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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ゴースト・イン・ザ・シェル』

 

原題:Ghost in the Shell
ルパート・サンダース監督
2017年、米

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www.youtube.com

 

 ひどかったし、不快で、退屈でもあった。

Netflixで検索したところ、以下のものが出てきた。
『ゴースト・イン・ザ・シェル』のあとで、すべて観た。
GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊』(押井守監督、1995年、アニメ映画)
イノセンス INNOCENCE』(押井守監督、2004年、アニメ映画)
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society
神山健治監督、2011年、長編アニメ)
いずれも圧倒的におもしろかった。
寝る間も忘れて楽しんだ。
また、テレビアニメシリーズは以前から大好きだ。
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(神山健治監督)

 

で、『ゴースト・イン・ザ・シェル』だ。
おもろない、と感じた。それはしょうがない。
問題は、なぜおもろないと感じたかだ。
やっぱりそれは、
決定的に重要なところで、決定的にお寒い選択をしていたからだ。
それがわたしに「総体的にこの映画はダメ」という結論を出させた。
※ゴミ回収作業員リーの尋問のシーンは良かったよ。
 リーを演じた役者さんの演技がすばらしかった。
 この映画でわたしが好きだったところはそこだけ。


ここがお寒い:「ゴースト」がどっかいっちゃってる】 

 決定的に重要なところ。
「ゴースト」の扱い方だ。
わたしはそう感じる。

『ゴースト・イン・ザ・シェル』は浅い。
一言で言えば

「こういうんだったら別に『攻殻機動隊』ベースじゃなくて良い」
というたぐいの物語に作り変えられていた。
最後まで観ても、せいぜいが「You are the only one」・・・
唯物論的な価値観に基づく安いメッセージしか受け取れない。
誤解のないように一応言っておきたいけど
別に「You are the only one」というスローガンそのものが
ダメだと言うんじゃない。
製作者陣は、実写版リメイクを試みるほどガッツリと
攻殻機動隊』に触れたのであるから、
「ゴースト」の問題が投げかけてくるメッセージは
もっと深い深い所から聞こえてくるものだということが
きっとわかったはずなのだ。なのに、そのメッセージの在り処、
深みに潜ってみることをどうやらやめてしまったらしく、
ほんの浅瀬のうわずみみたいなものを掬い取っただけの
物語にまとめてしまったのではないか、とわたしは考える。
そこを指摘したいのだ。

攻殻機動隊』は「ゴースト」を断じて、そのように安く扱ってない。
だがいきなり「ゴースト」とか言っちゃったのは性急だった。
攻殻機動隊』をご存知でない方は、わけがわからないだろう。
そこで以下のように言い換えてみる(厳密にはちょっと違うが)。
攻殻機動隊』では・・・
「個性」「アイデンティティ」「意識」「魂」への
価値の置き方がもっと多層的で、複雑なのだ。


【そもそも:『攻殻機動隊』の世界観】 

 自分で言い出しておきながら、ここからは説明が難しい。
イヤ、どんだけ難解な世界観だと思ってんだ!
1回とりあえず、アニメシリーズ観ましょうや。
そしたら、ちょっとわかってもらえると思う。
でも「ゴースト」は、『攻殻機動隊』の世界の本質的な部分に関わる。
だから、必死で語ってみる。
読んで、全体からざっくりイメージしてみてほしい。

攻殻機動隊』の主人公は草薙素子。超法規的機関の隊員だ。
彼女は、脳と脊髄の一部を除いて、全身をサイボーグ化している。
この、機械で作られた体を、義体という。
生身の体の機能を高度に拡張するスゴイものだ。
義体化の技術は一定の完成を見ており、
体の一部位から全身的な施術まで、対応が可能。
また、『攻殻機動隊』の世界では「電脳化」が一般化している。
簡単に言うと人の脳をネットに直接つなぐもので、
人はほんのちょっとの手順でネットの海に脳内ダイブできる。
この高度に発達した電脳化社会にあっては、
己の経験や意識と、ネット上の他者のそれとの境目が、あいまいだ。

 

【『攻殻機動隊』の「ゴースト」とは何?】

そして「ゴースト」とは、
・・・これも定義が難しいようだが

主に人間の意識、魂、自我を含む、包括的な概念だ。
体の一部や記憶を失くしても、サイボーグになっても
最後まで残ってその人をその人たらしめる根源的な何か。
さて、そこへきて草薙素子の体は全部サイボーグ。
彼女本来の持ちものは記憶だけで、
それが入った脳も、電脳化されている。
となると、素子は、悩むこととなる。
想像するのは難しくないと思う。



草薙素子が悩むこと

もうちょっと説明するからそれで考えてほしい。
素子はサイボーグだからちょっと難しいので
起点だけ、この記事を書いてるわたしに置き換える。
わたしの「ゴースト」は、わたしの体(脳)を離れた場所にも宿る。
この記事は、わたしの体(脳)を離れて
ネットに放たれたものだが、
固有の思考が反映されている。
だから、わたしの「ゴースト」が宿ってるわけだ。

思考が反映されたものに「ゴースト」が宿るのだとしたら、
芸術、建築物、都市、法律、人の行い、・・・すべてにそれはある。
「ゴースト」の宿ったものはあちこちを飛び交っていて
相互に干渉している。ネットにログインすれば
他人の「ゴースト(が反映されたもの)」が見られるし
ダウンロードして、自分のものにもできる。
作品世界の、概念のほんの一端にすぎないが、
だいたい
そんなことをイメージすればいい。
すると、ちょっと想像しやすいはずだ。
そこに「人とは」「わたしとは」という
哲学的な命題が必ず浮かび上がる、ってことが。
「ゴースト」がその人をその人たらしめる、ってことはわかるが、
でもダウンロードとかできちゃうのに、はたしてそれが人か?
ではどこからどこまでが人なのか?ってことだ。
脳以外、全部サイボーグの素子の場合、こんな風に悩む。
「わたしと機械とは何が違うというのか」
「わたしとは、そもそも何者か」
「わたしは存在していると言えるのか」
「機械でできたわたしの『義体』にも、ゴーストは
 宿っているのか。仮に宿っているとして、
 それが生身の人間のものと同じだという証明は」

 


押井監督版に見る、草薙素子の悩み

押井版『GHOST IN THE SHELL攻殻機動隊
で、素子はこう言ってる。
「もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、
 今の自分は電脳と義体で構成された
 模擬人格なんじゃないか。
 いや、そもそも初めから私なんてものは
 存在しなかったんじゃないか」。
同僚がなぐさめる。
「お前のそのチタン製の頭蓋骨のなかには
 脳みそもあるし、
 ちゃんと人間扱いされてるじゃねえか」。
的外れだ。
だって、脳が搭載されているという事実も、
周りが人間扱いしてくることも、
「『わたしが』『本当に』『存在している』」
感覚とは全然関係がない。
素子の脳は他人のものかもしれないし。
というか、脳でさえ作りものかもしれない。
「存在」について疑問を抱きすぎないように、
義体に何かしらのインプットがなされているのかもしれない。
わたしたちも素子と同じだ。自分の認識や、感覚に基づいて、
「『わたしが』『本当に』『存在している』」
と、納得しているだけ。
人なら、誰もが自分の存在を疑える。
まして全身サイボーグで、脳さえも電脳という
ものすごくややこしい構成の素子が、

己の存在を信じられないのは、ムリもない。
素子は続ける。
「もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、
 魂を宿すとしたら、
 そのときは何を根拠に
 自分を信じるべきだと思う?」
同僚は困ったのか
「くだらねえ!」
と話を終わらせてしまう。

一気に言ってしまえば、『攻殻機動隊』は、
義体化し電脳化してからの、人の実存を問う作品なのだ。


 

【でも、ミラは「過去」が知りたいだけ】 

ハリウッドリメイク版でも、
ミラ/素子は悩んでないこともなかった。でも、
ミラが悩んでいて、追求を試みていたことは結局、
わたしが人間だったときはどんなだったかしら、
ってことに過ぎない。
ミラみたいな存在が本当に悩むべきなのはそこじゃない。
いや、百歩譲って優しく言えば
「もっと先に、もっとでかいテーマがある」はずだ。
それなのに『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、
「ひとりの女性がサイボーグ化された真相をたどる」
という風に、テーマを矮小化してしまっていた。
ミラに悩ませることの内容が、
そのフェイズがズレていたのだ。



なぜミラにもっと深く考えさせなかったか】 

 義体化し電脳化してからの、人の実存」を
ハリウッドリメイク版は、問うてなかった。
そんな難しいこと多くの人にはどうせ刺さらない。
だから掘り下げるのをやめて簡単な話にまとめたのだろう。
「記憶喪失のサイボーグが、
 巨大組織の陰謀を暴くとともに

 人間だったときの記憶を取り戻し、
 でも、今の自分を受け入れて、

 わたしの人生はこれからよ!と
 前向きに歩みだすまで」
を描く、
自分探しSFムービーにだ。
だが、その手の映画は他にいっぱいあるでしょ。
そうだな・・・『ロボコップ』とか。
ボーンシリーズとか。

『アリータ』とか。

国産『攻殻機動隊』はいずれも、
簡単じゃないことを伝えようとするパワーにあふれていた。
簡単には答えが出せないことについて、懸命に訴えてきていた。
それが作品に加える緊張感、圧迫感たるや、尋常でなかった。
観てると少し部屋が蒸し暑くなったように感じたほどだった。
観る者を哲学的考察へといざなう要素をもりもりに含みつつ、
しかも楽しく観られる、高度なSF作品群だった。

でも、リメイク版はミラにも観る者にも考えさせない。
ミラの「自分探し物語」にすぎないこの映画では
最後まで観ていれば、すべての謎が解き明かされ
終わったら、あとはおうち帰って風呂入って寝るだけ。
それで、はたして良かったのかなあ。

ちょっとでも伝えられたかなあ。
わたしが『ゴースト・イン・ザ・シェル』で覚えた
違和感の内容が。



【削除されていたセリフ】 

 ミラが潜水をするシーンなんか、
考えることを放棄した、この作品の製作者陣の姿勢を
よく表していると思う。
潜水のシーンは、押井版にもある。
素子には、考えが煮詰まったときなどに、
海に出て潜る習慣がある。
全身が機械だから、水に浸かったら壊れるかもしれない。
だがそれでも潜るのにはわけがある。彼女いわく
「浮かび上がるとき、今までとは違う
 自分になるんじゃないか」。
鋼の義体を自在に操って戦う、超優秀な公安隊員にしては、
なんだか頼りなく、それに素朴な言葉だ。
「今までとは違う自分になるんじゃないか」。
海に潜って上がってきたとき、
こんな自分ももしかしたら
「『生きている』という実感を確実に持てる、
 (≠普通の人間のような?)
 存在になれるのでは」
そんな遠慮がちな願いを、わたしはこのセリフに見る。
生への執着の吐露だとしたらとても重要なセリフだ。
だが、リメイク版ではこれが削られていた。
ミラに、実存的な内省をさせる気がないのだ。

先に述べたことだが、わたしは
攻殻機動隊』ベースの物語である以上
「そうであってほしくなかった」。
「簡単に理解できないことは悪である」
という見地に製作者陣は立っていたのだろうか。

もしそうならば、
攻殻機動隊』をベースにするべきじゃなかった。

「よくある映画」ゆえに退屈。
攻殻機動隊』の本質から目をそらしたゆえに不快。
「簡単にまとめた」ゆえに安っぽい。
それが、わたしが
『ゴースト・イン・ザ・シェル』に抱いた感想だ。