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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『セクレタリアト 奇跡のサラブレッド』

 

原題:Secretariat
ランダル・ウォレス 監督
シェルドン・ターナー、マイク・リッチ 脚本
2010年、アメリ

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【あらすじ】

1970年代のアメリカの競馬界で、
数々の伝説的な記録を打ち立てた名馬セクレタリアト
そしてこの馬に託された、さまざまな人びとの夢を
実話に基づいて描く伝記映画だ。

ヴァージニア州の競走馬専門ファーム
「メドウ・ステーブル」で、経営者クリスが病に倒れた。
妻に先立たれたショックで心も体も弱った末のことだった。
牧場の経営は以前から赤字続きだったので、
クリスの息子たちは、牧場を売却しようと考え始めるが、
専業主婦となっていた娘ペニー(ダイアン・レイン)だけは、
牧場の売却に強硬に反対。
結局、彼女が父から経営権を引き継いで、
ファームを切り盛りしていくこととなる。
ペニーは経営は素人同然だったのだが、
幼い頃、牧場の仕事を手伝い、馬と触れ合ってきた人だった。
引退寸前の名調教師ルシアン(ジョン・マルコヴィッチ)、
優秀な騎手ロン(オットー・ソーワース)などとの
出会いに恵まれたペニーは、
馬主として牧場経営者として、着々と成長していく。
そんななか、ファームで一頭の仔馬が誕生。
彼こそ、のちに米競馬史上最強とも称されることとなる
名馬「セクレタリアト」なのだった。
・・・



【観ていて楽しい!】

ま~ さすがディズニーの一言というか。
十分におもしろかったのだが、
おもしろい、と言うよりもむしろ、
いつものごとく、「手際が良い」というのが実感に近い。
おおむね、なんか、そつがない。そして、健全なのだw

ペニーのヘアスタイルやファッション、
夫と子どもたちと暮らす家のインテリアなどから、
70年代アメリカのアッパーミドルクラスの暮らしぶりが
伺えて楽しい。
ヒッピームーブメント華やかなりし頃の、
流行・文化も、さりげなく描かれていたと思う。
というのも、ペニーの娘たち(高校生くらいか?)が、
ヒッピーにかぶれて、そういうテイストの服を着たり、
政治劇をやったり、反戦デモに出かけたりするのだ。
とはいえこの子たちは、普段からペニーが目を光らせて、
しっかりしつけている娘たちであり、
なんたってそこそこ良いとこのお嬢さんなので、
そこまでガッツリとは、ヒッピーに傾倒しないのだが(笑)
さすがはディズニーというか、
そのへん加減をわきまえているよな、と思った。

 

【ペニーと夫の関係に、時代感がほのみえる】

時代感と言えば、ペニーとその夫の関係とかも、
けっこうその意味ではいろいろうまかった点だ。
ペニーの夫は弁護士で、それなりに忙しい人物。
そんななか、妻が実家の牧場を継ぐと言い出し、
レースやら、牧場の事務作業やらで、
月の半分も家を空けるようになってしまった。
夫としては、正直言っておもしろくない。
ペニーがいないので家事は滞り、家は散らかり、
(夫が言うには)母親が良く見ていないせいで、
娘たちが「反体制運動」にかぶれてしまった。
夫は牧場に滞在中の妻に電話をかけて、
「ハニー、帰ってきておくれ」と懇願する。

ここまでのお膳立て的な描写、つまり
ペニーの二重生活が夫婦関係に影響を及ぼしていく
過程の描写が上手だったせいなのか、
わたしの耳にはこの「ハニー、帰ってきておくれ」が
「家事をやってくれ。子どもを大人しくさせてくれ」
にしか聞こえなかった。
夫は、ペニーの気丈な性格を愛しているらしかったし、
「男は仕事、女は家で家事・育児」みたいなことを
妻に押し付けているつもりは毛頭ない様子だったのだが・・・。

旧式の規範意識を(無自覚的に)強く内面化している夫と、
それを(無自覚的に)ブレイクスルーしつつある妻を描くことで
逆に「そういう時代だった」感を良く出していたように思う。

ただ、
(作り手としては全方位に気を遣った結果なんだろうが)
夫婦のすれ違いは、すれ違いのままにしておいても良かったのに、
結局、終盤で、妙~に夫が物分かりの良い感じになる展開を、
入れてきていたのが「ちょっとなあ」って感じだった。
具体的に言うと、
ペニーと夫は、離婚することとなる。
夫が、ペニーの二重生活をどうしても理解しきれなかったのだ。
だが、「名馬セクレタリアトを輩出したファーム」として
メドウステーブルの経営が盛り返されたことにより、
一転、夫はペニーの頑張りを全面的に認める姿勢を見せる。
「君を信じることができなかった僕が悪かった」
みたいなことを妻に告げるシーンがあった。

個人的には、こういう展開がなかったとしても
別に良かったのにな、と思う。
「わからないものはわからない」
「一番認めて欲しい人に認めてもらえないこともある」
「愛情だけでは問題を乗り越えられない場合もある」
「得るものがあれば失うものもある」
・・・そんなビターな現実を残してくれても
別にかまわなかったのだが。

まあ、けど、ディズニーだからな・・・(笑)

実際のペニー・チェネリーさんは、
どうだったんだろうな・・・
本当に夫と和解したのかね。
というか、実際に夫がいたのかね。
そこから創作だとするといろいろ話が変わってくるね。



【圧巻の『1973ベルモントステークス』】

クライマックスは文句なしの素晴らしさ。
競走馬セクレタリアトは、1973年に、
アメリカクラシック三冠」、すなわち
ケンタッキーダービー
プリークネスステークス
そしてベルモントステークスの3つのレースを
制覇したことで有名な馬だそうなのだが、
(この他にも、多数の記録を保持しているそうだ)
映画のクライマックスは、このうち
ベルモントステークスの勝利にフォーカスしていた。
このレースの場面、圧倒的としか言いようがなかった。
2着の馬と30馬身以上の差をつけて勝ちぬけるさまを、
相当な長尺で、ドラマチックに描いてみせてくれる。

この時のセクレタリアトは、
何と言うか・・・ランナーズハイとでも言うのかね?
走ることが、本当に気持ち良さそうだった。
「見て見て! 僕、速いでしょ! カッコイイでしょ!」
もし人語を話すならそんな風に言っていたんじゃないか。
誇らしそうだった。うれしそうだった。

それにしても不思議でしょうがないんだけど、
なんでまた、30馬身も違っちゃうんだろうか!!!
生きものだからそれぞれに個性、キャラはあるのだろうが、
おそらくみんな似たようなメソッドに則って訓練を受け、
似たような食餌を与えられているはずの馬たちが、
同じ条件のレースに出て、よーいどんで走るのに、
なんで一頭だけあんなに抜きん出る展開が!!!?
馬にも
「うわっ、今日はあんな速いやつがいるよ!
 なんか、走るのバカらしくなっちゃった、
 どうせ負けるもん、もうやーめた」
みたいな心理があるんだろうか・・・
それで他の馬がみんな途中であきらめちゃって、
そのせいでセクレタリアトの独壇場となったんだろうか?
奇跡としか思えなかった、あの勝ち方。
スゴかった~・・・



【まとめ】

「そこまで気を遣わなくても良いのにね」的な
部分が、ほんのちょっと、なくもなかったが、
基本的にはこの通り、
最高に気持ちの良いクライマックスが用意され、
人びとの心のドラマもこまやかに描かれ、
ファッションとか眼にも楽しませてくれる、
「ディズニー平常運転」的な良作だった。

日本では劇場公開されず、DVD・ブルーレイ販売に
とどまったそうだ。
これだけの良作なのにもったいないと思うけど、
多分「競走馬の種付け権の売買」とか
まあまあ生々しいエピソードが
割としっかり入ってくる所とかが
もしかしたら引っかかったのかもしれない。
と、思ったりする。
種付け権てなあに、とかチビッコに聞かれたら
どう説明すれば良いかわからないだろうし
そんなめんどくさい映画をかけてくれるなと
言う人もいるのかもしれない。

馬が活躍する映画がストライクゾーンのわたしとしては
十分に楽しく観られた映画だった。
子どもたちも、もちろん、楽しめる作品だと思う。
ぜひどなたも一度DVDなどで観てみていただきたい。

『ネオン・デーモン』

 


原題:The Neon Demon
ニコラス・ウィンディング・レフン監督
2016年
米・仏・デンマーク

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【駄作とまでは言えないが、退屈】

かなり特異な設定ではあったが、
観ているそばから「何だそれ」と興ざめするようなことはなかった。
観ている間は少なくとも、作品の世界に深く集中できた。
魔法が途中でさめないだけの工夫がきちんとされていたのだろう。
その意味では一定の質が確保された映画作品だったと認識している。
だけど、いかんせんテンポがゆるいために、先の展開が見え見えだ。
奇抜な世界観と設定の割には、予想外の展開はいっさいなかった。
人肉食や、女性同士の性愛の展開が入ってくることも、
個人的には割と予測できた所であり、意外さはなかった。

つまるところ、「退屈」の一言だった。

 

【「美」こそすべて、の世界】

登場人物のほぼ全員が、
この物語におけるマクガフィンである「美」をめぐって、
完全に血迷ってしまっている。
でも、この物語の世界では、それが当たり前なのだ。
ヒロインと淡い恋人関係となるディーン青年が、
「人間は外見じゃない。内面の美しさこそ大事さ」
なんて真っ当なことをのたまう場面があったけど、
こういう世界では、ディーンみたいな人の方がむしろ
逆にちょっと頭おかしい人みたいに見えてしまう。
そこはおもしろかった。



【至上の美とは何なのか】

今、わたしは、この映画の「マクガフィン」が
「美」であったと、述べた。
マクガフィンは、
 それをめぐってみんなが大騒ぎを繰り広げるが、
 それ自体は大して重要なものじゃない・・・そんな何かのこと。
 映画や小説などのフィクションストーリーのお話を構成する
 材料のひとつ)

「美」って、実際、なんなんだろうな。

物語の中で、デザイナーのロバートがこう語る。
「美とは『絶対』ではなく『唯一』のものなのだ」
「美容整形はしてはいけない。それは死と同じだ」
そして彼は、整形なしの天然美女ジェシーを称賛する。
整形依存ぎみのジジは、ロバートのこの言葉に傷つき、
ジェシーへの嫉妬を、一層強めていくことになる。
美しくあろうとして美容整形の力をかりる人は、
モデル業界のような所では決して少なくないだろうに、
こんなひどいことを言うなんて、ロバートは無神経だ。
だけど、良く良く考えてみると、別に彼は
「ジジは美しくない」なんて言ってないし、
「美しいのはジェシーだけだ」とも言っていない。
彼の発言の意図をわたしなりに言葉にすると、
「人それぞれに、その人だけが備えうる美がある」
そんな所だったのではないか。
ロバートが美容整形に否定的なのは、
そこで追求される美が、相対的なものだからだろう。
(例えば「芸能人の誰それみたいな鼻にしたい」)
相対的な価値基準に惑わされて整形を繰り返すと、
「その人だけの美」が何であったのかわからなくなる、
すなわちそこにしかなかったはずの唯一美が失われる。
ロバートは、そう言いたかったのでは。

本作品は、ファッション業界を描いた映画なのだが、
撮影シーンとか、ショーの控え室のシーンはあっても、
「モデルの写真が載った雑誌をながめる読者」や
「ファッションショーを見に来る観客」
が、まったく描かれない。
徹底的に、ゼロだった。
「世間で人気が出て一躍トップモデルになった!」
みたいなことをわかりやすく描写したいならば、
一般消費者や、オーディエンスの視点を入れるのが
一番わかりやすいんじゃないかと思うのだが。
わたしが思うに、作り手はやっぱり、この物語の中で、
人の容貌の美しさを
「世間」とか
「みんながどう思うか」とかいう視点では
規定するつもりがなかったのだろう。

ヒロインのジェシーを見てみるとそれがわかる気がする。
ジェシーが、ルビーの邸宅のプールサイドに立った時、
プールの水は抜かれていた。
ジェシーは自分が美しいことを完全に認識している。
その自己愛は強固で巨大だが、正当だ。
「あなたはちっとも美人じゃない」
「あなたはもう年なのでモデル生命は終わりだよ」
仮に誰かにそんなことを言われても、
それで動揺するような、ヤワな自己愛ではない。
神話のナルキッソスのように、水面に映った己の姿に
見惚れる必要さえ、ジェシーにはないのだろう。
あの水が抜かれた豪華なプールは、
怪物的に肥大化した(しかしある意味正当な)
ジェシーナルシシズムのメタファじゃないか。

そして、それで良いのだ、と作り手は言いたかったのでは。
この映画で、作り手が至上のものとしている「美」とは、
相対的なものでも、絶対的なものでもなく、
「その人だけの」美、なのだろうから。
でも映画に登場する多くの美女は、そこをわかってない。
結局何が自分の欲しい美なのかを知ろうともしないで、
「誰と比べてあなたは美しくない、と人に言われること」
「もうあなたは美しくなくなった、と見なされること」
に、おびえている。

これは作品内の設定へのただの想像にすぎないのだが、
先に述べた有名デザイナーのロバートや、
それからカリスマフォトグラファーのジャックなどは、
モデルや、モデル志望の、並外れて美しい女性たちを
毎日何百人と見ているからこそ、思う所があったのだろう。
彼女たちはもちろんみんなスタイル抜群で、美しい。
だけど、みんな似たような顔をしている。
「こういう眉の形、こういう顎の形がウケる」
「体重何キロ、ウエスト何センチ以下だと採用される」
見えない「共通ガイドライン」を内面化して、
そこにムリヤリ自分をはめ込もうとしているので、
みんな似たような顔、似たような姿形だ。
彼らは、常日頃そう思っていたのではないか。



【なぜジェシーが求められたのか】

そんな所に、ジェシーのような子が、
ポッと現れたら、心魅かれて当然だ。
美しい女性を見慣れている人であればあるほど
ジェシーに惹きつけられるに違いない。
ジェシーは多分、
必ずしも「完璧な美女」なのではなく、
まして「誰かと比べて美しい」のでもない。
彼女しか持てない美しさを備えている、という点で
業界において「めずらしい」存在だったのだろう。
プロの目に彼女が水際立って見えたのは、だからではないか。
その証拠に、そんなにびっくりするほどきれいな子だったら、
一人の例外もなくみんなが彼女に夢中になるはずだろうに、
ジェシーの滞在先のモーテルの管理人は、そうじゃない。
ちっともジェシーに興味を持たず、むしろ非常に冷淡だ。

ジェシーは、自分の美貌が業界でウケるという確信を得て
自信を強めていくが、
モーテルの管理人だけは依然として冷たいので、
管理人のことをとても怖がっている。
「管理人が私の部屋に侵入して、寝ている私の
 口の中に、ムリヤリ刃物を突っ込んでくる」
という、悪夢まで見る始末だ。
刃物を口に突っ込まれるなんて、
処女喪失願望の暗喩として露骨すぎるほど露骨だ。
考えるにこれは、
「こんなにも美しいと称賛されている私を、あの管理人は、
 なぜ力ずくでもわがものにしたいと思わないのかしら」
ジェシーのそんな不満と一種の願望が、
夢の形で現れたものではなかったか。

 

【その他の印象的な場面:隣室の侵入者】

ちなみにジェシーはこの、ナイフを口に突っ込まれる
夢を見る直前に、不思議な体験をしていた。
モーテルの隣の部屋から、
争うような物音と、女性の悲鳴が聞こえる。
どうも隣室の宿泊客が、不審者の侵入を受けている様子だ。
でも、この場面をよーく観てみると、おかしな部分もあった。
襲われているのが女性らしいということは声で知れたが、
侵入者が「男性」である確証は、得られなかったのだ。
声がはっきり聞こえなかった。
だからまあ、
ある女性の美しさに心惹かれる者が、男性とは限らない、
ということを示したシーンだったと思わないこともない。
実際の所、この物語の中でジェシーの美しさに執着したのは、
ロバートやジャックやディーンといった男性だけではなかった。
女性であるモデル仲間のジジもサラも、メイクのルビーも、
「嫉妬」という形で、やはりジェシーに魅入られたのだ。




【その他の印象的な場面:『早く外に出さなくちゃ』】

終盤になると、なかなかにえげつないシーンがあった。
ジェシーの美を体内に取り込むという暴挙に出たジジが、
ジェシーの肉体の一部を吐き出して、
「早く彼女を(外に)出さなくちゃ」。
ハードな場面だった。
でも考えようによっては、これはハッピーエンドかもなあ。
「欲しい美を取り込めば自分もその美を手に入れられる」
なんて間違いだった、ジジがそう気付いたのだとすれば、
ジェシーを外に吐き出すという彼女の行為は、
「その人だけの美しさがある」という「正解」に向かって、
一歩を踏み出した行為、ととらえることができるので。
まあ、ジジ、死んじゃったけど(笑)・・・



【やっぱ退屈】

こんなところかな~。
振り返ってみると、読み取りがいはなくもない映画だった。
それに、かなり詳しく、作品内の描写の説明をしてきたので、
このブログを読んでくださる方は、もしかしたら
「イヤ、けっこう刺激的でショッキングな映画じゃない?」
とお思いになったかもしれない。
けどな~(笑) 
何と言ってもテンポが遅いんだよ~(笑)
やっぱ、退屈(笑)

『ライド・ライク・ア・ガール』

原題:Ride Like a Girl
レイチェル・グリフィス監督
2019年、オーストラリア

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オーストラリアの名誉ある競馬レース「メルボルンカップ」を
女性として初めて制した騎手、ミシェル・ペインの半生。
10人きょうだいの末娘ミシェルは、早くに母親を失ったが、
にぎやかな家庭のなかで、元気に成長していく。
ペイン家は、子どもの半分以上がジョッキーという競馬一家。
ミシェルも当たり前のように騎手の道を歩み始めるが、
男性優位の旧式な考えが根強い競馬界では、
なかなか出走の機会が得られず、苦悩することとなる。
しかも、やっとこぎつけた大舞台で落馬したミシェルは、
生命が危ぶまれるほどの大ケガを負ってしまう・・・


いったい何がそんなに泣けるのか、
自分でも言葉では説明しきらんのだけど、
涙がひっきりなしに出るわ出るわ大変だった。
そんなに感情を煽り立てる演出は、
されていなかったと思うのだが・・・。
なんでこんなに泣けちゃったんだろう(笑)
ただただ、こみ上げてきたんだよ!

お馬さんはきれいで、高貴で、かわいいしさ・・・

でも、人間たちのドラマも良かったと思うんだよ。

特に、ミシェルのケガの療養期間の所は秀逸。
庭のイスに腰かけて、ウトウトしていると、
仔馬が鼻っぱしらをグイグイ押し付けて甘えてくる。
何してるの、遊ぼうよ、みたいな感じで。
目を覚ましたミシェルの顔を、良く見ると、
片目からひとすじ、涙が伝っているのがわかった。
それを見て、ああ・・・つらかったんだなあ、と思った。
いつレースに復帰できますか、と尋ねたら
医師に呆れられたほど、ミシェルのケガは重篤だった。
事実まったく思い通りにならない体を引きずって、
それでも「まだ道は途切れてない」と信じるのは、
苦しかったはずだ。きっと。
しかもミシェルはこの時、父とうまくいってなかった。
そもそも、お父さんに認めて欲しくて、ほめられたくて、
ムチャを重ねた結果だったのだ、あのケガは。
それほどまでに大きな存在である父と気まずい中で
いつ終わるとも知れない療養生活を送っているのだから
独りぼっちな感じがして、きっと心細かったと思う。

この映画のミシェルは、とても感情豊かな性格なのだが、
泣き顔を見せるシーンは、考えてみると案外少ない。
推測するに普段のミシェルは、どんなにつらくても、
その気持ちを「くやしい!」「何よ!」という
負けん気に即転換することで、心を奮いたたせる、
そうやっていろんなことを乗り越えてきたのだろう。
でも、今回ばっかりは、それじゃムリだったのかも。
私のケガは深刻だ、という現状を受け入れる所からでないと。
私は本当にボロボロなのだ、と自分で認める所からでないと。
何も知らずに甘えてくる、かわいい仔馬の前でだけ、
ちゃんとミシェルは泣いてたよ。
そして、仔馬の背中に乗って牧場を散歩したこの日から、
彼女の快復は、おもむろに加速していくこととなる。

馬が人語を話すファンタジー映画ではないので、
実際の所はわからない、としか言いようがないが、
あの仔馬がミシェルの心に何かを惹き起こした、と
思わされる展開ではあった。
ベテランの精神科医のカウンセリングを1000回受けても、
どうにもならないような、心の凝り固まった部分を、
一瞬でほぐしてしまう何かがあるのかもしれない。
人が、馬と交流することの中には。

ところで、この物語が
「天才女性騎手ミシェル・ペイン」
という感じの話ではなかったことは確実だろう。
ミシェルが天賦の才の持ち主かのような描写は皆無だった。
とはいえもちろん、彼女は実力ある騎手なのだろう。
ケガが非常に多かったうえに、
女性ゆえに出馬の機会自体が絶対的に少なかったなかで、
それでもメルボルンという大舞台の出場権を獲得できたのは、
限りあるチャンスを確実にものにする力があったからのはずだ。

でも、映画のなかのミシェルは、優秀さが強調されてない。
というかむしろちょっと心配になるくらい弱そうだ・・・。
約100分の短い上映時間の中で負けがこみまくっていたし、
お父さんにまで「才能がないのかもな」とか言われていたし。
まあ、お父さんは、娘の負けん気の強い性格を良く知っていて、
あえて冷たいことを言ったんだろうけどさ・・・。

この通り、観ている方としては、
ミシェルは「弱い騎手」と思わされる流れだった。
だからどう考えても、この映画は、
「彼女は天才」「昔から抜群に優秀」みたいに
カッコ良く印象付ける作りではなかったと思うのだ。
でも、ミシェルはメルボルンで勝った。
その事実から、もう一度、この映画で観てきたことを振り返る。
・・・ミシェルには、勝てる騎手にぜひとも必要なものが、
やっぱり確かに備わっていたと思う。
簡単に言うとそれは、
どんな状況でも絶対に騎手であることを諦めない、
そういう気持ちだったんじゃないか。
だって、別に、騎手なんて辞めたってかまわないのだ。
泥だらけになって負けるし、脳挫傷や骨折で死にかけるし、
毎朝3時起きだし、3日で5キロとか殺人的な減量もあるし
つらいことばっかりではないか。
「ヤらせてくれたら走らせてあげる」
「女の騎手は勝てない」
こんなこと言われてまで、続ける必要あるか?

でも、続けた、それがミシェルの強さの秘密ではないか。
レースにちっとも出られてないのに、
部屋に置いたトレーニングマシン(馬の背中の型)にまたがって
汗だくでギコギコやってる所とか、
涙ぐましいを通り越して、
正直言うとちょっと滑稽だったくらいだからな~。

彼女の心には「諦めない」というクセが付いていて、
どんなにつらくても、騎手を辞める選択肢は最初からない。
そして、騎手でいるなら当然、勝ちにいくのだから、
彼女は、勝つことを諦めていなかった。
あの心の強さは、考えてみると、ちょっと怖いくらいだよな。
勝ちたい、という彼女の気持ちのまっすぐさは、
「幼い子ども」さながらだった。
恐れる気持ちや、疑う気持ちがまったくないのだから。

物語のクライマックス、メルボルンカップ
シーンは素晴らしかった。
ミシェルが優勝することは最初から知っているのに
尋常じゃないほどドキドキした。

出走ゲートの隣の騎手に
「今夜の予定は?」と聞かれて
「お祝いするわ」。
カッコイイーーー~!!!

ぶっちぎりの一着でゴールに飛び込むミシェルの
腰を高く上げてピタっと止めた騎乗フォームは、
馬の形のトレーニングマシンでギコギコやってた
あの時の姿勢そのものだった。
きっと、ラストスパートの立ち乗りのフォームは、
ああやってカッコ悪いマシンで毎日ギコギコやって、
筋肉を鍛えておくからこそ可能なものなのだろう。
ミシェルの美しいフォームと、
彼女のリードに応えて、力の限り走る馬を見た時、
やっぱりこれって「天才」とかいうお手軽な言葉で
片付ける話じゃなかったんだな、と感じた。

と、まあ、わたしの感想はそんな感じだ。
ストレートに胸を打つ、とても良い映画だった。
他にも、父親パディ役のサム・ニールの良さとか
ミシェルの制服姿と、水色のリボンの良さとか
個人的にグッと来たディテールを挙げたらキリがないが
まー文章ではとても表現しきれない(細かすぎるし)。

8月6日で劇場公開は終わってしまったのだが、
レンタルDVDでも良いから、ぜひ観てみて欲しい。
メルボルン杯のシーンの、さわやかな熱狂を、
どなたもぜひ、ご自分の眼で観て、
ご自分の心で味わっていただきたい。

『20センチュリー・ウーマン』

原題:20th Century Women
マイク・ミルズ 監督・脚本
2016年、米

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1979年夏、米カリフォルニア州サンタバーバラがおもな舞台。
40代で出産したシングルマザーのドロシアは、
思春期を迎えたひとり息子ジェイミーの教育に悩み、
下宿人のアビーと、ジェイミーの幼なじみジュリーに
手助けを要請するのだが・・・。

何年も経ってから、観返したくなりそうな映画だと感じた。
好みの映画かどうか? とか、判断のしようもないほど
のんびりゆったり、パンチ弱めで、
ほとんど何ひとつ、事件らしい事件が起こらず、
でもほんのちょっとだけ悶着があるのだが、
それも観ていて落ち込むほど重いできごとではない。
今日も明日も続いていく、カリフォルニアの夏の日々が
淡々と、すがすがしく、切り出されていく。
夜中に長い長い道を車で駆け抜ける映像とか美しかった。

息子がお年頃になって、
何を考えているのかどんどんわからなくなってくる。
それでもちょっとでもわかりたくて、奮闘する母親。
彼女自身も結構型破りな、さばけた方の女性だ。
息子を案じて、内心はまったくおだやかじゃないのだが、
泣いたりわめいたりせずに上手に気持ちを処理できる人なので、
観ていてうっとうしくなく、むしろ応援したくなった。

1979年というと
インターネットもパソコンもスマートフォンもない。
暮らしの中の「空白」と「退屈」の量が、
今とは段違いだったと思う。
明日もあさってもしあさっても、朝、目を覚ませば
今日とまったく同じ程度の無聊が待っていると知りながら、
それを迎え入れ、やり過ごしていた日々ってのは
どんな感じだったんだろう。
学校の夏休みとか、ヒマでヒマでしょうがなさそう。
そのあたりを、非常に体感的にイメージさせてくれる。
もう今となっては、このゆったりとした時間の流れは
なかなか体験できないと思うので・・・貴重だ。

アビー姐さんのすすめで
フェミニズム理論をかじり始めたジェイミーが
女性とセックス、老いと女性、なんてことについて
意気揚々と人前で語りまくるようになる。
母親としちゃ冷や汗もので、つい口を出してしまうのだが
するとジェイミーは
「僕は今、学んでるんだ。
でも、お母さんは何もしてないよね」
な、なかなかキツイ・・・。

ジミー・カーター大統領のテレビ演説を
みんなで観るシーンがあった。
任期最後の1979年に放送されたこの演説は、
「『自信喪失の危機』スピーチ」と呼ばれ、
現在でも有名なのだそうだ。
現在の世界の状況を、予言したかのような内容だ。
79年でもうこんな先進的なこと言っていたのか!
と驚かされた。
でも映画の中では、テレビを観た人たちが口々に
「どうしちゃったんだこの人は」
「大統領がおかしくなったぞ」
とか言っていて、
カーター氏の提言が受容されにくい時代だった、
ということが良くうかがえた。
(ドロシアだけは『素晴らしい演説だわ!』
と、感激していた)

いろいろな価値観が生まれ出す、
過渡期だったのかなと思う。
ドロシアがジェイミーの教育をお願いした相手が
ふたりとも、まさに新時代の若者という感じなので、
母親としては物分かりの良い方と言えるドロシアでも、
たまにさすがに黙っていられなくなり、
自分から息子のことを頼んでおきながら、
アビーやジュリーと言い争ったりするのが
観ていておもしろい所だった。

母子の関係が融和された終盤が、秀逸だった。
ジェイミーが「お父さんと愛し合ってた?」。
ドロシアは「もちろんよ」。
でも、ちょっと考えて、より詳しく言い直していた。
ドロシアが語り直した、元夫との夫婦関係の真実は、
場合によっては息子のジェイミーの気持ちを、
傷付けてしまうかもしれないものだった。
だけどドロシアは、
「今のジェイミーならきっと
私の話を理解できるはずだ」
と信じたのだろう。
カメラは、ジェイミーではなく、
ドロシアの表情をずっととらえていた。
あのように自分の本当の気持ちを言葉にすることは、
大人には、大変な覚悟の要ることだ。
息子に対して誠実であろうとして、
勇気をふりしぼった母の表情は素晴らしかった。

『ひとつの太陽』

 

原題:陽光普照
英題:A Sun
チョン・モンホン 監督
2019年、台湾

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【あらすじ】

自動車教習所で働く父、
美容師の母、
医大を目指す、品行方正で優秀な長男、
傷害事件に関与して少年院に入った次男。
どうしてもうまく回らない不器用な一家が、
それぞれにもがきながら、生きる道を探っていく。

 


イーストウッドっぽい?】

雰囲気が良くて、優しい映画だ。
中低音域の金管楽器による朗らかな独奏に彩られて、
とてもゆっくりと、物語が進行する。
ハードな事件が次々と発生するが、
その割には不思議とショックが少なく、
あ、そうなんだ~、って感じで見守っていられる。
作り手が登場人物たちに注ぐまなざしが温かい。
そんなこんながどことなく、
クリント・イーストウッド監督の映画を思わせた。

 

【セリフに頼りすぎか?】

登場人物たちの心情の説明において、
セリフに頼りすぎかな、という気は少しした。
でも、それ以外の方法での説明をなまけていたか? 
というと、のちほど詳しく述べてみるが、
別に全然そんなことはなかった。
単に、いつも観ている映画と「文法」が違うので
勝手が違う気がしただけかもしれない。
個人的には台湾製の映画は普段観る機会が少ないし、
台湾という国についても、
文化観、価値観、死生観、何もかも、
未知のことばかりなのだから。

 

 

【心情描写の工夫:光と影】

原題の「陽光普照」は
「太陽はすべてを普く(あまねく)照らす」
という意味らしくて、これは一家の長男アーハオが
ガールフレンドに聞かせた、とある話の中の言葉だ。
この映画にとっての、キーワードにもなっている。
この映画においては、光と陰翳が、
登場人物たちの状況や心情を表現するのに
とてもうまく用いられているのだ。

例えば冒頭、
アーフーとその悪友ツァイトウが事件を起こす場面。
このシーンは視界不良の雷雨の夜に繰り広げられる。
アーフーの過ちが、一家の運命を狂わせる、ということを
この夜の大雨が雄弁に物語っているのでは。

実際、アーフーの事件以降、
特に長男と母が登場する場面は、暗いものが多くなった。
長男は、親の期待が自分に一層のしかかるであろう未来に
責任というよりはプレッシャーを感じていたようだった。
そして母は、出来が悪くても次男アーフーを案じ、
彼の少年院での生活やら将来のことやら
あれこれ思い悩んで、心を痛めている。
家族の未来を憂う、まじめな二人だ。
だから、彼らは暗闇の中にいる。

でも教習所の教官の父は、妻や長男とは真逆だ。
いつも、わざとらしいほどカンカンの日差しの下にいる。
彼は、やんちゃな次男を、傷害事件を機に完全に見限り、
俺は知らんもんね! とばかりに仕事に精を出し始める。
次男の事件の被害者家族が職場に乗り込んできて、
慰謝料を払え! と騒ぎ立てるアクシデントが起こるが、
それでも、しんきくさい家にいるよりも、
働いていた方がずっと気楽だ、といった感じ。

だけど、ある時、一家にさらなる大事件が起こる。
この場面は、朝まだきの濃い青色の中にすべてが沈んでいた。
次男の事件とかいろいろあっても、
これまでは何とか踏ん張って来た一家だが、
ここで、奈落の底の、さらに底へ、叩き落とされた。
あの未明の集合住宅のシーンは、でも、きれいだった。
この映画の中で一番好きな映像だったかも。

この光と影の条件設定に、明らかな変化が生じたのは、
アーフーの年下の彼女シャオユーの妊娠が
判明するあたりからだ。

母はシャオユーと孫のケアに生きがいを見いだす。
これまでは夜の店の女性たちを顧客としてきたが、
シャオユーの将来のためにテナントを借りて、
日中の美容室を開業することを決意する。
陽の光を浴びて開業準備に奔走する彼女は
元気を取り戻してかなり健康そうに見える。

一方、家族に背を向け、
仕事にばかり打ち込んできた父親の方は、
夜の幻影に、惑わされるようになっていく。
刑期を終えて出所してきた次男とも
なかなか素直に向き合うことができず、
不器用な彼は、孤独の中、徐々に思い詰めていく。

出所したアーフーは、人生を立て直そうと必死だ。
しかし、そこに前述の悪友ツァイトウが現われ、
アーフーを暗い闇の世界へ引きずりこもうとする。
「お前のせいで俺は散々な目に遭ったのだから
 お前だけ幸せになるのは許さない」
そんな感じの、陰湿な絡み方だ。

アーフーは仕事をかけもちし、妻子のために頑張る。
だが、カーショップの仕事の当番は「夜」であり、
洗車を任されている高級車は「漆黒」のベントレー
かけもちのコンビニ店員の仕事も「深夜」シフト。
闇との縁が、まだ完全には切れていないことが、
そこかしこから感じ取れる。
アーフーを常に「夜」の中に配置することで、
彼の暮らしがまた不安定で、
いつ何が起こるかわからない・・・ということを、
暗示していた気がする。

そして物語は、
オープニングと良く似た、雷雨の夜を迎える。
・・・
できすぎと言っても良いくらい、
良く考えられた表現手法ではないだろうか。

 

【笑わせようとしてくる豪胆さ(笑)】

唐突に投げ込まれるユーモアには笑った。
アーフーの獄中結婚の場面。
なんでおやじさんが血圧測ってたのか謎(笑)
測定器のやっすい電子音が静かな室内に響き渡り
気まずさMAXでわたしの胃がキリキリと軋んだ(笑)
婚姻の手続きをする役人(あるいは聖職者)たちも
おもしろすぎた。
ああいう所で笑わせようと仕掛けてくる
作り手の神経がスゴイよ。もう、サイコだよ(笑)

少年院の仲間たちが、
アーフーの出所を祝福する場面は良かった。
最初は殴り合いのケンカとかしていたのに。
とても感動的で、泣きそうになった。
この祝福のシーンは、ぜひ、実際に鑑賞して、
ご自分の眼で確認してみて欲しい。

 

【ガンコ親父が走り出す】

四角四面で、口ばっかりで、
とにかく不器用な父親と、
それに粛々と従わざるをえない妻子。
旧式できゅうくつな「家族観」を内面化し、
その内側に閉じ込められた家庭の
崩壊と再生の物語だった気がする。

あの父親は、けっして悪い人ではないんだけど、
まあ、絶望的なまでに古くて、ガンコなのだ。
俺のこういう所が良くないんだ、
家族をばらばらにしてしまったのは俺なんだ、と、
仮に自覚できたとしても、
今さら自分を変えられる柔軟さも、若さもない。
でも、でも、今のままでは・・・。
そんな思いに駆り立てられて、父は突如、動き出す。
もう、問題がコジレにコジレてどうにもならなくて、
ものすご~~~く長大な補助線を引っぱらないと、
解が導き出せなかった、というのが伝わってきて、
切なかった。

 

【この家族だけが特別なのか】

光ある所必ず闇がある、と良く言われる。
「陽光普照」、つまり
「太陽はすべてをあまねく照らす」のであれば、
太陽の恩恵を受ける者、つまり、すべての人間が、
何かしら必ず、負の側面、闇の側面を
背負っていることになる。
『ひとつの太陽』の登場人物たちは言わば、
この人間存在の真実を象徴する存在なのであって、
彼らだけが特別に不幸とか、特別に間違っているとか、
そういうわけではないのだと思う。

闇を背負った人びとの、
かなしみを描く物語にも関わらず、
鑑賞後には不思議と心があたたまっていた。

愚かで哀しい「人間」と、「家族」への、
作り手の思いが込もった、良い映画だ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

原題:I, Daniel Blake
ケン・ローチ監督
2016年
英・仏・ベルギー合作

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英国北東部で暮らす大工職人のダニエル・ブレイクは、
心臓の病でドクターストップが出て働けなくなり、
役所に休業手当の申請をするも「就業可」として却下される。
この理不尽な審査結果に、不服申し立てをしたいのだが、
手続きのあまりの煩雑さにくじけそうな日々。そんな中、
ダニエルは貧困にあえぐシングルマザーのケイティと出会い、
彼女たちと交流を深めていく・・・。

冒頭の、電話による聞き取り調査の段階で
もう何か、絶望的なまでに、ズレてたよな・・・。
ダニエルが、俺の病気は心臓だ、って言っているのに、
老人性の認知症か何かだと頭から決めつけられていたね。
役所は
ダニエルの休業手当の申請を却下する、という結論ありきで
ことを進めている風にさえ見えた。

公的機関への不信感が強いあまり、
無謀な金策にかけずり回り、身も心も疲弊していくケイティ。
納税者としての誇りから社会保障制度を信頼してきたゆえに
それに裏切られたと感じた時の失望も深かったダニエル。
この対比が、簡素な脚本の中にしっかりと描写されていて、
本当に、観ていて心が痛かった。

ケイティサイドも、考えると興味深かったのだが、
わたしがこの映画の中でもっとも印象に残った所に
絞って、この記事を書いてみたい。

それは、終盤のダニエルのある表情だった。
背景としては、
彼は病気で働けないので休業手当を申請したいのに
却下されたので、不服申し立ての手続きを検討している。
しかし、その手続きが遅々として進まないために
収入ゼロの状態におちいってしまっている。
そこでダニエルは職業安定所のすすめを受けて、
日本で言う失業給付の申請も並行して行っている。
日本のそれと同様、規定に応じて求職活動をした証明を
提出して認められれば、給付金が下りる仕組みだ。
だが、先に述べた通り、ダニエルは病気で働けないのだ。
だから就職活動といっても形だけのものとなってしまう。
履歴書を読んだ企業が、ダニエルを欲しがったとしても、
「実は病気だから働けない」と辞退するしかないのだ。
この愚かな茶番にほとほと嫌気がさしたダニエルは、
こんな屈辱的なことは、もうとてもやっていられない、
失業給付金の申請はやめるよ、と安定所の職員に話す。
その直後、彼は職業安定所の外壁に、ある落書きをする。
通報され、間もなくダニエルは逮捕された。
しかし、初犯のため「口頭注意」で済む旨を告げられ、
もう決してやってはダメだよ、と警官に諭されて、釈放される。
・・・
わたしの胸に何かすごく迫ってきたのは、
この、警官の説諭を受けている時のダニエルの表情だった。

わたしには、彼が、安堵しているように見えた。
しかも自分自身のそのような感情に、
いたく失望しているように見えた。
安堵とはこの場合、
「刑務所に行かなくて良いんだ。ほっ・・・」の
安堵、ではないと思う。
何といったら良いのかなあ。
「相手が内心、俺を見下していることはわかっている。
 でもそれでも、いくらか優しくしてもらえた・・・。
 うれしい」
みたいな感じの安堵だ。

うまく説明できるかわからないけど・・・
資本主義社会で生きていると、
「経済活動に失敗した」たったそれだけのことで、
人としての価値がゼロになったような感覚を
味わうことになりかねないんだよな。
それは経験的に、強く感じることだ。
わたしも病気で一時働けなくなったことや、
失業したことがあるのだが、あの時は、
「自活ができない」という状況になったことで、
すごく迅速に、かつ深刻に、自分の心が傷付いて、
いじけていくのを感じた。
「働いて、人に頼らず、借金もせずに
 大過なく暮らし、請求書の支払いをし
 税金を納める」
これが今までできていたのに、できなくなるのは、
恥ずかしいこと、みじめなこと、という感覚だ。
恥ずかしいことだと人に思われる、という感覚だ。

そして、わたしの場合はそんな時、
健康保険組合ハローワークの人の
ふるまいに、救われていた。
手当や給付金の受給のたびに、
恥を上塗りされたように感じずにすんだのは
彼らのおかげだと思っている。
「あなたは無職の失業者ですね。
 わたしはそんなあなたが
 お金をもらえるように、してあげる人です」
とか思っていると、
彼らはわたしに決して思わせなかった。
普通にルールを守って普通に申請をして、
受け取る資格があるものをただ受け取る。
わたしのその立場を、一貫して守ってくれていた。
早く的確、過不足がなく誠実、
そんなふるまいによって。
当然のようできわめて高度な、対人スキルではないか。

でも全世界の職業安定所のすべての職員さんが
そうしてくれるわけじゃないのかも。

自分の経済活動を回せていたけど今は回せない、
ちゃんと生活できていたけど今はできない、
たったそれだけのことで、人の心はすごく
参ってしまうものなのだ。

この屈辱感、この奇妙にいじけた気持ちは
体験してみないとわからないと思う。

ダニエルは
「ちゃんと税金を納めてきた」ことを
人生のささやかな誇りとしている。
それだけに、社会福祉への信頼は厚い。
だって自分の街の福祉の一端はまぎれもなく、
自分の税金でまかなわれている。
ならば自分が生活に困った時にそれを頼るのは当然だ。
なんら恥じるところはない。
当然の権利なのだ。
ダニエルはそう考えている。
だが、彼のこの信頼に、彼の街の福祉はどう応えたか。
ただでさえ弱ってきていたダニエルの心を
いっそう疲弊させていかなかったか。
ダニエルが書き残したメモが痛ましい。
「施しはいらない」
「私は人間だ、犬ではない」
「当たり前の権利を要求する。
 敬意ある態度というものを」

ダニエルは警察署での一件を境に、
加速度的に憔悴していったように見えた。
働けないのに、金が欲しくて形ばかりの求職活動。
「俺には屈辱だ、ほとんど拷問だ」
前からそう言っていた。
しかも、それでも頑張って求職活動証明を提出しても
「証明書類が不十分。あなたは不誠実な求職者なので
 処罰審査になります。もちろん給付金は出ません」
とか言われてしまう。
この日々にほとほと参っていたことは確かだろう。
だがダニエルの心に決定的な打撃を与えたのは、
そうした求職活動の日々よりもむしろ、
警察署でのできごとの方だったのではないか。

逮捕されたのに口頭注意で済んだのは、
ダニエルに犯罪歴がないからだった。
「前科がないから口頭注意で釈放です、
 でも次は決してない。トラブルには近づくな」
ダニエルと向き合って立って、そう話した警官は
なにも「うわー親切な人だなあ!」とかいうほど
特別に紳士的なわけではなかったと思うが、
ここまでずっと、
良く言えば機械的、はっきり言えば下に見た対応をする
安定所の職員たちを見てきたせいか、
わたしの眼には警官が「まっとう」に映った。
当事者であるダニエルには余計に、
そう感じられたのではないかな、と想像する。

そんな警官とのやり取りの中でダニエルの心のなかには
いくつもの複雑な気持ちが去来したんじゃないかなと思う。

犯罪歴がないから刑務所に行かずにすんだ。
奇妙な話だけど
「逮捕されるような行為をはたらいた」ことで
「これまで普通のまじめな市民だった」ことが
かえって証明された。
「そうだ、俺は普通の市民なんだ、当然だ。
 無気力で物欲しそうな野良犬みたいに
 扱われる筋合いはないんだ」
という、誇り。
「おこない正しい市民としての実績を、
 自分自身の行為で汚してしまった」
という、羞恥心。
短い期間で、正常な判断力や良識を失い、
いつもの自分だったら絶対にするはずのない
見苦しい行為をしてしまったことへの、おののき。
そして、
「警官は俺を、毎日のように処理している
 何人もの軽犯罪者とか荒くれものの
 一人としてしか見ていないんだろうけど、
 俺が普通のまじめな市民だったと認めてくれた。
 俺とちゃんと向き合って、話をしてくれた・・・」
という、みじめったらしい喜び。

自分がこんな気持ちになることがあるなんて、
今までダニエルは想像したこともなかっただろう。
経済活動を送る能力を一時的に失ったことによって、
社会と関われている、という大切な感覚を
失った気がしていた所へ、
警察署という思いがけない場所でそれをかすかに見出して
「うれしい」と思ってしまった。

「見下されていることはわかっているけど、
 普通の人として優しく接してもらえた」
物欲しげな野良犬根性とでもいうべきものが
自分の心に芽生えたのを自覚してしまったこと、
それこそがダニエルを、
もうこれ以上少しも頑張れないほど
打ちのめしたのではないかなと思う。

『きみの鳥はうたえる』

三宅唱 監督・脚本
佐藤泰志 原作
2018年、日本

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www.youtube.com

好みではないが、すごい良作だなこれは、と感じた。

原作小説は未読のまま観た。
でも映像だからこそのことを、わざとらしくない範囲内で
いろいろ盛り込んでいる感じがして、良かった気がする。

ほとんど何も起こらない物語だからなのか、かえって
登場人物たちの小さな行動や口調などに注意が行きやすく
そこにいつも何かしら「おっ」と思わされる所があった。

・職場の同僚にいきなり襲いかかる「僕」の鬼の形相が
 鏡ごしに見える構図になっていたのが怖くて良かったし、

・サチコのひとつひとつの細かな行動も、なんか良い。
 すれちがいざま、ヒジにタッチする、とか
 約束をすっぽかされて本当なら怒って良い所をそうせず、
 「これ食べる?」といってランチをそのままゆずるとか
 なんなんだそれは・・・なぜ君はそれをするんだ・・・
 謎すぎる感じが、何か個人的に好きだった。

・こと「僕」とサチコの関係に関してはすべて、
 サチコからの投げかけがあって初めて、事態が動く。
 それがなければ本当に最初から最後まで何もない。
 
・朝早く、母の見舞いに行くために静雄が支度をしていると
 「僕」が無言で、長袖のきれいなシャツを出してよこす。
 多分、自分の手持ちの服を貸してあげたんだろう。
 おっかさんに会うのだからマシな格好をして行け、みたいな。
 何かああいう所も非常に良かった。


「すぐわかること」「速いこと(インスタントなこと)」が
すなわち「良いこと」のようにとらえられやすい昨今だが、
それで考えたらこの映画は「悪い映画」になると思う。
登場人物が、あまり自分の心の中を語ってくれないし、
表情もほとんど変えないので、いろいろわかりにくい。
何回か、「僕」や静雄による独白が挿入されるのだが
「そういうこと考えているのね」と思わせてくれる独白ではない。
むしろそれを聞くと余計に謎が増えて「え、結局なんなの?」。

わかりにくいと言えば、この映画の登場人物はみんな
見た目の印象と中身が、かなり違う。
地味子さんに見えるサチコが、実は恋多き女性だ。
不誠実な奴だとみんなに言われてる「僕」が実はそうじゃない。
静雄も無気力、自堕落に見えて、意外といろいろ考えている。
「『持ってる』大人の男」、「実直な勤労青年」、
サブキャラたちのそんなイメージも、
すべてがひっくり返される。
わたしなんかは、だからラストの
「僕」とサチコの急速展開に
「え、そういうこと考えてたの君!!!」
って、すごく驚いた。
結果、迷わず即リピート鑑賞した。観返してみると、
ちゃんと「そういうこと考えてる感じの『僕』」が
そこかしこにきちんと提示されていた。
思い付きの演出ではなく、
ちゃんと計算のうえでお膳立てされているのだ。

サチコを演じた石橋静河という女優さんが良かった。
とにかく自然。どこか色っぽい。
ダンサーでもあるそうで、
クラブで踊る姿がのびのびとして、とても素敵だった。
また、背中越しの着替えのシーンが繰り返し入るのだが、
白い肌と、ムリなく付いたしなやかな筋肉がすごく魅力的。
職場の後輩に「(『僕』との)セックスはどうでしたか」
と聞かれて「ちょうど良い」と答えるのとかちょっと参った。

サチコと静雄の二人で、
泊りがけのキャンプに行く展開があった。
その肝心のキャンプのシーンがまったく描かれなかった。
二人が帰宅した所から、そっけなく話がつながれていった。
このやり方には「おっ」と思った。
キャンプに何日間行っていたのかもわからないし。
出かけていた間、この二人に何があったのかなと
想像をめちゃくちゃ掻き立てられた。

「僕」は、他者に期待せず、他者にあまり興味がない。
他者との間に関係のようなものを持ったとしても、
その関係に名前を付けることを極端に嫌う。
自分の行為が他者に何かしら作用する可能性がある、
という当たり前のことさえ、意識の外のように見える。
実は静雄にもサチコにもちょっとそういう感じがあった。
(「僕」が一番、その感じが顕著ではあるのだが)
他者とコミットしたがらない理由を仮に彼らに聞けば、
「縛られたくない、身軽でいたい、自由でいたい」
と答えるのかもしれない。
でも「自由でいたい」と思っている彼らでも、
たまにはやっぱり、自分の気持ちや他者との関に
名前を付けたい、と思うことがあるのだろう。
友達なのか、恋人なのかとか。
悔しいのか、うらやましいのかとか。
名付けの行為とひきかえに、
自由の持ち分をいくらか手放すことになっても。
あの「僕」とサチコのラストシーンは
多分彼らの「名付けの行為」を描いていたんだろう。
けど、
「そうです、そして自由と引きかえに責任を持つ、
 それこそが『大人になる』ということなのです!」
などと言った評価のしかたをするのは
この物語にはそぐわない、と感じる。

「僕」が最後にあんな行動に出て、
「大人になった」からといって、
今後の「僕」が、まるで生まれ変わったように
何ごとにも誠実で責任ある行動を心掛けるようになる
・・・そんな展開は、ありえないだろう。
人の心とは、歳がいくつになってもまあ、
あのくらい散発的で一貫性を欠いて当然、くらいに
思っていた方が良いのでは。
「『若さ』って、無くなっちゃうものなのかな」
というセリフがあったので、
「僕」も、静雄も、サチコも、もしかしたら、
厄介な世事と距離を置ける期間を極力引き延ばしたい、
社会の面倒なこととは無縁の解放された存在でありたい、
的なことを多少思っているのかもしれないが、
それでも、
薄汚れた建物の壁や、空を散らかすように錯綜する電線や、
酔っ払いが吐いたあとやら何やらで構成された、
あの街の中に、ちゃんと彼らは組み込まれていて、
全部、彼らの暮らしの一部だった。
「僕」たちがそれを望むか否かに関係なく。
入院した母につきそう静雄は、
「三人で過ごした部屋のにおい」だけでなく
「街のにおい」も「思い出そうとした」ものの、
「どうしても思い出すことができない」・・・と語る。
もし彼が、本当に、
社会と遮断された所でいつまでも好きに生きていたいと
思っているのならば、
「街のにおい」までも思い出したいのに、できない、
という表現は、出て来なかったのではないかと思う。

だから
「彼らは自由でいたくて、
 それは『青春』、ということです。
 自由とひきかえにしても、何かに対して責任を持つ、
 それは『大人になる』、ということです」
みたいな、とらえ方はしたくないかなと思う。
そんな子どもと大人の二元論みたいな
単純なことじゃないのだ。

こんな感じの人間関係を、体験することが
人には時々あるものだ。
体験していれば、この物語にも共感しやすいと思う。
でも「体験した方が良いかどうか」で言うと、
それはわたしにはわからない(笑)