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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『はじまりへの旅』

 

原題:Captain Fantastic
マット・ロス監督
2016年、米国

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www.youtube.com

 

【わたくしごと:読書と心と環境】

個人的な体験を書かせてもらうと、
中学生・高校生くらいの悩み多き頃には、
自分の心があまりにも激しく動くことが、苦しかった。
うれしい・楽しいって気持ちもそうだけど、やっぱり
悲しんだり、うじうじといじけたりする気持ちがつらかった。
青くさいものだが、
「この感じる心が、なくなってしまえばいいのにな」

と考えて、結果、もともと本好きだったところにさらに輪をかけて
本をいっぱい読むことを思いついた。
というのも、夏目漱石の『こころ』にこんなセリフを見つけていた。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
それを覚えてて、
「本でも読んでアカデミックな世界に頭まで浸かってれば
友だち付き合いで悩んだり、つらい気持ちを抱えたりしなくなる」
つまり感情が鈍くなって楽になる、みたいなことを考えたんだと思う。
だがその試みは失敗、というか逆効果だった。
書に触れることで、ある感情に名前が付けられることを知る。
本と、おのれが生きる世界との、ちがいを知る。
そのあたりのことが関係している気はする。

本をいくら読んだって、感情を鈍麻させることはできない。
どっちかというとかえって鋭くなり、また、もろくなる。


本作『はじまりへの旅』に登場するキャッシュ家の子らも、
実によく本を読む。
10歳にもならない末っ子から、大学受験を考える年頃の長男まで、
万巻の書を読みあさる、ちっちゃな哲人ぞろいだ。
そしてやっぱり「読むにもかかわらず」感性がむやみやたらと鋭敏だ。
彼らの、心の鋭さ、感じやすさといったらないね!
こんなに日々泣いたり笑ったり怒ったりして、疲れないのかね。
感じやすい自分の心を、投げ出したくならないのかね。
わたしは、なったし、なるんだけどなあ。
だけどまあ、わたしとこの子らとでは
基本設定がかなり違うということを、
考えておく必要があると思う。
あとで述べることだが、キャッシュ家の子どもたちは、
現代の一般的な
社会生活と、極端に隔絶された環境下に置かれている。
それが、ある事情で通常の暮らしの領域を飛び出し、
「一般的な社会」を
身をもって体験することとなる。
これはけっこう重大なポイントだろう。
子どもたちの心があれほどまでに激しく、ビビッドに揺れ動くのは
普段まったく触れることのないものに触れ、
膨大で、かつ多種多様な情報に
さらされたあげく、
処理しきれない感情が、オーバーフローした。
と見ることもできそうだ。

そういうことって考えてみれば、大人にもあるよね。
子どもほど激烈なもんじゃなく、
今思えばそういう感じだったのかなって
思う程度の場合が多いけど。
わたしも、キャッシュ家の子たちに負けないくらい本が好きだけど、
わたしはもちろん、普通の現代の社会のなかでずっと暮らしてきた。
あと、これは今そんなに関係がないことかもしれないけど、
わたしは自分の意思で、読みたくて本を読んできたと思う。
でもキャッシュ家の子どもたちはその点どうかなってのがあるね。
もちろん読書の意義を今は彼らなりに理解してるんだろうけど、
あの高度な読書習慣を持つに至ったのにはもちろん、
父親の意向があったに決まっているんだから。
・・・そういうわけだから、自分とあの子たちが、
何もかも同じだとは思わない。

ただ、たき火を囲んで本を読みふけるキャッシュ家の子どもたちに
青くてバカだったかつての自分を、重ねたことは確かだ。
自分の感情におびえたあげく活字の世界に逃げ、
しかもその作戦が失敗に
終わった!という体験を思い出したわけだ。

それにしても人の頭ってのはとんでもない代物だ。
キャッシュさん家の末っ子なんか見てると本当にそう感じる。
米国権利章典の条文を修正条項まで含めて丸暗記、
権利章典がなければアメリカは中国同然よ」なーんて
政治哲学の持論をぶったその口で、
「ママがいなくてさびしい」と、わんわん泣くのだ。
理知と情とがまったくぶつかり合うことなく同居しちゃえるのが
人の頭ってやつなんだよ。

だけど今のわたしは、キャッシュ父子がまぶしい。
彼らをわたしは美しいと、生きている、ととらえる。


【自殺とキリスト教

この作品を観て、
キリスト教では自殺が禁じられているのでは?
自殺した人も葬儀をしてもらえるのか?
ってことが、気になる方がいらっしゃるかもしれない。
わたしも気になったところだ。
現代キリスト教の、自殺についての考えかたは
大きく変わりつつあるようだ。
ごく簡単に言うと、
「自殺するほど悩み苦しんだ人を、
 神が救いたいと
お思いにならないわけがない。
 天で神のあわれみに
あずかれるように祈って、
 葬儀をしてあげよう」
という考えであるようだ。
わたしは比較文化学者の竹下節子氏のブログなんかで
そのへんのことを知った。

spinou.exblog.jp

関心がある方は参考になさってみていただきたい。

 

【物語の構成はまあこんな感じか】 

ありかたが大きく異なる家族をいくつか登場させ、
人の考えかた・とらえかたの違いが
もっともはっきりと出そうな
「宗教」「死者への告別」の問題をめぐって対比を試みる。
それを通して、
・子どもが「親も完璧ではない」という事実を知る
・親が子どもの巣立ちを受け入れる
・おのれのあやまちを認める
・どちらが間違っているとか正しいとかでない人間関係
・「程度の問題」「バランス」「折り合い」
そのへんを描き出し、観る者の心に問う。
まあ、そんな構造の物語であろうか。
ザツといえばザツであり、安っぽい、という声があっても
別におかしくはないんじゃないか。
人の死とか宗教とかいった、でかいテーマを扱えば
このくらいの話は誰でも思いつく・・・とか。
でも、シンプルなストーリーのなかで
大事なことにしっかり光を当てて、見せてくれていた。
大事なこととは、わたしが思うに、
「愛を伝える方法」だ。

わたしは、本作を好感をもって観た。

 

【キャッシュ家 方針:fair&Good ventilation】

キャッシュ父子はよく話し合う。そして、公平だ。
ママの死因、という、繊細に思われる問題でも、
年齢に関係なくすべての子に、「自殺」と情報を開示する。
ベンは子どもたちを一個の人間と認めているから
幼い子にも隠さずすべてを伝えるのだ。
コンセンサスが得られていない問題があることが判明すれば、
いつでもどこでも会議となり、少数派の意見も尊重される。
恐れることなく、意見を伝え合える環境だ。

 

【キャッシュ家 家訓:Act immediately if you think!】

思うだけで行動がともなわない感情は、この父子にはまずない。
思ったら行動、キャッシュ家のこの信条は
「謝罪」という行為に顕著だ。
街で出会う人びとや、係累の人たちよりも誰よりも、
すさまじくトンがった集団であるキャッシュ父子の方が
素直に「ごめんなさい」を言う回数が圧倒的に多い。
謝ることの内容を、相手にちゃんと伝える点も新鮮だ。
何かする→それは相手の気持ちや立場を侵す悪いことだったと気付く
→謝罪の必要を感じる→よって謝る
・・・シンプルで、正当だ。
謝罪の必要を感じる、までは、きっと多くの人が到達できるけど
よって謝る、のところが、できない場合が多いかなと思う。

忌憚なく話し合う。思ったら行動で示す。
なんの問題もないどころか、この一家のありようは「理想的」だ。
だけど、どうもただ1点において、彼らは伝え合えていなかった。

【ベンが森に入った理由とは】  

べンは、哲学的理念を実践するために街から去ったのではない。
そのことは重要だ。
彼はただ、愛する人を救うことにつながると信じて、
自分にできる精一杯のことをやったのだ。
舅に「行くあてはあるのか」と問われて、
答えられなかったのがその証拠だ。
構築済みの哲学的理念こそ、
ベンにとって何よりも大切なものだと言うのなら、
ひとりになっても、また森に帰れば良いではないか。
でも、それを彼はまったく想定してなかった。
彼は妻のためにこそ森に入った。
生前の妻を現代医学の手にゆだねたことも、その証左だろう。
妻を救う方法が他にもあるなら、それが森じゃなくても良かった。
是が非でも森の生活を続けたかったわけではない。
ベンも結局、「自分が知っていること」しかできないのだ。


【ベンの失敗:これだけは伝えられていなかった】

愛する人を救いたいという思いは、ベンの子どもたちも同じだった。
ママが苦しむ姿を見るのはつらく、元気になって欲しかった。
だがこの通り、父子とも思いを同じくしていながら、
そのかんじんなところを意外と分かち合ってなかった。
つまり「I love you」についてだけ、意思疎通が図られてなかった。

たぶんベンは、これを口にするのがちょっと恥ずかしかった。
妻への愛は、夫婦だけの方法で、本人にだけ伝えれば良いと思っていた。
「パパはお前たちのママを愛している」については、
行動によって伝わっているはずだ、とでも考えてたんだろう。
思ったら行動、がキャッシュ家の信条であるのだから。
だが、「俺が間違っていた」。
ベンは万策尽きたといった表情で、そうこぼした。
これこそ彼の、おそらく初めての愛の告白に他ならない。
それは妻に向けられたものだけど、説明するまでもなく
子どもたちにもそのまま、届けられるべきものだ。

子どもたちに別れを告げ、ひとりで街を出発したベンの
情けない表情といったらなかった。
「正しいと固く信じてやってきたことも
 子どもたちがいないんだったら何の意味もない」
「俺はこんなに意志が弱い人間だったのか」
そんな気持ちでクシャクシャになった顔だった。

【ベンの失敗:子どもたちがリカバー】 

だがキャッシュ家の信条は、「感情=行動」。
ベンは自分で決めて子どもと別れた。もうできることはない。
そんな彼の代わりに行動してくれたのが、子どもだった。
別れてきたはずの子らと奇跡の再会を果たしたとき、
湧き出る思いに押し出されるように
ベンはやっと、「I love you」を口にした。
「愛」って、言わなくちゃ伝わらないときもあるんだな。
というか、およそ人の感情のなかで「愛」だけは、
行動だけでなくちゃんと言葉も用いないと、すぐに枯渇する、
そういう思いなんじゃないだろうか。
絶対欠かせないものだから、人は手を尽くさなくてはならない。
次男が父の口から「I love you」を聞いたのはこのときが初めて、
それは彼の表情を見れば明らかだった。

【ラストシーン:奇妙な長回しとキャッシュ家の未来】 

キャッシュ家は新たな生活を開始する。
ラストシーンの、あの奇妙な長さ、何だろう(笑)。
明らかに異様な長回しの間に、何を観せようとしたのだろう。
2回目に本作を鑑賞したとき、わたしは、
あの朝のひとときをすごす父子のなかで
「ベンだけが妙に落ち着かない」ようすを、
ニヤニヤしながら眺めることとなった。
新生活をスタートして何日経過した設定なのか不明だが、
子どもたちは、学校教育を受けるようになっている。
高い適応力を示し、
新しい環境に難なく溶け込んでいるのが見て取れる。
その力はまぎれもなく、ベンが授けたものと言えるはずだ。
子どもたちを育てたのは彼なんだから。
でも、そのベンだけ、いまいち環境の変化に
ついていけてないのだ(笑)。

おもえば冒頭から、
「子どもが親を超えてる」シーンはちらほらあったな。
たとえば一番下の女の子ナイは、生きものの命に興味津々で
小動物をひっつかまえては解剖にいそしんでいる。
自分で剥いだらしいヤマネコかなんかの頭部の毛皮を
ニットキャップみたいにかぶっているという変わった子だ。
念のために言っておくと、これは別にナイが
情緒的にヤバイ方向に発達しつつあるとかいうのではなく、
ただ、興味関心がそっちに向かっている、という描写だ。
まあ、しかるべき筋にみせれば、「情緒発達的にヤバイです」
と診断されるだろうし、反論はかなり難しいとは思うが。
・・・そんなナイのおかげで
共用の肉切りナイフが頻繁になくなるので、
一家じゅうが難儀している、という話なのだが・・・、
またしてもナイフが行方不明となり、
ベンがナイの秘密基地を訪ねると
壁一面、動物の骨やらお手製の剥製やらがディスプレイされ
ミニ解剖博物館と化していた。
このさまに驚いたベンは思わず
「何なんだ・・・(jesus・・・)」
毎日顔を見てだっこして、大切に育てている子でも
成長の過程のすべてを把握することなどとてもできない。
同じように育てたつもりでも、きょうだい全員それぞれに違う。
「そんなこといつ覚えたの?」って親でも驚かされるような
アップデートを遂げて、大きくなっていく。
子どもってものなんだろう。

ベンの子たちはベンに愛され、ベンを超えていく。
いずれ彼ら全員が、ベンのもとから巣立つのだ。
ベンはそのあと、どうしていくんだろうな。