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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『戦火の馬』

 

 

原題:War Horse
スティーヴン・スピルバーグ 監督
リー・ホール、リチャード・カーティス 脚本
マイケル・モーパーゴ 原作(児童小説『戦火の馬』)
2011年、米

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【あらすじ】

第一次世界大戦下、英国の貧しい小作農の息子アルバートは、
近くの牧場で生まれた一頭の可愛い仔馬に一目ぼれする。
それからしばらく経ったある日、父親のテッドが、
一頭の若いサラブレッドを買ってくる。
それは、あの可愛い仔馬が成長した姿だった。
この素晴らしい偶然に、アルバートは内心大喜びする。
だが実はこの買い物はまったくの予定外にして不必要なもの。
テッドの妻ローズは夫が無駄遣いをしたことにおかんむりだ。
しかしアルバートが「家業に役立つよう調教する」と必死に説得、
何とか返品せずに、その手で育てていけることとなった。
ジョーイと名付けられたこの馬とアルバート大親友となる。
しかし、金に困った父がジョーイを英国軍に売ったことで、
アルバートとジョーイは離ればなれに。
愛馬を案ずるアルバートは、徴兵年齢に達するとすぐに入営。
厳しい従軍生活のなか、戦場にジョーイの姿を探すようになる。
戦地に連れ去られたジョーイは、多くの人の手に委ねられ
命をつなぐ、数奇な運命をたどることとなる。
・・・



【『息子の父親越え』の物語】

先日、この映画のことを、ある友だちと話したのだが、
そうすると、一人で観てた時には気付かなかったことに
あれやこれやと気付いた。
十分考えたつもりだったから、まだ気付くことがあって驚いた。
自分の考えは間違ってた、不十分だった、とさえ思った。

まあ監督がどう考えているかは結局わからないわけだが、
やっぱりこの映画は
「息子の父親越え」の物語だったかもしれない。
元もと、その側面が少しはあったと感じていたけど、
それがこの映画の勘所、とまでは思ってなかった。
けど、やっぱりそここそがメインだったかもしれない。

シンプルに、主人公のアルバート少年が、
父親という壁を越え一個の大人になっていく姿を描く。
それは大前提として、
もっと大きな枠で観れば、そんな成長物語を通して、
「古い時代を踏まえてより良い新たな時代が作られていく」
までを描いてた、
そんなことも言えるんじゃないかと思う。

 


【父親テッドはこんな人】

父親テッドと息子アルバートの、人物像や関係を
ちょっと整理しとく。
アルバートの父親テッドは、決して悪い人間じゃない。
ただ、意地っ張りで嫌われ者のくせにお人好し、という
ハッキリ言って相当めんどくさ~い感じの男だ。
なんでも他人に譲ってしまって自分は損ばかり、
しかもその損失を自力で回収する甲斐性はまるでない。
かつて従軍した時も、戦場で仲間の命を救ったは良いが、
その自分は、足に一生痛みが残るケガを負ってしまった。
戦後、地主から土地を借りる時、良い土地はみんな親戚に回し、
自分は残りもののやせた荒れ地を受け持った。
(足が悪いからろくに自力で耕すこともできないのに・・・)
そのせいで、今でも一家揃って貧乏している・・・などなど
種々のエピソードに、テッドの「残念」さが現われている。

一番の問題は、彼が社会的に孤立しがちなことだと思う。
古女房のローズだけは、なんだかんだ言いつつも
最後の最後までテッドの味方、という感じだったけど、
この時代、社会における女性の立場はとても弱かったはずだ。
テッドみたいに不器用で、才覚のない人間にとって必要なのは、
もっと頼れて、おりいっての相談ができる、男の仲間ではないか。
でもそういう存在が、テッドにはひとりもいないようだった。
(まあ確かにテッドって、アル中だし、見るからに不健康そうだし、
 ぜひ友だちになりたい相手! って感じの男じゃないんだよな)
そもそもテッド自身「俺は誰かに頼りたいのだ、相談したいのだ」
と思う気持ちが、自分の心の中にある、ということを、
まったくわかっていないように見えた。



【父親になくて息子にはあったもの】

家長のテッドがこのていたらくで、いろいろやらかすので
家族は迷惑をこうむりまくる。
特に一人息子のアルバートは、愛馬を勝手に売られるなど
散々な目にあわされる(暴力もふるわれていたみたいだった)。
でも、子が親に意見するのは非常に難しかった時代と思われる。
多分将来の道とかも、親の許しがないと選べないというか、
親が決めた道を進むのが当たり前の時代って感じなんだろう。
普通にいけば、アルバートも、父親と似たような人生を歩み、
父親と似たような男になり、父のように老いるのだろう、
・・・というのが、目に見えるようだった。
アルバートは父のせいで何が起ころうと、グチ一つ言わない。
父の作った負債を一身に引き受け、努力で回収しようとする。

だけど、アルバートにはテッドと違う所がひとつある。
ふたりは父子だけど、何もかも同じなのではないのだ。
ヘンクツで、社会的に孤立しがちなテッドと違って、
アルバートには心と心がつながった仲間、親友がいる。
アルバートは愛馬ジョーイと一緒ならどんなことも頑張れる。
ジョーイのためなら死地に身を投じることもいとわない。
人と馬の関係だけど、アルバートとジョーイの心は、
信頼によってかたく結ばれているのが伝わった。

アルバートの愛馬ジョーイは、戦地で大冒険を繰り広げる。
多くの人に委ねられ、時に虐待され、時に可愛がられ、
人の所業のさまざまをその眼に焼き付けて生き延びていく。
(この映画について語り合った友だちは、
 『その冒険はジョーイが馬だからこそ可能だったことだ。
  人だったら、いろいろな社会的制約が立ちはだかって、
  そううまくあちこち行ったり他者と関わったりできない』
 と言っていた。確かにその通りだよねえ)

アルバートとジョーイは、苦難の末に奇跡の再会を果たす。
もちろんアルバートは、自分と離ればなれになっていた間に、
ジョーイがどんな体験をしてきたか、知る由もない。
だけど、何も知らなくても、アルバートはきっと察するはずだ。
ジョーイがいかに大変な思いをして自分の許にたどり着いたかを。
そして、疲れた愛馬を心からいたわるのだろう。



【父親越え→→過去を乗り越えてより良い未来へ】

ここが、重要なポイントじゃないかと、思っている。
アルバートとジョーイが、それぞれの体験や情報を
本当の意味で共有することはありえないのだ。
当たり前だが、別の個体だし、人と馬だし、言葉も通じない。
だけど、思いやることはできる。
お互いいろいろあったね、でも会えてよかったね、で良い。
アルバート自身の過酷だった従軍体験と、
ジョーイの瞳の奥にあるジョーイだけの戦争体験が
ふたりの再会と帰還によって、ひとつの場所に並び立った。
この終盤の構図はとても良かったんじゃないかな。
おのおのの体験が共有されることは決してないのだが、
何も知らなくても、察することでカバーできる。
察したいと思えるのは、相手のことが大切だからだ。

アルバートのように、
他者の存在を心の支えにしてに頑張る、とか
他者と協力して大きな困難を乗り越える、とかいう生き方は、
貧弱な社会関係しか持たないテッドには、不可能なものだ。
アルバートはこの彼独自の生き方によって、
他者と関わる力、知らなくても思いやろうとする力によって、
自分の人生を歩んでいくのだろう。
父親が乗り越えられなかった苦難を乗り越えるだろうし、
その意味で、父を越えていくだろう。

アルバートが見せてくれた
「知らなくても思いやる、察する、想像する」
という姿勢は、
わたしたちが、世界をより良いものにしていくために
ぜひとも求められるものなんじゃないか、とも思う。
例えば、わたしは戦争をしたことがなく、戦争を知らない。
でも、
「戦争したことがないからどんなものかわからない。
 知るために、試しにやってみよう!」
というわけにはいかない。
戦争行為は、恒久的に「やらない」の一択なのだ。
なのに、やらないことが極めて困難なものでもある。
戦争を知らないまま、戦争をしないでい続けるには、
どうすれば良いんだろうか。
やればどうなるかを察する、思いやる、想像する、
・・・これしかないとわたしは思う。

話を拡げすぎかもしれないけど、
この映画で描かれたアルバートの姿に、
戦争があった時代を「終わらせ続ける」ヒントを、
見ることができるんじゃないか、という気がする。