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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『愛がなんだ』

 

英題:Just Only Love
今泉力哉 監督
2019年、日本

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【世の恋バナはだいたい上っ面】

友だち同士でお酒呑むときなんかに
恋愛の話は、話題として定番だが、
どんなに「ぶっちゃけトーク」しているという体でも、
本当の核心の核心の部分は、
意外と誰しも話さないもんだ。
その理由は、いくつか考えられる。
まず真っ先に思いつくのは、
「他人の恋の話なんか、みんな興味ない」。
聞きたいんじゃなくて自分が話したい。
誰もがそうだ。したがって自分が話すターンは
なかなか回ってこない。
で、話しそびれて、話さないままとなる。
次に、
恋愛って、ドラマや映画では
オシャレにキレイに描かれるけど、
実際は全然オシャレじゃないし、キレイでもない。
恋をすれば、ぶざまな自分を必ずさらすことになる。
「それって人としてどうなの」って普段だったら思ってて
自分なら絶対そんなことしないもんね、っていうことも
恋をした、ただそれだけで、正常な倫理観を失ってしまい
うっかりいろいろやらかすことがある。
それに、まじめに取り組んだ恋であるからこそ、
その終わり方がトラウマ級にみっともなくなる、
なんてことも。というかむしろそれが普通、
そのくらいのものだ。
だから要するに本気の恋についてなんて、
恥ずかしくて他人に話せない。
さらにもうひとつ。
かくもみっともない暗黒の自分史のなかに、
かけがえのない思い出が埋もれることもあるということ。
忘れたいのに、傷なのに、宝物。
それで問題が余計にややこしく、しかも重くなる。
だからそう簡単に、他人には話せないのだ。
つまり他人には到底わかってもらえないし
共有もしたくないと、思うがゆえに。

でも、人が現実の世界を一生懸命生きようとするうえで、
自分のことを「語る」っていう行為は大事だ。
語ることは見つめ直すこと。
それは心の平静を保つことにつながる。
繰り返し語るうちにエピソードが形骸化してくれば、
ショックだったできごとも、強烈だった体験も、
思い出という形で心の収まるべき所に収まる可能性がある。
人が生きる限り、語るという行為は不可欠だ。
その意味では、
恋の話も、かんじんな所はみんな話さないわけだけど
これだったら人に話しても別に良いかな、ってことは
時に積極的にネタにしてゲラゲラ笑ったり、
励ましあったり泣いたりして、ちゃんと語ってる。
恋って、人の心にとって相当な異常事態だよな。
日々ちゃんと語って小出しにしていかないと、
とってもじゃないが、立ち向かっていけない。

一方、語られない「核心の核心の部分」も
語られなければそのまま本人の頭のなかからも
世界からも消え去ってくれるのかというと、
そんなことはありえないと思う。
めちゃくちゃ残ってるはずだ。そりゃもうオニ残ってる。
では、それらは、いったいどこにあるというのか。
心の奥底をさらにさらに奥に奥に潜って先に進み、
うんと深奥の、広い広い、空の高い、
果てのない空間にたゆたっていると考えてみたらどうか。
そこは個人の心の深層でありながら、
他者の心、世界の深奥にも通底する不思議な場所だ。
語られず、収まらなかった気持ちの数々は
ユングの言う、この集合的無意識の海のような所にあって、
いつか掬い上げられる時を待っている。のかもしれない。
でも、個人の口から固有のエピソードとして語られて
浮き上がってくる、ということは
先に述べたような理由で、あんまりないわけだから、
語られるとしたら、別の形をとるだろう。
例えば文学という形を。

『愛がなんだ』が若い女性を中心に
大変な共感を呼んでいるというのは、この
三つめの理由に深く関係しているように思う。
さっき、「他人の恋の話なんかみんな興味ない」と述べた。
そうであるはずだ。
誰もが、人の話を聞くんじゃなくて、自分こそ話したい。
なのに、他人の恋の話である『愛がなんだ』を
なぜみんな、こんなに観たいのか。しかも観て、刺さるのか。
他人の恋の話なんだけど、完全に他人ではないからだ。
架空の、知らない女の子の恋愛の話なのに、
なぜだか共感できる気がする・・・、それは、
『愛がなんだ』がただの架空のラブストーリーじゃなく
語ることができないまま心の奥底の海に流してしまった
自分自身の恋のエピソードでもあるからだと思う。
他人のことであり、自分のことでもあるのだ。
共感とは、そういう仕組みのことなのかもしれない。




【原作小説の方が良かったかも】

その意味では 恋愛文学作品であるところの
原作『愛がなんだ』の方が、映画よりも、
はるかに良かったように思う。
言わば集合的無意識からの「一番搾り」だ。
優秀な文章家の手によって、
恋する人の心の機微を、よりフレッシュな形で、
適切に掬い上げていた。

でも、映画化された『愛がなんだ』が
支持されるのもよくわかる。
映画だからこそできる表現がたくさんなされていた。
小説のあのセリフ、こういうニュアンスか!などと
新鮮な気持ちで観られた部分が多々あった。
マモちゃんはテルコのことを何とも思っていないせいもあり、
デリカシーのないことをちょいちょい平気で言う。
(例えば『君は酒を飲むとクダを巻いて長引くので困る』。
 テルコが『呼んだのはそっちじゃん』と言えば
『なんで来るんだよ・・・』。)
彼に恋するテルコはその言動にいちいち小さく傷つく。
小説は、当然、文章だけであるから、
マモちゃんの言うことすることに
日々小さなショックを受けて消耗していく
テルコの表情を、見ることができない。
映画なら、それがちゃんと見られる。

食事をするシーンが多く、また活用されていたのも
映画だけの特徴と言えるはずだ。
そしてほぼすべての食事シーンにおいて、酒が出る。
恋なんて狂気の沙汰、酒でも飲まなきゃやってられません
といったところだろうか。
食事中に話すことの内容が気まずいことだったり、
または大好きな人と一緒で緊張していたりすると、
何を食べてもクソマズいか、味がしないかのどっちかだ。
映画のなかでテルコは何度、食事をしただろうか。
けっこう良いお店で、豪華な食卓が多かったが、
テルコは味なんかほぼ覚えてやしないんだろうな。
でも、今日の食事の残りと言って親友が出してくれた
煮物は、「おいしい!」と喜んで食べていた。
あれだけかもしれない。
映画のなかで、テルコが本当に美味しく食べたものは。

食欲と性欲は並列的なものだ。
これは良く知られている事実で、
感覚的にも誰もがわかることだろう。
思えばテルコの食欲はあまり健康的なものじゃない。
カゼをひいたマモちゃんのためには手間をかけて
味噌煮込みうどんなんか作ってやっていたけど、
それを自分も一緒に食べることはしなかった。
彼女は自分のためには自炊もろくろくしない。
一人の日は昼間からビール、食事はカップ麺だ。
テルコの恋がどうもあまり健全なものではない、
ということは、こんなところからわかる。
映画だけの表現で、小説にはないものだ。




【原作小説のテルコの方が、理性的】

テルコの恋愛至上主義っぷりは、小説の方が一層ヤバイ。
マモちゃんに尽くしすぎて、会社の勤怠評価は最悪だ。
勤務中の私用電話、無断早退などを繰り返して解雇される。
入社当初は会社の同僚とうまくやっていたようだが
マモちゃんに恋してからどんどんひどくなっていき、
もう職場の人には愛想をつかされ話しかけてももらえない。
映画では同僚とうまくやれていた頃のことは割愛されており、
しかも「職場のみんなから白い目で見られています」といった
ことがわかる描写もほとんどないが、
原作小説にはかなり克明に、テルコが恋のために
職場からの信用を失っていったようすが描かれていた。
また、恋の悩みでハローワークの失業認定日をすっぽかす。
大学も、相手こそ違え似たようなことで2回留年している。

だが一方で、小説のテルコの方が、映画の彼女よりも
いろんなことをそれなりにちゃんと「わかっている」。
映画のテルコは、もっとぼーっとしてる。
病的なまでに「わかってない」感じがあり
わたしにはそれが、観ていて腑に落ちない部分だった。
こんなにバカな子、本当にいるかなあ・・・と思ったのだ。

例えば
「自分のなかに、自尊心らしきものが未だにきちんと
 存在することに驚いた。そして、その自尊心すら
 不必要だと思おうとしていることに、さらに驚いた」
 (角田光代『愛がなんだ』 角川文庫 P130より)
映画のテルコは、これを自覚していない。
会社の最終出社日に、同僚の女性から
「自分のことも(重要じゃないんですか)?」と問われて
テルコは、「え??」とキョトンとしていた。

それから、
どんなワガママも権力に物を言わせて通してきたために
己の残酷さや傲慢さに鈍感になってしまった、
どこかの国の王さまのエピソード。
悪いのは王ではない。王のワガママをいさめることなく
言うなりになってしまった家臣たちなのではないか・・・。
この話をした友人は
「あんたも好きな人の言うことを何でもハイハイ
 聞いてあげちゃうから、つけ上がらせているのよ」
とテルコに釘を刺していたが、
テルコには、まったく刺さってなかった。
そもそもマモちゃんはワガママなんか言ってないもんと
良くわからないフォローを必死にしていた。

このとおり小説におけるテルコは
自分の心のなかで起こっていることや
自分の感情の動きについて、
案外良くわかっているフシがある。
それは、わたしが個人的に思う恋する女性の姿としては
よりリアルであったし、また、
「ちゃんとわかっている」ことがわかるからこそ
「それでも自分を止めようとはまったく思いません」
というテルコのスタンスが、物凄く心に迫るのだった。



【テルコよ何処へ行く・・・】

あれほどまでに深く傷つくことを繰り返しても
「マモちゃんのそばにいたい」が最優先とは。
テルコは、自分の恋を
「うまくいかなかった恋愛」
角田光代『愛がなんだ』 角川文庫 P175より)
と、ちゃんと理解している。
「うまくいかなかった」と過去形にしている。
自分の恋がとっくの昔に終焉を迎えていることを、
知っているのだ。
やはり、テルコの恋は、恋ではないことになる。
彼女のそれは、いったいなんなのか。
「私を捉えて離さないものは、たぶん恋ではない。
 きっと愛でもないのだろう。
 私の抱えている執着の正体が、
 いったいなんなのかわからない。
 けれどそんなことは、もうとっくに
 どうでもよくなっている」
角田光代『愛がなんだ』 角川文庫 P211より)

テルコにその執着を手放して
一刻も早く、楽になって欲しかったが。
本人がこれで良いと言うのならしかたがないのか・・・。

嫌われたくないあまり、何でもマモちゃんの言いなりだったテルコが、
彼の「会いたい」コールに初めて「NO」の意思表示。
「スミレさんの話なら、今は聞きたくない」。
えらいぞテルコ! 思わず心のなかで快哉を叫んだ。
しかし、
「スミレさんじゃなくて、君とのことを話したい」
と言われて、すぐにベッドから起き上がるテルコ。
この期に及んでまだ何かを期待してしまっているのだ。
あのシーンは、わたしまで胸がふさがる思いだった。

あなたのことはもう好きではなくなったという
アピールのために、別の男性を紹介してもらうテルコ。
マモちゃんが連れてきた「神林くん」は、
控えめに言ってもマモちゃんよりもずっとずっと
みめ麗しく、品行方正そうな男性であった。
わたしとしてはこの出会いが、何度か会ううちに
本物の恋になっていかないかなと思わずにはいられなかった。
だが、テルコがああいう子であるから、相手が誰でも、
また同じことの繰り返しとなるのだろうか。

神林くんと腕を組んで、テルコは夜の街に消えていった。
どうもふたりだけでもう一軒、飲みに行くみたいだった。
マモちゃんへの思いがもはや恋などという
代物ではなくなっていることを、自覚している。
では恋でないなら何であるのか、それはわからない。
だがテルコはやはり酒を飲みに行った。
飲まなきゃやっていられないことを、しに行ったのだ。

マモちゃんに、あなたのことはもう好きじゃないと
宣言してしまったので、
好きですカードは今後なかなか切りにくいところだと思う。
テルコは何を取りに行こうとしているんだろうなあ。