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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

「勝手にふるえてろ」

 

英題:Tremble All You Want
大九明子 監督
2017年、日本

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【映像作品ならではの工夫】

原作小説も読んだが、映画の方が好みだった。
映像であることの強みが活かされていた。
赤い付箋が、濡れて色を変えていく所や、
ヨシカの「脚」と「靴」を印象付ける表現。
それから、職場の女性社員たちの仮眠のシーン。
おのおのがセットしたアラームが鳴り、
スマートフォンの画面が、暗い部屋のあちこちで、
蛍のように明滅する。
会社勤めの女性の悲哀が、ほの見えた。

ヨシカの部屋が「良いにおいがする」
というくだりも心に残る。
ヨシカは漢字で「良香」だしなー。
自力で運ぶには重すぎる荷物が届いても、
ボヤ騒ぎを起こして手助けが必要な時も、
ヨシカは、部屋に他人を入れない。
職場で唯一親しい同僚のクルミでさえ、
部屋に招き入れたことはないようだった。
「ニ」だけが、ヨシカの部屋の玄関に足を踏み入れた。
彼だけが、部屋の香りをかぐことを許された。

同窓会の企画のために勝手に拝借する、
元クラスメイトの苗字「紫谷」も、うまい工夫だ。
情熱の赤と冷静の青を、混ぜて作るのが紫だ。
同窓会をやろうとした時のヨシカの、
高揚する感情とイカレた打算が垣間見えた。
・・・と思うんだけど・・・、
紫谷って苗字は、ちょっとめずらしすぎたか。
現実に紫谷姓が何世帯あるか存じ上げないので、
こう言っては失礼に当たるかもしれないが、
「設定」感が強すぎ、がんばりすぎに思える。
村崎と書いてムラサキと読ませるとか、
下の名前を「紫/縁(ゆかり)」にするとかして、
気づいた人だけのお楽しみ程度にしておいてくれたら
良かったのかなという気がする。

松岡茉優の見事な演技には、ただただ釘づけ。
みんなが寝静まった仮眠室でまんじりともせず、
爪を噛み、脚をぷらぷら。幼女のような瞳。
「元オタク、人間関係ドヘタ女子」に
見た目や口調などの外形的な面だけでなく、
内面からなりきろうとしていたのを感じた。



【自分VS他人・・・ヨシカの対人関係】

他人のとらえ方、人との関わり方が
陰にこもり、攻撃的で、極端だ。ヨシカは。
リアルの世界における彼女の他人の扱い方は、
(1)見下す
(2)関わろうとしない
(3)まれに信頼を寄せても些細なことで評価を翻す
このどれかだ。「その他」はない。
10年来の恋の相手は、中学卒業以来会っていない同級生男子。
リアルの世界に召喚された彼は(3)扱いだ。
一念発起してみずから同窓会を企画、
再会した彼とせっかく良い雰囲気になったというのに、
自分の名前を覚えてくれていなかった・・・という
わずかその一点がマイナスポイントとなって
10年物の恋心はグラついた。
思うにヨシカはイチと必ずしも交際したかったのではなく、
彼が今も理想の王子さまであることを確認したかっただけで
もしイチが本当に自分を好きになってくれたとしても、
それはそれで困る、という感じだったのだろう。
本気で交際したければ、名前を忘れられていたくらいで
あきらめるとも思えない。
実際、二人の会話はかなり盛り上がり、
けっこう良い雰囲気になっていたのだ。

街の人びとと交わしてきたおしゃべりが、
すべてヨシカの脳内ダイアログで、
実は誰ひとりとしてお近づきになったことがなく、
世間話も交わしたことがないと発覚するシーンも、
ヨシカの考え方、人間関係への取り組み方を
とらえるためのヒントになる。
ご近所さんとずいぶん仲が良いようだけれど、
全部妄想なんだろうなと、早いうちから気づいてはいた。
不思議なほどヨシカに優しい人ばかりだったから。

ヨシカは、自分を喜ばせる反応をくれない他人を
必要としていないのだ。 

 

【大嫌いだけど大好き・・・ヨシカにとっての自分】

ヨシカは、自分自身をどう扱っているか。
これはわかりやすいようでけっこう複雑だ。
まず、ひどく卑下している。
「わたしなんてショボい人間」と感じてもいる。
でもそんな自分が大切。妙な話だが、やたら自信がある。
わたしは大切にされるべき存在である、というスタンスは
意外なほど強固だ。絶対に他人に傷つけられたくない。
自らを貶める発言をちょいちょい進んですることで、
あらかじめ軽度に傷ついておき、
他人にふいに傷つけられて重傷を負う事態を防ぐ、という
こまめな予防措置に余念がない。
「あたしってほんとクソヘタレ」
「あたしごときが求めすぎちゃだめなのに」
「ていうか、あたし友だちいないし」 



【言い訳が立てば何でもできる・・・ヨシカの行動】

ヨシカに言わせれば、
恋愛感情に任せて単純な行動に走る周囲の人は
「本能に流される野蛮な人間」だ。
(ヨシカは明言しないが、
 クルミみたいな子を想定しているんだろう)
どうやら、
わたしはそんな野蛮な人間ではありません、
恋だって理性的に、慎重に考えて取り組みます!
というつもりのようだ。
確かに、何かしら行動を起こす前のヨシカは、
(傷つきたくないというのがその理由の大部分だろうが)
実にさまざまに思考をめぐらす。
だけど、それだからといって彼女を
内向的とか内省的とは言いがたく、
賢い子だとも言えない点に、注意が必要だろう。
彼女の思考には客観性というものがなく、
その行動は、むちゃくちゃなのだ。

イチに会いたい一心で同窓会を企画するあたりから俄然、
ヨシカは驚異的な行動力を示し始める。
他人の名前を騙ってSNSで出席者を募るなんて、
大胆不敵どころの騒ぎではなく、無鉄砲そのものだ。
だが、ニセモノであることが仮にバレたとしても、
名前を騙った張本人が自分であることまでは、
バレないはずだから大丈夫という
一応の計算あってのことだろう。
多分、ヨシカは、自分のなかで一応の理屈が立てば、
どんな思い切った行動も、愚かなこともできてしまうのだ。
彼女が行動するうえで絶対に確保したいのは、
何よりも、自分自身の安全の保障だろう。
「何があってもギリギリ自分の立場や要望は守られる」。
我こそは理性的な人間、と思いたい人間は、
まず「理性的な自分でいられる環境」の整備に腐心する。




【こういう子になったのはなぜか??】

他人が怖いから、そもそも関わろうとしない。
他人への興味もできるだけ持たないようにしているようだ。
でも自分が他人からどう見られているかには
大いに興味がある。
自分が大嫌いだけど、でも大好き。
自信がないけど、ある意味では自信家。
他人を、味方or敵という二極区分でとらえ、
他人が自分にするすべてのことを、その区分でのみ解釈する。
その解釈が正しいかどうかを、他人とすり合わせる作業は、
怖くてやりたくないから、やらないので、
彼女の判断はいつでも正しいことになる。

未分化で、幼い。
もっとも、子どものうちは誰だって、これで良いのだと思う。
他人との関係は、学校生活や友だち付き合いなどのなかで、
少しずつ経験し学んでいくものだ。
人は「敵」とか「味方」とかじゃないということも、
割り切れない心、人間関係というものがある、ということも
傷つきながらだんだんと知っていく。
だが、ヨシカはその経験をあまりしてこなかったようだ。
「その経験があまりない暮らし」を、なぜ選んだのか。
内に閉じこもるようになったきっかけがあったのか。
原作小説を読んでも、背景はわからずじまいだった。

まあ、
なんで君ってそういう子なの?って聞かれても
ヨシカも困るだろうな。
なんで?も何も、
ヨシカはただ「そういう子」なのだ。
平等に同じ条件、同じ環境を与えられても、
暗く考える人は暗く、キモく考える人はキモく考える。

はっきりと描写されていたわけではないので、
ここからは完全に推測なのだが、
うがって考えてみるならば、ヨシカは、
他人とできるだけ関わらないようにし
ナゾの眼位「視野見(しやみ)」を活用することで
視界に(心に)入ってくるものを
ナイーブすぎる自分の心が耐えうるものに限定していたのかも。
・・・ややこしいものの言い方をしてしまった。
要するに、ヨシカには、
「見たくないこと」「知りたくないこと」
が、あったのではないか。
例えば、クラスのなかで孤立していた自分自身とか。 


【誰しもみんな、ヨシカ的】

今、自分で書いていて、ちょっとハッとしたことがある。
なぜそうなったかも何もない、
「ヨシカは、ただ、そういう子」。
そういう子はダメなのか。
いてはいけないのだろうか。
ダメなヨシカは、変わらなくてはいけないのだろうか。
いけないも何も、現に、いるのだ。
それにヨシカみたいな所は、考えてみれば誰にでもある。

ヨシカは、男性との交際経験がないという秘密を口外されて、
屈辱のあまり、休職しようとまで思い詰める。
近所のコンビニの、奇抜なルックスの店員に、
実は話しかけてみたくてしかたがないのだが、
ヘンな人だと思われたらイヤなので、できない・・・と悩む。
「処女だ」と指さされて、会社中の笑いもの?
コンビニの店員に「あんたヘン」と言われる?
そんなことあるわけがない、もっと肩の力を抜け。
・・・そう、周りが言うのは簡単だ。が、
ヨシカみたいな考えにさいなまれることは、
実は、誰にでもあるものだ。
落ち込んでいる時、孤独な時には特にありがちだ。
世界中の人が、自分の行動を好奇の目で監視していて、
ちょっとでもバカなことをしたらお前を笑ってやる、と
待ち構えている・・・的な感覚におちいること。
ありえないと知りつつ、不安な妄想が止まらない。
誰にもありえる。
「ヨシカ的」な人はどこにでもいる。
わたしたちみんなだ。

ヨシカが「他人が自分をバカにしている」と感じるのは
ヨシカ自身が他人を内心バカにしていることと裏表だ。
人には人の考えがあるということを想像する余裕がないから、
他人も自分と同じ考えである、と判断するしかないのだ。
ただ、そこからいくと、ヨシカが
「みんながわたしを『処女だ』と見下している」
と考えている、これすなわち、
ヨシカも内心で処女の女性をバカにしている、
ということになるが・・・。
この点はちょっと、どうかなと個人的には思う所だ。
同僚の誰かが恋愛経験ゼロだという噂を聞いたら、
ヨシカはその同僚を
「じゃああの人って処女なんだ。恥ずかし~」
と、嘲笑うというのか? 自分も同じなのに?
考えにくい。
ヨシカの本性の部分に、そんな意地悪な子は棲んでいない。
彼女は
「こんなわたしだけど尊重してよ、優しくしてよ」
と願っている子だ。
(「こういう重いのも私だよ。受け入れてよ!」)
弱さを抱えた他人に寄り添えるだけの優しさを、
本当は持っているはずだと思う。
他人への素直な思いやりを発揮するために、
彼女に足りないものが何かあるとすれば、
それはほんのちょっとの勇気だ。
人の幸せを願うなら、簡単に言えば、
「あなたにとっての幸せとは何ですか?」と
問いかけることが欠かせないのだが、
ヨシカはそれが怖くてできない。 

 

【メッセージが聞こえる】

 「勝手にふるえてろ」は恋愛映画なんだけど、
ヨシカの恋について考えることは、何だか難しい。
何度も言うようだが、ヨシカの心はとても幼い。
良く言えば「純」なのかもしれないが、度が過ぎている。
はっきり言って「恋以前」の段階の子に思える。
個人的には、
恋なんて、ヨシカには重荷じゃないかなと。
1回目にこの映画を観た時には
ラブストーリー仕立てになっていることそれ自体を
疑問に感じたくらいだった。
(原作も「なんで恋愛小説なんだろう」と思った)
でも、「勝手にふるえてろ」はラブストーリーなのだ。
本当に、なぜなんだろうな。
なぜヨシカは恋をしたのか、という感じだ。
元も子もない疑問の持ち方ではあるのだが。
ラブストーリーなのだ。
正直なところ感覚的には今でも納得しきれていないのだが、
ヨシカの価値観の、劇的な大転換を描き出すには、
恋愛くらいの巨大爆弾を投下しないと、ということか。
友人付き合い、趣味、仕事、勉学、
どれも心にそれなりの成長や変化をもたらしてくれる営みだが、
何といっても恋愛は別格。
すべての人にとって完全に異常事態だ。
ましてヨシカは他人との間に壁を作り、
心のカラの内側に籠城して生きてきた。
外から叩き破ってくれる人は、
これまで一度も現れなかった。
今やガードはまさに鉄壁。
生温かい「お友だち関係」とかでは、もうダメだ。
彼女の心の聖域であり、コンプレックスでもある
「恋心」そのものにゆさぶりをかけなくては、
もうヨシカが、人間関係について、今よりいくらかでも
やわらかいものの考え方ができるようになる、
つまり「大人になる」チャンスは二度とめぐってこない。
だからこそ今、彼女の恋が動き出したわけなのだ。
そうとしか考えられない。

さて、自分のことが大好きなヨシカには、
「わたしの恋は、素晴らしく、ちゃんとした、
 正しいものでなくてはならない」
「わたしはみんなとは違う理想的な恋をするの」
という気持ちがあると思う。
なんだそりゃって感じだが、まあ青写真てことだ。

では、ヨシカにとっての正しい恋とはいかなるものか。

理想の彼イチを思い続ける恋
→ただしイチはあくまでもバーチャル彼氏。

現実の恋人候補ニと向き合う恋
→ただしイチではないから、理想の相手とは言えない。

ヨシカにとって、どちらが望ましい選択か。
どちらも真に理想的とは言えず、このままでは選択できない。
だけど、
過去のなかにしかない恋を追い続けるあまり、
今下すべき新しい判断を保留にしてしまっている。
これこそ一番あってはならないことだ、と
ヨシカが考え直したとしたらどうだろうか。
イチという選択肢を棄てるべき時が来たと、
心の奥底で気付いたとしたら。

冒頭の、ハンバーガーショップでの空想シーン。
・・・
本能のままにイチと結婚したって
わたし絶対に幸せになれない。
結婚式当日も、イチが心変わりしないようにって、
野蛮に看守役(『監視役』?)続けてなくちゃならない。
そんなんで幸せ味わえるかよ。
その点、ニなら、わたしまるで他人事みたいに
お式堪能できちゃう。
ドレスのままチャペル飛び出して
よくわからんが 丘、駆けおりて
ニのことわがままにほったらかして波とたわむれたり
デコルテあらわなドレスで
肩上下させてはーはーしたりして
花嫁タイムをエンジョイできちゃう。
だけどやっぱり、イチが好き。

・・・
ヨシカの服装から推測するに、
この空想シーンの時間軸は、イチに失望した翌朝だ。
彼女は傷付いて、迷っている。
でも、決定的に変化している。
これまでヨシカが発してきた、
「本能のままに生きる」「野蛮」というキーワードは、
現実に妥協する恋をする人、
身近な所で手を打ち、お手軽に恋を楽しんでいる人に
向けられていた。
それが、この空想シーンのセリフを検討すると、
事情が大きく変化したことが読み取れる。

「本能のままにイチと結婚したって」。
ここに注目したい。
地味~に、革命的なことを言っている。
ヨシカにとって、イチは理想の象徴だった。
それがここでは、彼との恋を成就させることは
本能に身を任す(野蛮な)ことだという表現に、
変化しているではないか。まあ「結婚」は妄想がすぎるが。
本能=野蛮=妥協ずくの現実の恋 
だったはずが、
本能=野蛮=過去の感覚を信じ理想に生きる
に変化している。
ということは、
理性=理想=自分を好きだと言ってくれる相手と向き合う
これこそが、わたしのような理性的な人間の選ぶべき恋だ、
という考え方に変わったと見られる。
でも、ヨシカは「だけど、やっぱりイチが好き」と泣いている。
イチへの恋を手放すことを、まだこの時点では決断しかねて、
苦しんでいるのだ。

結果だけ見れば、ヨシカはつまり
現実の恋人候補二を選んだことになる。
だが、彼女のなかではおそらく
「イチはもう脈ナシだから、現実の二との恋に鞍替え」
・・・とかいうものではないのだ。ここは大事だ。
「良い歳になったら夢みたいなことを考えるのはやめて
 手頃な相手を選んで身を固めるべき」
誰が言い出したか知らないが厳然と鎮座する社会規範に
屈したのでもない。
ヨシカはニと交際すると自分で決めたのだ。
その方が理性的で正しいことである、という
彼女なりの思考に基づいて。

このことをどうとらえれば良いのだろう。
要するに、性格はもちろん、思考パターンも何もかも、
ヨシカは物語の冒頭と終盤とで見比べても
そ~んなには、変化していないのだ。
「理想の相手を追い求めるのをやめて、
 好いてくれる人の胸に飛びこむ、
 これこそ理性的で正しい人間の恋のあり方」
なんて、やっぱりちょっと傲慢っぽい感じだ。
「二のことが好きになった」と素直に言えば良いのに。
何より、その方が恋愛の顛末としてすんなり理解できる。
だが、物語はそのように安易な方向へは流れていかない。
まあ確かにヨシカは、二の素朴な人柄にひかれつつあった。
例えば物語の終盤にもなれば、彼女は
夜のレインボーブリッジというありふれた景色を
「きれい」と言って指さす二を、鼻で笑ったりはしない。
ルックスも発言も平凡で、欠点も少なくない二だが、
ヨシカが喜ぶことは何か、ヨシカはいま幸せか、と
いつでも当たり前のように考えてくれている男なのであり、
ヨシカも彼と過ごすなかで、それを認めていくのだ。
だが、ヨシカは
「イチのことはもうあきらめる」とも
「二のことが好きになった」とも
一度も言うことなく、二の胸に飛びこんでいった。
あくまでも思考のうえで二を選ぶべきと判断した、と
解釈するしかない流れになっている。
それで良かったのだと言えるのかどうか考えるためには、
ラストシーンに目を凝らすしかないように思う。
ヨシカの選択に祝福のまなざしが注がれていることは明らかだ。
ということは、少なくとも「勝手にふるえてろ」は
ヨシカの選択に「OK」を出す物語なのだ。
・・・先に述べたことだが、
ヨシカのごとく、こじれた自尊心は、
わたしたちみんなが持っているものなのだ。
誰もが理想を追求したがっている。
だけどできれば傷つきたくないな・・・、などと
ムシの良いことを考えている。
自分だけは人より正しくカッコ良くありたがっている。
時には「こうしたい」ではなく「こうあるべき」で動く
カッコイイ自分を貫徹してみたい・・・と願っている。
賢くはない。ただただ考え過ぎで、臆病。
それがヨシカであり、そしてわたしたちだ。
そう考えると、
「運命的な恋を通して大きく成長」とか
まったくと言って良いほどしてない状態で
ヨシカが下した判断が、
まるごと肯定された・・・ということは
わたしたちみんなに「OK」が出されたということだ。
頭でっかちで、幼稚で、臆病なままでも、
思うままに進んで良いんだよと、言われているのだ。

ある種、すごく画期的な映画と言えないだろうか?

どうせそこまでイジイジ考えるなら、
さらにもっと突き抜けてイジイジしてみなさいよ。
そうしたら別の理想の形が見えてくる。
この映画は、ヨシカの恋を通して
そんなメッセージを送ってきているのではないか。

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