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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ROMA』

 

原題:Roma
アルフォンソ・キュアロン監督
2018年、米・メキシコ合作

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www.youtube.com

 

【本作から受ける感動は、知識量に比例しない】

予備知識なしの状態でまず1回観て、
つぎに、本作の舞台とされている
1970~1971年のメキシコについて、
Wikiなどで軽く知識を得てから、もう1度観た。
結果的には、知識を得たからといって、
だからどう、というほどのことはなかった。
「よりよい鑑賞用コンディションを得た(気になれる)」
ことの他は、予習による「得」はなかった。

先日観た『ミッドナイト・イン・パリ』は
わたしにとってみれば、
知ることで、観るのがさらに楽しくなるたぐいの映画。
だが本作は、
(知ることが害になったとまでは思わないが)
知るよりは、「感じる」ことのほうが大切に思えた。

 

【とても個人的な映画だと思う】

アルフォンソ・キュアロン監督は、この『ROMA』を
個人的な願いの実現のために作った部分があったんだろうな。
商業映画で成功している監督であるから、
自身の作品が社会に影響を及ぼす可能性や、
その責任について考えてないわけはないだろうが、
本作は、社会に何かしたくて作ったというよりは、
監督本人の、消えゆくかけがえのない思い出を、
どうにかしてとっておきたいという
いじましいような願いが形になったもの、と感じた。
映画にして保存しておけば、いつでも帰りたい時に、帰れる。
映画監督だからこその、思い出保存形式だ。

みんなのためにと作るものよりも
あなたのために、または
わたしのために、と作るものの方が
かえって「みんな」に刺さるのだ。 

私見:キュアロン監督のテーマ】

キュアロン監督は寡作な方だと思う。
そのあまり多くない作品を並べて思い出してみると
ぜんぶ、カラーも方向性も異なっていて
「いろんなもの作ってるなー!」という感じだ。
だけど、まぎれもなく、共通して
すべての作品の地下の地下のほうに流れているものがある。
それは、
わたしの表現で言わせてもらえば、
人の「愛」と「強さ」への、全面的肯定だ。
ゼログラヴィティ(スゴかった・・・また観たい)なんかは
地下といわず、けっこう地表のほうにしみ出てきていた。

 

【死のモチーフが内包する、愛のテーマ】

『ROMA』では、おりおりに「死」のモチーフがさしはさまれる。
ちょうどいいかんじの不自然さで、
最後まで忘れさせないように、何度も。
でも、監督の描こうとするものの根底に
人の愛と強さがあると信じるので、
死を描くだけではもちろん終わらないはずだと、思った。
ROMAをAからひっくりかえすと
スペイン語の「AMOR(愛)」ではないか。
これがわざとかどうか知らないが。
もう答えは出ている。

だけど、まずは死のモチーフだ。
たとえば屋上での、お洗濯の場面。
ねっころがった家政婦のクレオ
「ねえ、死んでいるのも悪くないね」。
そんなこと急に言う感じのテンションじゃ
なかったじゃないの、いままで全然。
むしろクレオは、羽振りがよく、気のいいお宅に勤め
同僚に恵まれ、子どもたちにも好かれ、
ゆったり楽しい家政婦ライフを送っているように見えた。
だがその平穏が、ある意味ではクレオの魂を
つぶしかけていたのかも
しれないな、と 
うがってしまいたくなった。

妊娠したかもと、
勤め先の奥さんに打ち明けるシーン。
「わたしはクビですか?」
「そんなことしないわ。でも検診にいかなくちゃね」
奥さんが優しく受け止めてくれたのに、
クレオの表情は意外にもそんなに晴れない。

病院の新生児室を見学するシーン。
大きな地震が起こり、ガレキかなにかが、
赤ちゃんの寝ている
ケースを直撃する。
この直後にうつしだされるのは
荒れ地にザツにつきたてられた十字架の墓標だ。
新生児室のシーンとは、おそらく何の連関もないが。

親戚みんなが、大きなお屋敷に集まるシーン。
屋外パーティーでは、大人たちが、
実弾を用いた射撃遊びを行っている。
とんでもない話だ。
そのまわりを小さな子どもが平気で走り回っているのも
わたしにしてみれば異様。
まちがって撃たれちゃうんじゃないかと
気が気じゃなかったが、誰にもケガはなかった。
だが、誰も死なない遊びのためのおもちゃが
ほんとうは殺人兵器であるという事実をつきつけるかのように、
市民デモの武力鎮圧事件のシーンが続く。
(1971年、コーパス・クリスティの虐殺/血の木曜日事件
 で
あることがほのめかされている)
クレオたちは生まれてくる子のベッドなどを買うために
街に来ており、暴動の現場に居合わせてしまう。
こんな政情が不安定な時期に、身重の女性が外出かよと
観ていれば誰しも思うところなんだろうけど。
人間、意外と、あきらかに危険なときでも
「自分には関係ない」「自分は大丈夫」
と考えてしまうものみたいだ。

クレオは、暴動を目撃したショックで破水する。

 

【死のモチーフとイリヤ・レーピン】

これらの「死」のモチーフの欠片たちは
クレオの赤ちゃんの死産という明白な「死」へと
集約されることとなる。
つかのま、赤ちゃんをだっこさせてもらう場面は
とらえようによっては「ピエタ」みたいだなと
思わなくもなかった・・・いや、実は正直に言うと
イリヤ・レーピンの絵画
「イヴァン雷帝と皇子イヴァン」
の方を、わたしはより近く連想した。
激しい親子げんかの末に誤って跡取りである皇子を死なせてしまい、
頭から血を流す息子を、茫然自失の表情で抱きしめる、
そんな王さまを描いた歴史画だった。
伝えらえれているところによれば、
王は自分のしたことの罪の意識に苦しむ。
心のバランスを崩して仕事が手につかなくなり
眠れなくなり、徘徊癖もでて、しまいには
心臓発作のようなかたちで死んだ。
皇子のお妃は、ショックで流産し、自身も亡くなった。

雷帝イヴァンは男性だが、家政婦クレオは女性だ。
連想するならまだ、ピエタの方が近いだろう。
でもなにかイリヤ・レーピンの方が
近いように自分には思えた。 

 

【モチーフの蘇生】

ちりばめられた「死」のモチーフが
死んだ子の形をなしていったん闇に沈んだあと
こんどはパワフルな「生」のモチーフに転生し、
再び姿をあらわすようだ。

クレオの勤め先の一家も、
雇用主である夫妻の不和という難しい問題を抱えていた。
奥さんは夫と別居する決意をかため、
夫が家の荷物をとりにくる日、
子どもたちとクレオを連れてバカンスへ。
遊びにでた浜辺で、子どもたちのうち小さいほう2人が
波にさらわれ、おぼれかける。
事態の急を察知したクレオ
泳げないにもかかわらず海に飛びこみ、
命からがら2人を救い出した。

クレオは奥さんや子どもたちと
助かってよかったね、と抱き合うなかで
これまで誰にも語ったことがなかったであろう
ある本心を、ぽろっと口にする。
それは、決してほめられた内容ではなかった。
子どもたちが聞いたら、
え、クレオ姉ちゃん、そんなこと考えてたのと
ドン引きされかねないものだった。
しかし、奥さんも子どもたちも、そのままのクレオ
いままでよりもむしろ強く、なおも温かく受け止めた。
この手のことに一番潔癖な年頃に見える長男が、
クレオの頭のてっぺんにやさしく顔をおしつけたのが、
かわいらしかった。
一家は一家で、この1年間というもの
見たくないものを見、つらい思いをたくさんしてきた。
それだからこそ受け止めることができたのだろう。
言葉にできない、割り切ることのできない
想いというものを人は持つ、ということを。

クレオは愛に裏切られ子を失ったショックに沈んでいたのではなく、
みずからの心の罪におびえていたのだと思う。
なぜなら、自分のように悪い心を持った人間は
もう愛してもらえないし、愛せない。
そう思うからこそあんなにふさぎ込んでいたのであり、
子どもを助けようと、海に飛びこんでいったのは、
赦されたかったからなのだろう。

 

【天のまなざしとクレオの希望】

浜辺で固く身を寄せ合う一家とクレオの姿を
ちょっと遠くから見てみると、三角形をなしている。
これが四角形だと何かこの場合かっこうがつかない。
どこにいこうとしているかわからない感じがするからだ。
でも三角形ならなんとなくわかる。
「上」にいこうとしているということが。

旅行から帰ってきた一家は
すっかり片づけられてしまった我が家、
あちこちにあった豪華な本棚が持ち去られたのを見て
その殺風景さに「ひどい」。
部屋の割り当てがなぜか変えられており
もとどおりにしたい子もいれば、このほうがむしろいいという声も。
子どもたちのかわいい声がひびき、家のなかに活気が戻ってくる。

 

【「タテ」の演出】

クレオが洗濯かごをもって
屋上に続く階段をのぼっていく姿を、
カメラが追いかけていくのが妙に鮮烈に映り、驚いた。
考えてみればずっと、横長の、地上の映像しか観てなかった。
横視点で左右にスライドする映像が続いていたのだ。
クレオが恋人の行方を追って柄の悪い地域を訪れる場面などは
横長の画面の奥の奥の方まですべてがクッキリと映るので、
眼で認識してしまうモノが多すぎてくらくらするほどだった。
こういうことはふだん、あまり気にせずに映画を観ちゃうのだが・・・
ふつう、人とかにピントを合わせて、あとはぼかすものではないのか。
それはいいのだが、ともかくずっと、
横長の、地上の映像しか観てなかったのに、
ラストになってはじめて「屋上にのぼっていく」という
縦の、上空の映像がとりいれられている。
よく見て、空だよ、といわんばかりに
ごていねいに飛行機まで飛んでいた。

そこへきてさらにはっとさせられる。
オープニングが「床」を掃除するシーンだった。
でもラストはこの通り、「屋上」でのお洗濯なのだ。

監督むちゃくちゃスゴイ!! 演出効いてる!!

中庭にさしこむ明るい陽光が、
クレオの罪の意識が晴れたことを
祝福してくれているように見えた。
神は罪ある人をも赦しているが、
人がそれを受け入れられなくなることもある。
罪悪感が解消されたことは、
神の愛ともう一度向き合えるようになったことにひとしく、
人の愛とももう一度、向き合う準備がととのった、
そんなかんじだろう。

『ROMA』は、苦境にあっても必ず立ち直る、
人の強さとその愛を
しずかに描き出した物語であったのだ。

 

クレオのキャラが薄い件】

思えばアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の
『バベル』にも、メキシコ先住民系の家政婦さんが登場した。
あの家政婦さんと本作のクレオは、人間性や性格が似ていた。
没個性的なのだ。
従順で、主張がなく、余計なことはあまり言わず、
ちょっとザツだけどまじめに働き、子どもに好かれる。
これって彼らを雇う側だった、白人系の人たちの
「メキシコの家政婦はこうあるべき」という偏見の表出なのでは。
本作をめぐってそんな議論があることを、小耳にはさんだ。
まあ、たとえ「そうだ」としても、
本作においてそれがなんだというのだろうか。

監督は、自分が幼少期に面倒を見てもらった家政婦・リボさんこそ、
本作のヒロイン、クレオのモデルであると認めているそうだ。
本作はリボさんに捧げられた映画なのだ。

「白人」が「メキシコの家政婦」をどう見ていたかは知らない。
ただ、キュアロン少年の記憶の中のリボさんは、
やはり、ものしずかな家政婦だったのだろう。
彼が、いわば思い出保存のために本作を作ったならば、
クレオ像こそ監督の記憶の中の真実に他ならないのだと思う。
「白人」が「メキシコの家政婦」をどう見ていたか、については
べつのところで議論すればいいことだ。

知識ベースで本作を観てもあんまり意味がないと、
本稿の最初の方で述べたのは、そういうことでもある。
特定の時代背景の上に描かれた物語であることは確かなのだが、
そのことがはっきりと読み取れる作品にはなっていない。
「時代背景」をあらわす事象はどれも、
キュアロン少年の、またはリボの記憶から
取り出されてきたものにすぎないとみられる。
まだ幼かった彼らが子どもの視点で見聞きした以上のことは描かれないのだ。
これで「時代の悲劇を理解してほしくて作った映画です」と
監督が言ってるとしたら、かえって困りものだ。
本作がいわゆる「歴史もの」じゃないことを少しは理解しておかないと
本作を観て議論するにしても、的を外れたものになるにちがいない。

 

クレオの恋人爆発しろ/運転手はイイ男】

最後になるが、クレオの恋人は最悪だ!
あいつ、もしクレオが「アイス食べる」と答えたら、
どうするつもりだったんだろうな。

でも、クレオの同僚の運転手は、いいやつだ。
いつもムッツリとした表情ながら、文句ひとつ言わず仕事をし、
ヒロインのピンチも救ってくれた。
彼がいなかったら、クレオはどうなっていたことか。