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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『真実』

 

原題:La vérité
是枝裕和監督
2019年、日・仏合作

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人によって、場合によって、さまざまな解釈が
生まれ得る映画だと感じた。

ここではわたし自身の解釈を述べてみたい。



【わたしの解釈】

ファビエンヌとリュミールは、
どちらも、自分の本当の気持ちから逃げていた。
それを認めたくなくて、知られたくもなくて、
過去のできごと(事実)を元に
自分にとって都合の良い「真実」を作り上げ、
その陰に隠れていた。
この母子の関係がうまくいっていないのは、
ふたりがそれぞれに作った「真実」の内容が、
ぶつかり合うものだからだ。
母子で共有できる新しい「真実」を作れた時、初めて、
ふたりが和解できたように見えた。

母子が和解できたタイミングは、
マノンがサラの服を着て去ってくれた時だったと思う。




ファビエンヌの「真実」】

まず、母親のファビエンヌを見てみたい。
彼女が隠したかった「本当の自分」とはどんなもので、
それを隠すために何をしていたのか?

彼女は表向き、
「いかにもな感じ!」のフランス中高年女性だ。
女優としてのキャリアは自他ともに認める所だが、
お高く止まって、気が強く、歯に衣着せず、皮肉屋で、
都合の悪い時だけ耳が遠いフリ、まあ小憎ったらしい。
カトリーヌ・ドヌーヴが、本当にこういう、
 ムカツクけど何か可愛い感じをうまく演じていた)

でも、本当のファビエンヌときたら、全然違った。
少女のように繊細で、臆病で、嫉妬深いのだ。
終盤になって、彼女は娘のリュミールに明かした。
ライバルだった「サラ」に、女優としての才能でかなわなかった。
このうえ母としての立場まで侵されるのではと嫉妬した、と。
これはあとで詳しく述べてみたいと思うことと絡むのだが、
リュミールは、母にされたこと・してもらえなかったことを
すべて、愛されていなかったゆえのこと、と解釈していた。
だがファビエンヌにしてみればむしろ、その真逆だったのだ。

劇中劇の映画でファビエンヌと共演したマノンは、
その「サラ」の再来と称される、若手の注目株だ。
マノンの優秀さを感じるたび、ファビエンヌは憎まれ口をきく。
「まあ、生意気ねえ」「あの子、意地悪よ」。
しまいに何やかやと理由をつけて現場から脱走しようとした。
ファビエンヌの弱い所を知ってから、これらを思い返すと、
あれは、マノンに亡きサラの影を見て、苦しかったのだろう。
思い出すのだ、サラのためにかつてどんなに醜く胸が騒いだか。
マノンと仕事をしていると、カメラを向けられると、
自分の心の中が暴かれる気がしてたまらなくなり、
逃げ出したくなったのではないだろうか。
現場には、連日、リュミールが見学に来ていたのだし。
娘に見られてしまうではないか。本当の心を。

とても怖がりで傷付きやすく、嫉妬深い。
その弱さが、本当のファビエンヌなのだ。

でも、ファビエンヌは女優業に人生を捧げている。
その固い決意が、彼女の言葉の端々から伝わる。
ずっと前からそうで、これからも変わらない。
多分、「だからこそ」なのだと思う。
心弱い彼女が女優としてやっていくために、
強い自分を演じ続ける必要があったんだろう。
なんなら、強いわたしこそ真のわたし、と
最後の最後まで、みんなに思われていたい。
彼女の自伝本『真実』はその決意が形をとったものだろうし、
考えようによっては、役者であることそれ自体が、
強い自分であり続けるという彼女の「生き方」なのだ。
女優であるために強くあり続けようとしているのであり、
強くあり続けるために女優業を選んだとも言えるのだろう。

これは、本当に難しい生き方だよなあ。
生涯かけてウソを本当にしてやる、なんて。
誰にもマネのできない、いばらの道を
ファビエンヌは行こうとしている。



【リュミールの「真実」】

このような人を母に持ったら、子どもは大変だ。
お母さんみたいになれない、と思っても無理はない。
と言うか、
お母さんみたいにはなりたくない! と嫌悪しつつも
お母さんのようにはなれない、と劣等感を抱き続ける
やっかいな気持ちを、抱えて育つことになるだろうね。
リュミールは子どもの頃、学校劇『オズの魔法使い』で
「臆病なライオン」役を演じた、と振り返っている。
「私はライオンの気持ちが分かってた」。
己の弱さを知っている。
偽りの強さを演じ切るなんて、離れ業は
私には到底できない、ということだと思う。
女優の道を早々に断念し、遠く離れた米国で、
脚本家として生きることにしたのは、
この、勝てないという思いのためだろう。
でも、逃げたとは思いたくない。
そこで、リュミールもまた
都合の良い「真実」を作り上げて、
その陰に隠れることを選んだのだと思う。

リュミールが作り上げた「真実」とは、要するに
「お母さんは私をちっとも愛してくれなかった」だ。
お母さんは家庭にも子育てにも興味がなく、
いつも自分中心の、仕事中心。
お母さんよりもサラの方がずっと母親らしかった。
サラが私のお母さんだったら良かった。
なのにお母さんは、そのサラを傷付けた。
それが許せないから私はお母さんから離れたの。
そんな所だ。
母から逃げた本当の自分を隠しておくためには、
母には「ひどいお母さん」でいてもらわなくては
ならなかったわけだ。



【和解のために必要なこと】

ファビエンヌもリュミールもこんな感じで、
弱い自分を隠すための「真実」を作り上げていた。
でも実際は、
母は弱いだけで、いつも娘を愛していたのだし、
娘は母の強さが眩しくて逃げたけど、母に愛されたい。
これを共有することが、和解の足がかりになるだろう。
後生大事に持っていた「真実」を破棄することが必要だ。
具体的には、
ファビエンヌは、弱い自分のままで女優をやっていく。
リュミールは、「私が脚本家になったのは母からの逃走」
という負い目を捨てて、その道で堂々と力を発揮する。
そして、母に愛されていたという事実を受け入れる。
それで良いんじゃないかなと思う。



【和解:ファビエンヌ

言うのは簡単だがそんなにうまくいくかね、
って感じだけど、
大丈夫だ、うまくいく。映画だから。
でも、当事者だけではダメだ。関係がこじれすぎている。
と言うか、問題の当事者はもう一人いる。サラだ。
だがそのサラは、すでにいない。
雪解けの時をもたらしてくれたのは、マノンだった。
マノンが亡きサラの服をまとい、邸を去っていく。

マノンを一言褒めてやるのさえ、
ファビエンヌには、つらい作業だと思う。
サラを褒めるような感じがするだろうから。
でも、彼女は、サラの服を着て立つマノンを眺め、
服が良く似合っていると褒めた。
また、「どことなく」だが確かに「サラに似てる」。
ずっと、マノンを通してサラを見てしまっていたが、
この時ようやく、ふたりを切り離すことができた。
強くなければならない理由そのものとして、
心の中に居座らせていたサラの亡霊から、
やっと解放されたと言えるんじゃないか。
サラの服を譲られて喜んだマノンは、
このまま着て帰りますと母子に告げ、
ファビエンヌの邸の広い庭を、歩いて行った。
その後ろ姿を見守りながら、ファビエンヌは多分、
ああサラを連れて行ってくれた、とでも言うような
すっきりとした感じを覚えたのではないか。
というのもファビエンヌはその場で急に、騒ぎ出すのだ。
撮り終わっていた映画の1シーンを、やり直したいと。
「今ならもっとうまく演じられる」。
心の中のサラが去ってくれたから、
強く完璧な自分の虚像を演じる理由もなくなった。
私は弱い。でもありのまま、一個の女優として演じたい、
そんな素直な欲求に駆り立てられたのかも。



【和解:リュミール】

マノンを見送る時、リュミールもそばにいた。
わたしは、リュミールがマノンの後ろ姿に何を見ていたか、
ファビエンヌのそれほど、明確に読解できそうにない。
でも、おそらくリュミールはマノンの背中に
「強い母の虚像」を見ていた。
映画の撮影を見学することを通して、
リュミールは、母の苦闘を感じ取ったはずだ。
「母はマノンを通してサラを見てしまい、苦しんでいる」
「でも、苦しい中でもプロとしてベストを尽くし、
 マノンの演技に応えようとしている」
それは確かだった。ファビエンヌはある夜、娘を
優しくだきしめて、サラとの葛藤の真相を告白した。
こうしたことを経て、リュミールも、
自分の気持ちと向き合う必要に迫られていっただろう。
母が闘ったから、リュミールも自分自身と向き合った。
そして、
「お母さんのようにはなれないと思ったから
 女優の夢を捨てて脚本家の道に逃げた」
と受け止めざるを得なくなったのだ。
今まで採用してきた、都合の良い「真実」
(「母は私を愛してくれていなかった」)を破棄して。
とてもマネできないほど強い母だと思っていたが、
本当のファビエンヌはそんな人ではなかった。
過ちを犯したのは弱さのあまり、愛ゆえに、だった。
リュミールはそれを知った。だから、マノンの後ろ姿に、
自分が作った母の虚像を見たのかもしれない。
マノンが背負って出て行ってくれたのだ。



【マノンのキャラ造型にややムリがあったか】

キャラクターとしてのマノンがちょっと気の毒ではあった。
構造上「依り代」としてのみ登場させられたことになり、
個性や性格があまり与えられていない感じだったので。
でも、マノンは、ファビエンヌのこともサラのことも
先輩女優としてリスペクトする、良くできた若者だった。
サラに似てる、サラの再来、と周りに毎日騒がれて、
「サラが何よ! 私は私よ!」と内心腹に据えかねている
・・・みたいな様子は、作中では見られなかった。
サラの服をもらって本心から喜んでいるように見えたことを
救いととらえておけば良いだろうか。
でもやっぱり、ちょっとかわいそうだよな。



【リュミールのこれから】

マノンが「真実/ウソ」を持ち去ってくれたおかげで、
母子は和解の道をたどれるようになったと思う。
ところで、先ほど、この母子の和解に必要なこととして、
リュミールは自信を持って脚本家をやれば良い、
・・・と述べた。
リュミールは今後、脚本家としてしっかりやっていくと思う。
そう想像させてくれる演出が、最後に用意されていた。
ちょっとした脚本を書いて、幼い娘に母の前で演じさせる。
ファビエンヌは可愛い孫の言葉にころっとダマされ、喜ぶのだ。
あれは気の利いた意趣返しと言って良いと思う。
わたしの考える所では、今やファビエンヌは、
ありのままの自分で女優をやっていく、という
新たなスタンスを打ち立てた。
そんな母を、リュミールはちゃんと、
自分自身の仕事である「脚本」でやり込めたのだ。
確かに、母から逃げて脚本家になった。
でも、これからは意志を持って脚本に取り組んでいく。
母に胸を張って見せた、ということではないだろうか。



【わたしがこの映画から受け取ったもの】

ここに自分と、他人がいて、
客観的な事実が目の前にあって、
同時にそれを目撃したはずでも、
両者が、そこから同じ「真実」を見出す可能性は低い。
他人なので、違っていて当然なのだ。
でも、同じことを考えていると信じたい。
相手が大切な人であればあるほど、そうだ。
それぞれが何をどうとらえているのか、
知り合う機会を持てれば良いと思う。
知った結果、相手の「真実」に賛同できなくても良いのだ。
「そういう真実を見ているんだね」と認知し合うだけで、
話はだいぶ変わってくるのだろう。
だがさっきも言ったが、大切な人だからこそ、
「違う」ことが許せなくて冷静に対話できない、
っていうことがままある。
映画のようにうまくはいかないだろうけど、
例えば『真実』の中で言えばマノンのように、
両者が見ているものを映し出す「鏡」の役割を
三者に演じてもらう機会があれば、頼っても良いだろう。
相手の思いを「認識する」ことさえできれば、
他人同士で心を結ぶこともできるのではないか。

是枝裕和監督は、自身の作品に
明確なメッセージを持たせない人だ。
「愛は悪意に打ち勝つ」とか
「いじめはいけない」みたいな
はっきりした主張を決してしない。
『真実』もそうだった。
だから本当に、人によって、時によって、
受け取り方がたくさんあるだろう。

わたしの場合は、この映画に
「大切な人と心を結ぶために何が必要か」を
見たように思う。