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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

原題:I, Daniel Blake
ケン・ローチ監督
2016年
英・仏・ベルギー合作

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英国北東部で暮らす大工職人のダニエル・ブレイクは、
心臓の病でドクターストップが出て働けなくなり、
役所に休業手当の申請をするも「就業可」として却下される。
この理不尽な審査結果に、不服申し立てをしたいのだが、
手続きのあまりの煩雑さにくじけそうな日々。そんな中、
ダニエルは貧困にあえぐシングルマザーのケイティと出会い、
彼女たちと交流を深めていく・・・。

冒頭の、電話による聞き取り調査の段階で
もう何か、絶望的なまでに、ズレてたよな・・・。
ダニエルが、俺の病気は心臓だ、って言っているのに、
老人性の認知症か何かだと頭から決めつけられていたね。
役所は
ダニエルの休業手当の申請を却下する、という結論ありきで
ことを進めている風にさえ見えた。

公的機関への不信感が強いあまり、
無謀な金策にかけずり回り、身も心も疲弊していくケイティ。
納税者としての誇りから社会保障制度を信頼してきたゆえに
それに裏切られたと感じた時の失望も深かったダニエル。
この対比が、簡素な脚本の中にしっかりと描写されていて、
本当に、観ていて心が痛かった。

ケイティサイドも、考えると興味深かったのだが、
わたしがこの映画の中でもっとも印象に残った所に
絞って、この記事を書いてみたい。

それは、終盤のダニエルのある表情だった。
背景としては、
彼は病気で働けないので休業手当を申請したいのに
却下されたので、不服申し立ての手続きを検討している。
しかし、その手続きが遅々として進まないために
収入ゼロの状態におちいってしまっている。
そこでダニエルは職業安定所のすすめを受けて、
日本で言う失業給付の申請も並行して行っている。
日本のそれと同様、規定に応じて求職活動をした証明を
提出して認められれば、給付金が下りる仕組みだ。
だが、先に述べた通り、ダニエルは病気で働けないのだ。
だから就職活動といっても形だけのものとなってしまう。
履歴書を読んだ企業が、ダニエルを欲しがったとしても、
「実は病気だから働けない」と辞退するしかないのだ。
この愚かな茶番にほとほと嫌気がさしたダニエルは、
こんな屈辱的なことは、もうとてもやっていられない、
失業給付金の申請はやめるよ、と安定所の職員に話す。
その直後、彼は職業安定所の外壁に、ある落書きをする。
通報され、間もなくダニエルは逮捕された。
しかし、初犯のため「口頭注意」で済む旨を告げられ、
もう決してやってはダメだよ、と警官に諭されて、釈放される。
・・・
わたしの胸に何かすごく迫ってきたのは、
この、警官の説諭を受けている時のダニエルの表情だった。

わたしには、彼が、安堵しているように見えた。
しかも自分自身のそのような感情に、
いたく失望しているように見えた。
安堵とはこの場合、
「刑務所に行かなくて良いんだ。ほっ・・・」の
安堵、ではないと思う。
何といったら良いのかなあ。
「相手が内心、俺を見下していることはわかっている。
 でもそれでも、いくらか優しくしてもらえた・・・。
 うれしい」
みたいな感じの安堵だ。

うまく説明できるかわからないけど・・・
資本主義社会で生きていると、
「経済活動に失敗した」たったそれだけのことで、
人としての価値がゼロになったような感覚を
味わうことになりかねないんだよな。
それは経験的に、強く感じることだ。
わたしも病気で一時働けなくなったことや、
失業したことがあるのだが、あの時は、
「自活ができない」という状況になったことで、
すごく迅速に、かつ深刻に、自分の心が傷付いて、
いじけていくのを感じた。
「働いて、人に頼らず、借金もせずに
 大過なく暮らし、請求書の支払いをし
 税金を納める」
これが今までできていたのに、できなくなるのは、
恥ずかしいこと、みじめなこと、という感覚だ。
恥ずかしいことだと人に思われる、という感覚だ。

そして、わたしの場合はそんな時、
健康保険組合ハローワークの人の
ふるまいに、救われていた。
手当や給付金の受給のたびに、
恥を上塗りされたように感じずにすんだのは
彼らのおかげだと思っている。
「あなたは無職の失業者ですね。
 わたしはそんなあなたが
 お金をもらえるように、してあげる人です」
とか思っていると、
彼らはわたしに決して思わせなかった。
普通にルールを守って普通に申請をして、
受け取る資格があるものをただ受け取る。
わたしのその立場を、一貫して守ってくれていた。
早く的確、過不足がなく誠実、
そんなふるまいによって。
当然のようできわめて高度な、対人スキルではないか。

でも全世界の職業安定所のすべての職員さんが
そうしてくれるわけじゃないのかも。

自分の経済活動を回せていたけど今は回せない、
ちゃんと生活できていたけど今はできない、
たったそれだけのことで、人の心はすごく
参ってしまうものなのだ。

この屈辱感、この奇妙にいじけた気持ちは
体験してみないとわからないと思う。

ダニエルは
「ちゃんと税金を納めてきた」ことを
人生のささやかな誇りとしている。
それだけに、社会福祉への信頼は厚い。
だって自分の街の福祉の一端はまぎれもなく、
自分の税金でまかなわれている。
ならば自分が生活に困った時にそれを頼るのは当然だ。
なんら恥じるところはない。
当然の権利なのだ。
ダニエルはそう考えている。
だが、彼のこの信頼に、彼の街の福祉はどう応えたか。
ただでさえ弱ってきていたダニエルの心を
いっそう疲弊させていかなかったか。
ダニエルが書き残したメモが痛ましい。
「施しはいらない」
「私は人間だ、犬ではない」
「当たり前の権利を要求する。
 敬意ある態度というものを」

ダニエルは警察署での一件を境に、
加速度的に憔悴していったように見えた。
働けないのに、金が欲しくて形ばかりの求職活動。
「俺には屈辱だ、ほとんど拷問だ」
前からそう言っていた。
しかも、それでも頑張って求職活動証明を提出しても
「証明書類が不十分。あなたは不誠実な求職者なので
 処罰審査になります。もちろん給付金は出ません」
とか言われてしまう。
この日々にほとほと参っていたことは確かだろう。
だがダニエルの心に決定的な打撃を与えたのは、
そうした求職活動の日々よりもむしろ、
警察署でのできごとの方だったのではないか。

逮捕されたのに口頭注意で済んだのは、
ダニエルに犯罪歴がないからだった。
「前科がないから口頭注意で釈放です、
 でも次は決してない。トラブルには近づくな」
ダニエルと向き合って立って、そう話した警官は
なにも「うわー親切な人だなあ!」とかいうほど
特別に紳士的なわけではなかったと思うが、
ここまでずっと、
良く言えば機械的、はっきり言えば下に見た対応をする
安定所の職員たちを見てきたせいか、
わたしの眼には警官が「まっとう」に映った。
当事者であるダニエルには余計に、
そう感じられたのではないかな、と想像する。

そんな警官とのやり取りの中でダニエルの心のなかには
いくつもの複雑な気持ちが去来したんじゃないかなと思う。

犯罪歴がないから刑務所に行かずにすんだ。
奇妙な話だけど
「逮捕されるような行為をはたらいた」ことで
「これまで普通のまじめな市民だった」ことが
かえって証明された。
「そうだ、俺は普通の市民なんだ、当然だ。
 無気力で物欲しそうな野良犬みたいに
 扱われる筋合いはないんだ」
という、誇り。
「おこない正しい市民としての実績を、
 自分自身の行為で汚してしまった」
という、羞恥心。
短い期間で、正常な判断力や良識を失い、
いつもの自分だったら絶対にするはずのない
見苦しい行為をしてしまったことへの、おののき。
そして、
「警官は俺を、毎日のように処理している
 何人もの軽犯罪者とか荒くれものの
 一人としてしか見ていないんだろうけど、
 俺が普通のまじめな市民だったと認めてくれた。
 俺とちゃんと向き合って、話をしてくれた・・・」
という、みじめったらしい喜び。

自分がこんな気持ちになることがあるなんて、
今までダニエルは想像したこともなかっただろう。
経済活動を送る能力を一時的に失ったことによって、
社会と関われている、という大切な感覚を
失った気がしていた所へ、
警察署という思いがけない場所でそれをかすかに見出して
「うれしい」と思ってしまった。

「見下されていることはわかっているけど、
 普通の人として優しく接してもらえた」
物欲しげな野良犬根性とでもいうべきものが
自分の心に芽生えたのを自覚してしまったこと、
それこそがダニエルを、
もうこれ以上少しも頑張れないほど
打ちのめしたのではないかなと思う。