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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『天気の子』

 


英題:Weathering With You
新海誠 監督
2019年、日本

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【違和感は「うしろめたさ」】

違和感を覚えている自分に気づいた。
最初は、まあこういう物語が
若い人たちには必要なのかなっていう気がしていたんだが。
でも、何かが違ってて、そこに重大な問題があるっぽいなと。
何が違うのか、自己分析する作業は容易ではなかった。

わたしが『天気の子』から感じたのは
「うしろめたさ」だ。今はそう考えている。
簡単に言うと、帆高に悪いな、って気持ちになった。

 

【帆高の選択】

「東京じゅうの人間が不幸になったとしても
 僕の大切な女の子を救うのだ」
つまりみんなの幸せよりも、個人の気持ちを
優先する選択をした主人公・帆高。

結果としてその数年後の東京では、
連日雨が降り続く状態となり、街のかなりの地域が水没。
徐々に、だが確実に沈みゆく首都は、
わが国の姿そのものに見えた。
少子化・高齢化が進んでいるという意味でも、
経済的な意味でも、どんな切り口で見ても、
実際、この日本は萎みながら下り坂をおりていっている。
ともあれ物語の中で、東京は半ば水没しつつある。
これはまぎれもなく由々しき事態のはずだ。
だが雨音は美しく、水面にうつる人びとの表情はおだやかだ。
家が沈むというのなら、そこを離れて別の場所に住めば良い。
ことの深刻さが人びとにあまり理解されていないように見えた。
これはすごく印象的だった。

 

【スピリチュアル・フレンドリー】

帆高がありついたバイトは、
オカルト雑誌の編集アシスタントだった。
オカルト雑誌!
昔は流行ったかもしれないけど
現在、わたしがふだん利用している3つの図書館は
すぐ見える所にこの手の雑誌を置いていない。
書店も同じことだ。流行るようなもんじゃない。
「え~!なんすかこの雑誌!」
「僕、こんなのの取材するんですか」
帆高がちっとも、そういう不平を言わないのが
個人的にかなり、えっ、て思ったポイント。
仕事をえり好みしてる場合じゃないにしても、
あまりにスンナリ受け入れるので拍子抜けした。
しかも劇中に登場する若い人たちはみんなそんな感じ。
帆高も陽菜もそうなのだが、ハイティーンにもなって
得体のしれない超自然的な能力を濫用するのは
なんか、あんまり良くないんじゃないかな~とか
その程度のことも、自分の頭で考えないのかと。
神社、水神信仰、晴れ乞い・雨乞い・・・
土着系スピリチュアリズムに前のめりだ。
まあ、商売人にゲンを担ぐ人が多いのは今も昔も同じこと。
神社詣でや、盆暮れの墓参りくらい誰でもする。
だがわたしが言いたいのはその次元のことじゃない。
もっと積極的でお手軽感のある受容のムードが、
疑問の差しはさまれる余地もなく迅速に拡散してた。
だが、そもそも、
かつてカルト、オカルトはもっと警戒された。
オウム真理教事件があったから。
『天気の子』の世界では、
オウム事件はなかった」・・・のかもしれない。
だけど、この映画を作った人の記憶には刻まれているはずだ。
100%の晴れ女が、1回何円で晴れ乞い祈願します 
そんなベンチャービジネスが受容される世界を
設定するのに抵抗が全然なかったのだろうか。
なんだろう、物語の世界に浸透する
このあまりに盲目的で無条件的な
スピリチュアル・フレンドリー。

 

【人柱と「みんなの幸福」】

『天気の子』が言いたいことは、やっぱり、
「『最大多数の幸福のためなら、一人や二人が
  その陰で犠牲になってもしょうがない』
 という考え方が果たして正しいかどうか」
その周辺にあると思う。
例えば、敵国の兵団に占領されてしまった街。
女に飢えた兵隊どもが、今にも娘たちを襲いそうだ。
代表者たちが緊急会議を招集し、結論が出される。
夜の仕事をしている「プロ」の女たちに、
占領軍の兵隊たちの相手をさせよう。
そして女たちは、要請を容れる。
素人の娘たちにさせるよりは「まだしも」だ。
女たちもやりますって言ってくれたし、しょうがないよね。
ってどうなの??? みたいなことだ。

著名人をネットバッシングしまくったすえに
復帰不可能なところまで追い込む、といったことも、
思考を発展させればここに含まれる問題だと思う。
能動的に、加害者の側に立つことがあるのに、
場合によってはそれを自覚できないばかりか、
おのれの加害者性に気づかないフリまでできる。
それがわたしたち人間だ。

帆高の雇い主・須賀圭介は、
気づかないフリしとけよ、という立場。
誰か一人が犠牲になってみんながうまくいくなら、
それで良い、しょせんそれが現実というものだ、と言う。
心はとみに揺れつつも、しょうがないのさと自嘲気味に笑い、
すべてをあきらめようとした。

でも帆高は、加害者としての自分と向き合おうとした。
晴れ女の能力をよく知りもせずに利用して、
商売なんか始めたもんだから、
陽菜が空に連れ去られてしまったのだ。
彼女はそれでも良いのよというスタンスだったけど、
でもやっぱりそんなのはイヤだ、と。
多分それで帆高は、
「人柱の上に立つ『最大多数の最大幸福』」
じゃなく
「全員でちょっとずつ不幸を引き受ける」
ことになる世界を
選択したんだと思う。それは実現した。

「僕らは大丈夫だ!」と言う帆高。



【気候変動は陽菜のせいじゃないよね】

冷静に考えると、何が「大丈夫」なのかね。

どう言えば良いのかなあ・・・。
「陽菜が晴れ女の力を行使するようになる前は、
 東京の天候はまったく正常でした」
というのなら、あのラストもアリかなってわたしは思う。
でもこの物語では、最初から異常気象が始まっている。
晴れ女ビジネスは事態を少し加速させたかもしれないが、
全部が陽菜の力に因ったわけではないのだ。
陽菜が世界の形を変えた張本人、ではない。
では、いったい何のせいだったか。
物語の世界のデフォルトであるところの
「雨のやたらと多い東京」に、なぜなったのか。
それは当然、人類の責任の問題にからむ話だ。

人類が長い年月のなかでしてきたことは、
天候や自然環境に影響を及ぼしている。
多分、決定的なやつを。

決定的に変動しつつある世界の気候を
どうにかする責任が、人間にはある。
少なくとも「責任あるんじゃないかなあ」と
考える姿勢を持つ必要がある。

人間社会の狂気やゆがみについても、そうだ。
人間なんてもともとロクなもんじゃないんだから
人間社会が狂うのも当たり前なのさ、
そうあきらめることは、理性を放棄することだ。
狂っているからあきらめる、のではなくて、
あきらめるから狂っていくのではないか。

「どうしようもないんだもん!」
この考え方を人間社会に適用する時、それは
「人の世を人の力で善きものにしていく」
というカードを棄てる時とは言えないか。
人知のおよばぬ大自然の営みかのように
人間が人間社会をフーンて見物してるようじゃおしまいだ。

帆高は「大丈夫だ!」と言った。
全然大丈夫じゃない! 根拠がない!
ていうか今や弱っていくばかりのその東京を
君たち次世代は、背負わされた格好と言えるのだ!
わたしは地面に頭をメリ込ませる勢いで土下座したい!
「人間の力ではこの気候をどうにもできないんだ」
「首都沈むけど、ゴメンあとよろしく」
面倒なことから、とんずらしたいもんだから、
善良な若者/帆高の口を借りて「OK」と言わせ、
言質をとった。
そんな風にしか思えない気がしてきた。

えー!ほんとにそれでいいの!
ふざけんじゃねえぞって、怒っていいんだよ!!
帆高にそう言いたい。

気候/この社会 がここまで狂った原因は
そもそも何であったか? それはいつからか?
狂ったことの後始末を次世代に丸投げするのは?
そういう疑問を、持たないで終わって良かったものか。

 

【中間がない世界】

帆高が大丈夫!って言ってくれたおかげで、
何とはなしに、罪悪感を感じずに済む雰囲気で終わった。
だけど騙されちゃいけない。

帆高と陽菜のうれしはずかしラブストーリーと
神格にかたどられたカタストロフィの予兆こそあったが、
何か、その中間の・・・何かがなかったんだよな。
「中間」にあたるもの。それはわたしのイメージでは
危機管理を担い、既存のものの保全にいそしみ、
改良に知恵をしぼる、そんな、人間の手になる機構だ。
帆高たち個人に、大変なことを押し付けるのはおかしい。
いざとなったら神のお導きがある、なんてのも論外だ。
わたしたちのことは、まず、わたしたちで何とかする。
この大切な機構が、物語のなかでまるで稼働していなかった。
具体的には行政、とかそういうものなのかなと思うんだけど、
ものすごいモブ扱いか、
主人公の行く手を阻む、イヤな奴ら扱いだったんだよな
この映画のなかでの「行政」は。

 

【「大丈夫」って言わせてしまった】

首都は水没していってて、ヤバイんだけど、
とは言え今すぐ人類が絶滅するわけじゃない。
多少不便でも、日々の生活は続いていく。
おもしろおかしく、笑って暮らしていこう。
そういう意味の「大丈夫」だったのか?
帆高の「大丈夫」の意味がわからない。
どういうつもりで言ったのか。
いな、誰に言わされたのか。
あたかも自分の意思かのように。
もちろん台本に書かれているのであり
大きく言えば、大人が言わせたのだ。

 

【素直な帆高に背負わせて済む問題じゃない】

最大多数の最大幸福か、個人の想いか。
いかにもこの二択しかありません感満載の展開だったが、
もっと冷静に、じっくりと時間をかけて考えれば、
他にも何か方法があったかもしれないのだ。
しかも、何も帆高一人に考えさせることはない。
なぜ彼に、ああも性急に選ばせたのか。
責任を押し付けたい、最大多数側になりたい側がそうさせた。
希望を託す、というきれいな言葉に包んで。
帆高はこのことに気づいていないみたいだった。
オカルトやスピリチュアルを
あんなに素直に受容するキャラに設定したのは
「それくらいおばかさんな子であれば
 欺瞞に気づかないでいてくれるから」か。

どうにもできないのさ、と不可抗力感を強調しつつ
若者に自己責任の体で「大丈夫です!」と言わせて
「(じゃ、あと頑張ってネ・・・)」
って、たちの悪い暴力じゃないかな~。

選択肢を提示されると、それしかないって気になる。
だが、本当は他にも道があるかもしれない。
選択肢を提示することそれ自体がミスリードかも。
そういうすごく根本的なところについての
自問が『天気の子』には足りなかったように感じる。

ずるいよな。

帆高の選択の是非を問うている場合じゃない。
選択を帆高に強いたことがずるいのだ。

 

【煮え切らない男に、ちょっと期待】

思えば須賀圭介は、よくわからない男だった。
帆高を見捨ててみたり、助けようとしたり、
急に泣き出したり。めちゃくちゃだった。
だが、そんな圭介を前向きに評価するならば、
「無責任な大人になることをためらっていた」男だった。
彼の行動が、もう少し踏み込んだもので
「やっぱり俺は無責任サイドになりたくない!」と
動いてくれていたならば、
わたしはこの物語が「ずるい」とは
ここまで思わなかったような気がする。

『天気の子』は完結した作品だから、
須賀圭介のスタンスが、あれ以上の何かになる
可能性ももうないわけだが・・・、
今後、「若者に託される世界についての物語」が
たくさん生み出されていくだろうが、その時、
「圭介のような存在」は、重要になると思う。
新しい物語を生み出すのが新海誠以外の人だとしても。

『天気の子』か・・・
ただものじゃない映画であることは感じた。
美しい映像には目をみはった。
退屈だとは思わなかった。おもしろかった。
一方で、
これからも、こういう大人の確信的なウソや企みをはらむ、
ケミカルなジュブナイル映画が生まれてくるだろうな、と。
個人的にはなんとなく、その旗手となる人が
新海誠監督であって欲しくはなかった・・・、
そんな、残念な気持ちには確実になった。