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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『それでも恋するバルセロナ』

 

原題:Vicky Cristina Barcelona
ウッディ・アレン監督
2008年、米・スペイン合作

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ミッドナイト・イン・パリ』のほうが
わたしの好みではあったが、本作も楽しく観た。 

イヤー とんでもない話だった。
現実にこんな恋愛事件があったらおおごとだ。
殺し合いが起こってもおかしくはない。
だが、本作では大丈夫だ。
本作ではだれも死なない。
秘密もばれない。むしろ穏便に公開される。
わたしも不思議でしょうがなかったのだが、
万事、大丈夫なのだ。
それもどうかと思うのだが(笑)。

 

【ココ良かった:本性を現す男と女】

事態がさしせまるほどに、
なりふりかまわなくなってくる、彼らのようすは
見ていてかなりたのしかった。
フアンは最初はあくまでもスマートに
女性たちを誘惑していたのだが、
マリア・エレーナにまたしても去られて
さびしくってしょうがなくなると
いまや人妻となったヴィッキーを強引に食事に誘う。
「君が結婚相手とうまくいっているなんて信じないね」
「僕とまた会いたいと思っていたくせに。素直になれ」
性急だ。こういうキャラじゃなかったのに。

フアンとの関係に悩むヴィッキーは
年上の親類(この人も不倫に悩んでいる)に
「あなたの欲求不満とわたしの悩みを一緒にしないで」。
夏の間、この親類に世話になったのに、あんまりだ。
ヴィッキーのセリフとしては、
「こんなのわたしが送りたい人生じゃない!!」
も、
よかった。

マリア・エレーナは、
フアンとヴィッキーが2人でいるのを目撃して
頭に血が上った結果、
ヴィッキーに思わぬケガを負わせてしまう。
さっきまでの鬼の形相が一変し
「ほんとにごめんなさい」「手がすべったの」
ちゃんと謝ってたのは可愛かった。
 

私見ウッディ・アレンの映画って】

ウッディ・アレン監督の作品を
ぜんぶ観たわけじゃないものの、
なんかわりと彼の作品には
ステレオタイプ」のキャラクターばかりが登場するね。
たとえば本作では、
アメリカ人の女の子:奔放系」
アメリカ人の女の子:マジメ系」
「『君はバイセクシャルなの?』わけしり顔で
 人にレッテルを貼りたがる 都会のアメリカ男」
「絵に描いたようなナンパ野郎のスペイン男」
「気性が烈しいが肉感的で美しいスペイン女」
そして役者さんたちも、
監督が要求する「キャラクター」「タイプ」を
心から楽しんで演じているように見える。
マリア・エレーナなんか、何もペネロペ・クルスのような
スターがやらなくてもいい役だ、と
わたしなんかは思うのだが、でも彼女は、やったのだ。
すごく楽しそうだった!

やりたいと思わせる何かが
ウッディ・アレン監督の映画には、あるんだろうな。
小津安二郎みたい。
・・・って 前にも思ったことがあるような気がする。

「それで結局どうなったの!?」的な重要部分の説明は
ポソポソとした早口のナレーションでアッサリとすませ、
どんどん話を先に進める本作の作り、わたしは好きだ。
雰囲気ぶちこわし、という意見もあるんだろうが
これ、雰囲気とかいう映画じゃないとおもう・・・。

米国の都会人の、ヨーロッパ文化への憧憬(コンプレックス?)も。
あるんだろうな、そういうのやっぱり、あの国の人たちには。
ただ、ウッディ・アレン監督の場合、
「スペインに住むスペイン人の物語」でなく
「スペインに滞在するアメリカ人の物話」にしている点、
おくゆかしさを感じる。
ムリに、よその国を知った顔で描くのではなく、
観光者ですから、というスタイルなので、
観光スポットばかりをことさら美しくみせる映像も、 
ちっともイヤじゃないし、気にならない。
「やっぱり自分の街はアメリカなんだよねえ~」
そんな 監督の?声が聞こえてくるように思う。

こうして、お人形を並べていろんなお芝居作って、
ウッディ・アレン監督はいったい何を言おうとしているのか。
たぶんすべてのお人形さんに少しずつ、
監督自身の心のなかの何かが
投影されているんだろうけどな~。

 

【感想 1:みんな素直だ】 

本作を観ているあいだじゅう
わたしが 思っていたことは
「みんな素直に自分の気持ちを語ってるし、
 ちゃんと相手と向き合っているのに、
 なんか、かみあわないよな」
であった。

クリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン
ヴィッキー(レベッカ・ホール
マリア・エレーナ(ペネロペ・クルス
3人の女性たちのことが、わたしは
まぶしいほどにうらやましかった。
ちゃんと自分の気持ちを愛する相手に、ぶつけてる。
「あ、そんなことまでちゃんと言うの。えらいね」
って思うようなことまで全部。
自分の口で、本人にきちっと伝えるところが
幼い、という感じさえするくらい。
傷つくことを恐れないわけじゃないだろうけど、
欲しいものを自分の力で取りに行こうとしているのだ。

たとえばクリスティーナは、フアンの元妻が
家に転がりこんできたとき、
「一緒に暮らすのはしかたないけど、
 でも、いつまでいるの?
 数ヶ月? そんなに長く!?」
と ちゃんと、全部言う。
「そんなに長く!?」
のところに
「ふたりの暮らしを続けたかったのに!」
という
不満がきちんとこめられている。
不満を表明するのは、すごく疲れることだ。
それでもあえてするのはえらい、とわたしは思う。

ヴィッキーは、フアンへの思いを断ち切ろうとしていたところへ
当のフアンと偶然再会。
「あなたを忘れられない。どうしたらいいの。
 でも、わたしには婚約者がいる。
 わたしは
何を期待しているっていうのかしら」
ちゃんとフアンに言う。
えらいものだ。さぞかしつらいだろうに。
フアンにしてみれば「しめしめ」って感じだろうし、
ヴィッキーも本当に何を期待しているのかという感じで・・・
まあ意地悪な見かたをすれば、お互いにずるいのだろうが。

マリア・エレーナにいたっては
危険なくらいぜんぶ「まるだし」だ!
ちょっとスコット・フィッツジェラルドの妻の
ゼルダ・セイヤーっぽい。

 

【感想 2:過去の恋愛を引きずってる相手との恋愛】

それに、クリスティーナもヴィッキーも、
フアンの元妻のことをフアンからちゃんと聞き出していた。
心中おだやかでないながらも
「彼女を愛していたのね」
フアンの立場に一定の理解を示していた。
「そうなんだ。僕と彼女の愛は最高のものなのに
 なぜかいつもうまくいかない」
ぬけぬけと語るフアンには
はたでみてるとムカつく以外のなにものでもないが 
まあこんなもんか、というか・・・
惚れた弱みってやつかもしれない。
どんな人間も、過去を持っている。
ある程度の年月を生きてきた人ならば、
事情があって、もう会えないとしても、
心に永遠に住み続ける、人生の一部のような存在が
ひとりやふたりいても、おかしくはないとおもう。
でも、自分が出会った人が、
すでに心のなかに永遠のだれかを住まわせている人だった場合、
これはかなりの問題だ。
ぜったいに勝てないような気がするし
その人よりも自分のほうが愛されている
その人よりも自分のほうがこの人を幸せにできる
そんな自信は絶対に持つことができないのではないか。
マリア・エレーナが転がり込んできたとき
クリスティーナにはもちろん、
3人での共同生活を拒む権利があった。なのに、
「彼女にアパートを借りてあげて。
 それができないというのなら、あなたと別れる」
フアンにそう言えなかったのは
フアンが「わかった、元妻には別に家を探すよ」
と言ってくれるという自信が、持てなかったからだ。
でも、愛しているから、離れることができない。
これは問題だ。
こんな苦痛ってあるだろうか。
な~んでそんなことで苦しまなくちゃいけないのか
さっさと別れちゃえば楽になれるのにと
自分に腹がたったりとか。 



【感想 3:おおっぴらにモメない分、苦痛が長引く】 

全員がきわめて素直であり、
思いは
すべて本人にぶつける、誠実な人たちだった。
誤解は、だから生まれにくかった。
「だったらあのときのあれは何だったのよ」
なんてことは、起こらない。
そういう誤解や小さな疑問がくすぶって、
あとで大火事に発展したりするものだと思うが。
そして誰も、われ先にと争おうとはしない。
すべての人間関係が、なんとなく前に進んでしまう。
どう考えてもおかしいのに、破綻できない。
いっそクリスティーナとヴィッキーが
絶交でもできればねえ~。

クリスティーナも、ヴィッキーも、
「フアンとマリア・エレーナ」のコンビに
関わってしまったことが、まず災難だった。
あの(元)夫婦関係は、竜巻みたいだ。
すべてを巻き込んでさかまく
はた迷惑なパワーを持っていた。
米国に帰国したクリスティーナとヴィッキーの
ぐったり疲れきったようすが かわいそう。
おしりにカラをくっつけたひよっこたちには
太刀打ちできない相手だったのだ。

 

【感想 4:クリスティーナって多分こういう子】

ひよっこといえば、
クリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)の
キャラクターはおもしろかったな。
彼女の気持ちが、けっこうわかる。
真実を追い求めている、みたいなことを言っていたが、
彼女の言う「真実」とは
「あなたは人よりも優れた特別な存在」
という保証なのだ。
彼女は自分の言う「真実」の内容が
結局 そういうことだってことを自覚していない。
人に「すごいね」「あなたって、人と違うね」と
言ってもらえるとうれしい。
そんな称賛を得るための努力を、ある程度はするので、
どんなことにもある程度の能力を示す。
クリスティーナの場合は、芸術みたいだが。
「望まないものはわかるのに、何が欲しいかはわからない」
それを探し続けている、と言っていたが
つまり
真実を追い求めてはいるけれども
「特別でも何でもない凡庸な女、それこそが自分だ」
それがもし真実だとしたら、
仮に真実であっても、欲しくないわけだ。
自分は特別だとあくまで信じたい。
インスピレーションを与えてくれる恋人や
刺激的な人間関係を追い求める。
環境や付き合う人間が特別だと、自分も特別な気になれる。
自分まで頭が良くなったような気になれるからだ。
でも、環境が落ち着いてくると とたんに
無意識下における不安や自信のなさが
「わたしは凡庸」という声となって
心の奥のほうから響いてくるので、また、移動したくなる。
ここから去らなくちゃ。
やっぱりここじゃない。
「本当の居場所」は他にあるはず。
クリスティーナって、そういう子だと思う。
それなりに楽しんでいた
恋人と、その元妻との共同生活さえも
終わらせることを望むようになり
ひとりで旅行に出て「考える」時間を持ちたいと言い出す。
この小旅行の間も、クリスティーナは別に、
何かを「考えていた」わけじゃないと、わたしは思う。
彼女はただ、不安なだけだ。
その不安は場所を移動したって消えない。
自分の心のなかにしか、薬がない。
でもまだ、それを理解するときじゃないんだろう。
そんなクリスティーナを見て、うーわサムイ子、って
言ってしまうのはまだまだ早すぎると思う。
未熟でも、やっぱり何か創りたいか、
漠然とだが 自分自身と向き合うことの必要性に
気づきつつある、まじめな女性なんだろう。

 

【感想 5:ペネロペはスカーレットを食って当然】 

マリア・エレーナ役のペネロペ・クルス
クリスティーナ役のスカーレット・ヨハンソン
完全に食っちゃってた。
一見そう見えるし、確実に食ってたが(笑)、
それで良かったのではないか。
クリスティーナは、まだ自分の使い道を決めたがってない。
なにせ自信がない。
スカーレットが演じたのは、未熟な女性だ。
それに対し、ペネロペが演じたのは、情熱と才気の火だるま。
押し負けて見えて当然だ。
そう見えなくては、むしろ映画として失敗じゃなかろうか。
ペネロペもスカーレットも、それぞれに、
代わりのきかない名演だった。

ヴィッキーは、いつかスペインを再訪して
フアンとまた会ったとしても、
もう彼のことを何とも思わないだろうな。
人生の汚点を残した街と考えて、
スペインには二度と行かない、かもしれない。
クリスティーナは、フアンともマリア・エレーナとも
再会したら友だちとして関係を結び直せる気がする。