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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『キング』

 


原題:The King
デヴィッド・ミショッド監督・脚本
2019年
米・豪

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www.youtube.com

【はじめに・・・】

この映画、おもしろくなかったんですよ!!!
けど、「おもしろくなさ」について語る意味はあると思い、
一生懸命に語ったら、結果、スゴく長文になっちゃった。
ひとえにわたしの力量の問題で、本当に恥ずかしい。
けど、シェイクスピア原作におけるキャラクター造型や
作品の構造と、映画のそれを比較検討することで、
真剣に、自分なりの批判を展開しようと試みた。
また、同じ原作をベースにした作品で、もっと良作を
見つけたので、その簡単な紹介も、最後に付した。
英米古典文学や戦争史劇映画にもしご関心があれば、
ついてきてくださるとうれしい。
作品解釈や知見の部分で間違っているところがあれば
それはわたしの力足らずによるものだ。
どなたか指摘して教えていただければ、すごく助かる。


【おもしろくない。良くない。】

おもしろくないんだよね~。
ついでに言うとちょっと悪質な映画でもあると思う。

ネット上の鑑賞者レビューにざっと目を通して、
批評家と呼ばれる人のレビューもいくつか読んだ結果、
この映画を批判する意見は少ない印象。
だがわたしは全然おもしろくなかった。
いったいこの映画の、何が良かったのか知りたくて、
一応2回鑑賞したが、理解はできなかった。

でもさ結局の所、レビューした人の9割9分がたは
ティモシー・シャラメたん ステキ♪」
しか言ってないよね(笑)
本格戦争史劇の触れ込みだったらしいけど
アイドル映画的消費のされ方の域を出ていないのでは?



【一回でも原作読んだのか】

こんなこと言いたくはないんだけど、
この映画を観た人たちのうち
いったい何人が原作を読んだのか。
シェイクスピア
『ヘンリー四世 第一部』『ヘンリー四世 第二部』
『ヘンリー五世』とできれば『リチャード二世』
映画観る前でも観たあとでも、1冊でも読んだのか。
映画を観る動機なんて人それぞれだから、
一般の鑑賞者の姿勢までどうこう言う気はないが、
批評家とされる方がたについちゃあ話は別だろう。
批評家ともあろう方がたが
この映画をまともに批判しないなんて・・・、
不正じゃなければ、金とか絡んでなければだけど、
原作を読まずにものを言ってるから、じゃないのかね。
だって、一回でも原作を読んでいたら、
「この映画はおかしい」と少しは感じると思う。
「言うのもバカらしいわ」と思ったならしょうがないが、
一人くらいは
「まったくなっちゃいませんね、この映画は」と
言う人がいてもおかしくないと思うんだよ。

西欧の芸術に携わる人は、誰でも、年若い人でも、
当然、古典芸術の教養を身につけてると思ってた。
自分が作るものが西洋芸術史のマップ上のどこの位置付けか、
わきまえて立ち回ってるんだろうと。
西欧文化へのコンプレックスかもしれないけど。
けど、この映画観て、それは思い違いだとわかった。
シェイクスピア知らなくても演劇は作れるし、
教養レベルとかは人によるし、タイミングもあるよね。

 

【絶対やっちゃダメなことをやっている】

それはわかるのだが・・・
だけどこの映画は、問題だと思うな。
ジョン・フォルスタッフが登場するということは、
脚本を書いた人(つまり監督)は、
さすがに原作を意識していたみたいだけど、
その原作の「とらえ方」が的外れだと思う。
脚色にしても、わたしが観ていた限り、
「それだけはやっちゃダメだろ」ってことを、
狙いすましたかのようにやっちゃっていた。

だが、それで結果的に、この『キング』が
原作レイプである! けしからん」
とか目くじら立てるほどひどい出来か? と言うと
そうでもない気がする。
怒りという強い気持ちを煽ってくるほどのパワーは
どうも足りてない作品だ。
単に、内容も、見どころも、何もない、
おもしろくな~い映画。それだけのことだ。

以下にわたしは結構いろいろ書くけど、
この作品に「怒っている」から書く、のではない。
ただ、この映画を観て感じた「おかしさ」について
本腰入れて詳しく語ってみたい、とは考えた。
なぜなら既出の鑑賞者レビューを渉猟した限り
誰もまじめにこの映画の問題点を指摘してないから。

記事の長大さのあまり「わー、なんか怒ってる怒ってる」
って印象を与えてしまうかもしれないけど、
そういうつもりはない。
キレてないですよ。 



【やっちゃダメなこと=個性を奪うこと】

「それだけはやっちゃダメだろ」ってことを
狙いすましたかのようにやっちゃっている映画だ、
わたしはそう言った。
わたしに言わせれば、端的に言うとそれは、
ハリー(ヘンリー五世)とフォルスタッフの、
キャラクターの改悪、と言うか「無個性化」だ。
ハリーは、もちろん物語の主人公だ。
フォルスタッフは、脇役以外の何ものでもないのだが、
ハリーの言わば「影」とも言える、超重要キャラだ。
つまり彼らは言わばこの物語のツートップ。
その二人から、個性を奪い取るだと???
絶対やっちゃダメなやつだ、どう考えても。

「無個性化」という言葉にたどり着いた時、
この記事を書き進めるのが急にラクになった。 
『キング』のハリーとフォルスタッフには個性がない。
そういうこと。言いたかったのはそれだ。


 

【確認:原作のあらすじ】

『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』の
おおまかなストーリーを紹介しとく。
舞台は15世紀初頭のイングランド
ヘンリー四世はリチャード二世から位を簒奪して王となったが
国内外に山積する問題を解決しきれないまま、病を得て崩御
息子である王太子ハリーが、ヘンリー五世として即位する。
父王在位中のハリーは、放蕩ざんまいのドラ息子だった。
宮廷に寄り付かず、政治に興味を示さず、
騎士階級の鼻つまみ者フォルスタッフを始めとする
下町の連中とつるんで遊び呆けていた。
だが新王となるやハリーは改心、
まれにみる偉大な君主として国を治めるようになる。
そしてフランスと激突、アジャンクールの戦いで勝利して
父の念願だった二国統一を成し遂げたハリーが、
フランス王女キャサリンを妻に迎えて大団円。

映画『キング』も、ストーリーは大体このままだ。 



【『キング』のハリーはこうなってる】

ハリーのキャラクターに関して言えば、
原作では(翻訳によって多少イメージは違うんだろうが)
妙~に間が悪くて、誤解されやすい所はあるものの
なかなか快活で豪気で、庶民にも愛される、好人物だ。
ちょっとだけネタばらしすると実はその庶民派キャラも、
ハリーなりの思惑による、仮の姿だったりするのだが、
そんなことはおくびにも出さず、実際わりと本心から
下町に入り浸るダメ王子ライフを楽しんでいる感じ。

だが原作のハリーのこのカラっとしたキャラクターを、
『キング』のハリーは1ミリたりとも受け継いでなかった。
とにかく暗い・・・。覇気のカケラもない。声が小さい。
表情が乏しいので心情や思惑がちっとも見えないのだが、
あえて形容するなら、所与の暮らしに倦んでいる。
何もかもが苦痛で、生きることが嫌でしょうがない。
強いて言えばそんな、内向的で繊細な性格に見える。
だが、ついさっき言ったばかりのことを繰り返すが、
何を考えてるのか本人が言わないから、わからない。
「戦争は無益だ」みたいなことは、たまに言っていた。
また、父親を怪物呼ばわりするほど忌み嫌っていて
「俺は父とは違う」とかつぶやく時もあるにはあった。
父のヘンリー四世は、後ろめたい方法で王になったせいで、
宮廷内に敵が多く、貴族たちの不満を自分からそらすために
外国と戦争する、というやりかたを取っていた所があった。
ハリーは父のそういうやり方を見ていたのであろうから、
「おれは親父とは違う、戦争なんて無益だから、しない」
・・・そう言いたかった、つもりなのだろうか。
だがその彼も臣下に突き上げられ結局は戦争する道を選択した。
だけど開戦を決意するまでのハリーの心のうつりかわりなどは
映画を観ていてもまったく、たどることができないから、
「父と同じ轍を踏みたくないから戦争したくない」と
思っていたのかどうかは、わからない。

そもそも、元も子もないことを言うようで恐縮なのだが
「戦争は無益」とか言う価値観は、とても現代的なもので、
中世ヨーロッパ史劇の人物の脳に搭載すること自体ムリがある。
あと、原作では、ハリーは父王ヘンリー四世を尊重してたよ。
父に対して、内心いろいろ思う所はあったようだが、
その葛藤のあり方は、もっと素直なものであり、
『キング』のハリーみたいな、
クソオヤジ呼ばわりするみたいな嫌い方はしていない。
いったいどこから持ってきたんだ、あんなキャラを。 



【『キング』のハリーがこうなったわけ】

『キング』の作り手たちが、
ハリーのキャラをこんな風に作り変えたのはなぜか?
陰気だけどいかにも何か考えてます、みたいなキャラに。
そのくせ何を考えているか説明を付さなかったのはなぜか。
そこはぜひとも説明が必要な所だと思う。
ネタバレになっちゃうから、詳しくは書かないが、
ハリーの人柄や思考傾向を少しでも丁寧に描いていれば、
あの終盤の、噴飯もののどんでん返しも不要だったろう。
「宮廷には醜悪な奸計と裏切りが渦巻いている。
 それは父の身から出たサビだ。
 俺は父がそのことで苦しむのをずっと見てきた。
 だから俺は王なんかにはなりたくないのだ」
例えばこんな風に最初からハリーに言わせておけばすんだ。
実際、信用していた部下の裏切りの証拠をつかみ、
処刑するという、原作通りの場面が中盤にちゃんとあった。
ああいう場面を他にもいくつか前もって入れておけば、
ラストに、あんなバカな展開は要らなかったのでは。

そもそもハリー自身の人柄や、統治方針とかを、
鑑賞者に知らせるシーン自体がなかったんだから、
ラストをああいう風にする意味もなかったと思う。
もしもハリーに政治をやる気がないのだとしたら、
国の平和が「偽り」か「真実」かなんて、
そんなこと彼にはどうでも良いかもしれないのだ。

わたしなりの考えを言わせてもらうと、
ハリーをあんな暗~いキャラにしたことに、
多分、明確な理由とかはないのだろうね。
ティモシー・シャラメのアンニュイな横顔を、
撮りたかっただけなんじゃないかな。


 

【そして問題はフォルスタッフ】

ハリーについての文句、だいぶ言ったな~。
正直なとこ、言いたいことはまだ山ほどある。
けど、この映画の中で、
わたしがハリーよりももっと気になったのは、
むしろジョン・フォルスタッフのキャラクター造型だ。
というかフォルスタッフについて考えると、
反射するように、ハリーのことも見えやすくなる。
この二人のキャラは、そういう関係性上にある。
わたしはそう考えている。 

原作を読めば一目瞭然、
フォルスタッフはすがすがしいほどのクズ野郎だ。
大酒飲みの大食い、しかもエロじじい、さらに虚言癖、
上の者にはペコペコへつらい下の者はさげすみいじめる。
強盗・詐欺などの犯罪にも手を染め、多重債務者でもある。
歩兵を雇う資格を持つ騎士階級のくせに、すごい臆病者で、
戦って死ぬことを恐れて、戦場ではいつも隠れている。
しかも他人の手柄を平気で横取り。王子の手柄さえも。
嘘だろと思うかもしれないが、本当にこんなキャラだ。

でも、シェイクスピアが作り出したこの
フォルスタッフというキャラクターは、
昔からとても愛されてきたのだそうだ。
原作戯曲を読むとわかるのだが、
ハリーよりもフォルスタッフの方が、断然目立つ。
彼というキャラを一度知ると、忘れられなくなる。
まあ、わたしはフォルスタッフなんか大っ嫌いだから、
王になったハリーがこの男をアッサリ追放する場面で、
本当に胸がスッとするんだけど・・・、
それでも、ヘンリー五世の物語の中での
フォルスタッフの重要性は理解しているつもりだ。


 

【なぜフォルスタッフがそんなに重要か】

なぜフォルスタッフがそんなに重要だと思うか。
わたしの作品解釈では、
ハリーが、当時の支配的潮流だった中世的「騎士道精神」、
君主制に立脚するイデオロギーを体現するキャラだとすると、
フォルスタッフはそのイデオロギーからの人間性の解放、
きらきらと輝く人間の生命力を体現するキャラなのだ。
両者は鏡であり、ヘンリー五世の物語の、二本の柱だ。
両方とも外せない、そういう構造になってる。
フォルスタッフが重要なのは、そのためだ。


 

【物語上の役割:ハリー】

まず、ハリーについて考えてみたい。
彼はこの戯曲のヒーローで、王さまだから、
ハリーが体現するのは騎士としての名誉とか、
たとえ負け戦でも最後の一兵卒まで的な「ヒロイズム」だ。
キリスト教文化圏の物語だから、宗教的な敬虔さも大切だ。
原作のハリーは、何万もの兵の命を背負う重責に慄いて、
あさましいほど神にすがり、勝利の奇蹟をこいねがう。
けど「ヒロイズム」って、人間存在にとっては人工的なものだ。
「王者たるもの」「騎士たるもの」「男子たるもの」
という後天的な教育によって身についていったはずのもので、
誰もが生まれつき心に備えているもの、とは言えないだろう。
でも、ともかくハリーは、王となることによって、
そんな理想的精神に自分を溶かし込んでいく。


 

【物語上の役割:フォルスタッフ】

フォルスタッフは、ハリーとは明らかに違う。
彼は、本当に期待を裏切らない安定のクズ野郎なのだが、
考えようによっては、ハリーよりもずっと人間らしい。
なぜなら、自己保存本能にものすごく忠実だから。
さっき紹介したが、フォルスタッフはひどい臆病者だ。
戦場で逃げるどころか、死んだふりまでして身を守る。
ひきょう者のそしりを免れないだろうし、
わたしもフォルスタッフなんか大っ嫌いだ。けど、
フォルスタッフが臆病だ、ひきょうだという評価は、
中世封建社会のメインストリーム的価値観から見た時の、
ごく限定的なジャッジにすぎない、とも言える。
確かに、戦場で女子どもを虐殺するといったような
明らかに人間の道に反することをやったとしたら、
これはひきょうだ卑劣だと言われてもしかたがない。
でも、絶対勝てない相手と見たらさっさと逃げたり、
死んだフリをして場をやり過ごす、とかならば、
誰だって場合によっては、似たようなことをやるのでは。
山で巨大なクマと遭遇した時、最後の一人まで戦うぞ! 
なんて考える人は、残念だが、おつむが煮えている。
フォルスタッフだけが特別クズとも言えないわけだ。
ちなみに、「ひきょう」なことをするのが得意になると
人間、体裁をとりつくろう言い訳が、達者になるらしい。
フォルスタッフも、どんな時でも決して悪びれず、
バカみたいなホラとマシンガントークで逃げ切る、
一種の機智? みたいなものを備えている。
彼のお得意の適当トークは原作戯曲の至る所でみられ、
心底、へきえきさせられる。

こうしてどっこい生きていくのが人間だ、とするなら
フォルスタッフはまぎれもなく、人間的なキャラだ。


 

【共鳴しつつ分岐する】

フォルスタッフはこう言ってる。
「名誉、面目って野郎が尻っぺたァつっつきやがる。
 だがな、いってえ・・・なんだな、その名誉って奴ァ、
 ただの言葉じゃねえか? 空気じゃねえか?」
(『ヘンリー四世 第一部』第五幕第一場)

これに呼応するかのように、
アジャンクール前夜、ハリーもこんなことを言う。
「庶民が持たず王が持っているものは何だ、
 儀礼だけ、公の壮麗な儀礼だけではないか?
 その儀礼という偶像よ、お前はいったい何者だ?
 <中略>
 儀礼という見栄っぱりな幻よ、お前は王の安らぎを
 巧みに弄ぶ・・・」
(『ヘンリー五世』第四幕第一場)

ここだけ見ても、ハリーとフォルスタッフの道が
対比的に分岐するよう仕組まれていることは明白ではないか。

父のあとを継ぐまではハリーもフォルスタッフと同じだった。
進んでフォルスタッフと同類でいた。毎日バカをやっていた。
イングランド王にしてフランス王という栄誉を手にする前は、
こんな自嘲的な、心の迷いをうかがわせる独白をしていた。
だが、アジャンクールの戦いに勝利したあとの彼はもう、
戦う王となって、脇目もふらず覇道を驀進していく。
対してフォルスタッフは、最初から最後まで変わらない。
鉄壁のクズ野郎であり、あきれるほど人間なのだ。


 

【フォルスタッフの末路】

人間も生きものなんだから、生命の危険が迫れば、
自分だけは助かろうとして、みっともないこともする。
自分だけは他人よりも良い思いをしたい、とか考えて、
いろいろずるいことを企む時だって、あるものだ。
単純に言えばフォルスタッフは、そっちサイド代表だ。
もちろんそんな人間は、表向きはとても嫌われる。
劇の中では、悪者か笑いものになるのがお約束だろう。
フォルスタッフも、まさにそんな感じの扱いだ。
実はフォルスタッフは、ハリーに追放されると、
ショックのあまりボケたようになってしまい、
とてもさびしい末路をたどることになる。
それまで劇中で大暴れしていたにも関わらず、
「フォルスタッフの末路」の場面なんて、
戯曲には一瞬たりとも用意されない。
「フォルスタッフの野郎はボケたらしいよ」
みたいな感じで人のウワサになって、
それであっけなく物語から退場させられるのだ。

ハリーがすっかり改心して立派な王となったことは、
「成長」として、周囲に極めて好意的に評価される。
君主制時代の理想的な秩序の具現者たること、それこそ
当時の英国の社会で、表向き最高の、男の姿だった。
対してフォルスタッフは、
「言うても人間ってこうでしょ!」を体現する存在として
物語の中に生き、与えられた人生をやり抜いて去っていく。
もっと言うと、この戯曲が読み継がれる限り、
フォルスタッフは何度でも人びとの心の中に生まれる。
まるでしぶといゴキブ・・・いや、生命力あふれるキャラだ。

そういうことだと思うから、わたしは、
フォルスタッフもヘンリー五世の物語の
非常に重要なキャラクターだと思っている。
彼はハリーと同じく、この物語の、
屋台骨そのものだからだ。



【『キング』のフォルスタッフはこうなってる】

で、そのフォルスタッフは、
映画『キング』ではどんな風に描かれているか?
それがもう、めちゃくちゃカッコイイのだ。 
彼こそ真の騎士、いぶし銀のロートルナイトだ。
ハリーに信頼され軍指揮官に抜擢される。カッコイイ。
「明日は雨が降るぜ。俺のヒザの古傷が疼くからな」
とか言って、天候条件を活かす奇策を献ずる。カッコイイ。
「戦争なんてろくでもない。俺はさんざん見てきた」
もののわかったことを言う。カッコイイ。
戦場では、何と前衛を率いて真っ先に敵に突っ込んでいく。
もはや誰!

これはつまり、フォルスタッフというキャラクターを、
原作でハリーが代表している中世ヒロイズムサイドに
統合しちゃいましょう、ということなのか?

別に、それはそれで良いとわたしは思う。
原作とは別の、完成された構造を持つ物語として
ちゃんと成立していれば、の話だが。



【ただ奪い去られただけの個性】

いや、残念だけどまったく成立してないのだ。
さっきから言ってきたことだけど、そもそもハリーが
何考えてるのかわからない人にしか見えないので。
戦争に興味はない、俺は父とは違うとか言うけど、
ではどんな治世を目指すか? は明言しないから、
それでは「何を考えているかわかる」とは言えない。
フォルスタッフが「リーダーの心得」みたいなものを
説いていたが、ハリーは下を向いて聞いているだけで
それは違うとも、俺も同感だ、とも言わないので、
何だか良くわからない。

フォルスタッフ、こんな立派になっちゃってまあ(涙)
でも、こういう百戦錬磨のいぶし銀キャラってさ、
戦争史劇ものに、たいてい一人はいるよね。
ただの「そういう立ち位置」なのであって、
フォルスタッフじゃなくても良かったんじゃ?

『キング』はハリーとフォルスタッフから
個性を剥ぎ取った。
五百歩譲って「初期化した」と言っても良い。でも、
それだけのことをするからには、という「何か」をやったか。
残念だけど、何もやってない。
そう言わざるを得ない。
だ~か~ら、
絶対やっちゃダメなことをやっちゃってるんだって~!
明確なビジョンもなしに古典の名作に手を出してさ~!
この二人が物語の構造上どんな役割を持たされているか、
映画の作り手がちゃんと考えようとしていないし、
考えた上での「再構築」にも取り組めていない。
というか「再構築してやるぞ」という気概そのものが、
なかったんだろうね、この映画作った人には。
やっぱりアレでしょ、
ティモシー・シャラメ人気に乗っかっただけ。 

原作戯曲は、もう昔の作品なので、
今の感覚で読んだらピンとこない部分も多い。
『キング』の作り手たちは、あるいは、
その「今の感覚で理解しにくい部分」をカットして、
単純なハリーの成長物語にしよう、と考えたのかも。
でも、ハリーが没個性的で、何考えてるかわからないから
ハリーが成長したかどうかも、わからないんだけど(笑)!
父との関係がうまくいってなかった分、
フォルスタッフに「父親」的なものを求めた、とか
そういう感じのことがやりたかったのか?
確かにフォルスタッフは満更でもなさそうだった。
けど、ハリーはフォルスタッフのこと
「お前は友だち」って言ってたぞ・・・



【他にもこのへんイケてない】

単なる戦争映画としても、見ごたえがないんだよな~。
クライマックスのアジャンクールの戦いの場面も
新しさというものが感じられず退屈の一言。
環境要件を活かす奇策、みたいなのであれば、
アウトロー・キング スコットランドの英雄』(2018年)が 
同じようなことをやってしまってるし、
むしろあっちの方が見ごたえがあった。
そう言えば最近『ブレイブハート』(1995年)を観たけど
あれのさー 騎馬隊を引き付けるだけ引き付けて、
とっさに長槍を突き立てて、騎馬の足を壊乱させる作戦も
良かったよね。迫力があったし、
「作戦がキマッた!!!」という感じがちゃんとしたし、
観ていて楽しかった。
あのキマッた!!! という感じがないよな『キング』には。

クライマックスまでのテンポもダルかったな~。
フランス王太子役のロバート・パティンソンも浮いていた。
マッドな若殿さまの類型って感じで。

役者さんはみんな自分の仕事をちゃんとやっていたよ。
おかげで時々は、場面がまとまってる気がした時もあった。
悪いのは役者じゃなくて監督、脚本じゃないかな。
つまり映画を作ろう、というその段階でもう 
映画が腐り始めていたんだと思えてならない。


 

【『ホロウ・クラウン』観ようぜ】

『キング』観るくらいだったら、同じヘンリー5世なら
英国の2012年~2016年のテレビ映画シリーズ
『ホロウ・クラウン 嘆きの王冠』シーズン1の方が
わたしはずっと楽しめた。

www.youtube.com


何たって愚直なまでに原作に誠実。
実写なのに戯曲のセリフをものすごくちゃんと言うから
いつまでしゃべってんだ! ってくらいセリフ長い(笑)!
でも場面の演出なんかはおしゃれに脚色していて、
映像もカラフルで美しいし、観ていて楽しいんだよ。
トム・ヒドルストンのあのハリー、素晴らしかった。
原作を読んでわたしが抱いてきたイメージともかなり近い。
スタイルが良くて、普通にとってもカッコイイし。
それにフォルスタッフも完璧! 大っ嫌い(笑)!

『キング』観るくらいなら『ホロウ・クラウン』観よう。
そしてシェイクスピアくらいやっぱり読もう。
読めばわかるって。そういうの、大事だと、わたし思う。


※記事内におけるセリフの引用は以下から。
『ヘンリー四世 第一部』中野好夫訳、岩波文庫 1993年12刷
『ヘンリー四世 第ニ部』中野好夫訳、岩波文庫 1993年14刷
『ヘンリー五世』松岡和子訳、ちくま文庫 2019年1刷