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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

【ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから】

原題:The Half of It
アリス・ウー 監督
2020年、米

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ヒロインのエリーは、学業優秀な女子高生。
同級生たちの宿題を代行して小金を稼ぎ、家計を助けている。
しかし、ある日、同級生男子・ポールがもちかけてきた依頼は、
普段の宿題代行とはまったく違っていた。
ラブレターを代筆して欲しい、という注文だったのだ。
だが、問題がひとつ。
ポールの片想いの相手である女子生徒アスターのことを、
実はエリーも密かに想っていたのだ(つまり同性への恋)。
依頼に内心困惑するエリーだが、背に腹はかえられない。
エリーの父親は、街の駅の雇われ管理人なのだが、
仕事にあまり身が入らず、家は万年金欠状態なのだ。
やがて、ポールの注文はラブレター一通にとどまらず、
エリーは、ポールがアスターとのデートにこぎつけるまでの
戦略参謀を引き受けるはめになってしまう。・・・

ディテールに終始ニヤニヤしながら観た。

愛すべきバカのポールと、秀才エリーが、
恋の戦略会議を繰り広げる場面とか、微笑ましい。

アスターとエリーの森の天然温泉の場面も良かった。
彼女たちのお風呂での語らいのシーンを通して、
アスターの(多分エリー視点の)神秘的な美しさが伝わった。
それに、このシーンは、ふたりの心が、
それまでで最高に接近する所を描いたものでもあったので、
非常に印象に残った。

字幕版と、日本語吹き替えと、1回ずつ観た。
両方観といて良かったなと思う。
というのも、字幕だけだと、ニュアンスや文化的背景など
なんだか良く理解しきれない所があったからだ。
博識な学生さんふたりが、機智に満ち満ちた内容の
メールや手紙を交わしながら、心の距離を縮めていく。
文化圏が違うので字幕だけでは理解が追いつかない。でも、
映像を良くみることで字幕の限界を乗り越えるという努力も
それはそれで決して悪くなかったと思う。
映像に、大事なことがたくさん埋め込まれていると、気付ける。
そして、吹き替え版で、セリフの含意などの理解が補強されると、
この映画が、セリフに言葉に、いかに気を配っているかがわかる。
でも、映像だけでも、言葉だけでも、十分とは言えない。
うまく説明できないけど、眼と耳だけが、人の感覚じゃない。
ほかの感覚もいろいろ使ってものごとを理解していくんだと思う。
別に、この映画じゃなくても、普通にそうしているんだろうけど、
この映画では特にそういうふうに、
自分がいろんなアプローチで映画を観ていることが意識されて、
おもしろく感じた。

エリーとアスターのファーストコンタクトの瞬間が
カズオ・イシグロの『日の名残り』の本を床に落とした時である
というのが、象徴的に感じた。
日の名残り』と言えば、あるお屋敷の執事が、
同僚の女性への恋心を胸の裡に秘め続けるという物語だ。
そういう話の本を「落とす/手放す/放棄する」ということは、
(物語の中の執事とは違って、)エリーは・・・。
あのシーンは、エリー自身の今後の選択を
示唆した場面だったと 解釈して良いと思う。

エリーは聡明だが、往年の偉人・哲人の言葉に自分を託し過ぎ。
ポールは良い奴だが、無学・無教養の上に、超が付く口下手だ。
アスターは本来の内面の豊かさを押し隠して周囲の期待通りの
「良い子」を演じ続けてきたあまり、今や自分を見失っている。
ついでに言うとエリーのたった一人の肉親である父は、
英語が苦手なために、社会に居場所を見出せない。
・・・この通り、この物語の主要なキャラクターはみんな、
「言葉」とか「伝える」とかに、難を抱えている。
自分の言葉で伝えることがちっともできていないのに、
今のままで良いと思ってしまっていたり(エリー)、
肝心な時に言葉がまったく出て来なかったり(ポール)、
語るべき言葉があるのにそれを見失っていたり(アスター)。

でも、彼らは、お互いとの出会いを通して、
自分の心の扉を、少しずつ開いていった。
そして、不器用でも、自分自身の言葉で一生懸命に、
気持ちを伝えようとし始める。
教会の日曜礼拝での、エリーの行動はそんな
ブレイクスルーの瞬間を、良く描いてたと思う。
まあ、何かあの教会の場面は、ちょっと不自然というか
それまでこの映画に一貫して流れていた空気感とは
あそこだけ全然違ってミョーに芝居がかった感じで、
正直どうかと思ったが(笑)

自分自身の言葉を一生懸命に伝えようとする
という姿勢は、
そのまま「自分自身を大切にしてあげる」という
ことにつながっていく、とわたしは思う。
ということはこの物語は、
良くある、いわゆる恋愛もの、にとどまらず、
メインキャラたちがみんなそれぞれに、
自分だけの「愛し方」「自分自身の愛し方」
を見出していく・・・という意味での
ラブストーリー、だったんじゃなかろうか。

『戦火の馬』

 

 

原題:War Horse
スティーヴン・スピルバーグ 監督
リー・ホール、リチャード・カーティス 脚本
マイケル・モーパーゴ 原作(児童小説『戦火の馬』)
2011年、米

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【あらすじ】

第一次世界大戦下、英国の貧しい小作農の息子アルバートは、
近くの牧場で生まれた一頭の可愛い仔馬に一目ぼれする。
それからしばらく経ったある日、父親のテッドが、
一頭の若いサラブレッドを買ってくる。
それは、あの可愛い仔馬が成長した姿だった。
この素晴らしい偶然に、アルバートは内心大喜びする。
だが実はこの買い物はまったくの予定外にして不必要なもの。
テッドの妻ローズは夫が無駄遣いをしたことにおかんむりだ。
しかしアルバートが「家業に役立つよう調教する」と必死に説得、
何とか返品せずに、その手で育てていけることとなった。
ジョーイと名付けられたこの馬とアルバート大親友となる。
しかし、金に困った父がジョーイを英国軍に売ったことで、
アルバートとジョーイは離ればなれに。
愛馬を案ずるアルバートは、徴兵年齢に達するとすぐに入営。
厳しい従軍生活のなか、戦場にジョーイの姿を探すようになる。
戦地に連れ去られたジョーイは、多くの人の手に委ねられ
命をつなぐ、数奇な運命をたどることとなる。
・・・



【『息子の父親越え』の物語】

先日、この映画のことを、ある友だちと話したのだが、
そうすると、一人で観てた時には気付かなかったことに
あれやこれやと気付いた。
十分考えたつもりだったから、まだ気付くことがあって驚いた。
自分の考えは間違ってた、不十分だった、とさえ思った。

まあ監督がどう考えているかは結局わからないわけだが、
やっぱりこの映画は
「息子の父親越え」の物語だったかもしれない。
元もと、その側面が少しはあったと感じていたけど、
それがこの映画の勘所、とまでは思ってなかった。
けど、やっぱりそここそがメインだったかもしれない。

シンプルに、主人公のアルバート少年が、
父親という壁を越え一個の大人になっていく姿を描く。
それは大前提として、
もっと大きな枠で観れば、そんな成長物語を通して、
「古い時代を踏まえてより良い新たな時代が作られていく」
までを描いてた、
そんなことも言えるんじゃないかと思う。

 


【父親テッドはこんな人】

父親テッドと息子アルバートの、人物像や関係を
ちょっと整理しとく。
アルバートの父親テッドは、決して悪い人間じゃない。
ただ、意地っ張りで嫌われ者のくせにお人好し、という
ハッキリ言って相当めんどくさ~い感じの男だ。
なんでも他人に譲ってしまって自分は損ばかり、
しかもその損失を自力で回収する甲斐性はまるでない。
かつて従軍した時も、戦場で仲間の命を救ったは良いが、
その自分は、足に一生痛みが残るケガを負ってしまった。
戦後、地主から土地を借りる時、良い土地はみんな親戚に回し、
自分は残りもののやせた荒れ地を受け持った。
(足が悪いからろくに自力で耕すこともできないのに・・・)
そのせいで、今でも一家揃って貧乏している・・・などなど
種々のエピソードに、テッドの「残念」さが現われている。

一番の問題は、彼が社会的に孤立しがちなことだと思う。
古女房のローズだけは、なんだかんだ言いつつも
最後の最後までテッドの味方、という感じだったけど、
この時代、社会における女性の立場はとても弱かったはずだ。
テッドみたいに不器用で、才覚のない人間にとって必要なのは、
もっと頼れて、おりいっての相談ができる、男の仲間ではないか。
でもそういう存在が、テッドにはひとりもいないようだった。
(まあ確かにテッドって、アル中だし、見るからに不健康そうだし、
 ぜひ友だちになりたい相手! って感じの男じゃないんだよな)
そもそもテッド自身「俺は誰かに頼りたいのだ、相談したいのだ」
と思う気持ちが、自分の心の中にある、ということを、
まったくわかっていないように見えた。



【父親になくて息子にはあったもの】

家長のテッドがこのていたらくで、いろいろやらかすので
家族は迷惑をこうむりまくる。
特に一人息子のアルバートは、愛馬を勝手に売られるなど
散々な目にあわされる(暴力もふるわれていたみたいだった)。
でも、子が親に意見するのは非常に難しかった時代と思われる。
多分将来の道とかも、親の許しがないと選べないというか、
親が決めた道を進むのが当たり前の時代って感じなんだろう。
普通にいけば、アルバートも、父親と似たような人生を歩み、
父親と似たような男になり、父のように老いるのだろう、
・・・というのが、目に見えるようだった。
アルバートは父のせいで何が起ころうと、グチ一つ言わない。
父の作った負債を一身に引き受け、努力で回収しようとする。

だけど、アルバートにはテッドと違う所がひとつある。
ふたりは父子だけど、何もかも同じなのではないのだ。
ヘンクツで、社会的に孤立しがちなテッドと違って、
アルバートには心と心がつながった仲間、親友がいる。
アルバートは愛馬ジョーイと一緒ならどんなことも頑張れる。
ジョーイのためなら死地に身を投じることもいとわない。
人と馬の関係だけど、アルバートとジョーイの心は、
信頼によってかたく結ばれているのが伝わった。

アルバートの愛馬ジョーイは、戦地で大冒険を繰り広げる。
多くの人に委ねられ、時に虐待され、時に可愛がられ、
人の所業のさまざまをその眼に焼き付けて生き延びていく。
(この映画について語り合った友だちは、
 『その冒険はジョーイが馬だからこそ可能だったことだ。
  人だったら、いろいろな社会的制約が立ちはだかって、
  そううまくあちこち行ったり他者と関わったりできない』
 と言っていた。確かにその通りだよねえ)

アルバートとジョーイは、苦難の末に奇跡の再会を果たす。
もちろんアルバートは、自分と離ればなれになっていた間に、
ジョーイがどんな体験をしてきたか、知る由もない。
だけど、何も知らなくても、アルバートはきっと察するはずだ。
ジョーイがいかに大変な思いをして自分の許にたどり着いたかを。
そして、疲れた愛馬を心からいたわるのだろう。



【父親越え→→過去を乗り越えてより良い未来へ】

ここが、重要なポイントじゃないかと、思っている。
アルバートとジョーイが、それぞれの体験や情報を
本当の意味で共有することはありえないのだ。
当たり前だが、別の個体だし、人と馬だし、言葉も通じない。
だけど、思いやることはできる。
お互いいろいろあったね、でも会えてよかったね、で良い。
アルバート自身の過酷だった従軍体験と、
ジョーイの瞳の奥にあるジョーイだけの戦争体験が
ふたりの再会と帰還によって、ひとつの場所に並び立った。
この終盤の構図はとても良かったんじゃないかな。
おのおのの体験が共有されることは決してないのだが、
何も知らなくても、察することでカバーできる。
察したいと思えるのは、相手のことが大切だからだ。

アルバートのように、
他者の存在を心の支えにしてに頑張る、とか
他者と協力して大きな困難を乗り越える、とかいう生き方は、
貧弱な社会関係しか持たないテッドには、不可能なものだ。
アルバートはこの彼独自の生き方によって、
他者と関わる力、知らなくても思いやろうとする力によって、
自分の人生を歩んでいくのだろう。
父親が乗り越えられなかった苦難を乗り越えるだろうし、
その意味で、父を越えていくだろう。

アルバートが見せてくれた
「知らなくても思いやる、察する、想像する」
という姿勢は、
わたしたちが、世界をより良いものにしていくために
ぜひとも求められるものなんじゃないか、とも思う。
例えば、わたしは戦争をしたことがなく、戦争を知らない。
でも、
「戦争したことがないからどんなものかわからない。
 知るために、試しにやってみよう!」
というわけにはいかない。
戦争行為は、恒久的に「やらない」の一択なのだ。
なのに、やらないことが極めて困難なものでもある。
戦争を知らないまま、戦争をしないでい続けるには、
どうすれば良いんだろうか。
やればどうなるかを察する、思いやる、想像する、
・・・これしかないとわたしは思う。

話を拡げすぎかもしれないけど、
この映画で描かれたアルバートの姿に、
戦争があった時代を「終わらせ続ける」ヒントを、
見ることができるんじゃないか、という気がする。

『ザ・ライダー』

 

 

原題:The Rider
クロエ・ジャオ 監督・製作・脚本
2017年、米

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【あらすじ】

ブレイディは、馬の調教に従事するかたわらロデオに熱中してきた。
しかし、競技中の落馬事故で、頭に重傷を負ってからというもの、
突然手が硬直して動かなくなるなどの後遺症に悩むことになる。
医師には、ロデオはもちろんのこと馬と関わる仕事も止められる。
物心ついた時からずっと馬と一緒だったブレイディは、
若くして生きがいも希望も見失うこととなり、苦悩する。

人生の岐路に立たされ、体の苦痛もあって、・・・と
かなりつらい状態の青年が主人公の話なんだけど、
この映画には、たとえば、
「俺ってかわいそうだよね? そうでしょ?」
「人生いろいろだけど元気を出して行こうぜ!」
みたいなことをグイグイ押し付けてくる感じはなかった。
強く訴えてきたり、問いかけたりは何もしてこなかった。
ただそばで、疲れた心、傷付いた心に寄り添ってくれる、
ひかえめな共感の力を感じて、好ましい映画だった。
物語上の起伏みたいなものはあまり激しくなく、
淡々と、ごく静かにストーリーが進行するので、
観る方もゆったりと気分良く過ごすことができた。
昔からの伝統らしいカウボーイたちの習俗などを
ながめるのは楽しかった。
ブレイディたちは、ロデオ大会の時はもちろん、
馬の競売や、大きな病院に友だちの見舞いに行く時など
必ずきちんとカウボーイルックに身を包んでいく。
(ハット、ネッカチーフに銀のタイ留め、ジーンズ、ブーツ)
これが彼らの社会のスーツ&ネクタイなのかもしれない。
ブレイディは主役だからか服のセンスがあか抜けていて
特別カッコ良くしてもらっていた。

 

【演技経験のない人たちが本人役で出演】

主人公のブレイディ以下、主要キャラがみんな、
本人が、基本的に本名のまま、本人役で出演しているそうだ。
(ブレイディの一家だけは、姓を「ジャンドロー」でなく
 「ブラックバーン」に変えられている)
脚本はブレイディ・ジャンドローさんの実体験をベースに
作り上げられたものだという。
映画の作られ方として、おもしろい試みだと感じた。
アメリカ北西部の小さな町の、小さなコミュニティの、
普通の人たちの、ほんの狭い人間関係の物語だ。
そんな狭い地域社会に、中国系の若い、新人女性監督が
入り込んでいって、良く、信頼関係が築けたなと思った。
ジャンドローさんとこのブレイディが映画出るんだってよ、
という話にはなって、
みんなそれなりに力をかしてくれたのかもしれないけど、
「必要な頭数が揃えられるか」
ということと、
「映画としての鑑賞に耐えるレベルの演技をさせられるくらい
 (素人である)キャストの意欲や潜在能力を引き出せるか」
ということは、全然違う話だと思う。
演出とか編集も上手だったのだろうと思うが、
そういうところには出ない、裏方の部分というか、
出演者たちとの関係づくり、現場の雰囲気づくりが
非常にうまくいった映画だったんじゃないだろうか。

 

【手指の後遺症がなぜそんなに問題か】

ブレイディが、暴れん坊の仔馬の調教を行う場面は興味深い。
馬に最初に鞍を付けてまたがるのは、大仕事らしかった。
ブレイディは、馬の体の左側に立ちながら、背中に腕を回し、
体の右側を手で何度も何度も優しくさすって、温めていた。
「背中にまたがられると、体の両側面に刺激を受ける」
ということをあらかじめ疑似体験させて慣れさせるのだろう。
この間も、馬は全力で暴れて、振りほどこうとするので、
ブレイディの方はしまいにはヘトヘトだろう。
また、何度となく、鼻っ柱に手を突き出してにおいを覚えさせる。
うまく調教者の言うことを聞けた時は、優しく顔をなでて褒める。
こういうのを見ていて、気付かされたことがあった。
さっき述べたことだが、ブレイディは、
手がうまく動かせない(時がたまにある)後遺症により、
ロデオも調教の仕事も辞めた方が良いと医師に止められている。
だが、わたしは西部劇の荒事でしか「カウボーイ」を知らない。
なぜ「手が時どき固まってしまう」という、ほんの小さなことが
カウボーイにとってそんなに問題なのか、当初ピンとこなかった。
でも、
手を使ってさまざまなことを馬に伝えていくブレイディの姿を見て、
馬と関わるのに、手の繊細な感覚がいかにものを言うか、わかった。
むしろ、手が一瞬でも思い通りに動かせなかったら命にも関わる。
手が動かせなくなったことが死活問題なのは、だからなのだ。
体の他の部分は、順調に回復していっているのに、
よりにもよって手だけが・・・、ということなのだ。
ブレイディの無念が、本当に理解できた気がした場面だった。

 

 

【自分の体験を自分で演じ直すこと】

それにしても、自分の実体験をカメラの前でもう一度演じる、
というのは良く考えると、かなりのことだよね。
ブレイディ・ジャンドローさんの体験は壮絶だもんな。
本当に落馬してケガをしてロデオができなくなったのだから。
それを物語として自分で再現するとは、どういう気持ちなのか。

ブレイディもそうなんだけど、この物語にはもうひとり、
同じようにケガで道を断たれたキャラクターが登場する。
それはブレイディの親友のレインという人物だった。
レインもロデオで大ケガを負い、ブレイディよりも
ずっと重度の後遺症があり、リハビリ施設に入所している。
ブレイディが、レインのリハビリを手伝う場面がある。
乗馬の訓練用の馬具みたいなものを家から持ってきて、
それにレインをまたがらせて、体を動かす練習を手伝う。
最初は、ふたりとも楽しそうに取り組んでいる。
でも、やがてレインが、たまらなくなったのか下を向いてしまう。
このレインも、レイン・スコットさんが本人役で出演している。
レインさんが、本当にリハビリ施設に入所しているわけなのだ。
ブレイディとの、このリハビリの場面なんか観ていると、
いったい彼らは、どういう気持ちだったことだろう、
どんな思いでこの映画に出演してくれたんだろう、と
思わずにはいられなかった。



【物語の中のブレイディの未来】

実際のブレイディ・ジャンドローさんの現在がどうなのであろうと、
物語の中のブレイディが、ロデオや馬の仕事をする道を断たれた、
この事実は動かない。
そこに奇跡とかいったものは一切起こらない物語だった。
ブレイディの今後の選択は明示されずに、物語の幕が閉じた。
物語の中のブレイディが今後どうしていくのか、気になった。
一生取り組むつもりだった夢や仕事を失うのはつらいものだ。
この先どうするか、どう心に折り合いを付けるか、
それを決めることは本人にしかできない。
本人だけが決められる。
他人がどう言ってもしょうがないことだとは思う。
他人ではなく、馬だったら、
ブレイディに何かを伝える資格があるかもしれないが・・・。
描かれなかったから、なんとも言えない。
ブレイディが、なんとか生きがいを見いだして行ってくれたらな。



【一か所ミス発見】

ひとつだけ、明らかなミスと思われる所を発見した。
物語の最初の最初の方で、
ブレイディが、自分の出場したかつてのロデオ競技会の
動画を観返すシーンがあった。
彼のケガの原因となった落馬事故の模様が記録されている。
レースの模様が映し出されていくなかで、
出場者を紹介する場内アナウンスが聞こえるのだが
そこでブレイディを紹介するアナウンスの音声が、
「次の出場者はブレイディ・ジャンドローさんです」
になっていた。
このあとで説明を試みるが、これは、おかしいのだ。

このシーンは、映画の序盤の序盤、本当に最初の方だ。
この場面を観ていたので、わたしは当然、
ブレイディの姓は「ジャンドロー」だと思って
この映画を観始めることになった。
だが、競技会の動画を観返すシーンの、数分後くらいに、
ブレイディが亡き母マリの墓参りをするシーンがあった。
(墓に「母さん(Mom)」と呼びかけていたので間違いない)
マリの十字架には「マリ・ブラックバーン」の銘があった。
ブレイディの苗字って、ジャンドローじゃなかったっけ?
なぜ息子の苗字と、彼が母と呼ぶ人の苗字が、違うのか?
いろいろ考えはした。
ブラックバーンはマリの旧姓で、ブレイディの父と離婚し、
のちに婿を取ったか、再婚しなかったかで、
旧姓で亡くなった、みたいな、そういう事情とか。
混乱した。
物語の中盤で、ブレイディに調教の仕事を頼みにきた人が
「あんた、ブラックバーンさんかい?」と聞く。
ブレイディは確か、うんともはいとも答えなかったが、
その人の仕事の依頼を結局は受けていたので、
やっぱりこの物語の中では、
ブレイディの苗字はブラックバーンなんだなと確認した。
(エンドクレジットでもそれは確認できた)
先にのべた通り、
ブレイディを演じているブレイディさんの本名は、
確かに「ブレイディ・ジャンドロー」なのだが、
この映画の中では「ブラックバーン」と姓を変えて
設定されているのだ。
つまり、序盤でブレイディが観る、あの動画のなかで
彼は「次はブレイディ・ブラックバーンさんです!」と
紹介されていなくてはならなかったのに、
「ブレイディ・ジャンドローさんです」になっていた。


ではどうして序盤の「動画を観返す」シーンで
「ブレイディ・ジャンドローさんです」というアナウンスを
聞くことになったのだろうか。
製作の背景を推測するに、
多分、実際のブレイディ・ジャンドローさんの
落馬事故の動画をそのまま映画に採り入れたのだろう。
この映画の脚本はブレイディ・ジャンドローさんの
実体験を元に作られたのだから。そのことは全然良い。
でもこの物語の中ではブレイディの苗字はブラックバーンだ。
個人的には、アナウンスの音声くらい、あとで編集して、
ブラックバーンに変えれば良かったのではないかと思う・・・。
ロデオの時だけは「ジャンドロー」の通り名を使っている、
という「設定」だったのかもしれないが、
そこについての説明は、物語の最初から最後まで、
まったくなかった。

劇中で登場するあの動画の、場内アナウンスの音声が
「ブレイディ・ジャンドロー」になっていたことは
シンプルに「ミス」だったと個人的には思っている。

『セクレタリアト 奇跡のサラブレッド』

 

原題:Secretariat
ランダル・ウォレス 監督
シェルドン・ターナー、マイク・リッチ 脚本
2010年、アメリ

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【あらすじ】

1970年代のアメリカの競馬界で、
数々の伝説的な記録を打ち立てた名馬セクレタリアト
そしてこの馬に託された、さまざまな人びとの夢を
実話に基づいて描く伝記映画だ。

ヴァージニア州の競走馬専門ファーム
「メドウ・ステーブル」で、経営者クリスが病に倒れた。
妻に先立たれたショックで心も体も弱った末のことだった。
牧場の経営は以前から赤字続きだったので、
クリスの息子たちは、牧場を売却しようと考え始めるが、
専業主婦となっていた娘ペニー(ダイアン・レイン)だけは、
牧場の売却に強硬に反対。
結局、彼女が父から経営権を引き継いで、
ファームを切り盛りしていくこととなる。
ペニーは経営は素人同然だったのだが、
幼い頃、牧場の仕事を手伝い、馬と触れ合ってきた人だった。
引退寸前の名調教師ルシアン(ジョン・マルコヴィッチ)、
優秀な騎手ロン(オットー・ソーワース)などとの
出会いに恵まれたペニーは、
馬主として牧場経営者として、着々と成長していく。
そんななか、ファームで一頭の仔馬が誕生。
彼こそ、のちに米競馬史上最強とも称されることとなる
名馬「セクレタリアト」なのだった。
・・・



【観ていて楽しい!】

ま~ さすがディズニーの一言というか。
十分におもしろかったのだが、
おもしろい、と言うよりもむしろ、
いつものごとく、「手際が良い」というのが実感に近い。
おおむね、なんか、そつがない。そして、健全なのだw

ペニーのヘアスタイルやファッション、
夫と子どもたちと暮らす家のインテリアなどから、
70年代アメリカのアッパーミドルクラスの暮らしぶりが
伺えて楽しい。
ヒッピームーブメント華やかなりし頃の、
流行・文化も、さりげなく描かれていたと思う。
というのも、ペニーの娘たち(高校生くらいか?)が、
ヒッピーにかぶれて、そういうテイストの服を着たり、
政治劇をやったり、反戦デモに出かけたりするのだ。
とはいえこの子たちは、普段からペニーが目を光らせて、
しっかりしつけている娘たちであり、
なんたってそこそこ良いとこのお嬢さんなので、
そこまでガッツリとは、ヒッピーに傾倒しないのだが(笑)
さすがはディズニーというか、
そのへん加減をわきまえているよな、と思った。

 

【ペニーと夫の関係に、時代感がほのみえる】

時代感と言えば、ペニーとその夫の関係とかも、
けっこうその意味ではいろいろうまかった点だ。
ペニーの夫は弁護士で、それなりに忙しい人物。
そんななか、妻が実家の牧場を継ぐと言い出し、
レースやら、牧場の事務作業やらで、
月の半分も家を空けるようになってしまった。
夫としては、正直言っておもしろくない。
ペニーがいないので家事は滞り、家は散らかり、
(夫が言うには)母親が良く見ていないせいで、
娘たちが「反体制運動」にかぶれてしまった。
夫は牧場に滞在中の妻に電話をかけて、
「ハニー、帰ってきておくれ」と懇願する。

ここまでのお膳立て的な描写、つまり
ペニーの二重生活が夫婦関係に影響を及ぼしていく
過程の描写が上手だったせいなのか、
わたしの耳にはこの「ハニー、帰ってきておくれ」が
「家事をやってくれ。子どもを大人しくさせてくれ」
にしか聞こえなかった。
夫は、ペニーの気丈な性格を愛しているらしかったし、
「男は仕事、女は家で家事・育児」みたいなことを
妻に押し付けているつもりは毛頭ない様子だったのだが・・・。

旧式の規範意識を(無自覚的に)強く内面化している夫と、
それを(無自覚的に)ブレイクスルーしつつある妻を描くことで
逆に「そういう時代だった」感を良く出していたように思う。

ただ、
(作り手としては全方位に気を遣った結果なんだろうが)
夫婦のすれ違いは、すれ違いのままにしておいても良かったのに、
結局、終盤で、妙~に夫が物分かりの良い感じになる展開を、
入れてきていたのが「ちょっとなあ」って感じだった。
具体的に言うと、
ペニーと夫は、離婚することとなる。
夫が、ペニーの二重生活をどうしても理解しきれなかったのだ。
だが、「名馬セクレタリアトを輩出したファーム」として
メドウステーブルの経営が盛り返されたことにより、
一転、夫はペニーの頑張りを全面的に認める姿勢を見せる。
「君を信じることができなかった僕が悪かった」
みたいなことを妻に告げるシーンがあった。

個人的には、こういう展開がなかったとしても
別に良かったのにな、と思う。
「わからないものはわからない」
「一番認めて欲しい人に認めてもらえないこともある」
「愛情だけでは問題を乗り越えられない場合もある」
「得るものがあれば失うものもある」
・・・そんなビターな現実を残してくれても
別にかまわなかったのだが。

まあ、けど、ディズニーだからな・・・(笑)

実際のペニー・チェネリーさんは、
どうだったんだろうな・・・
本当に夫と和解したのかね。
というか、実際に夫がいたのかね。
そこから創作だとするといろいろ話が変わってくるね。



【圧巻の『1973ベルモントステークス』】

クライマックスは文句なしの素晴らしさ。
競走馬セクレタリアトは、1973年に、
アメリカクラシック三冠」、すなわち
ケンタッキーダービー
プリークネスステークス
そしてベルモントステークスの3つのレースを
制覇したことで有名な馬だそうなのだが、
(この他にも、多数の記録を保持しているそうだ)
映画のクライマックスは、このうち
ベルモントステークスの勝利にフォーカスしていた。
このレースの場面、圧倒的としか言いようがなかった。
2着の馬と30馬身以上の差をつけて勝ちぬけるさまを、
相当な長尺で、ドラマチックに描いてみせてくれる。

この時のセクレタリアトは、
何と言うか・・・ランナーズハイとでも言うのかね?
走ることが、本当に気持ち良さそうだった。
「見て見て! 僕、速いでしょ! カッコイイでしょ!」
もし人語を話すならそんな風に言っていたんじゃないか。
誇らしそうだった。うれしそうだった。

それにしても不思議でしょうがないんだけど、
なんでまた、30馬身も違っちゃうんだろうか!!!
生きものだからそれぞれに個性、キャラはあるのだろうが、
おそらくみんな似たようなメソッドに則って訓練を受け、
似たような食餌を与えられているはずの馬たちが、
同じ条件のレースに出て、よーいどんで走るのに、
なんで一頭だけあんなに抜きん出る展開が!!!?
馬にも
「うわっ、今日はあんな速いやつがいるよ!
 なんか、走るのバカらしくなっちゃった、
 どうせ負けるもん、もうやーめた」
みたいな心理があるんだろうか・・・
それで他の馬がみんな途中であきらめちゃって、
そのせいでセクレタリアトの独壇場となったんだろうか?
奇跡としか思えなかった、あの勝ち方。
スゴかった~・・・



【まとめ】

「そこまで気を遣わなくても良いのにね」的な
部分が、ほんのちょっと、なくもなかったが、
基本的にはこの通り、
最高に気持ちの良いクライマックスが用意され、
人びとの心のドラマもこまやかに描かれ、
ファッションとか眼にも楽しませてくれる、
「ディズニー平常運転」的な良作だった。

日本では劇場公開されず、DVD・ブルーレイ販売に
とどまったそうだ。
これだけの良作なのにもったいないと思うけど、
多分「競走馬の種付け権の売買」とか
まあまあ生々しいエピソードが
割としっかり入ってくる所とかが
もしかしたら引っかかったのかもしれない。
と、思ったりする。
種付け権てなあに、とかチビッコに聞かれたら
どう説明すれば良いかわからないだろうし
そんなめんどくさい映画をかけてくれるなと
言う人もいるのかもしれない。

馬が活躍する映画がストライクゾーンのわたしとしては
十分に楽しく観られた映画だった。
子どもたちも、もちろん、楽しめる作品だと思う。
ぜひどなたも一度DVDなどで観てみていただきたい。

『ネオン・デーモン』

 


原題:The Neon Demon
ニコラス・ウィンディング・レフン監督
2016年
米・仏・デンマーク

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【駄作とまでは言えないが、退屈】

かなり特異な設定ではあったが、
観ているそばから「何だそれ」と興ざめするようなことはなかった。
観ている間は少なくとも、作品の世界に深く集中できた。
魔法が途中でさめないだけの工夫がきちんとされていたのだろう。
その意味では一定の質が確保された映画作品だったと認識している。
だけど、いかんせんテンポがゆるいために、先の展開が見え見えだ。
奇抜な世界観と設定の割には、予想外の展開はいっさいなかった。
人肉食や、女性同士の性愛の展開が入ってくることも、
個人的には割と予測できた所であり、意外さはなかった。

つまるところ、「退屈」の一言だった。

 

【「美」こそすべて、の世界】

登場人物のほぼ全員が、
この物語におけるマクガフィンである「美」をめぐって、
完全に血迷ってしまっている。
でも、この物語の世界では、それが当たり前なのだ。
ヒロインと淡い恋人関係となるディーン青年が、
「人間は外見じゃない。内面の美しさこそ大事さ」
なんて真っ当なことをのたまう場面があったけど、
こういう世界では、ディーンみたいな人の方がむしろ
逆にちょっと頭おかしい人みたいに見えてしまう。
そこはおもしろかった。



【至上の美とは何なのか】

今、わたしは、この映画の「マクガフィン」が
「美」であったと、述べた。
マクガフィンは、
 それをめぐってみんなが大騒ぎを繰り広げるが、
 それ自体は大して重要なものじゃない・・・そんな何かのこと。
 映画や小説などのフィクションストーリーのお話を構成する
 材料のひとつ)

「美」って、実際、なんなんだろうな。

物語の中で、デザイナーのロバートがこう語る。
「美とは『絶対』ではなく『唯一』のものなのだ」
「美容整形はしてはいけない。それは死と同じだ」
そして彼は、整形なしの天然美女ジェシーを称賛する。
整形依存ぎみのジジは、ロバートのこの言葉に傷つき、
ジェシーへの嫉妬を、一層強めていくことになる。
美しくあろうとして美容整形の力をかりる人は、
モデル業界のような所では決して少なくないだろうに、
こんなひどいことを言うなんて、ロバートは無神経だ。
だけど、良く良く考えてみると、別に彼は
「ジジは美しくない」なんて言ってないし、
「美しいのはジェシーだけだ」とも言っていない。
彼の発言の意図をわたしなりに言葉にすると、
「人それぞれに、その人だけが備えうる美がある」
そんな所だったのではないか。
ロバートが美容整形に否定的なのは、
そこで追求される美が、相対的なものだからだろう。
(例えば「芸能人の誰それみたいな鼻にしたい」)
相対的な価値基準に惑わされて整形を繰り返すと、
「その人だけの美」が何であったのかわからなくなる、
すなわちそこにしかなかったはずの唯一美が失われる。
ロバートは、そう言いたかったのでは。

本作品は、ファッション業界を描いた映画なのだが、
撮影シーンとか、ショーの控え室のシーンはあっても、
「モデルの写真が載った雑誌をながめる読者」や
「ファッションショーを見に来る観客」
が、まったく描かれない。
徹底的に、ゼロだった。
「世間で人気が出て一躍トップモデルになった!」
みたいなことをわかりやすく描写したいならば、
一般消費者や、オーディエンスの視点を入れるのが
一番わかりやすいんじゃないかと思うのだが。
わたしが思うに、作り手はやっぱり、この物語の中で、
人の容貌の美しさを
「世間」とか
「みんながどう思うか」とかいう視点では
規定するつもりがなかったのだろう。

ヒロインのジェシーを見てみるとそれがわかる気がする。
ジェシーが、ルビーの邸宅のプールサイドに立った時、
プールの水は抜かれていた。
ジェシーは自分が美しいことを完全に認識している。
その自己愛は強固で巨大だが、正当だ。
「あなたはちっとも美人じゃない」
「あなたはもう年なのでモデル生命は終わりだよ」
仮に誰かにそんなことを言われても、
それで動揺するような、ヤワな自己愛ではない。
神話のナルキッソスのように、水面に映った己の姿に
見惚れる必要さえ、ジェシーにはないのだろう。
あの水が抜かれた豪華なプールは、
怪物的に肥大化した(しかしある意味正当な)
ジェシーナルシシズムのメタファじゃないか。

そして、それで良いのだ、と作り手は言いたかったのでは。
この映画で、作り手が至上のものとしている「美」とは、
相対的なものでも、絶対的なものでもなく、
「その人だけの」美、なのだろうから。
でも映画に登場する多くの美女は、そこをわかってない。
結局何が自分の欲しい美なのかを知ろうともしないで、
「誰と比べてあなたは美しくない、と人に言われること」
「もうあなたは美しくなくなった、と見なされること」
に、おびえている。

これは作品内の設定へのただの想像にすぎないのだが、
先に述べた有名デザイナーのロバートや、
それからカリスマフォトグラファーのジャックなどは、
モデルや、モデル志望の、並外れて美しい女性たちを
毎日何百人と見ているからこそ、思う所があったのだろう。
彼女たちはもちろんみんなスタイル抜群で、美しい。
だけど、みんな似たような顔をしている。
「こういう眉の形、こういう顎の形がウケる」
「体重何キロ、ウエスト何センチ以下だと採用される」
見えない「共通ガイドライン」を内面化して、
そこにムリヤリ自分をはめ込もうとしているので、
みんな似たような顔、似たような姿形だ。
彼らは、常日頃そう思っていたのではないか。



【なぜジェシーが求められたのか】

そんな所に、ジェシーのような子が、
ポッと現れたら、心魅かれて当然だ。
美しい女性を見慣れている人であればあるほど
ジェシーに惹きつけられるに違いない。
ジェシーは多分、
必ずしも「完璧な美女」なのではなく、
まして「誰かと比べて美しい」のでもない。
彼女しか持てない美しさを備えている、という点で
業界において「めずらしい」存在だったのだろう。
プロの目に彼女が水際立って見えたのは、だからではないか。
その証拠に、そんなにびっくりするほどきれいな子だったら、
一人の例外もなくみんなが彼女に夢中になるはずだろうに、
ジェシーの滞在先のモーテルの管理人は、そうじゃない。
ちっともジェシーに興味を持たず、むしろ非常に冷淡だ。

ジェシーは、自分の美貌が業界でウケるという確信を得て
自信を強めていくが、
モーテルの管理人だけは依然として冷たいので、
管理人のことをとても怖がっている。
「管理人が私の部屋に侵入して、寝ている私の
 口の中に、ムリヤリ刃物を突っ込んでくる」
という、悪夢まで見る始末だ。
刃物を口に突っ込まれるなんて、
処女喪失願望の暗喩として露骨すぎるほど露骨だ。
考えるにこれは、
「こんなにも美しいと称賛されている私を、あの管理人は、
 なぜ力ずくでもわがものにしたいと思わないのかしら」
ジェシーのそんな不満と一種の願望が、
夢の形で現れたものではなかったか。

 

【その他の印象的な場面:隣室の侵入者】

ちなみにジェシーはこの、ナイフを口に突っ込まれる
夢を見る直前に、不思議な体験をしていた。
モーテルの隣の部屋から、
争うような物音と、女性の悲鳴が聞こえる。
どうも隣室の宿泊客が、不審者の侵入を受けている様子だ。
でも、この場面をよーく観てみると、おかしな部分もあった。
襲われているのが女性らしいということは声で知れたが、
侵入者が「男性」である確証は、得られなかったのだ。
声がはっきり聞こえなかった。
だからまあ、
ある女性の美しさに心惹かれる者が、男性とは限らない、
ということを示したシーンだったと思わないこともない。
実際の所、この物語の中でジェシーの美しさに執着したのは、
ロバートやジャックやディーンといった男性だけではなかった。
女性であるモデル仲間のジジもサラも、メイクのルビーも、
「嫉妬」という形で、やはりジェシーに魅入られたのだ。




【その他の印象的な場面:『早く外に出さなくちゃ』】

終盤になると、なかなかにえげつないシーンがあった。
ジェシーの美を体内に取り込むという暴挙に出たジジが、
ジェシーの肉体の一部を吐き出して、
「早く彼女を(外に)出さなくちゃ」。
ハードな場面だった。
でも考えようによっては、これはハッピーエンドかもなあ。
「欲しい美を取り込めば自分もその美を手に入れられる」
なんて間違いだった、ジジがそう気付いたのだとすれば、
ジェシーを外に吐き出すという彼女の行為は、
「その人だけの美しさがある」という「正解」に向かって、
一歩を踏み出した行為、ととらえることができるので。
まあ、ジジ、死んじゃったけど(笑)・・・



【やっぱ退屈】

こんなところかな~。
振り返ってみると、読み取りがいはなくもない映画だった。
それに、かなり詳しく、作品内の描写の説明をしてきたので、
このブログを読んでくださる方は、もしかしたら
「イヤ、けっこう刺激的でショッキングな映画じゃない?」
とお思いになったかもしれない。
けどな~(笑) 
何と言ってもテンポが遅いんだよ~(笑)
やっぱ、退屈(笑)

『ライド・ライク・ア・ガール』

原題:Ride Like a Girl
レイチェル・グリフィス監督
2019年、オーストラリア

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オーストラリアの名誉ある競馬レース「メルボルンカップ」を
女性として初めて制した騎手、ミシェル・ペインの半生。
10人きょうだいの末娘ミシェルは、早くに母親を失ったが、
にぎやかな家庭のなかで、元気に成長していく。
ペイン家は、子どもの半分以上がジョッキーという競馬一家。
ミシェルも当たり前のように騎手の道を歩み始めるが、
男性優位の旧式な考えが根強い競馬界では、
なかなか出走の機会が得られず、苦悩することとなる。
しかも、やっとこぎつけた大舞台で落馬したミシェルは、
生命が危ぶまれるほどの大ケガを負ってしまう・・・


いったい何がそんなに泣けるのか、
自分でも言葉では説明しきらんのだけど、
涙がひっきりなしに出るわ出るわ大変だった。
そんなに感情を煽り立てる演出は、
されていなかったと思うのだが・・・。
なんでこんなに泣けちゃったんだろう(笑)
ただただ、こみ上げてきたんだよ!

お馬さんはきれいで、高貴で、かわいいしさ・・・

でも、人間たちのドラマも良かったと思うんだよ。

特に、ミシェルのケガの療養期間の所は秀逸。
庭のイスに腰かけて、ウトウトしていると、
仔馬が鼻っぱしらをグイグイ押し付けて甘えてくる。
何してるの、遊ぼうよ、みたいな感じで。
目を覚ましたミシェルの顔を、良く見ると、
片目からひとすじ、涙が伝っているのがわかった。
それを見て、ああ・・・つらかったんだなあ、と思った。
いつレースに復帰できますか、と尋ねたら
医師に呆れられたほど、ミシェルのケガは重篤だった。
事実まったく思い通りにならない体を引きずって、
それでも「まだ道は途切れてない」と信じるのは、
苦しかったはずだ。きっと。
しかもミシェルはこの時、父とうまくいってなかった。
そもそも、お父さんに認めて欲しくて、ほめられたくて、
ムチャを重ねた結果だったのだ、あのケガは。
それほどまでに大きな存在である父と気まずい中で
いつ終わるとも知れない療養生活を送っているのだから
独りぼっちな感じがして、きっと心細かったと思う。

この映画のミシェルは、とても感情豊かな性格なのだが、
泣き顔を見せるシーンは、考えてみると案外少ない。
推測するに普段のミシェルは、どんなにつらくても、
その気持ちを「くやしい!」「何よ!」という
負けん気に即転換することで、心を奮いたたせる、
そうやっていろんなことを乗り越えてきたのだろう。
でも、今回ばっかりは、それじゃムリだったのかも。
私のケガは深刻だ、という現状を受け入れる所からでないと。
私は本当にボロボロなのだ、と自分で認める所からでないと。
何も知らずに甘えてくる、かわいい仔馬の前でだけ、
ちゃんとミシェルは泣いてたよ。
そして、仔馬の背中に乗って牧場を散歩したこの日から、
彼女の快復は、おもむろに加速していくこととなる。

馬が人語を話すファンタジー映画ではないので、
実際の所はわからない、としか言いようがないが、
あの仔馬がミシェルの心に何かを惹き起こした、と
思わされる展開ではあった。
ベテランの精神科医のカウンセリングを1000回受けても、
どうにもならないような、心の凝り固まった部分を、
一瞬でほぐしてしまう何かがあるのかもしれない。
人が、馬と交流することの中には。

ところで、この物語が
「天才女性騎手ミシェル・ペイン」
という感じの話ではなかったことは確実だろう。
ミシェルが天賦の才の持ち主かのような描写は皆無だった。
とはいえもちろん、彼女は実力ある騎手なのだろう。
ケガが非常に多かったうえに、
女性ゆえに出馬の機会自体が絶対的に少なかったなかで、
それでもメルボルンという大舞台の出場権を獲得できたのは、
限りあるチャンスを確実にものにする力があったからのはずだ。

でも、映画のなかのミシェルは、優秀さが強調されてない。
というかむしろちょっと心配になるくらい弱そうだ・・・。
約100分の短い上映時間の中で負けがこみまくっていたし、
お父さんにまで「才能がないのかもな」とか言われていたし。
まあ、お父さんは、娘の負けん気の強い性格を良く知っていて、
あえて冷たいことを言ったんだろうけどさ・・・。

この通り、観ている方としては、
ミシェルは「弱い騎手」と思わされる流れだった。
だからどう考えても、この映画は、
「彼女は天才」「昔から抜群に優秀」みたいに
カッコ良く印象付ける作りではなかったと思うのだ。
でも、ミシェルはメルボルンで勝った。
その事実から、もう一度、この映画で観てきたことを振り返る。
・・・ミシェルには、勝てる騎手にぜひとも必要なものが、
やっぱり確かに備わっていたと思う。
簡単に言うとそれは、
どんな状況でも絶対に騎手であることを諦めない、
そういう気持ちだったんじゃないか。
だって、別に、騎手なんて辞めたってかまわないのだ。
泥だらけになって負けるし、脳挫傷や骨折で死にかけるし、
毎朝3時起きだし、3日で5キロとか殺人的な減量もあるし
つらいことばっかりではないか。
「ヤらせてくれたら走らせてあげる」
「女の騎手は勝てない」
こんなこと言われてまで、続ける必要あるか?

でも、続けた、それがミシェルの強さの秘密ではないか。
レースにちっとも出られてないのに、
部屋に置いたトレーニングマシン(馬の背中の型)にまたがって
汗だくでギコギコやってる所とか、
涙ぐましいを通り越して、
正直言うとちょっと滑稽だったくらいだからな~。

彼女の心には「諦めない」というクセが付いていて、
どんなにつらくても、騎手を辞める選択肢は最初からない。
そして、騎手でいるなら当然、勝ちにいくのだから、
彼女は、勝つことを諦めていなかった。
あの心の強さは、考えてみると、ちょっと怖いくらいだよな。
勝ちたい、という彼女の気持ちのまっすぐさは、
「幼い子ども」さながらだった。
恐れる気持ちや、疑う気持ちがまったくないのだから。

物語のクライマックス、メルボルンカップ
シーンは素晴らしかった。
ミシェルが優勝することは最初から知っているのに
尋常じゃないほどドキドキした。

出走ゲートの隣の騎手に
「今夜の予定は?」と聞かれて
「お祝いするわ」。
カッコイイーーー~!!!

ぶっちぎりの一着でゴールに飛び込むミシェルの
腰を高く上げてピタっと止めた騎乗フォームは、
馬の形のトレーニングマシンでギコギコやってた
あの時の姿勢そのものだった。
きっと、ラストスパートの立ち乗りのフォームは、
ああやってカッコ悪いマシンで毎日ギコギコやって、
筋肉を鍛えておくからこそ可能なものなのだろう。
ミシェルの美しいフォームと、
彼女のリードに応えて、力の限り走る馬を見た時、
やっぱりこれって「天才」とかいうお手軽な言葉で
片付ける話じゃなかったんだな、と感じた。

と、まあ、わたしの感想はそんな感じだ。
ストレートに胸を打つ、とても良い映画だった。
他にも、父親パディ役のサム・ニールの良さとか
ミシェルの制服姿と、水色のリボンの良さとか
個人的にグッと来たディテールを挙げたらキリがないが
まー文章ではとても表現しきれない(細かすぎるし)。

8月6日で劇場公開は終わってしまったのだが、
レンタルDVDでも良いから、ぜひ観てみて欲しい。
メルボルン杯のシーンの、さわやかな熱狂を、
どなたもぜひ、ご自分の眼で観て、
ご自分の心で味わっていただきたい。

『20センチュリー・ウーマン』

原題:20th Century Women
マイク・ミルズ 監督・脚本
2016年、米

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1979年夏、米カリフォルニア州サンタバーバラがおもな舞台。
40代で出産したシングルマザーのドロシアは、
思春期を迎えたひとり息子ジェイミーの教育に悩み、
下宿人のアビーと、ジェイミーの幼なじみジュリーに
手助けを要請するのだが・・・。

何年も経ってから、観返したくなりそうな映画だと感じた。
好みの映画かどうか? とか、判断のしようもないほど
のんびりゆったり、パンチ弱めで、
ほとんど何ひとつ、事件らしい事件が起こらず、
でもほんのちょっとだけ悶着があるのだが、
それも観ていて落ち込むほど重いできごとではない。
今日も明日も続いていく、カリフォルニアの夏の日々が
淡々と、すがすがしく、切り出されていく。
夜中に長い長い道を車で駆け抜ける映像とか美しかった。

息子がお年頃になって、
何を考えているのかどんどんわからなくなってくる。
それでもちょっとでもわかりたくて、奮闘する母親。
彼女自身も結構型破りな、さばけた方の女性だ。
息子を案じて、内心はまったくおだやかじゃないのだが、
泣いたりわめいたりせずに上手に気持ちを処理できる人なので、
観ていてうっとうしくなく、むしろ応援したくなった。

1979年というと
インターネットもパソコンもスマートフォンもない。
暮らしの中の「空白」と「退屈」の量が、
今とは段違いだったと思う。
明日もあさってもしあさっても、朝、目を覚ませば
今日とまったく同じ程度の無聊が待っていると知りながら、
それを迎え入れ、やり過ごしていた日々ってのは
どんな感じだったんだろう。
学校の夏休みとか、ヒマでヒマでしょうがなさそう。
そのあたりを、非常に体感的にイメージさせてくれる。
もう今となっては、このゆったりとした時間の流れは
なかなか体験できないと思うので・・・貴重だ。

アビー姐さんのすすめで
フェミニズム理論をかじり始めたジェイミーが
女性とセックス、老いと女性、なんてことについて
意気揚々と人前で語りまくるようになる。
母親としちゃ冷や汗もので、つい口を出してしまうのだが
するとジェイミーは
「僕は今、学んでるんだ。
でも、お母さんは何もしてないよね」
な、なかなかキツイ・・・。

ジミー・カーター大統領のテレビ演説を
みんなで観るシーンがあった。
任期最後の1979年に放送されたこの演説は、
「『自信喪失の危機』スピーチ」と呼ばれ、
現在でも有名なのだそうだ。
現在の世界の状況を、予言したかのような内容だ。
79年でもうこんな先進的なこと言っていたのか!
と驚かされた。
でも映画の中では、テレビを観た人たちが口々に
「どうしちゃったんだこの人は」
「大統領がおかしくなったぞ」
とか言っていて、
カーター氏の提言が受容されにくい時代だった、
ということが良くうかがえた。
(ドロシアだけは『素晴らしい演説だわ!』
と、感激していた)

いろいろな価値観が生まれ出す、
過渡期だったのかなと思う。
ドロシアがジェイミーの教育をお願いした相手が
ふたりとも、まさに新時代の若者という感じなので、
母親としては物分かりの良い方と言えるドロシアでも、
たまにさすがに黙っていられなくなり、
自分から息子のことを頼んでおきながら、
アビーやジュリーと言い争ったりするのが
観ていておもしろい所だった。

母子の関係が融和された終盤が、秀逸だった。
ジェイミーが「お父さんと愛し合ってた?」。
ドロシアは「もちろんよ」。
でも、ちょっと考えて、より詳しく言い直していた。
ドロシアが語り直した、元夫との夫婦関係の真実は、
場合によっては息子のジェイミーの気持ちを、
傷付けてしまうかもしれないものだった。
だけどドロシアは、
「今のジェイミーならきっと
私の話を理解できるはずだ」
と信じたのだろう。
カメラは、ジェイミーではなく、
ドロシアの表情をずっととらえていた。
あのように自分の本当の気持ちを言葉にすることは、
大人には、大変な覚悟の要ることだ。
息子に対して誠実であろうとして、
勇気をふりしぼった母の表情は素晴らしかった。