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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』

※劇場公開中の映画について書いているので
 くれぐれもご注意を。
 未見の方は鑑賞後のお越しをお待ちしております。



まんきゅう監督
2019年、日本

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www.youtube.com

観ていた時と、そのあととで、評価が激変した。

観ていた時には、退屈で何度か舟を漕ぎかけた。
わざとらしい猫撫で声のナレーションが鼻についた。
メタフィクション的くすぐりは板につかず片腹痛かった。
今っぽすぎるマンガ表現が悪いとまでは言わないまでも、
牧歌的なこのアニメの雰囲気にはそぐわない気が最後までした。
※・パニックを起こした時に突然ダラダラと汗をかき始める
 ・おびえた時に全身が小刻みに震え、カタカタと音がする
 ・びっくりした時に白目をむく
 ・がっかりした時に青白い数本の横線が顔の横側にかかる
 ・歓喜した時に頬が赤く染まり、背景にの花々が散る
 ・隕石のごとき猛スピードでキャラクターが落下・・・など。
不安定でギクシャクした脚本も気になった。
タイトルに「とびだす絵本」とあるにも関わらず、
絵本のポップアップ機能が物語の展開に活かされない点に、
手際の悪さを感じた。
映画館をあとにし、駅に着くまでのおよそ8分間、
さてどう悪口言ってやろうかってことしか頭になかった。
この程度の内容で満足するほど今の「大人」はアホなのか?
おつむが弱ってきていて、このくらい平易な内容の
コンテンツでないと、もう理解できないということか?
・・・そんなエラそうなことも考えたことを告白する。

だが、感情の中身をもう少し見つめてみる気になった。
何か、わずかに引っかかるものを感じたからだった。
結果、数々の不満とはまったく別の気持ちを、
抱いている自分に気づくことになった。
心がほんのり温まっていた。
かすかな痛みをともなって。

善意だけではどうにもならない局面というものが確かにある。
だがそれでも、善をなし、優しくし合う不断の努力は尊い
なぜならそんな切なる思いからしか、良き世界は生まれない。
そんなことを描きだした物語だったと、とらえている。

「すみっコ」たちがなぜ「すみっコ」かと言えば、
割とどの子も、日陰者だからなのだ。
恥ずかしがりで内気(ネコ)。
自分の仕事が果たせないことにあせっている(とんかつ)。
「らしさ」のレッテルに見合うふるまいができない(シロクマ)。
本来の身分を隠して生きざるを得ない(とかげ)。
アイデンティティーを失っている(ペンギン?)。
そんなこんなの事情を抱えているために、
場の中心でスポットライトを浴びるより、
部屋の隅でお茶でも飲んでいた方が気がラク
という感じの子たちなのだった。

彼らが絵本のなかで出会うこととなった、
昔話や童話のキャラクターたちも、
どこか「すみっコ」っぽくて、
アウトサイダー的な性質を備えていた。
※ただ、すべてのキャラがそうではなかった。
 『アラビアンナイト』と『人魚姫』のパートに、
 構成的に何の意味があったのか良くわからない。
 『マッチ売りの少女』パートも同様にビミョーだ。
 『アラビアンナイト』のパートは、完全にナンセンス。
 『人魚姫』のマーメイドなどは、まさに古今東西
 気の毒系ヒロインの代表のようなキャラなのだから、
 使いようでもっと物語に寄与させられたのでは。

引きつけ合う所があるということなのか、
この日陰者どうしの両者の出会いは
本来の物語の「お約束」をことごとく崩壊させるという
かなりスゴイ変革を引き起こしていく。

例えば『赤ずきんちゃん』のなかで、オオカミは、
赤ずきんちゃんとおばあさんを餌食にするのだが
自業自得とはいえ腹かっさばかれて石ころを詰め込まれ、
重くてよろけた所を猟師に撃たれる・・・という
あまりと言えば酷な末路をたどることになっており、
幼児向けの絵本などでは、このシーンがカットされている
ものもあるそうだ。
このオオカミ、『すみっコぐらし』の絵本のなかでは
とんかつが演じる赤ずきんちゃんと出会う。
とんかつは、「誰かに食べてもらう」という自分の仕事を
果たしたくて果たしたくてウズウズしている子だ。
このようなふたりが出会った時、話が妙な方向に動き出し、
オオカミは赤ずきんちゃんにありつけないばかりか・・・。

鬼ヶ島の鬼たち(『桃太郎』)が、
正義の味方を自称する、どこの馬の骨とも知れぬやつばらに
ある日突然攻め込まれて居住環境をめちゃくちゃにされ、
ほしいままに虐待されたうえ家財根こそぎ奪われるという、
見方によっては相当に不憫な役回りであることは、
昔から、それこそ福沢諭吉なども指摘していることだ。
だが『すみっコぐらし』の鬼は、巨体ではあっても
特に好戦的とは言えない感じのノンビリ屋。
そして彼が出会う桃太郎は「ネコ」だ。
内気で臆病で、鬼退治なんて絶対ムリ! な感じの子。
このふたつの個性の出会いは、
『桃太郎』のお約束「開戦」を回避せしめてしまう。

「すみっコ」たちの優しさや弱さが、
絵本の世界のアウトサイダーたちの悲哀を包み込む時、
引き起こされる予定だったはずの殺戮と涙は、相殺される。
このイレギュラーは、絵本のなかの各童話や昔話の世界で起こる。
ひとつひとつはほんのちょっとしたハプニングでも、
集積すれば大規模な地殻変動につながるのだろう、
殺戮と涙の代わりに生まれた融和はやがて、
「すみっコ」たちが元の世界に帰るための道を押し広げる
巨大なパワーとなってかえってくるのだ。

だが、
みんなとひとりだけ根本的に違う存在である、あの子。
生まれて初めて、自分を「仲間」と呼んでくれる
優しいひとたちと出会い、温かな時間を過ごす機会を得た。
心の居場所を見つけられた気がした。
しかし、やはり自分はこのひとたちと「違う」、という
残酷な現実をつきつけられることとなる。
優しいこのひとたちには帰る場所があり、
自分だけはやっぱり、一緒に行けない。

『すみっコ』たちの優しさにはとてつもない力がある。
だがそんな力をもってしても、
大切な友だちひとりどうすることもできない、というわけだ。
切ない展開であった。

生まれながらにして孤独であるという
いかんともしがたい現実を哀しみつつも、
それを卑下せず、優位性を強調しようともしていない所が、
印象的に思えた。あの子は、
「違う」ことのために便宜が図られることを要求したり、
みんなが自分のために何とかしようと奔走してくれることを、
求めたりはしなかった(その権利があること自体知らない)。
「違う」ことは、庇護されることではなく、無力でもない。
あの子自身が「すみっコ」たちのためにできることもあった。
あの子のありようには、もどかしさと愛おしさを感じた。

「違う」からと言って「守ってあげるべき存在だ」などと
思い上がった勘違いをわたしはしていないだろうか。
わたしは自分がみんなと違う時、それを理由に
「守られて」、はたしてうれしいだろうか。
ちょっとわが身を振り返った。
「すみっコ」たちの、あの子への対応ぶりには、
わたし自身、見習うべき所があったのだ。
頼まれてもいないのに先回りしておせっかいをしない。
悩んだ時には一緒に頭を抱えるだけ。
寂しい時には隣に座ってあげるだけ。
あの子の帰るべき場所が見つかったかに思われた時も、
帰りたいかどうかは当人の意思を大切にし、
やたらと大騒ぎして送り出したりはしないのだ。

やはり他者と心をつなぐうえで大切なのは、
対話と尊重であるのだろう。
簡単に言えば「あなたにとって幸せとは何ですか」と
尋ね合い、確かめ合うことだ。
その結果、例えば
自分が相手に提供したいものと、
相手が欲しいと思っているものとが、
違うと判明しても、別にそれは問題でなかったりする。
お互いにそれでもつながっていたいと思う時は、
違うということがわかったら、違うんだねと言い合う。
それだけで何かがだいぶ変わってくるんだろう。

だが、ここでひとつの疑問が生まれる。
お互いに嫌いで別れたわけではないが
お互いの幸せについて確認し合うことは
もう二度とできない、という時、
心のつながりはそこで断絶することになるのか。

あの子と一緒に居続けるために
「すみっコ」たちにできることはひとつもなかった。
手も足も出なかった。
キッズ向けアニメとしてはここでミラクルな力が働いて、
ひとりとして泣かすことのない結末に導かれ、
「良かったね」で終わっても良さそうなものだが、
「さよなら」は「さよなら」。
意外なほど、甘えのない展開だった。

だが、すべてが終わったのちに
「すみっコ」たちが凝らした趣向が、
あの子の世界に、ある変化をもたらした。
それはエピローグでほのめかされた。
いくら「すみっコ」たちがあのようなことをしても、
具体的な効果が望めるという確証はなかったはずだ。
それでもしたのは、どうかあの子が幸せであって欲しい、
そんな切なる願いがあったからに他ならないだろう。
あの子が「そんな風に願われたいか」は確かめようがないが、
「すみっコ」たちにとっては、
それだけ、あの子との思い出が大切だったのだ。
そんな優しい願いが引き起こした奇蹟なのか、
あの子の世界では、うれしくもちょっと可笑しいことが
起こっているらしいのだった。
※本作の鑑賞者レビューに
 「『アンパンマン』みたいなものだと思って観たら
  『攻殻機動隊』だったくらいの衝撃」
 といったものがあると聞いた。
 このレビューのことを知った時、
 なぜ『攻殻機動隊』が出てくるのか、と思っていたが、
 多分このエピローグを指して言ったレビューなのだろう。
 まあ、このあたりは実際に映画を観ればわかってもらえるはずだ。

本作のような物語は、もうわたしたちの社会では
作られないんじゃないかな、と思っていた気がする。
なぜなら、わたしたちは自分が一番大事なのだ。
自分が傷付かないことが何よりも大事なので、
他者に関心を持つことをやめてしまいたい。
どんなに他者に関心を持ち関係を深めたいと願っても
他者は自分の思うようには決して動いてくれないから、
いつでも予測不能で危険な存在だ。
「この他者は決してわたしを傷付けない」
「わたしにイヤな思いをさせることは絶対にない」
という保証でもない限り、他者にコミットしたくない。
自分ひとりで生きる力があれば、他者は必要ない。
ひとりでいれば、他者に傷付けられることもない。
もちろん、他者に
「あなたはわたしを不安にさせるから、死んでくれ」
などと言うつもりはない。
同じ地球上にいてくれて構わない。
だが、お互い関知せず勝手に生きよう。それがベストだ。
わたしたちは、傷付かないために、自分本位に生きたい。
そういうことを、もっと堂々と主張して良いのではないか。
・・・そんな方向に、猛烈なスピードで
わたしたちの思いが、傾いてきているのを感じる。
その趨勢をわたしたちがすっかり受け入れた時、
人の世界がそれによってどう形を変えるかは
「変わり終えて」からでないとわからないのだが。
常日頃、わたしはそんなことを感じている。だから、
キッズ向けアニメなどではもうお呼びでないと思っていた。
他者への献身、他者の尊重、他者への認識を問う物語は。
ところがそんな物語が、こうして出てきた。
あまつさえ、効果があるか確証がないことをやるという行為、
それも「他者の幸福を願う」という行為を、肯定していた。
※「本当に願いが届きました」という形ではなく、
 あくまで含みを残す描写に止めていた所も、
 『ライオン・キング』などよりはイデアリズム寄りの
 ものを感じて、個人的に好感が持てた。かろうじて)

他者との交わりのなかで疲弊する。
わたしもそうだ。
自分と他者とは違うから、
一緒に何かをすると煩わしいことがしょっちゅうだ。
必ず傷付けるし、傷付く。
だけどそれでも今は、
他者との交わりのなかで生きることに
わたしの幸福を見出せると信じている。
自分ひとりでは生きられないからしかたなく、ではなく。

アラさがしをすればキリがない映画ではあった。
物足りない部分も少なくなかった。
だが、他者とともに生きることの美しさと
その望ましいあり方についての思いを
わかりやすく真摯に伝えようとしていた。
地味なために黙殺されがちなものの価値を見直し、
精一杯、肯定的に描こうとしていた。
完璧だったとか、高度だったとかいうわけではないと思うが、
描こうとした、というそのことに、価値を感じる。
わたしたちのこれからの生き方についての、
示唆に富む映画であったと
好意をもって受け止めている。