une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『アナイアレイション 全滅領域』

原題:Annihilation
アレックス・ガーランド監督・脚本
2018年
米、英

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www.youtube.com


タイトルからは、あんまりおもしろそうな感じがしないが、
観てみたら、まぎれもない秀作だった。

この記事を書くためにYouTube上の予告動画を観た時、
スリラー感の強い予告に仕上げられていることに驚いた。
もし予告を先に観ていたら、わたしはこの映画を観ようとは
絶対に思わなかったと思う。怖いから。
実際は予告みたいなハラハラドキドキ満載の感じではなく、
とてもゆったりと、ひそやかに進行する物語であり、
郷愁に似た感傷的な気持ちにさせられる部分さえあった。

今思えばそこが、『アナイアレイション』の特長だった。
何と言ったら良いのか・・・わたし自身の感覚を振り返ると、
このゆるやかな物語の時の流れに身を任せて、
劇中で起こるさまざまな不可逆的事態をあきらめていった。

あきらめる、というのは、未知の事態に直面した時の、
人の態度(受け止め方)のスタイルの一つじゃなかろうか。
最初から「あきらめる」のは難しいかもしれないので、
考え得る限りいろいろとジタバタしてみたあげくの
最終形態、と言った方が的確か。
『アナイアレイション』の中では、本当にたくさんの、
恐ろしいことや理解不能なことが起こり、
ヒロインたちは激しい混乱に陥っていく。
ある者は、目の前で起きたことを錯覚だと言って否定する。
ある者は、ここには居たくないと言って逃げ、心を閉ざす。
理解しきれなくても全部自分の眼で見て確かめたいと言って、
あくまでも先に進むことを求める者もいる。
未知のできごとへの人の取り組み方のさまざまな形が、
『アナイアレイション』の中で見られたように思う。

わたしはこれが「お話」だと知っているから安心していたので、
その分「あきらめる」に到達するのが早かったんだろう。
でも、それだけでなく、この物語の中で描かれていく
世界の変容のあり方が、個人的にそんなにイヤじゃなかった。
『アナイアレイション』は、世界が将来的に
こういう風に変わっていくよ、ということを
人が学び受け入れていく過程の物語とも言えた。
変化の内容がとても静かにゆっくりと説明されるので、
「えー! 世界はこんな風になるの! 絶対イヤなんだけど!」
みたいな強い抵抗感がなく、案外、受け止めることができた。
ヒロインのレナも、
「(目の前で起こることが)到底理解できなかった。
 でも、美しいものもあった」
と言っており、新しい世界に恐れつつも魅かれていった部分が
あったことを認めていた。

もし実際にこの物語のような世界に自分が置かれたら、
どうなんだろうな・・・。
最初は怖いのかもしれないけど。
でも、個体の生と死の境界が、あいまいになるわけだ。
そして、めぐり続ける。場所と形態を転々と変えながら。
「ある」かのようだがなく、「ない」かのようだがある。
ある、ないという概念自体も溶けていくという感じだ。
身を任せてしまえば、それは、全然イヤじゃないのでは。

『アナイアレイション』では、
「見る/見える」「見られる」
「何かを通して(見る)」
というモチーフが、繰り返しあらわれた。
例えば、
夫がヒロインのレナを見つめる静かなまなざし(見る)。
レナは夫にじっと見られて内心動揺する(見られる)。
探査チームの仲間は、ある恐ろしいものを目撃した時に、
「光のいたずらでそう見えただけ」と言い張った(見える)。
探査領域「シマー」で起こる不可思議な現象を、
光のプリズム効果で説明する仲間もいた(何かを通して見る)。
レナは、三方を透明なガラスで囲われた狭い部屋の中で、
大勢の研究員に見られながら尋問を受ける(見られる)。
それから、
探査領域上空は常に花曇りで、太陽光が直接さしてこない。
カメラの視野は「『水の中』の魚」「『録画された』映像」
と言ったように、常に何らかのフィルタを通して事象を映し出す。
・・・作り手側が、「見る」とか「見られる」とかに、
かなり度を越して執着していることがイヤでも伝わってくる。
でもそれが作り手の手クセのレベルにとどまっていなくて
『アナイアレイション』の物語の根っこに関わっていたのが
おもしろい所だった気がする。
シマーというエリアではすべての境界線があいまいだった。
領域が広がる森林地帯は、虹色にゆらめくシャボン玉状の膜に
覆われ(または一帯から虹色の湯気が立ち上っている感じ?)、
レナたち調査隊は、そこに分け入っていくこととなる。
彼女たちはそれぞれの形でこの領域に呑み込まれていく。
リーダーのベントレス博士なんかそもそも何を考えているのか、
心がどこにあるのかわからない謎めいたキャラだったし、
また、チームメイトの一人は、曖昧模糊とした風景の中に、
いつのまにか溶けてしまった(独創的で美しい描写だった)。
シマーで起こる事件がメンバーの心を侵していく展開は
確かに一般的に言えば、恐ろしいものだったが、
でも、何か、ただひたすらに「怖い」という感じとは違った。
少し不自然でやや抵抗を感じるが、いずれ受け入れていく。
わたしはそういうもののように感じた。

終盤で、レナの左腕の内側に浮かび上がった、
八文字型のイレズミ状の文様には、驚いたな。
何度観返しても、序盤の方ではあの文様はなかった。
川下りの時、ぶつけて打ち身ができた、と言っていた。
あの時以降だった、としか考えようがないかな。
でも、打ち身ができた、というあのセリフ以外に、
脚本上、レナの腕の変化についての言及は皆無だった。
あんなにハッキリ変化が表れているのに誰も何も言わない。
レナ本人に至っては、
自分の体が見た目にわかる形で変化したのにそれは気にせず、
顕微鏡でしか見えない自分の血液細胞の変容には怯えていた。

レナが夫に作った「借り」についての描写が
少ししつこかった気はした。
あそこまで露骨に描いてくれなくても、
(しかも同じシーンを2回転用・・・)
序盤でそれをほのめかす描写がちゃんとあったから、
誰でも十分察しがついたと思う。
やや説明過多で、もったいない。
あの部分だけ、エピソードの手触りが生々しすぎる。
せっかく夢を見ている所を叩き起こされる感じがする。
まあ、別にそんなに気持ちの良い夢でもないのだが。

わたしは「シマー」領域で起こることのすべて、
この映画で提示された、世界の未来の姿に対して
正直言って 嫌悪感は全然持たなかった。
自分が仮に当事者となっても気持ちは同じだと思う。
最初はちょっと気持ち悪さを感じるかもしれないが、
いっそのこと死にたい・・・、とまでは思わないだろう。
だから「シマー」領域が拡大していく、という未来像を
個人レベルでは、少しも「悪」とは思わない。
でも、それはもちろん観る人それぞれだ。
人によっては、悪だと思うだろう。

この物語の、世界の未来についての「解釈」に
ちょっと圧倒されたことは確かだ。
考えようによってはこれはもう
「始まっている」未来なのかもしれないと思ったので。