une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

「37セカンズ」

英題:37 Seconds
HIKARI監督
2020年、日米合作

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不器用な映画だったような気もしないことはないが、
それを補ってあまりある良い所がたくさんあった。

良くできた「感動ポルノ映画」に
まんまと感動してしまったと思いたくなくて、
最後まで、自分の気持ちに疑問符を付けて観ていた。
「障害のある人を主人公にしなくても、この物語は
 十分に良いものになったんじゃないだろうか?」

だけど、あの素晴らしかったクライマックスから
逆算して考えた時に、
「やっぱり身体障害者であるところのユマでなくては、
 あのクライマックスを、ここまで良いと
 感じることはできなかった」
そう確信した。
わたしは、この物語の最高潮は、
「でも・・・・・・私で良かった」
の所にあったと見ている。
このセリフが最高に活きたのは、
主人公がユマだったからだ、と思うのだ。

ユマは、きわめて素直で、偏見が少ない性格だ。
また、経験やものごとを吸収する心の力が、非常に強い。

きわめて素直
…漫画のアダルトシーンにリアリティを付与するためには
 作家自身に性体験がなくては・・・とアドバイスされると
 あ、そうなんだ! とすぐさま夜の街に繰り出した。

偏見が少ない
マッチングアプリで会う男性がどんなに「アレ」でも
 接し方にまったく分け隔てがなく、誰とでもちゃんと
 会話を成立させることができていた。

心の力の強さ
…知らなかった自身の過去と出会う旅に出たばかりか、
 成長への足掛かりを得て帰ってくることができたのは、
 彼女の心がしなやかで、さまざまなトラブルやショックに
 過度に打ちのめされずに、前に進むことができたからだ。

減菌室のような環境で大切に育てられてきたうえに、
知識はあっても経験を踏む機会がなかったことが、
彼女の性格を作り上げた、一つの要因だと思う。
良いとか悪いとかの問題ではない。
とは言えもう23歳の大人の女性なのに、
そこまでがっちりと保護されてきた理由はどこにあるのか。
生まれながらにして体が不自由、ということに他ならない。
良いとか悪いとかの問題ではない。
※それにしてもユマの母の、やや目にあまる過保護っぷり。
 演技が良かったために、固唾をのむほどの迫力があった。
 ユマを四つん這いにして服を脱がせるシーンは
 ちょっと目を背けてしまうような生々しさだった。
 母娘の間では、あれはお風呂に入る時の単純作業なんだろうが、
 ああいう言わば屈辱的な姿勢を、毎日毎日とることが、
 ユマの自立心の芽生えを摘み取ることになっていなかったかとか
 うがちたくなった。
 「じゃあやってみなさいよ自分で!!!」。
 ああいう追いつめられ方は身に覚えがある。良くわかる。
 ユマは徹底的には追いつめられていなくて、
 このお母さん優しいな・・・、と思ったけど。

ユマという人物と、彼女の体のことは、切り離せないだろう。
「障害のある人を主人公にしなくても、この物語は
 十分に良いものになったんじゃないだろうか」
と思ったと、先に述べた。
もしこの物語が目指そうとした所が、
「保護者の激しい抑圧から逃れようとする子どもの
 サバイバル劇」にあったとしたら、
確かにユマは、身体障害者でなくても良かっただろう。
23年間親に虐待されてきた若い女性などでも良かった。
でも、わたしが思うに、『37セカンズ』のテーマは、
抑圧からの逃避ではなかった。
人が自分を知り、受け入れるまでを、描く物語だったのだ。

人のアイデンティティとは、いつも絶対にこれ、という
定まったものがあるのではないと思う。
他者と関わっていくなかでさまざまな価値や意義が生まれ、
その生まれたものを見て、ああ自分とはこういう人間なんだな、と
自分のさまざまな姿を知っていく。
人が在るというのは、その繰り返しのはずだ。

だから人が「私とはどういう人間か」を劇的に知る・・・
そんな物語を作りたければ、主人公はこんな感じの人だ。
・・・今まで本当にひとりの他者とも関わってこなかったか、
変わり映えのしない狭い人間関係の中で生きてきたために、
ある決まった角度から見た自分の姿しか知らない人。
しかも、「私とはどういう人間か」について
今までとはまったく違う答えを得た時に、その感覚を
より強烈に、より鮮烈に体験できそうな心の持ち主。
だからこの物語の主人公は、心が澄んでいて吸収力の豊かな、
ユマという人物である必要があったんじゃないだろうか。
そのユマは、身体障害者だ。言わばそれだけのことだ。
でも、障害も、ユマという人物を形成したひとつの要素なのだ。

「でも・・・・・・私で良かった」。
これは、長い独白に続く、ユマの結論なのだが、
この言葉には、意味が二つあるように思った。
一つは、
「障害を持ったのが双子の姉でなく、私で良かった」。
もう一つは、
「障害を持ったけど、でも、その私という人間に
 生まれてくることができて、良かった」。
わたしには、この二つの比率がユマの心の中で
どれくらいなのか、わからなかった。
同率くらいだったような気もしたし、
両方がないまぜになっていたような感じもした。
「でも」のあと、長い長い沈黙があった。
この間、仰向けに横たわったユマの胸が、
何度も、大きく、ゆっくりと上下した。
「私で良かった」という結論の重大さが、良くわかった。

帰宅したユマが、母に1冊のスケッチブックを手渡した。
そこには旅先でずっと描いてきた思い出のイラストが満載。
ページをめくる母の手が、ある所でぴたりと止まり、
その眼から、大粒の涙が落ち始める・・・。
あの涙は、彼女がこれまでに体験してきたのであろう
数えきれないことどもの重みを伝えて、
あまりにも感動的だった。
母が流したあの涙を見た時、
なんだかこの映画の、多少の不器用な所や
たどたどしさなんかが、全部許せるような気がした。
例えば話を深刻にし過ぎないようにという一種の照れ隠しか
たまに挿しはさまれる無意味としか思えないアニメーション・・・
父がユマに送り続けていたという絵ハガキのイラストが
50がらみの男性が描いたにしてはあまりにも少女漫画チック・・・
タイに2人で出かけられるほどの資金をどこから調達したのか・・・
(障害者向け性風俗サービスのお姉さんが、困った時には
 お金を貸してくれそうな様子ではあったが・・・)
トシくんは旅の間、仕事をどうしていたのか・・・
ユマの母の仕事(どうやら人形作家?)の設定が
いくらなんでも作り込みすぎではないか(怖い)・・・
唯一の友人サヤカや、マッチングアプリで出会う男たちの
カリカチュアライズの過剰感・・・
ちょこちょこ、こういうのが気になったのだが。
でも、ユマの母の涙が、全部洗い流してくれた。

ずっと母の庇護を受ける立場だったユマが、
逆に母を癒やす立場へと変わった、あの終盤の場面は
ユマが、今まで見せられてきたものとはまったく違う
新しい自分の姿を知った・・・ということを告げる
とても良いシーンだったと思う。
ユマは、他者と関わったことがまったくなかったわけではない。
母や、友人のサヤカなどとのつながりがあった。
だから、彼らとの関わりの中で、
「自分とはこういう人間なんだ」というのを
それなりに見たことはあったはずだ。
だが、それは非常に限定的で、固定されたものだった。
しかも、その人間関係の中で見える「ユマ」像は、
今やユマをまったく幸せにしてくれなかった。
ユマから自分で生きていく力をも奪いかねないものだった。
ある人間関係の反射のなかで見えてくる「自分」像が、
自分を幸せにしてくれなくなったら、
その人間関係から離れるか、新たな人間関係のなかに
飛びこんでいく、という方法が考えられる。
それ以上「自分」を嫌いにならないために、
動くことが必要なわけだ。
ユマは、ずっと、それが許されてこなかった。
だが、それをやることに成功したのだ。

こうやって、たくさんの人と関わって、
さまざまな自分の姿を知っていくことが、人生なのだと思う。
それは障害があるかとか、車いすに乗っているかいないかとか
まったく関係なく、人間すべてに言えることのはずだ。

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お絵描き中。