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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

「ナイチンゲール」

 

原題:The Nightingale
ジェニファー・ケント監督
2019年、オーストラリア

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※物語の核心に深く踏み込んでいます。
 また、場面の描写について述べるうえで、
 性暴力などのことについて書いているので、
 あらかじめご了承ください。


19世紀、英国の植民地政策下にあった頃の
タスマニアを舞台に繰り広げられる復讐劇だ。
ヒロインはアイルランド人の女性クレア。
彼女はすねに傷があって流刑されてきている弱みを、
英国軍の将校ホーキンスに握られて虐待されたうえ、
家族の命まで奪われてしまい、復讐を心に誓う。
だが、ホーキンスは遠方の街を目指して立ち去った。
クレアは先住民の青年ビリーを案内人として雇い、
危険な原生林をかき分け進みながら、憎き仇の後を追う。

英国軍と先住民アボリジニの人びととの間に、
激烈な戦争が起こっていた頃の物語だ
(ブラック・ウォー)。
クレアは復讐の旅の途中で多くの悲惨な光景に触れる。
炎上する家のそばに立ち尽くして泣く白人女性、
寝込みを襲われたらしい白人夫婦の惨殺死体。
これらのシーンは唐突に放り込まれるので、
一見、ちょっと意味不明だ。
でも、歴史的な背景がわかれば飲み込める。
彼らは英国軍とアボリジニの戦闘に、
何らかの形で巻き込まれてしまったのだ。
クレアがこういう現場を目撃しても案外冷静なのも道理で、
当時、タスマニアで暮らしていた人びとにとっては、
死や血や暴力が、日常の一部だったということだろう。

作った人の気迫が伝わる、傑作だった。

おもに4つのことが心に強く残った。
性暴力描写、
差別や憎悪の構図、
ホーキンスの心の荒廃、
クレアとビリーの対比関係だ。



【性暴力描写】

ホーキンスたちが先住民の女性に加える
性暴力の描写は、
これまでに他の映画などで観てきたそれとは、
質的に全然違った。
すごく異様なものを投げかけてきた。

わたしが知る限り、映画の中の性暴力と言うと、
加害者側が「犯しても良いと思っている理由」を
こねくり出してくるのが常だ。
「お前は約束を破ったから罰を受けるべき」
「~してやるのだから見返りをもらう」
「誘ったのはお前」
「お前もそのつもりだったんだろう」
・・・こんな感じのことを、つまり、
よってあなたを犯します/犯しました、的なことを
加害者が言う。誰もそんなこと聞いていないのに。

だがホーキンスたちの認識は、もっと歪んでいた。
「この男たちには被害者が『モノ』に見えている」。
あえて言葉にするなら、そう感じた。

彼らは先住民の女性を犯すに際して、言い訳をしない。
犯すことを明確に目的に掲げて被害者を捕らえ、
殴るなどして無力化し、動けないように拘束し、
・・・と、迷いがなく、極めて手際が良い。
そしてまぬけな恍惚の表情を浮かべて行為にふける。
ずっと我慢していたトイレにやっと行けた時の、
あースッキリした、という、あの表情を連想した。

彼らには被害者が「人」ではなく
言わば「便器」に見えていた。
自分の下で、一人の生きた人間が、
死ぬほど泣き叫んでいるのに、全然平気なのは、
一人の生きた人間だという認識がないからだ。
観ていて、我ながら驚くほど冷めた軽蔑を覚えた。

これまでに他の映画で観てきた加害者たちは、
愚にも付かない言い訳をしていたという意味では
まだ頭のどこかに「相手は人間」という認識があった。
人はモノ相手に交渉や釈明はしない。
でもホーキンスたちはそれですらないのだ。

人を人として見ていない人を観るのは、気持ちが悪い。
例えば、嘔吐物とか人間の糞尿とかあるいは乾電池とかを
ナイフとフォークで喜んで食べている人がいるとする。
その人は嘔吐物や糞尿だとちゃんとわかって食べている。
わかっていないのは、自分のしていることの異常さだ。
そういうのを見たらそりゃもうゾッとするだろうな。
ホーキンスたちに感じた気持ちの悪さはそういう感じ。

 


【差別や憎悪の構図】

ナイチンゲール』では、至る所に
差別、憎悪、力による抑圧、の構図が見られたが、
ホーキンス一行には特に興味深いことが起こっていた。
部下たちに序列付けをしていた。
先ほどまでナンバー2待遇だった者を奴隷に格下げし、
子どもに銃を持たせて脅させる、そんなことをやる。
彼に従う者の間で、序列が目まぐるしく変動する。

こんな上官は早く見限って逃げれば良いのに、と思うが、
状況的に、そういうわけにいかない。
ホーキンスは、出世工作のために、部下たちを連れて
軍の司令部のある街へと向かっている。
でも、彼も部下も、街までのルートを知らないので、
先住民などを雇って、荷物持ちと案内係をさせている。
だからまず、ホーキンスは案内人を失うわけにいかない。
案内人は金で雇われているから、仕事を完遂したい。
部下も、帰り道を知らないからホーキンスと離れられない。
つまり下の者たちが逃げられない、というだけではない。
ホーキンスも、彼らと離れられないのだ。
ところで、白人が先住民の奴隷を連れて歩く場面があった。
奴隷たちの体を鎖か何かで繋ぎ合わせて、歩かせていた。
ホーキンス一行は、この奴隷の隊列と似ていた。
ホーキンスは下の者たちを牽引しているつもりだが、
実は自分も含めお互い離脱不可能な状態に陥っている。
鎖で繋がれて歩かされていたあのアボリジニたちと
それほど変わらないのではないか。

 

【ホーキンスの心の荒廃】

わたしは、ホーキンスの瞳の中に
罪の意識や後悔の色が少しでも見えないか、探した。
もちろん、彼にはそんなものはまったくなかった。
だが、彼をサイコ野郎といった風には思わなかった。
極悪人と言うよりは、心が崩壊した人間だった。
ホーキンスの内面は壊滅的に傷付き荒んでいた。
ありきたりな表現で言えば「心に穴が開いて」いた。
心の巨大な穴をどうにか埋めたい、という衝動が、
ホーキンスをして破壊と虐待へと駆り立てる。
彼には破壊も虐待も、言わば求愛なのかも。
美しいクレアに明らかに魅かれていながら、
傷付け奪うことでしか気持ちを表現できない。
あわれだな、と思った。

タスマニアで任務として行ってきた殺戮や虐待が、
彼の心を荒ませた・・・とは言い切れないと思う。
初めから、ホーキンスの心に「芽」があったのでは。
例えば自分だけは他人より良い思いをしたいとか、
美しいものや快いものを手に入れたいという、欲だ。
人間だったら誰でも持っているこれらの気持ちが、
置かれた環境によって、最悪に歪んだ形で覚醒したのでは。
殺して奪う必要のない平穏な生活環境にいる分には、
金を稼ぐとか知識を吸収するとか美しい妻を迎えるとかで
大抵の欲を、満たすことができる。少なくとも、
満たすことができると、信じていられる。
でも、環境によって、話が変わってくるんじゃないか。

もちろん全部環境のせいだ、とは思わない。
ホーキンスは惰弱だった。なぜなら
「それでも俺は虐待をしない」と
自分の意思で選択するべき所だったのに、しなかった。
わたしが言いたいのは、
「(もちろんホーキンスはクソ野郎だが)誰でも、
 環境や状況次第で彼のようになるおそれがある」
ということだ。

 

【クレアとビリーの対比関係】

クレアとともに旅をするビリーの、
本当の名は「マンガナ」だ。
同じ部族の、年長者が付けてくれた名で、
彼らの言葉で「黒い鳥」という意味だそうだ。

映画を観終わってからようやく、あっ! と気付いた。
クレアの歌の詞に「ナイチンゲール」が出てきた。
「小夜啼鳥/夜鳴鶯」だ。
黒い鳥マンガナ、夜に鳴く鳥ナイチンゲール
黒人男性のビリーと、白人女性のクレア。
対比的に配置されたキャラクターだったのだ。

それに、男女の愛ではないかもしれないが、二人の間に
何かが特別なものが芽生えた可能性が示されていた。
でも、それでもやっぱり二人は「違う」のだと思う。
物語の最終局面に、それを感じた。

ビリーは、太陽を眺めて「俺の心臓」とつぶやいた。
クレアは、おしだまって同じ方向を見つめていたが、
彼女が繰り返し口ずさんできたナイチンゲールの歌には、
「あなたの元へ帰る」という詞があった。
また、クレアはホーキンスにこう主張もしていた。
「私は私のもの。あなたの持ち物ではない」。

まず、太陽を我が心臓と言うビリーの感覚は興味深い。
崇拝するべき神、と仰ぐのは理解できる。
生命を育む偉大な存在、という感じもわかる。これらは
我にはない、我とは違う、というニュアンスを含む感覚だ。
でも「俺の心臓」は、自分の中に太陽を取り込んでいる。
彼の民族ならではの世界観ではないかな。
自分と世界の関係のとらえ方が独特なのだ。

クレアは、ビリーとはまた違った感覚を持っていると思う。
陽の光を浴びる彼女の表情は、切なげだった。
というのも、彼女は復讐のために手を血で汚した。
たとえどんな事情があったにせよ、重大な罪を犯した。
二度と「あなた(≒太陽)の元に帰る」ことができない。
明るい所で大手を振って生きられない者に、私はなった。
拡大解釈すれば、ビリーと共に新しい人生を歩む未来を
思い描くことももちろん許されない、ということだと思う。
ビリーもクレアの復讐に手を貸したので立場は同じなのだが、
世界観が根本的に違う以上、やっぱり二人は「違う」のだ。
かくしてクレアの今後の人生は、常夜の中を歩むものとなり、
ビリーの人生は・・・、と、ここでも対比が活きている。

このラストシーンは、セリフはほとんどなかったけれど、
美しい映像がどんな言葉より雄弁に語って、素晴らしかった。
二人はごく近い所に並んで、同じ太陽を見ていたけど、
遠くかけ離れた所で、違う太陽を見ていたのではないか。

クレアのしたことは、行為としては間違っていた。
人として決してやってはならないことだった。
自分の意思で「やらない」と選択すべき所を、しなかった。
ホーキンスと同様、彼女も惰弱なのだろうか。
そうなのかもしれない。
でも、彼女を闇へ闇へと突き動かしたものがあった。
いったん闇の中に飛び込まないと、明るい陽の下に戻って
来ることもできないのだ、と信じたかったのかもしれない。
一時でもそう自分を騙しておかないと狂ってしまうからだ。
その結果、むしろ陽の下には帰って来られなくなった。
クレアを闇に突き落としたものは何なんだろう。

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「彼女がその名を知らない鳥たち」

白石和彌監督
2017年、日本

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沼田まほかるの同名の小説が原作となっている(幻冬舎文庫)。

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8年前に別れた男を忘れられないヒロイン・十和子が
さびしさを埋め合わせるために選んだ同棲相手は、
15歳年上の陣治だった。
十和子は不潔でみっともない陣治を毛虫のように嫌うが、
生活能力も生きる気力もないため、彼と離れられない。
そこへ、かつての男が行方不明になっているとの情報が。
十和子は陣治が彼を殺したのでは、と疑い始める・・・。


この映画、
わーーースゴイ良かった! と思うほどではなかったが
(もし完全オリジナル脚本だったら話は別だった)
原作の小説を読んだ立場から言わせてもらえば、
原作ありの実写映画作品としては成功していたと思う。
観るのが全然イヤじゃなかった。

映画化するにあたって、
原作の物語のなかの「恋愛」の要素だけを取り出し、
凝縮して描き出した映画として仕上げられていた。
それは妥当な所だったと思う。
原作は、明らかに何かもっと入り組んだ物語だった。
ヒロインの内面の異常性の描写にももっと力を入れていた。
でも、その手のことを映像で表現するのはほぼ不可能だろう。

原作のエピソードの換骨奪胎が大胆になされていて、
それらの多くは成功していた。
特に、十和子と陣治の出会い~これまでの思い出を
最終局面で早足で一気に描き、そこにおいて
「かつての陣治」と「今の陣治」のイメージの落差を
鮮やかに示していたのが、うまかった。
小説では、ふたりの出会いや思い出のエピソードは、
もっと序盤の方から前もって、
所々に差しはさむ感じで説明されていく。
映像を観て気づかされたことなのだが、
十和子と出会って間もない頃と「現在」の陣治は、
別人かと思うほどイメージが違うのだ。
十和子と出会った頃の彼は
白シャツにスーツ姿が多く、肌も今よりは日焼けが目立たない。
原作では、当初は一流建築会社の施工管理か営業職だったのが、
転職を繰り返すうちに条件の悪い職場の肉体労働へ、という設定。
現在の陣治は服も顔も全身真っ黒で汚らしく、土方焼けもひどい。
白髪の混じったぱさぱさの髪がのびて、フケもありそうだし、
言いようもなく不潔な感じで、見られたものではない。
・・・その違いが早足の回想を通してクッキリ示されるのだ。
映画で、彼の転職歴なんかいちいち言葉で説明していたら
煩雑になる・・・というのもあったのだろうが、
「昔の陣治像」をいちどきに集約してわかりやすく示し、
イメージの落差を見た目ではっきり打ち出したことによって、
「映像化したかいがある」効果を生んでいて、良かった。
というのも、陣治は終盤において、
「十和子が思い出したこと 俺が全部持っていったる」
幻冬舎文庫 381ページ、映画版にも同様のセリフがある)
と言い放ち、ある驚くべき行動に出るのだ。
陣治は、十和子の傷を肩代わりするために生きてきた。
傷を引き受けるたびごとに、彼は薄汚れていったのだ。
これ以上背負えないという段階に来た時、
残された選択肢があの行動だった、ということになる。
元はそこまで見てくれの悪い男でなかったのが、ああして
どんどん汚く黒っぽくなっていったのは、
十和子の傷を自分の身にかぶっていったことの証、
と解釈できるようになっていたわけだ。
映像作品だからこその、うまい演出だったと思う。

一方、ちょっといただけない所もあった。
映画を実際に観て確認していただきたいので、
詳しくは書かないが、
原作にはなかった「国枝」との再会の場面を
映画で入れてきたのは、余計な脚色だったと思う。
(国枝って誰だよ! って話なんだけど、
 映画を観るか原作を読んでご自分で確認を・・・)
ああいう時に、
「わたしちょっと出かけなくちゃいけないので」って
ホストが席を外すことって、ないと思うんだよな。
普通に考えてもちょっと・・・。
こんなの、原作にあったかな? と思って
小説を読み直したが、やっぱり、なかったね。
映画で追加されたのだ。あれはいらないだろ。 
おばけかと思って本気でゾッとした。

でも全体としては、
「映像化なんて余計なことしてくれやがって」
と思わされるような作品では決してなかった。
映像であることの強みを活かして演出を工夫していたし、
それは多くの場合、成功していた。

何と言っても
十和子役の蒼井優と、陣治役の阿部サダヲ
このふたりあっての映画化だったろうな。
阿部サダヲだと、陣治が良い男すぎるかもしれないけど、
こう言っちゃなんだが
いろいろ、ちょうど良い所ではないかなと。
本気で気持ち悪い男すぎてもダメだし、
気持ち悪い男が似合わなすぎてもダメだし。

「なんやねんタッキリ・マカンて!」には
笑っちゃいけないんだが声を出して笑ってしまった。

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「マリッジ・ストーリー」

原題:Marriage Story
ノア・バームバック監督
2019年、米国

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素晴らしかった。
これといって変わった所のない、
アメリカのごく普通の夫婦の、ごく普通の結婚と、
ごく普通の離婚訴訟と、ごく普通の離婚の物語だった。
特にびっくりするようなシーンとか華やかな演出とか
あるわけじゃないのに、惹きつけられてグイグイ観た。
これが脚本の力であり役者の力なんだろうな・・・

「チャーリーが、長年、ロサンゼルスに
 拠点を移すことを渋ってきた理由」
が最後まではっきりと語られなくて、
なぜ、その部分をはっきりさせないのかな、
誰も気にならないのかなと思いながら観ていたのだが、
(彼の弁護士さえも聞かなかった。
 どうして奥さんの要望を聞かなかったんですか、
 ロサンゼルスではダメな理由が何かあったんですか、と)

それは、チャーリーの一番突かれたくない所なんだと思う。

妻ニコールはロサンゼルスの実家の母や姉妹と大変仲が良い。
でも、チャーリーの実家の方は哀しいことにそうじゃない。
彼が非常に荒れた家庭環境のなかで育ったことが示されていた。
チャーリーはニコールの実家の人びとと険悪なわけじゃない。
むしろ、彼はみんなととても仲が良い。ニコールの母などは、
娘と孫と一緒に、チャーリーがロサンゼルスに遊びに来るのを
実の息子の帰省のように、心待ちにしていた。

そんなわけで、
チャーリーと妻の家族との関係は極めて良好だ。
だったら「妻の実家があるロサンゼルスに移住するのがイヤ」
なんてことあるはずがない、という話かもしれない。
でも、わたしはどうも、そうは思えない。

というか問題はもっと複雑なのだと思う。

チャーリーはつらい経験をバネに独りで故郷を飛び出し、
努力と才能で、ニューヨークに居場所を確立した。それは、
自分で立ち上げ脚本を書き監督して育ててきた、「劇団」だ。
劇団は、彼の収入源、疑似家族、人生そのものだ。
今やブロードウェイ進出を目前に控えるまでになった彼の劇団。
このチャンスを逃したくない、この居場所を失いたくない、
だからニューヨークを離れたくない。
ロサンゼルスに移りたくなかった理由として、
これはまず一つだろう。

一方、
彼は、ニコールの実家の人びとを本当に大切に思っている。
でもそれだけに、
あの人たちが本当の意味では自分のものではない
(逆に言えば『本当に自分のものだったら良かった』)ことを、
折に触れ意識してしまい、ずっとつらかったのではないか。
わたしが思うに、哀しいことにこの
「この人たちのことが大好きだ。でも、
 本当の意味では僕のものではないのだ」
という感じは、おそらく妻に対してもそうだし、
息子に対してもそうなのだという気がする。

チャーリーは、妻と息子をもちろん愛している。
もちろん自分の家族と認識している。だが、
自分の努力で一から作った居場所、という風には
多分、思えていない。
自分のものという確証が持てていないにも関わらず、
妻子のためなら何でもできるくらい妻子を愛していると認める、
これは、彼のような人にとって非常に危険な賭けだ。
また、先に述べた通り、
移住を決行したら、ニューヨークの活動拠点、
つまり劇団を失う(少なくともチャーリーはそう考える)。
「ロサンゼルスへの移住」は、
二重の意味で後戻りができない状況に自分を追い込みかねない。
チャーリーにとって、これはできれば
避けたい事態だったのではないか。

チャーリーが「妻」よりも「妻の実家」を愛していたとか
「妻子との生活」よりも「劇団」の方が大切だった、とか
そういうことを言いたいのではない(そんなわけがないし)。

チャーリーとニコールの結婚生活のなかでは、
「ロサンゼルスへの移住」という問題は、
何かあるたびごとに浮上するお決まりの議題らしかった。
おそらくチャーリーにとって、このLA移住というテーマは
「自分の人生にとって一番大切なものは何か」について
考えることを必ず迫られる、何かそういう問題なのだと思う。
なぜそんな飛躍した話になっちゃうのか、これは
チャーリー本人になってみないと感覚がなかなか
わからないだろうなと思うのだが。

わたしが思うに、チャーリーにとって、
「自分の人生にとって一番大切なものは何か」は
できればあまりまともに考えたくないテーマなのだ。
つらい家庭で育ってきて、独りで必死に生きてきたために、
大切なものがあることと、それを失う恐怖と闘うことは、
常に背中合わせであると、良く知っているのではないか。
愛を求めた時に愛されず、棄ておかれた思い出、
応えてもらえなかった思い出が多すぎるからだ。
一度獲得した居場所は、絶対に失くしたくないのだ。
「LAで新しい居場所を作れば良い」とか
「劇団をLAに連れて来ちゃえば良い」とか
「居場所は複数作れば良い」とか、人は簡単に言うだろう。
でも、チャーリーにとっては、
そんな単純な問題ではないのだと思う。

言ってしまえば、
チャーリーは大人になりきれていなかったのだ。
でも そんな人はいくらだっている。
チャーリーが大人になりきれていないことが、
特別まずいことだとは言えないだろう。
哀しい、というだけだ。
もしかしたらあと5年か10年、
何となく、だましだまし、やっていくうちに
環境も、状況も、気持ちも変わっていって、
チャーリーはひそかに大人の階段を上ることが
できたかもしれない・・・とわたしは思うのだが、
哀しいことにそうはならなかった。
チャーリーは、とても傷付いただろう。
なぜなら彼は心の底からニコールを必要としていたのに、
その事実を認めることができなかったから失った、
わたしはそう考えるからだ。
この物語を観ていて
ニコールよりもむしろ、チャーリーに同情した。

ニコールは、夫とどんなすさまじい言い争いになっても、
このチャーリーの、一番突かれたくない部分だけは、
最後まで突かなかった。頭に血がのぼっていて、
彼女もまた別の意味で、子どもと言えば子どもなので、
そんなことには思いも至らない、という感じだったが・・・

彼女はとても優しかった。
それは、すなわち、この映画が優しい、ということだ。
わたしは、そのことでかえってこの映画が好きになった。

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「失くした体」

原題:J'ai perdu mon corps
ジェレミー・クラパン監督
2019年、フランス

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2回観た。美しかった。
予告を観て、陰惨な物語を想像してたけど、
そんなことはなかった。
主人公の未来を心から祝福したくなった。

言葉以外の方法で、強く訴えかけてくる物語だった。
観る人それぞれ、湧き上がってくる気持ちや
イメージを大切にして、楽しむべきだろう。
だから、この映画に限っては、あんまりちまちまと
わたしの感想を言葉にするものでもないかなと思う。

「切断されて持ち主と離ればなれになった手」は
この物語にとって明らかに重要だ。
でも何を意味していたか、わたしは正確にはわからない。
ただ、実はわたし自身、以前、右腕のヒジから下が
切断されるという「夢」を繰り返し見た時期があった。
美しい湖をざばざば歩いて、切断された手を自分で運び、
湖上の病院に向かうという筋だった。毎回同じ内容だった。
当時少し神経が参ってて、しかるべき治療を受けていた。
担当のお医者さんに内容を話して、分析をお願いしてみた。
モチーフがどんなストーリーの流れの中であらわれるか
によっても、解釈の仕方が違うようだったが、
「腕の切断」は、大きくまとめて「決別」「清算」などを
意味する、との説明を受けたと記憶してる。
腕がちょんぎれるなんて、そりゃ物騒な夢だけど、
意味としてはネガティブなものとも限らなかったのだ。

わたしの夢とこの映画にはもちろん何の関係もないが、
この物語にあまりにもバシっとハマるので、
連想せずにいられなかった。
「決別」。「清算」。
『失くした体』は、主人公のナウェルが、
罪の意識や喪失感に縛られたつらい過去と決別して、
力強く生きる決意を固めるまでを描く物語なのだ。
切り離された右腕が、持ち主のナウェルを探し求める様子は、
まだナウェルの中で「自分の力で歩むんだ」という覚悟が
決まらないことを、暗に示していたんじゃないかと思う。
その証拠に、ナウェルが大切な一歩を踏み出したあの時、
彼の右腕は、もうナウェル本体とくっつこうとはしていなかった。
右腕のないナウェルを、遠くから見守るにとどめていた。
幼い頃、両親から贈られたテープレコーダーで録り集めた
「音」の思い出、カセットテープのコレクションを聴き直すシーンで
(このあたりは『ベイビードライバー』(2017年)を
 思わせるものがあった)
音声が彼の幼少期のつらい記憶に直結する部分に来た時、
陰で様子を見ていた右腕が、わずかにあとずさりをした。
最初に観た時は、あのあとずさりが、怯えているように見えたのだが、
今考えると、右腕は、本体であるナウェルをそっと応援していたのかも。
ナウェルが勇気を出して心の傷と向き合おうとしているのを
邪魔しないように、一歩引いたのではないだろうか。

この映画の結末は、やっぱり、ちょっと気の毒だとは思った。
ナウェルにとって踏んだり蹴ったりの状況だったので、
でも、ナウェル、がんばれ! 元気で生きろ!
そんな気持ちに、ものすごくなったことも事実だ。
素晴らしいラストだったと思う。

ガブリエルがナウェルの指を手当てした時、
包帯の結び目がちっちゃな双葉の形になっていた。
ナウェルにとって、ガブリエルとの出会いは、
とどめの一撃とも言えるつらい時期の始まりだった。
そう言えば物語の中で、図書館スタッフのガブリエルが
ナウェルにアーヴィングの『ガープの世界』を薦めていた。
あの小説は、主人公が、かなり・・・考えようによっては
「気の毒すぎて慰めの言葉も見つかりません」というくらい、
ひどい目に遭いまくるんだけど、
でも、人生ってこういうもん、いろいろあるけどこれこそ人生、
そう訴えて来る所がある物語だ。
それをガブリエルが薦めるってのが、なかなかね・・・。
つらかったけど、ナウェルの新しい人生が大きく花開くためには
あと一息、どうしても、あの時間が必要だったのだ。
ガブリエルとの出会いが必要だった。
双葉の結び目は、ナウェルの春がそこまで来ていることの
予告だった気がする。

ナウェルは、暗い雪の夜に旅立った。
ということは、これから夜が明けて、春が来るのだ。

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「2人のローマ教皇」

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原題:The Two Popes
フェルナンド・メイレレス監督
2019年
英・伊・米・アルゼンチン合作

2005年、ローマ教皇が亡くなった。
バチカンでは、ドイツのラッツィンガー枢機卿
ローマ教皇に選出される(ベネディクト16世)。
聖職者による児童虐待疑惑、バチカン銀行の不正疑惑、
内部文書漏えい問題(バチリークス・スキャンダル)、
教義を時代に合わせて見直すかどうかについての議論・・・などなど、
おりしもバチカンは、山ほどの懸案を抱え込んだ状態にあった。
しかし、新教皇ベネディクトはバチカンの保守派の筆頭。
彼が教皇になっても教会の問題が抜本的に解決される見通しは薄い。
教会の状況を憂える改革派の一人・ベルゴリオ枢機卿は、
保守派の人物が教皇に選出されたのを見て、
要するに教会は変わっていく気がないのだ・・・、と落胆。
枢機卿の職を辞すことを決め、辞任願を提出する。
しかし、ベネディクトはベルゴリオの願い出を
のらりくらりとかわして受理しようとしない。
「今、枢機卿が辞任することは世間には教会への批判とうつる。
 それは信徒の不安をあおり、教会を弱体化させる」
それがベネディクトの主張だった。
立場も考え方もまったく違うベネディクトとベルゴリオ。
しかし二人は、時に衝突しながらも
真摯な議論を重ねていくようになる・・・。

この映画は、カトリック教会の歴史が動いた瞬間を
ローマ教皇と、のちにその座を受け継いだ人物との
対話のなかに描き出す、というものだった。
ベネディクトとベルゴリオ(現ローマ教皇)は実在、存命の人物。
ベネディクトはアンソニー・ホプキンス
ベルゴリオはジョナサン・プライスが演じている。
けっこう揺れる手持ちカメラ?っぽい映像が活用されるので
ドキュメンタリー映画っぽい感じを受けるが、フィクションだ。
(このグラグラ揺れる画面は、個人的にはいただけなかった。
 議論が白熱するシーンや、緊張感あるシーンの時に
 揺らしているのかなとか、意図はそれなりに感じたが。
 揺れないなめらかなカメラワークの時もあったので、
 ずっと揺れないでいてくれた方が良かった・・・)

ほぼ全編、煮ても焼いても食えねえじいさま二人組の
出ずっぱりノホホントークムービーだった。
最高!
ベネディクトとベルゴリオのことが、大好きになった。
多分、会社の同僚や、学校の同級生といった関係なら、
この二人は親しくならなかった。性格が違い過ぎる。
ベネディクトは、
せっかち、ガンコ、ヘンクツ、うるさ型、四角四面、
そして教会運営に関しては、非常に保守的な立場だ。
ベルゴリオは、
ノンビリ屋で、割と天然、格式ばらない愛されキャラ、
また、本人はそんなつもりはないと言うが、教会改革論者だ。
こんなにも合わない者同士が、ケンカしながらも対話を続けた。
なぜだったのだろうか。
世界中に信徒を抱えるカトリック教会の今後のために、
それがどうしても必要だったから、に他ならない。

集団のトップにいる人が、異なる意見、新しい風を容れることは
相当な決断が要ることだ。
従来の体制が、そのせいで思った以上に瓦解するかもしれないし、
既得権益を失うことに難色を示すメンバーも必ずいるので、
全員が納得いく形にはどうしたって、ならないからだ。
責任ある立場の人ほど滅多な発言はできなくなり、
本音が言えなくなり、人を信じることが難しくなる。
不安、ということだ。
ベネディクトはさすがに不安だからってイライラして
人に八つ当たりとか、みっともないことはしない。
不安は周囲に感染する、と知っているからだろう。
でもその代わり、彼は独りぼっちで食事をとる。
自分のカラに閉じこもってしまっているのだ。
人を信じられないから、弱みを見せられず、本心を言えない。
けっこう深刻な問題に見えた。
愛の大切さを説くキリスト教の、教皇なのに。

凝り固まってしまったベネディクトの心を、
ほぐす方法はあるんだろうか。
ベネディクトが言っていた。
「神の声を聞くのは大変だ。私には心の補聴器が必要だ」
「前は、神の声が聞こえていたが、近頃は聞こえない」。
また、ベネディクトとベルゴリオが、お互いの過去の罪を
告解(司祭に罪を告白して赦しを乞う)し合う場面があった。
このあたりのことを観ていて、思ったんだけど、
・・・もし、神さまが自分に何か言ってきていると感じたら、
何教の信徒でなくても誰だって、
その内容を聞こうとして、一生懸命になると思うんだが、
この感じと同程度の一生懸命さで、人の告解に耳を傾けるのが
彼ら司祭というものなんじゃないかな。
「私はあなたの話すことを聞いています」という態度は、
「私はあなたのことを信じています」ということなのだ。
そのためには、まず、自分が告解できなくちゃならない。
気持ちをさらけだして、心の余裕ができて初めて、
人の言うことに耳を傾けられるようになるのだろう。
ベネディクトは、告解を聞いてくれたベルゴリオに、
「重荷が降ろせた、ありがとう」と言った。
彼が告白した過ちの内容は、非常に重大なものだった。
あんた、聞いてもらったからって何が「重荷が降ろせた」だ!
やったことがチャラになると思ったら大間違いだぞ!
教皇辞めたらすぐ警察に行け、警察に! ・・・くらい重大。
だけど、好意的にとらえれば、
この「重荷が降ろせた」は、そういう意味じゃない。
これで、少なくとも教皇を辞任するまでの短い間、
また、人の告解を聞いてあげることができる。
つまり、また人を信じることができるようになった。
ありがとう、という意味だったんじゃないかな。
ベネディクト自身も言っていたように、聖職者だろうと
何だろうと、「人はみんな等しく罪人」なのだ。
また、人を信じられるということは、
人に任せることができる、ということでもあるだろう。
実際、ベネディクトはやがてベルゴリオに、
きわめて重要なことを託す決意を固めるのだ。

とかなんとか思いつつ、
ピアノ弾いて歌ってみたり、一緒にサッカー観戦をしたり、
とんちんかんなビートルズ談義に花を咲かせたり・・・
あと6時間でも、このじいさまたちを観ていたかった。
特に、ピザを一緒に食べるシーンがあったのだが
(心を開いて、人と一緒にご飯を食べるベネディクト!)
ベネディクトが意外と食前のお祈りに熱心、というのが良い。
用事を控えていて、あまりゆっくりできない状況だったのだが、
「今日の糧を与えて下さり感謝します」という決まり文句で
てっきり終わりと思ってベルゴリオがピザを開けようとしたら、
ベネディクトが即興で文句を付け足してお祈りを続けていくので、
あわててベルゴリオもこうべを垂れる、というのが2回「天丼」。
タイミングとかが絶妙で、わたしなんか声を上げて笑った。
「えーと、他に付け足す言葉はないかな」と聞かれ
「『アーメン』?」と応じるベルゴリオの表情が、スゴイ良い。

世界宗教の指導者たるローマ教皇でも、
悩みや不信はあるし、つらい過去も抱えていて、
神の沈黙に心惑わせる日、孤独にさいなまれる夜もある。
そしてそんな時、彼らを救うのは、やっぱり人の愛情なのだ。
じいさまたちの息の合った会話劇を楽しむなかで、
そんな現実をうかがい知ることができた。
なんだか人って、バカだけど、愛おしいよな~、みたいな
後味を残してくれる映画だった。

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「ジョン・F・ドノヴァンの死と生」

 

原題:The Death & Life of John F. Donovan
グザヴィエ・ドラン監督
2019年、英国・カナダ

www.youtube.com

 

※物語の核心に踏み込んでいるので、
 映画を観てからお読みください。 

【わたしの結論:没入しにくい駄作】

自分なりに良く考えてみたんだけど、
結論としては、駄作の部類。

お話として特におもしろくも何ともないことに加え、
細かい所に疑問や不満をたびたび感じて気が散り、
どうしても物語の世界に入り込めなかった。
そこがな~。没入できない映画はつらい。



【意欲的な作品であったことは確か】

だが、意欲的に作られた作品であることは伝わった。
この物語をどうしても作りたかった、そのことはわかった。
映像が美しいのも良かった。
昏さを帯びた透明感があったかな。
あと、ルパートの少年時代を演じた子役が、驚異的な名演。



【疑問・不満1:時代の設定にムリがあった】

以下は、わたしが疑問や不満を感じた点なんだけど、

まず、時代の設定。ちょっとムリがあった。
現在を2006年に置き、そこから1996年のできごとをふりかえる
設定だったらまだなんとか、と言うか全然、十分この物語の
いろんな部分を受容できたと思う。でも実際には、
2016年現在から、2006年のできごとを語る構成だったので、
不自然さを感じる部分が出てきてしまった。
例えば、
ジョンが自分の同性愛志向をひた隠しにしていたこと。
彼自身が、隠したい、と考えていたことは、別に良い。
だが同性愛疑惑が浮上してからの「世間の反応」の描き方が
あまりにも古くさい。
だって、2006年だよねえ。
性的少数者への世間の当たりはあんなに強かったかなあ。
これが1996年なら、
「ああ、確かにこの状況じゃ、知られたくないと思うよね」
って納得できたかもしれないんだけど。



【疑問・不満2:ジョンの問題について説明不足】

いや、もちろん、
世間の眼が、ジョンの同性愛にあんなに冷淡なことについて、
解釈のしようはいろいろあるよ。
例えば、
あれは「本当の『世間』」なのではなく、
「みんなと違う自分を恥じていたジョンから見た『世間』」
なのだ、とか。
※元恋人に「君は自分自身を恥じている」と指摘された時、
 ジョンは抗弁できなかった。
だが、そうなると、今度は、
ジョンがそこまで自分を恥じた本当の理由が気になる。
言い換えれば
「本当の自分を見せたら絶対に周囲に良く思われない」と
思っていた理由、って感じかな。
それでなんだけど、
彼は本当に、同性愛者であることそれだけを恥じていたのか。
偽装結婚の相手を連れて、帰省するシーンがあった。
酒癖が悪くピーチクパーチクやかましいが愛情深いおっかさんと、
ジョンの最大の理解者と言って良い、兄が待っている実家だ。
ジョンは母との関係において、明らかに何か腹に一物あった。
彼女の前夫(ジョンの実父か)のことで、
この家庭は、過去に「何かあった」のだ。
それは、ジョンたち家族だけでなく、
親戚知人も迷惑をこうむった悶着ごとだった模様だ。
ともかく確実に「何かあった」。
時どきこうして一家団らんと言っちゃぁ母が酔ってクダを巻き、
すると周囲がしつこく「何かあった」時のことを蒸し返す。
そしてなぜだかみんなの非難の矛先が、最後にはジョンに。
このお決まりの流れが耐え難くて、ジョンは実家を敬遠していた。
でも、この肝心かなめの部分、つまりジョンの(家族の)過去が、
物語を最後まで追ってみても、さっぱりわからなかった。
※ジョンは学生時代に有望なアスリートだったが
 突然引退したという、謎の経歴の持ち主でもある。
 だがこちらについても、詳しくは語られない。
ジョンと家族のことは、しっかり詳しく語るべきだった部分だろう。
ジョンは明らかに「家族の問題が僕を苦しめる」、と思っていた。
家族関係の悩みなんてドラマとしてありきたりかもしれないが、
逆に言えば、人は誰でも多少なり、家族関係で悩むものだ。
だから、この映画を観る人たちの共感を喚起するためには、
過去に、ジョンが生まれ育った家庭に何があって、
それがジョンにどう働きかけて、彼を苦しめてきたのか、
観る人にちゃんと理解させることが必要だったはずだ。
なのに、最後まで、何一つ、わからなかった。
ジョンに何があってもあまり共感できなかったのは、このせいだ。
泣く人を見ても、泣く理由がわからないんじゃ慰めようがない。

この映画を観る人が、ジョンに心を寄り添わせていくために、
当然必要だった説明を加えることを、監督は、なぜ避けたのか?
多くを語ることなく悟らせる手法を採る映画も、もちろんある。
でもこの映画の場合は、単に必要な説明が尽くされていなかったのだ。
脚本に不備があったと言い切って差し支えないと思う。
ここまでなら説明なしでも観客に理解させることができる、
これ以上薄いと理解させられない、の閾値を見誤った。
または、人に伝えることより、語りたい欲求の方が優ったか。 

 

【疑問・不満3:要らない所で情報過多】

だがそのくせ、この映画は、変な所で説明過剰の感があった。
これは、時代の設定がズレているという最初の話とつながるが、
2016年現在、成長したルパートにインタビューする女性記者が、
携帯電話/スマートフォンが使えず、公衆電話で雇い主と連絡する。
電波が、ルーターが、とブツブツ独り言を言っていた。
不具合でネットが使えないという、言い訳だ。観客への。
なぜ? インフラが不安定、とかそういうことか。
場所がプラハだったのだ。でも、少し調べたが、この年、
プラハに深刻な政情不安や災害の記録は特に見られない。
まあ公衆電話の件はこの際置いておこう。だが、もう1点。
この記者、インタビューの録音にカセットレコーダーを使う。
古くないかな。しかもA4ノート大くらいの、あの巨大なやつ。
オフライン環境に備えて・・・にしては、デカすぎないか。
2016年ならICレコーダーとか、もっと携行に便利なものがある。
手持ちのデバイスのどれもこれも充電が切れている? としたら
それはインフラうんぬんではなく単に記者の不注意だと思うね。
この記者、会社に電話した時、ルパート青年のインタビューを
私にも仕事を選ぶ権利がある的なことを言って断ろうとしていたが、
こんなにだらしないのに、そんなこと言える分際かなあ。
「実はスマホもICレコーダーも充電切れで録音ができない。
 今は取材は無理です、他の人に頼んでもらえませんか」
が妥当だと思うよ、と言うかその程度でここは十分なんだよ。
それを、ルーターが電波がとか不自然な説明を入れてまで、
公衆電話、カセットレコーダーという小道具を使う根拠は。
何としてもそれが必要だったなら、やっぱり、
時代をせめて2006年にずらせば良かったのでは。
2006年でも、仮にもジャーナリストの職にあるような人が
カセットテープとか、どうなのって感じだけど、
2016年よりは、まあまだ納得できないこともない。
良くわかんなかったな~。この場面全体が
何か古い映画や古典的文芸作品へのオマージュであるとか、
または何かの寓話とかなのかなとか、
そこまで考えてみたけど、見当もつかなかった。

そもそも2006年の段階で、コミュニケーションの手段が
直筆の手紙による文通・・・。イヤ、別に良いんだけど、
そうでなくては絶対にダメな理由がやっぱり見当たらない。
1996年の設定にした方が、良かったのではないかなあ。

挙げたらキリがないが、こんな感じで細かい所が気になり、
十分な納得感を持って物語を見守ることができなかった。
スタイリッシュに演出したかったしても説明不足が過ぎ、
観る人たちに理解させたいと、思っていないかのようだ。
それで良いのかなあ。わたしは、それじゃいけないと思う。 

 

【疑問・不満4:文通していたと一言も言わないジョン】

「秘密の文通は、もしかしてルパートの妄想か」
・・・レベルの解釈が成立しかねないほど、
文通をめぐる事実関係の扱い方があいまいだったのも、
良く考えると、この映画のけっこう致命的な問題だと思う。
これが、プライベートな場面でも何でも良いから、
ジョンの口からほんの一度でも、
「実はファンの男の子とたまに文通しててさ・・・」
という告白があったら、話は別だったのだが。
一切なかった。
ジョンが手紙みたいなものを書く姿を映すシーンはあったし、
「手紙みたいなものを書いているジョンを目撃した人」の
証言も(ルパートの手記のなかに)あるようだったが、
ジョン自身の口から「ルパートって子と文通してる」と
いう言葉がただの一度も出てこなかった。
まあ、文通は、あったんだろうけど。
ジョンはそのくらい、自分の本当の気持ちに関わる情報を、
他人に開示することが、まったくできない人だったのだ。
闇が深すぎて手に余るよな、ジョンってキャラクターはよ(笑)。
だが、ルパートは、
文通をめぐる問題が(他にも哀しい偶然が重なったのだが)
結果的にジョンの滅びを加速させる一つのきっかけになったと、
解釈しているようだった。
だから、「文通が本当にあったのか、それともなかったのか」、
少なくとも監督は、この映画を観る人にだけは
確実に知らせておく必要があったと思うのだが、
何せそこが、今ひとつはっきりしない。
なぜだ・・・。
文通と言えば、ジョンが文通のことを公の場で認めてくれず
ショックだった、的なことをルパートが言っていたんだけど、
これも、感情移入して聞くことは到底できなかった。
ジョンだって、秘密の楽しみのつもりだったのに皆に知られて、
裏切られたような気持ちになったと思うけどねえ。
それでもルパートを責めず、むしろ、彼に謝ったんだって。
ジョンは偉かったと思うよ。 

 

【この映画が訴えようとしていたこと】

まあ、いろいろ書いたけど、
それでも、この物語が伝えようとしていることは、
汲み取れなくはなかった。
自分らしく幸福に生きたい、人はみんな、そう願う。
だが人は、「他者のなかで、生きなくてはならない」。
この厳しい条件下で、自分らしく幸福に生きるという
意思を貫くことは、とても難しい。
そういうことだ。
そのメッセージは別に悪いってことはないと思う。

多くの秘密を抱えて自分のカラに閉じこもりすぎたために
孤独を深めたジョン・F・ドノヴァンにとっては、
まだ何者にもなっていない未来あるルパートとの交流が、
大切だったんだろう。
「僕にはできなかったけどこういう人生が送りたかった」
を、ルパートのような子になら、託せそうだから。
ルパートは鋭い感受性と健やかな魂を持った男の子だ。
母に不満をぶつける場面には、感動と言うより驚嘆させられた。
あんなにちゃんと気持ちを言葉にして伝えられる11歳なんて。
神童、と言って良いレベルだ。
しかもセリフ言ってます感がなく、本当にあの子役の子が、
ルパートその人に見える、って所がスゴかった。

ともあれ、
ジョンとかなり良く似た境遇に置かれた子でありながら
ルパートは、自分の本当の気持ちを大切に守り通し、
他者のなかで己を見出す道を果敢に歩んで、立派に成長した。
ジョンが奇しくも最後の手紙に、そうであれと書き残したように。
ルパートの(文通していた当時『未来』であった)現在の姿は、
物語の終局で、きちんと示されていた。
全然、意外でも何でもなかった。別にそこに文句はない。
予想したまんまの結末だな~、と思っただけだ。

 

【ドラン監督の映画は多分こんなもんじゃない】

まあ今となってはさほど気にもならないんだけど、
この通りちょっと、引っかかる点が多くて、
共感したくてもできない映画だったかなあ。
全部が全部、悪い所ばっかりとも決して思わないけどね。

実はグザヴィエ・ドラン監督のファンはわたしの周囲に多くて
『わたしはロランス』(2012年)
『たかが世界の終り』(2016年)
などを薦められているのだが、あいにくまだ観ていない。
この『ジョン・F・ドノヴァン~』が、初めて観る
グザヴィエ・ドラン監督作品となった。
どんな映画なのか期待していたので、
『ジョン・F・ドノヴァン~』について、
このようなレビューを書くことになり、残念だ。

でも、グザヴィエ・ドラン監督の映画の真価が
『ジョン・F・ドノヴァン~』にすっかり出ていたとは
わたしも思わないので、
今後は監督の作品を過去のものも含めチェックしていくつもりだ。
個人的には、以下の三つが気になるので、確認してみたい。
まず、彼の映画では『ジョン・F・ドノヴァン~』のような
あからさまに説明のための説明、みたいなセリフが
けっこう普通に出てくるのかどうか。
セクシャルマイノリティの人物を積極的に登場させるのか。
また、「母と息子」または「父の不在」というテーマを
割と頻繁に物語に採り入れているのかどうか。
傾向を知ることができれば、
監督が映画を通して言いたいことが少しはわかるだろうし、
そのために映画をどのように作っているかも知れるんじゃないか。

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Netflixドラマ「FOLLOWERS」-1~3話

 

www.youtube.com

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)



【ドラマのあらまし】

40の声をそろそろ聞く頃の人気写真家リミ(中谷美紀)と
20代前半の売れない女優、なつめ(池田エライザ)。
ふたりの生き方を対比軸として錯線させるなかで
現代に生きる女性たちの「リアル」を描き出す。
フェミニズムセクシャルマイノリティ
「自己評価」が低い若者たち、
ソーシャルネットワークと肥大化する承認欲求
・・・といった
今日的な視点も盛りだくさんの物語だ。

全9話完結ずみということで
とりあえず3話分観てみた。



【退屈+病んでるドラマ】

正直に言うと厳しい。
おもしろくない。もう観たくない。

おもしろくないだけなら、まだ許容できる。
この作品には、深刻な「病理」を感じ取らざるを得ないのだ。
わたしの気持ちを表現するとこんな感じだ。
「スイマセン監督、あの、・・・本気ですか?
 本気で、いまだに、『そんなこと』を
 言おうとしているドラマなんですか?
 それとも壮大なドッキリ企画ですか?
 2020年ですよね? 1990年じゃないですよね?
 監督、もしかしてひどくお疲れなのでは?」

端的に言うとこのドラマ、
古い。ダサい。気持ち悪い。 
映像がいかにも蜷川実花監督作品って感じで
色彩美にあふれとてもオシャレっぽいのに
内容が昭和って。 何がしたいんだ。
少なくともオフィシャルな場においては「こういう考え方は
破棄しましょう」という動きがとっくに始まっているはずの
クソ錆びついた価値観に、物語の根幹を明け渡してしまっている。
しかも作り手が、そのことに無自覚なように思えるのだ。

 

【ビョーキ:女性の幸せ、すなわち・・・】

特に、リミをめぐるストーリーの方に、
この物語のビョーキが顕著なように思う。
例えば、とある賞の受賞者記念スピーチにおけるリミの言葉。
「仕事も、女性としての幸せも、
 当たり前だけど、何もあきらめない。
 そういう思いでここまでやってきました」。
そして話にうんうんと聴き入る女性たち。
そのリミが追い求める「女性としての幸せ」の内容が、
物語を観ていくうちに明確になる。「出産」だ。
つまり 出産=女の幸せ、だ。
ははあ、さようでござるか・・・
経済的に完全に自立していることもあって
リミは夫は要らない、子どもだけ欲しいという考え方だ。
認知しなくていい、結婚しなくていい、
お金もいらない、だから私と寝てくれない?
彼女は、何人もの男性と会ってそう懇願する。
だが、断られたりしり込みされたりで、うまくいかない。
MIYAVIという男性と関係を持つも、結局、妊娠できず。
今月も生理が来ちゃったと嘆くリミに、親友たちは
「残念! ああ~! MIYAVIの遺伝子がー!!!」
・・・MIYAVIさんとやらは、ちゃんと事前に
リミから事情を聞いていたんだろうか。
陰でこんな言われようだと知ったら、どう思うか。
そもそも、MIYAVIとの逢瀬はなんと
「プライベートな雰囲気が大切な撮影」にかこつけて
ベッドへ誘い込む、というもの。
リミさん、あんたプロの写真家なんじゃねえの?

土台の話なのだが、
今どき、子どもを持つ方法は実にいろいろある。
ましてリミには十分なお金があるんだし、
金を理由にあきらめるようなことは何もないはずだ。
なのに性交して自分の子宮で妊娠して自分で産むことに、
こだわっているというか、それしか知らないかのよう。
自分の身体で産んでこそ女の幸福は完璧なものとなる、
とでも考えているのか。というかそうとしか受け取れない。

 


【ビョーキ:「お嫁さんが欲しい」】

さらにさらに、リミの女友だちのひとり。
かれこれ8年、彼氏がいないそうなのだが
「あたし、お嫁さんが欲しい!」。
仕事に集中したいんだって。
ご飯を作ってお掃除をしてお風呂を洗って
おうちで待っていて欲しいんだって。
Oh・・・

 

【ビョーキ:記号としてのゲイ】

それと、こういう言い方もアレかもだけど、
異性愛の女にとって都合の良いゲイ友」の存在。
リミのマネージャーゆる子ちゃん(金子ノブアキ)だ。
あえて言わなくても、悩みを察してくれる。
泣きたい時には抱きしめて一緒に泣いてくれる。
でもパーティーなんかは紳士としてエスコートしてくれる。
女言葉でおしゃべりしてるかと思いきや
野太い男の声で笑わせてくれたりユーモアのセンスも抜群。
要は女友だちと男友だちの良い所取りをさせてくれるゲイ友。
この、ゆる子ちゃんてさ、ゲイ友と言う「記号」だよね~。
ゆる子ちゃん自身の個性がいっさい感じられないもん。
それを言ったらキャラクター全員がそうだが。
「っぽさ」を出したかっただけだよね。
いろんな人がいて、人それぞれに性があって、
でも全然関係なく、みんな友だち・・・という
進んだ人間関係「っぽさ」を出すために
投入してきたLGBT属性でしょう?

 

【どうでも良いけど:今さらSATCの本歌取り

かの海外ドラマ『SEX AND THE CITY/SATC』の
10年遅れのフォロワーの側面を持つドラマであることは、
リミとそのお友だちの布陣を見ていても明らかだよな。
言うまでもなくエリコ/夏木マリが「サマンサ」だよね。
他の3人よりずっと年上のイケてる実業家。
自立していて、おしゃれで、奔放で、恋愛も現役。
年下の女の子たちと対等に友だち付き合いをしてるけど
ここって時にはお姉さんらしく金言をお授けくださる、という。
エリコ、そのうち病気とか発覚するんだろうなあ。
ていうかリミの親友には、知識層がいないね。
リミは写真家、ゆる子ちゃんはリミのマネージャー、
さっきの「お嫁さん欲しい」発言は歌手のマネージャー、
エリコは、なんかファッション業界の実業家。
SATCではミランダが、対法人を得意とする弁護士だったね。
そういうかたい仕事している人、いないのかね。
どうでも良いけど、一人くらいいても良くないか、
まあわたしのイメージも偏っているとは思うけど、
例えば大学講師とかさ、まあ公務員とか、
そういうかたい仕事している友だち。




【どうでも良いけど:甘ったるいセリフ回し】

それから、そもそもの話なんだけどこのドラマって
「リミ」サイドは特に
キャラクターが舞台口調? 昼ドラ口調? が過ぎる。
わざとらしくて、苦笑を禁じ得ねえなあ。
産婦人科の先生(かたせ梨乃)の
「しかたのないことなのよ~ん」
「そんなに苦しまないで~ん」
あの話し方さ~ どうにかならない?



【なつめサイドはいくらか観られる】

売れない女優・なつめサイドのストーリーも
なかなかどうしてツッコミ待ちシーンが満載だ。
ただ、こっちはまだ、いくらかマシのような気もする。
なつめ/池田エライザを筆頭に若い役者さんが
素朴に頑張って演じている。そのせいか
場がまとまっている感じを受けることが多く、
リミの方のパートよりはラクに観られる。



【ダサい:道路のまんなかでしゃがんで泣くな】

だが、なつめの親友サニー/コムアイの所はキツイ。
彼女はレズビアンで、実はなつめのことが好き。
なつめに彼氏ができたことを知ってショックを受け
渋谷かどっかの車道のどまんなかでへたり込み
鳴り響くクラクションの中、泣き崩れる。
昭和か。
彼女がなつめに惚れていることくらい、
傷心の親友をなぐさめる夜桜のシーンや、
部屋でひとりで絵を描くシーンを見ていれば明白だ。
道路のまんなかでしゃがんで泣く、とか
説明としても演出としても余計で、ダサい。



【ダサい:うだつの上がらねえ若造の映画通気取り】

あと 
「最近のくだらないドラマのセリフなんて
 だいたいタランティーノの五番煎じ」
とかいうシネフィル気取りのやりとり。
・・・
イヤ、もうどうでもいいか、疲れてきた。
結局なつめサイドも悪口になってしまった。

 

【本音:できればもう観たくない】

挙げ出したらきりがないのだが
3話で すでにこんな感じだ。
わたしが気になったことは、
「『男』と『女』」とか「女性の幸福とは」とか
についての描かれ方(作り手の考え方)、だけではないし
というかSATCの本歌取りみたいな体裁であることも
別にそんなもん、わかっててあえてやっているんだろうし、
タランティーノうんぬん的なセリフを若手に言わせたからって
それがそのまま監督の思想とはわたしも思ってない
(というかまさかそうだとは思いたくない)。
わたしが言っていることは このドラマの表層を
いじっているだけなのかもしれない、ことは
もちろん認識してるよ。
しかしだね、このドラマが、まさかとは思うけど、
その「表層」だけで成り立っているのかもしれない、と
思うがゆえに怖いんだよ。気になるんだよすごく。

書くのがつらい・・・

まあ、フェミニズムと、ジェンダーダイバーシティ論の
周辺にあるんだと思うよ、この物語の病巣は。
それは確かだよ。
わたしがこの作品から受け取った不快感のニュアンスが、
この記事をお読みの方に一発で完璧に伝わってたら良いのにな~
とか意味のわからないことを期待してしまう。
攻殻機動隊のさー 情報とかを直接簡単に共有できる
バイスあったじゃない。うなじの所の端子につないでさ~
『ロボ・サピエンス前史』のあれでも良いけどさ~
あればな~(笑)
と言うのも、このドラマについて書かずにすむなら、
これ以上1文字たりとも書きたくないのが本音なので。
このような作品を、脳に入れたくない。おぞましくて。




【願望:でもまだ、のぞみはある】

とはいえ、まだ3話分しか観ていないために、
わたしはこのドラマに、まだ望みを懸けている。
自己批判の観点が盛り込まれる可能性への祈りだ。
具体的には、
「リミに豪快にダメ出しする存在」が今後登場するなら
このドラマを多少まともなものとして受容できると思う。
リミは、新しい時代を生きていこうとする女性たちの
お手本的な存在として描かれている。
美しく、男に頼らず、自分の足で立つ、自由な女。
でもそのリミも実は未熟な似非フェミニズムの中で
もがいているにすぎないのだ、ということに、
彼女自身、気付いて欲しいのだ。どこかの段階で。
でなければリテラシー的にもおかしい。
幼稚な価値観を、無自覚に基調に据えた作品。
ジャパンはまだこんなことをやっているのか、と
世界に鼻で笑われてやしないだろうか。
そこで、今後、わたしはなつめに期待する。
実際、リミとなつめは何度かニアミスしているし
第1話の冒頭でも、出会いが予言されている。
なつめが、リミを目覚めさせる展開が訪れる。
(リミも、なつめに何かをもたらすだろう)
そうなるならば、このドラマを観る価値がまだあると思う。
まあ「そうでなくちゃおかしい」という意味では
先の展開が見え透いているとも言えるのだが。

とりあえず4話から先を観てみるか。

う・・・ダメだ全然観たくない・・・。

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