇するが
 発表をうながす拍手を聞いて、パフォーマンスが
 おわったとかんちがいし、ステージを降りてしまう
・現代のバーに乗り込んでくる騎馬隊と若き王
 ロシアとの戦争に赴く道すがららしい。
 ゲイの王は、美男子のバーテンダーを気に入り
 一緒に戦争にきたまえ、と誘うが・・・

 

※王は、カール12世じゃないかなとおもう。
 スウェーデンの歴史に詳しいわけじゃないが、
 スウェーデンボルグというキリスト教神秘学者と
 縁が深かったらしく、彼について書かれた本に
 頻繁にカール12世の名があがってくる。
 みずから前線にたつスタイルで、北方遠征を中心に
 生涯あちこち転戦した、戦う王さまだったそうだ。
 あちらの方では有名な王さまのはずだ。
 ゲイとは聞いたことないが、独身ではあった。
 わたしが知っているスウェーデンの王さまなんて、
 この人くらいのものだ。
 本作に登場したのもカール12世なんじゃないかと
 なんとなくおもいたい。

 

【各エピソード間に連続性とか連関はない】

地味だけど緻密な映像でじっくりと語られる
これらのエピソードに、
人間関係のつながり、時間的な前後関係、
そういったものはひとつも見いだせなかった。
しいていえば
「電話をする」場面がたびたび挿入されるのだが
その電話の内容がいつも、
「(あなたが)元気そうでよかった」だ。
また、
博物館で鳥の剥製を鑑賞する冒頭のシーンをはじめとして
全篇を通じ「鳥」のモチーフがちりばめられている。
本作が日本で発表されたとき、最初は
「実存を省みる枝の上の鳩」というタイトルだったそうだ。

 

【鳥の視点と営業マン】

「鳥」のモチーフは
本作の視点の設定に強く関係しているとおもう。
いくつかのシーンに、売れない営業マンのヨナタンとサムが
ときに営業マンのままのかっこうで、
ときにはシーンの登場人物のひとりとなって入り込んでいた。
確証はもてないが、まあ多分、ヨナタンとサムが
これらの不思議なシーンの
「目撃者」、という
役回りなんだろうと理解した。

彼らが目撃するものが、寝るときに見る「夢」かどうかは不明だ。
現実のできごとが含まれているのかどうかもわからない。
そのへんは、考えてもしょうがない。

営業マンって、すごく昔からある仕事だな。
カフカの『変身』のグレゴール・ザムザも、
営業マンだ。遠方への出張もともなうような。
つまり行商人だ。
法人、個人といった、売り込む対象の違いや 
取り扱う商品の違いはあるだろうが、
つくったものを、より多くの人に売るとき、
これいいですよ!買ってください!と勧める、
そういう仕事が絶対に必要なのだ。
宣伝なんてネットでいいじゃないか、とはならない。
人が人の言葉で伝えるべき局面が必ずある。

営業マンって「渡り鳥」みたいだ。
あちこちを渡り歩き、自分の仕事もしながら、
いろんな人生を、(鳥瞰的に)垣間見て・・・
そんな連想が、本作にインスピレーションを与えたとしても
おかしくはないだろう。

 

ヨナタンとサムが悲惨すぎる】

だが、飛ぶことに関して不器用な鳥ってあんまりいないもんだ。
鳥はみんな、上手に飛ぶ。
そこへきてヨナタンとサムは
鳥に比するにしては、絶望的に、生きるのがへたくそだ。
売る商材は、愉快なパーティーグッズだというのに、
ふたりの表情は、死神みたいに暗い。
押しは弱いし、プレゼンテーションもドヘタ。
見るからに貧乏くさく、服はよれよれ、顔が死んでる。
身のこなしや歩きかたは、覇気がなく、あかぬけない。
ヨナタンは客の前でもすぐイジケるし、泣く。
これじゃあ、「どうか買わないでください」と
客に言っているようなものだ。

 

【その他の人びともみんな悲惨】

そんな彼らが「目撃」する人びとも
みじめで、みんな、うまくいってない。
ヨナタンたちもそうなんだろうけど
みんな、向いてないことをやっているのだ。
最初は笑って見ていられるところもあったが
だんだんと深刻さを増してきて、
サルの生体実験のシーンや、
現代版「ファラリスの雄牛」のとこなんか
(このエピソードだけ、会話が英語・・・)
あ、ここまできちゃったか、
サムはともかく、ヨナタンかなり精神的にキてるな、
と思わされた。

観ていて、かなりイタイ。
人って、すごくかわいそうな生き物だよなって。
だけど、本作を観れば、誰でも誰かに共感したり、
いつかの自分を重ねてみたり
できるだろう。

 

ヨナタンが笑った♪】

泣き虫で子どもっぽい性格のヨナタンは、
どのシーンを「目撃」するにも悲観的な態度でしかのぞまないが
唯一、野外のちいさなカフェで、若い女性が 
靴の中に入った石ころを取り除く
姿を見たときだけは
「ステキだった」「(石を)取る姿がよかった」
と上機嫌で評価した。

わたしも何度も本作を観るうちに
いとおしく思えるシーンがいくつかできていった。

 

【わたしはこのシーンが好き】

たとえばロッタのバーの60年来の常連客が
お店でけっこう尊重されているところ。大好きだ。
彼が店を出るときには、お店の人だけでなくお客さんたちも
コートを着るのを手伝ってやるなどして、実に優しい。
耳の遠いこのおじいさんに聞こえるように
声を揃えて「おやすみなさい!」と呼びかける。
「ああ、おやすみ」と返してもらえるまで、ちゃんとやるのだ。

 

【死のモチーフからの哲学的鑑賞】 

 何といっても冒頭で「3つの死との出会い」として
ストレートに「死」のイメージの提示がなされている。
ストーリーが進むごとに、不吉なシーンも増えていく。
動物実験を行う研究者、自殺志望の政治家、軍人など
「命」のことと極めて近い所にいる人物も、多く登場する。
人はみんな、「いつ死ぬかわからない」という
いわばタイムリミット不明の時限爆弾を抱えて
今日をがんばって生きるわけで、
人の生は死の恐怖の内にある・・・的な
哲学的解釈も、しようと思えばできる映画だろう。
ただ、死のうとして拳銃をたずさえたあの政治家は、
電話のむこうの相手と話したことによって、多分
死ぬタイミングを逸したんじゃないかなと思う。
だってほんとは死ぬのが怖いんだろうから。
ときにこんな綱渡りゲームもしつつ、
死ぬまでは死に抵抗して生きるぞと
毎分毎秒決意していくのが人間なんじゃなかろうか。

そんな小難しいことは、鳥はしないものだ。

でもまあそこまで深刻に思いをいたさなくても、
お気に入りのエピソードが始まるのを待ちながら
ゆっくりとながめるのもけっして悪くない。