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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

「キャッツ」

 

原題:Cats
トム・フーパー監督
2019年、米・英

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全っ然好きじゃなかった。だが、
部分的に、積極的に、この映画を支持する。
今となってはもう生まれて来にくいのであろう
高度に哲学的な考察に拠った物語、と感じたからだ。




【とは言えココはやっぱりダメだった】

・ネコたちの姿形、動き
 途方もなく、えげつなく、生々しかった。
 
・歌
 多すぎた。長すぎた。
 ミュージカルなのに「また歌かよ!」と
 理不尽な不満を覚えたほどだった。
 しかもその歌が「場」に溶け込みきっていなかった。
 舞台でこそ輝く「けれんみ」のようなものがあり、
 映画がそれに負けていた。

・ヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)
 あの白ネコさんは、「踊り」が言葉であり、歌だった。
 本職のバレエダンサーだそうだ。
 歌もセリフもあえて彼女には与えない方が良かった。

CGI表現
 目を疑うほど安っぽかった。

マイナスポイントに関しては以上。

 


【でも、ココは高く評価】

ネコたちが繰り広げる「ジェリクルボール」から
わたしが連想したのは、
日本の哲学者、三木清の言葉だった。
ベストセラー『人生論ノート』で、
彼はこう言っている。

「執着する何ものもないといった虚無の心では
 人間はなかなか死ねないのではないか。
 執着するものがあるから死に切れないということは、
 執着するものがあるから死ねるということである。
 深く執着するものがある者は、
 死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。
 それだから死に対する準備というのは、
 どこまでも執着するものを作るということである。
 私に真に愛するものがあるなら、
 そのことが私の永生を約束する」




【ちゃんと生きることが、ちゃんと死ぬこと】

「●※△しないと死んでも死にきれない」
「(恨みがあるので)化けて出てやる」
わたしたちは時にそんな風に言う。
こだわりや不満、つまり執着心を残したままだと、
安心してあの世に行けない・・・。
三木清の言葉の字面を、それ前提で見ると
「深く執着するもの」があったら、
「死後自分の帰ってゆくべきところ」なんて
あるわけないじゃないか! だ。
だが「執着」を「愛情」と言い換えてみる。すると、
「愛するものがあるから、安心して逝ける」
という感じになる。
愛する人とあの世でまた会える、と思えることが
「死後自分の帰ってゆくべきところ」を持つこと、だ。
三木は続ける。
「死に対する準備というのは、
 どこまでも執着するものを作るということである」
「死に対する準備」は「終活」とかそういうのではない。
「生きること」と、とらえるのが適切かなと思う。
つらいことも楽しいこともひっくるめ、
心いっぱい愛して憎んで精一杯生き抜く。
それが良く死ぬということだよ、だ。

・・・と、わたしは解釈している。



【ジェリクルチョイスの本質】

ジェリクルキャッツは年に一度の舞踏会で
渾身のパフォーマンスを披露する。
長老ネコはそこでネコたちの「魂」を見つめ、
「天上に行き、のちに生まれ変われる」、
たったひとりのネコを選び出す。
ジェリクルキャッツにとって
生まれ変わりのネコに選ばれることは宿願だ。
言うまでもないが、
「天上に行く」とはこの場合「死ぬ」ことだろう。
「夢見ていた自分に生まれ変われる」という歌詞がある。
可能の表現だ。ではネコたちの望みとは、
「失敗だった生涯を、死んで生まれ変わってやり直す権利」
を、手にすることなんだろうか?
先ほど検討した三木清の言葉に沿って考えると、違う。
ジェリクルキャッツが憧れていることの本質には、
「精一杯生きた」ことを認めてもらうこと、がある。
あの舞踏会は、
「自分の人生がいかに失敗か」のアピール大会ではないのだ。
ただ、彼らのなかにも、生まれ変わりの資格を
やり直しの権利、と思い違いしているらしき子はいた。
キレイな家に生まれ変わりたいと歌うジェニエニドッツ
それからマキャヴィティも、おそらく勘違いしている手合いだ。
勘違いさんも、舞踏会に参加したって良いんだろうけど、
長老は、そういう子はきっと選ばない。
ジェリクルチョイスの意味を魂で理解している子、
生き方でもって体現した子を見極めるのだ。



【長老ネコの役目とジェリクルキャッツ】

長老ネコの呼び名は「Old Deuteronomy」。
Google先生が一秒で教えてくれた。
デュトロノミー」とは『申命記』、
旧約聖書モーセ五書の第5巻だ。
すると舞踏会の会場が「エジプシャン」という店なのも
旧約『出エジプト記』になぞらえてのことと見て間違いない。
ジェリクルキャッツは、いにしえのイスラエルの民のような、
多難にして孤高の、選ばれし一族として造型されている。
預言者たちがイスラエルの民に神との契約を伝えたように、
長老ネコは一族の子たちに、契約・・・「大切なこと」を
「申命(繰り返し伝える)」する役割を担っているのだろう。




【生まれ変わりのネコがつなげる幸せ】

そんな長老ネコが、歌っていた。
「意味がよみがえった体験はすでに一人のものではない」
英語詞の翻訳ということもあって、
パッと見では良くわからないのだが、
ここは、こんな風に受け取れば良いのではないか。
すなわち、
毎年ひとり選ばれる生まれ変わりのネコが触媒となって、
ジェリクルキャッツの一族内で記憶や体験が共有され、
時を超え距離を超え、みんなひとつとなって生きていく
(だから仲間である限り私たちは孤独ではない)。
・・・なぜなら、わたしが理解したところでは、
生まれ変わりのネコは「帰るところ=愛するもの」
を持てるほどまでに良く生きたからこそ、
天上に行く資格が与えられるのだし、
しかもその愛の記憶をたずさえて、地上に還ってくる。
生まれ変わりのネコを橋渡しに、天上と地上とが、
永遠につながっていく・・・、そんなイメージが
浮かぶと思うのだ。



【もちろんこれは「人」の物語】

力説しといて何だが、
わたしの力ではもう全然うまく説明できない(笑)。
だが、『キャッツ』はだいたいにおいて、
上のようなメッセージを伝える物語と思われた。

さらに、理解しておくべきことがもう一つあると思う。
これが結局「ネコ」でなく「人」の話だということだ。
ロンドンの汚い路地裏で起こるネコの集会に、
さびしい人間の切なる願いが託されたわけだ。
永遠への願い、死の恐怖を乗り越えるという夢が。
人間のキャラで人間のドラマを描くのも悪くはないが、
楽しく語り聞かせて、多くの人の心に刻み付けるには、
他の生きものになぞらえる「お話」の方が良かった。
動物なら何でも良いわけではなくネコこそ最適。
ネコの、あの謎めいた雰囲気は、
いつの時代にも人を魅了し、想像力を刺激するからだ。
この物語の主人公がネコである必要があったことを
わたしは進んで認める。



【知性を信じて】

ストーリーのあり方に、好ましい部分があった。
『キャッツ』の物語はT・S・エリオットの詩に
基づいて作られたものらしいが、
おそらく原作に込められているのであろう
哲学的な側面が、映画にちゃんと残されていた。
つまり簡単に言うと
「わかりにくい所はわかりにくいままだった」。
もっと現代的でシンプルな感覚に寄せて、
ウケやすさをプラスしても良かったはずなのに。
例えばマジシャンネコを狂言回しにする方法。
ミュージカル版にない新しいナンバーを作り、
その歌詞で観衆の理解をうながす手もあった。
でもそうはなっていなかった。
テイラー・スウィフトによる新ナンバーはあったが
 物語の理解の手助けになるものとは思えなかった)
わかりにくいんじゃ話としてダメじゃん! 
ミュージカル映画に哲学なんて求めてないんですけど!
と言う意見もあるだろうが・・・。
わからないことをそのままにせず、考えてみようとする。
それは人の心にしか起こりえない反応ではないか。
伝わりにくいままにしておいた、ということは、
人の知性を信頼して作った、ということだ。



【最後に言えること】

好きじゃない映画だ。だが全面的な否定はしない。
こういう映画は出てきにくいと思うからだ。
多分に思索的な面を持ちながら思いっきり娯楽映画。

最終的にこれだけは言える。
T・S・エリオット すげえ。
最初にミュージカル化した人 すげえ。

 

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お絵描き中。