- 【斬新な映画を作るためなら何をしても許されるのか】
- 【『インフォームドコンセント』はあったのか】
- 【ロールプレイがもたらしたもの】
- 【つかまるよすがもなく、グラグラゆさぶられる】
- 【彼らのしたことは悪か】
- 【「良心が命じた」】
原題:THE ACT OF KILLING
ジョシュア・オッペンハイマー監督
2014年、英・デンマーク・ノルウェー合作
「オリジナル全長版」を観終えたとき、
「ものすごいスピードで5年分くらい歳をとった」
みたいな感じがしたな。
苦ではなかったのだが、消耗した。
もっともらしいことを書ける気がしない。
何かとんでもないこと書いちゃいそうな気もする。
【斬新な映画を作るためなら何をしても許されるのか】
観ていて、
「残酷なことするなあ」ってことは、ずっと思ってた。
自己批判的な動機から、
インドネシア国内において、
インドネシア人の監督が、
この作品を撮ったというならば、
「残酷」だなんて、ここまで思わなかったような気がする。
でも、監督は、お国の人じゃないな。
名前からしてユダヤ系のドイツ人かアメリカ人だ。
すごいなあ。
話が複雑すぎるな。ナイーブすぎるよ。
自分が言いたいことを見失っちゃいそうだから、
スパっと言っちゃっていいかなあ。とりあえず。
わたしはこの映画を観て以下のように感じた。
「インドネシアの人を『実験台』にした」。
まったく新しい映画を作って
みんなをアッと言わせたいがために。
だけど、急いで付け加えたい。
「ムナクソ悪いもんみせてくれやがって!」
とは思ってない。わたしはかなり夢中で観た。
確かにこの手法でないと、作れなかった映画だ。
この映画じゃないと見られなかったものを見た。
わたし、そういう映画が好きだ。
だから、観ることができて、満足している。
なんつうもんを作ってくれてんだ。
ただ、やっぱり、思いがここに戻ってくる。
この映画をどうしても作らなくちゃならなかったのか。
作るためなら人の心が犠牲になっても良かったのか。
犠牲になった心が殺人者のものだから、構わないというのか。
映画を芸術とするならば、
すべての芸術は人が心を削って生み出すものなのだ。
誰ひとり傷つかない芸術なんかない。
だが、この映画は、芸術か???
【『インフォームドコンセント』はあったのか】
撮られた側は、心が激しく動揺しただろう。
傷ついただろう。
撮られることに同意はしてた、だろうけど・・・。
・・・というのも、作品の構造的に、
撮られた側が監督の意図を完全に理解してたか、
あやしいもんだと、わたしはちょっと思う。
あの人たちって、無知だった。
彼らは相手のことを非難するときに、さかんに
「野蛮人だ」「下品だ」なんて表現を用いる。
でも彼らのすることの様式や思考パターンこそ
部分的に(しかし決定的に)すごく野生的で、幼稚だったのだ。
いかなることに参加させられようとしているのか
ちゃんとわかってなかったんじゃないか。
「プロパガンダ映画を作っているつもり」ではあっても、
「『アクト・オブ・キリング』を撮られている」という
認識はなかったんじゃないかと危惧する。
完成した本作を、監督は、登場人物たちにみせたのか?
騙したわけじゃないと、言い切れるのだろうか。
【ロールプレイがもたらしたもの】
おのれの殺人行為を再現させるだけでなく
被害者側をも演じさせる「ロールプレイ」方式こそ
この映画のオリジナリティであり、
それは、ひどく残酷な結果をもたらした。
過去の自分自身の役、被害者の役、
とっかえひっかえ演じるうちに、
彼らの心は、微妙に揺れ動くようになる。
自分のしたことが悪いことだったという認識は
基本的にないままなのだが、一方で、
「殺された人の気持ちがわかったよ・・・」
「もう、被害者の役はやりたくない」
ぽつぽつと、こぼすようになる。
カメラはその過程をみごとにとらえていた。
編集されているから、完全に時系列どおりじゃないだろうが、
長期間の密着とロールプレイが功を奏したんだろう。
己のしたことの業の深さに、苦悩し始める人もいた。
「9月30日事件」は50年以上も前のできごとだ。
確かに当時、大量虐殺の実行メンバーだった彼も、
今や高齢だ。もうおじいちゃんだというのに、
過去にしたことの、意味のとらえ直しを迫られる。
わたしは、率直に、かわいそうだと感じた。
この映画に参加しなければ、そんな思いはせずにすんだ。
まともな神経だったら、罪悪の意識に圧し潰されて、
心おだやかな老後なんて、もう絶対に望めない。
「1人で何百人も殺したくせに、ここまでやらないと
その罪の重さがわからんのか。愚かなやつめ」
「人殺しに情けをかけるな。殺された方の身になれ」
当事者じゃなければ何とでも言える。
でも、彼らは
こんな思いをどうしてもしなくちゃならなかったのか?
人殺しはどんな報いを受けてもしょうがないんだろうか?
【つかまるよすがもなく、グラグラゆさぶられる】
わたし自身の感覚からすれば考えられないようなことが、
カメラの前で平気で行われた。衝撃的だった。
華僑への差別感情を隠そうともせず、
街にくりだし彼らの店を訪れては平然とカツアゲをする。
選挙に出るからって、街の人に小銭をばらまきまくる。
受け取る方も、「もらって当然」の認識であるという。
基本的にみんな、モチベーションがシンプルに「金」。
針金で首を締め上げて人を殺したときのことを再現する。
赤ん坊をダシに親をもてあそんだときのことを再現する。
惨殺死体を森でさらしものにするシーンでは
人の臓器(作りものだ)を手で持ち上げて見せ
口の周りを真っ赤に汚しながらそれを食う。
映画のフィナーレはミュージカル仕立てだ。
美女が舞う。「共産主義者を滅ぼし平和になった♪」
犠牲者たちの霊が称える。「天国に送ってくれてありがとう」
いったいどう説得したんだろう。
言わなくても勝手にやってくれたのかな。
彼らは本当に、こうした姿を見せてくれるのだ。
過去には殺人を犯した彼らも同胞には優しい。
虐殺シーンの撮影がヒートアップし過ぎて
泣いたり、放心したようになるエキストラが多数出た。
そんな人たちをいたわる、手の優しさは印象的だ。
わたしはいったい何を観てるんだ、と。
最後まで観てれば、自分が何を観てるんだか、
わかるはずだと信じたかった。
これまでに触れたことのある何かに照らして解釈できるはずだと。
どれにも似てない映画を絶えず探し求めているはずなのに、
どれかと似た映画であることを願わずにいられなかった。
作品の成立のしかた、
彼らが過去になしたことの内容と規模、
それと現在の彼らの暮らしぶりとのギャップ、
本作のなかで彼らが作っていったものの内容、
ことごとく、
自分の感覚と決定的にズレた所を持って迫ってきた。
心のなかの何かがグラグラとゆさぶられた。
何が。多分、「モラル」がだ。
【彼らのしたことは悪か】
モラルねえ・・・。
まず 悪とは何か、って所から・・・。
イヤそれは、難しすぎるな。大きく出過ぎたわ。
何が悪かは、社会が決めることではないのか。
社会が規定するところに大きく外れ、
社会が規定するところの内にあるものに害をなす
それが悪であるとするならば、
そんなもんは、地域により社会により
まったく異なってくるだろう。
社会を構成するのは人であろうから
悪の定義は人それぞれで違う、とも言える。
殺人という項目についての認識さえもおそらくは。
わたしはわたしのいる社会に照らして
おかしいものを、おかしいと見ただけで・・・
だから 殺人者であるところの本作の登場人物たちを
わたしが糾弾したとしても、だから何?って話だと思う。
彼らの社会は、かつて「それ」を受け入れた。
わたしの気持ちは関係ない。
彼らの個々の気持ちも関係ない。
彼らは彼ら自身の、当時の社会の規定にのっとって
求められたことを、やった。
案外、楽しんだときもあったかもしれない。
【「良心が命じた」】
「やるしかなかったんだ。俺の良心がそう俺に命じた」
思うに、
人は、自分のしたことについて説明をするときに、
「こういう事情で、やらなくちゃならなくて」
「システムがそうなっていたから」
「そういう時代だったから」
「上官の命令で」
みたいな 理由付けをするうちはずっと、
同じことを繰り返すんだろう。
その繰り返しをやめたいと思った場合、
例えば、あの大量虐殺のようなことを
二度とするまいと思った場合、
方法は可能性として、ひとつだけだ。
宣言するのだ。
「自分が今こうであるのは自分のせいである。
他の何ものも、その責任を負うものでない」と。
何ものとは、人だけでなく
事情、社会、時代、システム、人間関係、
自分の外にあるもので、
「それが自分にそうさせた」の
「それ」に代入できるもの、全部だ。
責任の所在を他者に求めることをやめて初めて、
これまでとまったく違うことをスタートできる。
でも、「良心がそう命じた」とは。
ここにもひとつの重大なズレを感じる。
説明するのがめんどくさいくらい複雑だ。
「共産主義者」を皆殺しにすることが
世の中のためになると思ったがゆえに
やむなく人を殺した」
そう言いたいのかなと思うけど・・・
言った本人が、明らかにその屁理屈を信じてなかった。
頭で考えようとしてることを、心が拒むんだろう。
嘔吐感を催すのか、話しながら、ゲーゲーいってた。
罪の意識を直視すれば心が壊れてしまいそうで
自分を守るためにとっさに出てきた理屈だったのか・・・
あんなおかしなことを言うなんて。
かわいそうだなって、やっぱり思ったよ。
ひとりの人間が背負える、苦しみのレベルを超えてる。
この映画は、
人間が他人にしていいことの限度を超えて作られた。
そこまでやって初めてとらえることができた成果を
わたしに見せつけてきた。