une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『2人のローマ教皇』

原題:The Two Popes
フェルナンド・メイレレス監督
2019年
英・伊・米・アルゼンチン合作

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www.youtube.com


2005年、ローマ教皇が亡くなった。
バチカンでは、ドイツのラッツィンガー枢機卿
ローマ教皇に選出される(ベネディクト16世)。
聖職者による児童虐待疑惑、バチカン銀行の不正疑惑、
内部文書漏えい問題(バチリークス・スキャンダル)、
教義を時代に合わせて見直すかどうかについての議論・・・などなど、
おりしもバチカンは、山ほどの懸案を抱え込んだ状態にあった。
しかし、新教皇ベネディクトはバチカンの保守派の筆頭。
彼が教皇になっても教会の問題が抜本的に解決される見通しは薄い。
教会の状況を憂える改革派の一人・ベルゴリオ枢機卿は、
保守派の人物が教皇に選出されたのを見て、
要するに教会は変わっていく気がないのだ・・・、と落胆。
枢機卿の職を辞すことを決め、辞任願を提出する。
しかし、ベネディクトはベルゴリオの願い出を
のらりくらりとかわして受理しようとしない。
「今、枢機卿が辞任することは世間には教会への批判とうつる。
 それは信徒の不安をあおり、教会を弱体化させる」
それがベネディクトの主張だった。
立場も考え方もまったく違うベネディクトとベルゴリオ。
しかし二人は、時に衝突しながらも
真摯な議論を重ねていくようになる・・・。

この映画は、カトリック教会の歴史が動いた瞬間を
ローマ教皇と、のちにその座を受け継いだ人物との
対話のなかに描き出す、というものだった。
ベネディクトとベルゴリオ(現ローマ教皇)は実在、存命の人物。
ベネディクトはアンソニー・ホプキンス
ベルゴリオはジョナサン・プライスが演じている。
けっこう揺れる手持ちカメラ?っぽい映像が活用されるので
ドキュメンタリー映画っぽい感じを受けるが、フィクションだ。
(このグラグラ揺れる画面は、個人的にはいただけなかった。
 議論が白熱するシーンや、緊張感あるシーンの時に
 揺らしているのかなとか、意図はそれなりに感じたが。
 揺れないなめらかなカメラワークの時もあったので、
 ずっと揺れないでいてくれた方が良かった・・・)

ほぼ全編、煮ても焼いても食えねえじいさま二人組の
出ずっぱりノホホントークムービーだった。
最高!
ベネディクトとベルゴリオのことが、大好きになった。
多分、会社の同僚や、学校の同級生といった関係なら、
この二人は親しくならなかった。性格が違い過ぎる。
ベネディクトは、
せっかち、ガンコ、ヘンクツ、うるさ型、四角四面、
そして教会運営に関しては、非常に保守的な立場だ。
ベルゴリオは、
ノンビリ屋で、割と天然、格式ばらない愛されキャラ、
また、本人はそんなつもりはないと言うが、教会改革論者だ。
こんなにも合わない者同士が、ケンカしながらも対話を続けた。
なぜだったのだろうか。
世界中に信徒を抱えるカトリック教会の今後のために、
それがどうしても必要だったから、に他ならない。

集団のトップにいる人が、異なる意見、新しい風を容れることは
相当な決断が要ることだ。
従来の体制が、そのせいで思った以上に瓦解するかもしれないし、
既得権益を失うことに難色を示すメンバーも必ずいるので、
全員が納得いく形にはどうしたって、ならないからだ。
責任ある立場の人ほど滅多な発言はできなくなり、
本音が言えなくなり、人を信じることが難しくなる。
不安、ということだ。
ベネディクトはさすがに不安だからってイライラして
人に八つ当たりとか、みっともないことはしない。
不安は周囲に感染する、と知っているからだろう。
でもその代わり、彼は独りぼっちで食事をとる。
自分のカラに閉じこもってしまっているのだ。
人を信じられないから、弱みを見せられず、本心を言えない。
けっこう深刻な問題に見えた。
愛の大切さを説くキリスト教の、教皇なのに。

凝り固まってしまったベネディクトの心を、
ほぐす方法はあるんだろうか。
ベネディクトが言っていた。
「神の声を聞くのは大変だ。私には心の補聴器が必要だ」
「前は、神の声が聞こえていたが、近頃は聞こえない」。
また、ベネディクトとベルゴリオが、お互いの過去の罪を
告解(司祭に罪を告白して赦しを乞う)し合う場面があった。
このあたりのことを観ていて、思ったんだけど、
・・・もし、神さまが自分に何か言ってきていると感じたら、
何教の信徒でなくても誰だって、
その内容を聞こうとして、一生懸命になると思うんだが、
この感じと同程度の一生懸命さで、人の告解に耳を傾けるのが
彼ら司祭というものなんじゃないかな。
「私はあなたの話すことを聞いています」という態度は、
「私はあなたのことを信じています」ということなのだ。
そのためには、まず、自分が告解できなくちゃならない。
気持ちをさらけだして、心の余裕ができて初めて、
人の言うことに耳を傾けられるようになるのだろう。
ベネディクトは、告解を聞いてくれたベルゴリオに、
「重荷が降ろせた、ありがとう」と言った。
彼が告白した過ちの内容は、非常に重大なものだった。
あんた、聞いてもらったからって何が「重荷が降ろせた」だ!
やったことがチャラになると思ったら大間違いだぞ!
教皇辞めたらすぐ警察に行け、警察に! ・・・くらい重大。
だけど、好意的にとらえれば、
この「重荷が降ろせた」は、そういう意味じゃない。
これで、少なくとも教皇を辞任するまでの短い間、
また、人の告解を聞いてあげることができる。
つまり、また人を信じることができるようになった。
ありがとう、という意味だったんじゃないかな。
ベネディクト自身も言っていたように、聖職者だろうと
何だろうと、「人はみんな等しく罪人」なのだ。
また、人を信じられるということは、
人に任せることができる、ということでもあるだろう。
実際、ベネディクトはやがてベルゴリオに、
きわめて重要なことを託す決意を固めるのだ。

とかなんとか思いつつ、
ピアノ弾いて歌ってみたり、一緒にサッカー観戦をしたり、
とんちんかんなビートルズ談義に花を咲かせたり・・・
あと6時間でも、このじいさまたちを観ていたかった。
特に、ピザを一緒に食べるシーンがあったのだが
(心を開いて、人と一緒にご飯を食べるベネディクト!)
ベネディクトが意外と食前のお祈りに熱心、というのが良い。
用事を控えていて、あまりゆっくりできない状況だったのだが、
「今日の糧を与えて下さり感謝します」という決まり文句で
てっきり終わりと思ってベルゴリオがピザを開けようとしたら、
ベネディクトが即興で文句を付け足してお祈りを続けていくので、
あわててベルゴリオもこうべを垂れる、というのが2回「天丼」。
タイミングとかが絶妙で、わたしなんか声を上げて笑った。
「えーと、他に付け足す言葉はないかな」と聞かれ
「『アーメン』?」と応じるベルゴリオの表情が、スゴイ良い。

世界宗教の指導者たるローマ教皇でも、
悩みや不信はあるし、つらい過去も抱えていて、
神の沈黙に心惑わせる日、孤独にさいなまれる夜もある。
そしてそんな時、彼らを救うのは、やっぱり人の愛情なのだ。
じいさまたちの息の合った会話劇を楽しむなかで、
そんな現実をうかがい知ることができた。
なんだか人って、バカだけど、愛おしいよな~、みたいな
後味を残してくれる映画だった。