une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『男と女 人生最良の日々』

原題:Les Plus Belles Années d'une vie
クロード・ルルーシュ監督
2019年、フランス

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観るには50年くらい早かった。
この物語の男女の気持ちに共感できるほどの
人生経験も恋愛経験も、わたしにはない。
それに今観なくちゃいけない映画、ではなかった。
でも、わたしがどうであるかは関係なく、
この映画は、今、撮られなくてはならなかった。
関係者が高齢なので、今よりあとでは
作れなかったかもしれない。

男女が再会し、思い出を語り合って
あわよくばまた・・・みたいな物語ではなかったし、
老いらくの恋に花が咲き・・・的な話でもなかった。
そもそもラブストーリーか?? これは。

53年前の『男と女』のキャストがそのまま出演、
監督も、クロード・ルルーシュが続投。
もう本当にお歳だ。主演のふたりも、監督も。

物語は、とりとめがなく、おぼつかなかった。
少なくとも「テンポが良い」って感じではなかった。
絶対、30歳や40歳の監督が作ったんじゃないな、とわかる。
例えば若かりし頃のジャン=ルイが、アンヌに会いたくて、
早朝の街を車で疾駆する、回想シーン。
ジャン=ルイはレーサーなので、
運転は、速度を出していても危なげがなく、見事だが・・・
これが、異様なまでの長回し
視点はずっと車中から前方正面を見つめる
ジャン=ルイの主観から微動だにせず。
それでひたすらパリの街を走る走る。
ただ一定の速度でパリの街を駆け抜けていく、車。
止まらない。ずっとだ。
え、いつまでこのシーンが続くの・・・?
というかこれ、何を言おうとしているシーンなの・・・?
心配になってくるが、おかまいなし。
こうした掴み所のないシーンが、他にも散見、いや頻出する。
そして壊れたジュークボックスか何かみたいに
「ダバダバダ♪ ダバダバダ♪」の音楽が
これまた、断続的に、繰り返し繰り返し・・・
監督がお歳だということを、実感させられた。
好きなよう~に作ってますけど何か問題でも? って感じ。

だが、そのことが、全然イヤじゃなかった。
そこには、他では得難い、良さがあった。
この映画で綴られるエピソードの大部分は、
老いた人の心に眠る、宝石のような「思い出」だった。
それを見守ることが、気持ち良かったのだ。
先に述べた、早朝の街をかっ飛ばす場面だけど、
このドライブシーンを観続けるうちに、
わたしはいつしか、何も考えなくなっていった。
こんな変化に乏しく意味不明なシーンを、
長回しで見せるなんて、時間の使い方がヘタだなあ、とか
何を伝えるためのシーンなんだろう、とか
最初のうちは思っていた覚えがあるんだけど、
しまいにはどうでも良くなっていった。
思考を手放すことは、気持ちが良かった。
どうでも良い! 知ったことか! ではない。
考えなくて良い、という安心感だった。

・・・上手なドライバーが運転する車に乗せてもらって、
助手席に座りはしても「ナビとかしなくて良いよ」って
言ってもらって、全部お任せ状態でドライブするのは、
最高に快適なものだよね。
ずっとこのまま乗っていたい、という気持ち。
それだ、この映画は。
深い安心感があって、気持ちが良いのだ。
ストーリーテリングも演出も、散漫で抑揚に欠け、
っていうか、話、っていうほどの話がないし・・・、
全体に統制が取れていなくて、ヨロヨロしていたことは、
否定のしようもないのだが、
でも、不快に感じた瞬間は、一瞬もなかった。
この「快適さ」にこそ、この映画の価値が
集約されていたように思う。

仮に、もっと若い映画監督が、
53年前のキャストで『男と女』の続編を作ったら、
さぞかしくっきり起承転結があって理解が容易な、
「ちゃんとした」お話、になったことだろう。
だけど、わたしがそれを観て良いなと思ったかどうか。
わからないが、多分、思わなかったんじゃなかろうか。
この映画の監督がクロード・ルルーシュであることは、
正解だったんじゃないかな。
歳老いた映画監督が、歳老いた役者たちと再会して、
お互いをいたわりながら、丹念に撮ったんだろうね。
長丁場は体力的に厳しいから、限られた期間の中で、
1カット、1カット、ムダにせず作っていったんじゃないか。
現場の雰囲気は、スクリーンを隔てても伝わることがある。
この映画のそれは優しくて、とっても良い。
生涯で一番愛したあの女が、
53年の時を経て俺に会いに来る、か。
女好きの、フランスの爺さまが抱きそうな
理想のターミナルケア幻想!
いかにも男が考えそうなプロットだ。
だが苦笑を禁じ得ない中にも、
いじらしい気持ちにさせられたのは、やはり、
老人が作った映画が醸す、
優しい手触りによるものではないか。

ジャン=ルイは、アンヌよりも少し、
衰えが進んでいるように見えた。
夢とうつつのはざま、正気とボケの中間地点を
ふわふわと往来しながら暮らしている。
ハットなんかかぶって、おしゃれだけど、
顔を良く見ると、鼻毛がのびていたりもする。
でも、昔のことは本当に良く覚えている。
アンヌの眼が好きだった、
髪の毛をかきあげる仕草が色っぽかった、
声が良かった、
電話番号は何番・・・と、
宝物を数え上げるように語る。
「逃げようと思っているんだけど、君もそうしたいかい」。
アンヌが「ええ、そうね」と言ってやると、
表情がパッと華やいで、いかにもうれしそう。
脱走を計画したことなど、すぐ忘れてしまうのだが。
「明朝5時に脱出するから、落ち合って逃げないか」。
話がちょっと具体的になってくると、アンヌは
「仕事もあるし、ムリよ」と、現実的だった(笑)。
アンヌが、ジャン=ルイを外に連れ出すというエピソードが
数回あったが、これはジャン=ルイの幻想らしかった。
「アンヌはたびたび面会に来ているが、
 ジャン=ルイがたいてい眠っているので、
 会えないことが多い」
と語られていて、
ふたりの面会が実現する頻度は、
どうやらそんなに高くないことが伺える。
一方で、ジャン=ルイの認知症状については、
本当にボケているのか、ボケを演じているのか、
「?」と思わされる描写もあった。
医師は、記憶機能のテストの結果は良好、と言う。
息子は「父は演じることが好きで、それが度を超してしまう」。
この発言をそのまま受け取ると、ボケている演技をして
皆をからかっている、・・・というような解釈になるが、
それで施設に入れられて不自由をかこつんじゃ世話ないし、
それに、普通、好きな女の前では、
あくまでカッコ良くありたいと考えるものでは? 
ましてジャン=ルイのような男なら、なおのこと。
だがジャン=ルイは、アンヌの前で、
つい数秒前に自分自身が言ったことを忘れて
「そんなこと誰から聞いたんだい」などと
記憶混濁はなはだしい発言を繰り返す。
彼の認知症状が演技だなんて、
すっかり納得することはちょっと難しいように思う。

わたしは、全体としてジャン=ルイは、幸福な夢のなかに
まどろむように生きている、という印象を受けた。

こう言っては何なのだが、
アンヌはまだ元気だから、ジャン=ルイほどには
心が解き放たれていないのかな、と思った。
仕事があるからと、脱走の誘いを断ったのも、
現実的という意味でまさにそういう感じなのだが、
ジャン=ルイと53年ぶりに会ったあとの彼女の言葉が、
何しろ印象的だった。
「これほどまでに愛されていたとは」
「わたしたち、別れるべきじゃなかったのかも」
「会いに行く時、ドキドキした」
「また会いに行きたいわ」・・・。
「現役感」みたいなものをすごく感じたんだけど、どうだろう。
もちろんジャン=ルイに、こうしたリアルな欲求が
全然ない、とまでは思わない。ちょっとはあるはずだ。
その証拠に、
施設の許可を得て出かけるドライブ(という幻想)では、
1回目はアンヌが、2回目はジャン=ルイが、
突然、拳銃を取り出し、邪魔者を撃ち殺す。
拳銃なんて物騒なものが、なぜ登場したのか。
この映画は全然、そういう感じの物語じゃないのに。
下世話なのだが、あれは
彼らの心の中にちらつく熾火のようなリビドーの
メタファじゃないのかな、とわたしは思う。
積極性、攻撃性、と言い換えても良いかもしれないが。
だから、わたしは、ジャン=ルイの心の中にも、
性的なものを含む、欲求がちゃんとあると思うのだ。
だが基本的にはジャン=ルイは、
甘美な恋の思い出を愛でて悦に入っているだけ。
それ以上、何の期待もしていないようだ。
でも、アンヌは少し違う。
彼女の思いはいつも、未来へと向いている。
自分でものごとをコントロールできるという実感を、
まだ、手放していないのだろう。
アンヌは、ジャン=ルイの元に頻繁に顔を出すようになり、
会話によって、彼の記憶を刺激しようと努めていた。

終盤。ジャン=ルイが
「こんな時間を、前にも過ごしたような気がする」。
するとアンヌは、声に笑みを含ませて
「あなたの夢の中でね」。
これをどう解釈するかは、観た人それぞれだと思うが、
わたしは、
「あなたの夢の中で、きっとわたしたちは一緒で、
 楽しい時間を過ごしたのね。
 でも、現実のわたしは、まだ、夢のなかで
 あなたと一緒にまどろむことはできないの」
つまり、
あなたはそうかもしれないけど、わたしは違う、
わたしたちは別のフェイズにいる(今はまだ)
・・・というようなニュアンスを受け取った。
彼が元気になってくれれば、と張り切るのをやめて、
今の彼を受け入れることにしたのかな、とも思う。
ジャン=ルイは、今のままで十分に幸福なのだ。

昔の恋人同士が再会しても、
この映画ではふたりの間に、恋愛めいた何ごとも
起こりはしなかった。
でも、ベンチから車いすに移ろうとするシーン。
アンヌが、ジャン=ルイの手を取って、介助した。
観ていた限り、これが、ふたりが触れ合った、
最初で最後のシーンだった。
ジャン=ルイの前に立って両手を差し出したアンヌは
十分かくしゃくとしていたが、足がかなり細くて、
良く見ると、わずかにだが背中が曲がっていた。
ジャン=ルイが車いすに落ち着くと
「できた」と言ってふたりで笑い合う。
このシーンは・・・何と言えば良いのか。
とにかくすごく良かった。

この映画から受け取ったのは、心地良さだった。
観ていて、ゆったりくつろげる映画。
それで思ったのは、

いずれ、わたしの経験も、時の中に溶けていくんだろうか。
つらかったことも、烈しい思いも意識と共に溶け出して、
柔らかい毛布みたいな感じの思い出にかたちを変え、
老いるにつれ活動を停めていくわたしの体と心を、
心地よく、くるんでくれるのだろうか。
ジャン=ルイの思い出が、彼を優しく包んでいるように。
本当の経験から溶け出した思い出ばかりでなく、
願望が創り出した幻想が、そこに混じっていたとしても、
いずれそんな柔らかいもののなかで、
ゆっくりと眠ることができるのかもしれないと思うと、
ただただ傷付いた経験も、当時はただ苦しいだけだった恋も、
抱えて生きていくことができる気がする。

物忘れがひどくなってきた頃や、
もうすぐお迎えが来るかもという頃に観ると、
心のお守りになってくれる映画・・・というものが
もしあるとすれば、
それは、この作品のようなものかもしれない。