une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『失くした体』

原題:J'ai perdu mon corps
ジェレミー・クラパン監督
2019年、フランス

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2回観た。美しかった。
予告を観て、陰惨な物語を想像してたけど、
そんなことはなかった。
主人公の未来を心から祝福したくなった。

言葉以外の方法で、強く訴えかけてくる物語だった。
観る人それぞれ、湧き上がってくる気持ちや
イメージを大切にして、楽しむべきだろう。
だから、この映画に限っては、あんまりちまちまと
わたしの感想を言葉にするものでもないかなと思う。

「切断されて持ち主と離ればなれになった手」は
この物語にとって明らかに重要だ。
でも何を意味していたか、わたしは正確にはわからない。
ただ、実はわたし自身、以前、右腕のヒジから下が
切断されるという「夢」を繰り返し見た時期があった。
美しい湖をざばざば歩いて、切断された手を自分で運び、
湖上の病院に向かうという筋だった。毎回同じ内容だった。
当時少し神経が参ってて、しかるべき治療を受けていた。
担当のお医者さんに内容を話して、分析をお願いしてみた。
モチーフがどんなストーリーの流れの中であらわれるか
によっても、解釈の仕方が違うようだったが、
「腕の切断」は、大きくまとめて「決別」「清算」などを
意味する、との説明を受けたと記憶してる。
腕がちょんぎれるなんて、そりゃ物騒な夢だけど、
意味としてはネガティブなものとも限らなかったのだ。

わたしの夢とこの映画にはもちろん何の関係もないが、
この物語にあまりにもバシっとハマるので、
連想せずにいられなかった。
「決別」。「清算」。
『失くした体』は、主人公のナウェルが、
罪の意識や喪失感に縛られたつらい過去と決別して、
力強く生きる決意を固めるまでを描く物語なのだ。
切り離された右腕が、持ち主のナウェルを探し求める様子は、
まだナウェルの中で「自分の力で歩むんだ」という覚悟が
決まらないことを、暗に示していたんじゃないかと思う。
その証拠に、ナウェルが大切な一歩を踏み出したあの時、
彼の右腕は、もうナウェル本体とくっつこうとはしていなかった。
右腕のないナウェルを、遠くから見守るにとどめていた。
幼い頃、両親から贈られたテープレコーダーで録り集めた
「音」の思い出、カセットテープのコレクションを聴き直すシーンで
(このあたりは『ベイビードライバー』(2017年)を
 思わせるものがあった)
音声が彼の幼少期のつらい記憶に直結する部分に来た時、
陰で様子を見ていた右腕が、わずかにあとずさりをした。
最初に観た時は、あのあとずさりが、怯えているように見えたのだが、
今考えると、右腕は、本体であるナウェルをそっと応援していたのかも。
ナウェルが勇気を出して心の傷と向き合おうとしているのを
邪魔しないように、一歩引いたのではないだろうか。

この映画の結末は、やっぱり、ちょっと気の毒だとは思った。
ナウェルにとって踏んだり蹴ったりの状況だったので、
でも、ナウェル、がんばれ! 元気で生きろ!
そんな気持ちに、ものすごくなったことも事実だ。
素晴らしいラストだったと思う。

ガブリエルがナウェルの指を手当てした時、
包帯の結び目がちっちゃな双葉の形になっていた。
ナウェルにとって、ガブリエルとの出会いは、
とどめの一撃とも言えるつらい時期の始まりだった。
そう言えば物語の中で、図書館スタッフのガブリエルが
ナウェルにアーヴィングの『ガープの世界』を薦めていた。
あの小説は、主人公が、かなり・・・考えようによっては
「気の毒すぎて慰めの言葉も見つかりません」というくらい、
ひどい目に遭いまくるんだけど、
でも、人生ってこういうもん、いろいろあるけどこれこそ人生、
そう訴えて来る所がある物語だ。
それをガブリエルが薦めるってのが、なかなかね・・・。
つらかったけど、ナウェルの新しい人生が大きく花開くためには
あと一息、どうしても、あの時間が必要だったのだ。
ガブリエルとの出会いが必要だった。
双葉の結び目は、ナウェルの春がそこまで来ていることの
予告だった気がする。

ナウェルは、暗い雪の夜に旅立った。
ということは、これから夜が明けて、春が来るのだ。