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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』

 

原題:The Death & Life of John F. Donovan
グザヴィエ・ドラン監督
2019年、英国・カナダ

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※物語の核心に踏み込んでいるので、
 映画を観てからお読みください。 

【わたしの結論:没入しにくい駄作】

自分なりに良く考えてみたんだけど、
結論としては、駄作の部類。

お話として特におもしろくも何ともないことに加え、
細かい所に疑問や不満をたびたび感じて気が散り、
どうしても物語の世界に入り込めなかった。
そこがな~。没入できない映画はつらい。



【意欲的な作品であったことは確か】

だが、意欲的に作られた作品であることは伝わった。
この物語をどうしても作りたかった、そのことはわかった。
映像が美しいのも良かった。
昏さを帯びた透明感があったかな。
あと、ルパートの少年時代を演じた子役が、驚異的な名演。



【疑問・不満1:時代の設定にムリがあった】

以下は、わたしが疑問や不満を感じた点なんだけど、

まず、時代の設定。ちょっとムリがあった。
現在を2006年に置き、そこから1996年のできごとをふりかえる
設定だったらまだなんとか、と言うか全然、十分この物語の
いろんな部分を受容できたと思う。でも実際には、
2016年現在から、2006年のできごとを語る構成だったので、
不自然さを感じる部分が出てきてしまった。
例えば、
ジョンが自分の同性愛志向をひた隠しにしていたこと。
彼自身が、隠したい、と考えていたことは、別に良い。
だが同性愛疑惑が浮上してからの「世間の反応」の描き方が
あまりにも古くさい。
だって、2006年だよねえ。
性的少数者への世間の当たりはあんなに強かったかなあ。
これが1996年なら、
「ああ、確かにこの状況じゃ、知られたくないと思うよね」
って納得できたかもしれないんだけど。



【疑問・不満2:ジョンの問題について説明不足】

いや、もちろん、
世間の眼が、ジョンの同性愛にあんなに冷淡なことについて、
解釈のしようはいろいろあるよ。
例えば、
あれは「本当の『世間』」なのではなく、
「みんなと違う自分を恥じていたジョンから見た『世間』」
なのだ、とか。
※元恋人に「君は自分自身を恥じている」と指摘された時、
 ジョンは抗弁できなかった。
だが、そうなると、今度は、
ジョンがそこまで自分を恥じた本当の理由が気になる。
言い換えれば
「本当の自分を見せたら絶対に周囲に良く思われない」と
思っていた理由、って感じかな。
それでなんだけど、
彼は本当に、同性愛者であることそれだけを恥じていたのか。
偽装結婚の相手を連れて、帰省するシーンがあった。
酒癖が悪くピーチクパーチクやかましいが愛情深いおっかさんと、
ジョンの最大の理解者と言って良い、兄が待っている実家だ。
ジョンは母との関係において、明らかに何か腹に一物あった。
彼女の前夫(ジョンの実父か)のことで、
この家庭は、過去に「何かあった」のだ。
それは、ジョンたち家族だけでなく、
親戚知人も迷惑をこうむった悶着ごとだった模様だ。
ともかく確実に「何かあった」。
時どきこうして一家団らんと言っちゃぁ母が酔ってクダを巻き、
すると周囲がしつこく「何かあった」時のことを蒸し返す。
そしてなぜだかみんなの非難の矛先が、最後にはジョンに。
このお決まりの流れが耐え難くて、ジョンは実家を敬遠していた。
でも、この肝心かなめの部分、つまりジョンの(家族の)過去が、
物語を最後まで追ってみても、さっぱりわからなかった。
※ジョンは学生時代に有望なアスリートだったが
 突然引退したという、謎の経歴の持ち主でもある。
 だがこちらについても、詳しくは語られない。
ジョンと家族のことは、しっかり詳しく語るべきだった部分だろう。
ジョンは明らかに「家族の問題が僕を苦しめる」、と思っていた。
家族関係の悩みなんてドラマとしてありきたりかもしれないが、
逆に言えば、人は誰でも多少なり、家族関係で悩むものだ。
だから、この映画を観る人たちの共感を喚起するためには、
過去に、ジョンが生まれ育った家庭に何があって、
それがジョンにどう働きかけて、彼を苦しめてきたのか、
観る人にちゃんと理解させることが必要だったはずだ。
なのに、最後まで、何一つ、わからなかった。
ジョンに何があってもあまり共感できなかったのは、このせいだ。
泣く人を見ても、泣く理由がわからないんじゃ慰めようがない。

この映画を観る人が、ジョンに心を寄り添わせていくために、
当然必要だった説明を加えることを、監督は、なぜ避けたのか?
多くを語ることなく悟らせる手法を採る映画も、もちろんある。
でもこの映画の場合は、単に必要な説明が尽くされていなかったのだ。
脚本に不備があったと言い切って差し支えないと思う。
ここまでなら説明なしでも観客に理解させることができる、
これ以上薄いと理解させられない、の閾値を見誤った。
または、人に伝えることより、語りたい欲求の方が優ったか。 

 

【疑問・不満3:要らない所で情報過多】

だがそのくせ、この映画は、変な所で説明過剰の感があった。
これは、時代の設定がズレているという最初の話とつながるが、
2016年現在、成長したルパートにインタビューする女性記者が、
携帯電話/スマートフォンが使えず、公衆電話で雇い主と連絡する。
電波が、ルーターが、とブツブツ独り言を言っていた。
不具合でネットが使えないという、言い訳だ。観客への。
なぜ? インフラが不安定、とかそういうことか。
場所がプラハだったのだ。でも、少し調べたが、この年、
プラハに深刻な政情不安や災害の記録は特に見られない。
まあ公衆電話の件はこの際置いておこう。だが、もう1点。
この記者、インタビューの録音にカセットレコーダーを使う。
古くないかな。しかもA4ノート大くらいの、あの巨大なやつ。
オフライン環境に備えて・・・にしては、デカすぎないか。
2016年ならICレコーダーとか、もっと携行に便利なものがある。
手持ちのデバイスのどれもこれも充電が切れている? としたら
それはインフラうんぬんではなく単に記者の不注意だと思うね。
この記者、会社に電話した時、ルパート青年のインタビューを
私にも仕事を選ぶ権利がある的なことを言って断ろうとしていたが、
こんなにだらしないのに、そんなこと言える分際かなあ。
「実はスマホもICレコーダーも充電切れで録音ができない。
 今は取材は無理です、他の人に頼んでもらえませんか」
が妥当だと思うよ、と言うかその程度でここは十分なんだよ。
それを、ルーターが電波がとか不自然な説明を入れてまで、
公衆電話、カセットレコーダーという小道具を使う根拠は。
何としてもそれが必要だったなら、やっぱり、
時代をせめて2006年にずらせば良かったのでは。
2006年でも、仮にもジャーナリストの職にあるような人が
カセットテープとか、どうなのって感じだけど、
2016年よりは、まあまだ納得できないこともない。
良くわかんなかったな~。この場面全体が
何か古い映画や古典的文芸作品へのオマージュであるとか、
または何かの寓話とかなのかなとか、
そこまで考えてみたけど、見当もつかなかった。

そもそも2006年の段階で、コミュニケーションの手段が
直筆の手紙による文通・・・。イヤ、別に良いんだけど、
そうでなくては絶対にダメな理由がやっぱり見当たらない。
1996年の設定にした方が、良かったのではないかなあ。

挙げたらキリがないが、こんな感じで細かい所が気になり、
十分な納得感を持って物語を見守ることができなかった。
スタイリッシュに演出したかったしても説明不足が過ぎ、
観る人たちに理解させたいと、思っていないかのようだ。
それで良いのかなあ。わたしは、それじゃいけないと思う。 

 

【疑問・不満4:文通していたと一言も言わないジョン】

「秘密の文通は、もしかしてルパートの妄想か」
・・・レベルの解釈が成立しかねないほど、
文通をめぐる事実関係の扱い方があいまいだったのも、
良く考えると、この映画のけっこう致命的な問題だと思う。
これが、プライベートな場面でも何でも良いから、
ジョンの口からほんの一度でも、
「実はファンの男の子とたまに文通しててさ・・・」
という告白があったら、話は別だったのだが。
一切なかった。
ジョンが手紙みたいなものを書く姿を映すシーンはあったし、
「手紙みたいなものを書いているジョンを目撃した人」の
証言も(ルパートの手記のなかに)あるようだったが、
ジョン自身の口から「ルパートって子と文通してる」と
いう言葉がただの一度も出てこなかった。
まあ、文通は、あったんだろうけど。
ジョンはそのくらい、自分の本当の気持ちに関わる情報を、
他人に開示することが、まったくできない人だったのだ。
闇が深すぎて手に余るよな、ジョンってキャラクターはよ(笑)。
だが、ルパートは、
文通をめぐる問題が(他にも哀しい偶然が重なったのだが)
結果的にジョンの滅びを加速させる一つのきっかけになったと、
解釈しているようだった。
だから、「文通が本当にあったのか、それともなかったのか」、
少なくとも監督は、この映画を観る人にだけは
確実に知らせておく必要があったと思うのだが、
何せそこが、今ひとつはっきりしない。
なぜだ・・・。
文通と言えば、ジョンが文通のことを公の場で認めてくれず
ショックだった、的なことをルパートが言っていたんだけど、
これも、感情移入して聞くことは到底できなかった。
ジョンだって、秘密の楽しみのつもりだったのに皆に知られて、
裏切られたような気持ちになったと思うけどねえ。
それでもルパートを責めず、むしろ、彼に謝ったんだって。
ジョンは偉かったと思うよ。 

 

【この映画が訴えようとしていたこと】

まあ、いろいろ書いたけど、
それでも、この物語が伝えようとしていることは、
汲み取れなくはなかった。
自分らしく幸福に生きたい、人はみんな、そう願う。
だが人は、「他者のなかで、生きなくてはならない」。
この厳しい条件下で、自分らしく幸福に生きるという
意思を貫くことは、とても難しい。
そういうことだ。
そのメッセージは別に悪いってことはないと思う。

多くの秘密を抱えて自分のカラに閉じこもりすぎたために
孤独を深めたジョン・F・ドノヴァンにとっては、
まだ何者にもなっていない未来あるルパートとの交流が、
大切だったんだろう。
「僕にはできなかったけどこういう人生が送りたかった」
を、ルパートのような子になら、託せそうだから。
ルパートは鋭い感受性と健やかな魂を持った男の子だ。
母に不満をぶつける場面には、感動と言うより驚嘆させられた。
あんなにちゃんと気持ちを言葉にして伝えられる11歳なんて。
神童、と言って良いレベルだ。
しかもセリフ言ってます感がなく、本当にあの子役の子が、
ルパートその人に見える、って所がスゴかった。

ともあれ、
ジョンとかなり良く似た境遇に置かれた子でありながら
ルパートは、自分の本当の気持ちを大切に守り通し、
他者のなかで己を見出す道を果敢に歩んで、立派に成長した。
ジョンが奇しくも最後の手紙に、そうであれと書き残したように。
ルパートの(文通していた当時『未来』であった)現在の姿は、
物語の終局で、きちんと示されていた。
全然、意外でも何でもなかった。別にそこに文句はない。
予想したまんまの結末だな~、と思っただけだ。

 

【ドラン監督の映画は多分こんなもんじゃない】

まあ今となってはさほど気にもならないんだけど、
この通りちょっと、引っかかる点が多くて、
共感したくてもできない映画だったかなあ。
全部が全部、悪い所ばっかりとも決して思わないけどね。

実はグザヴィエ・ドラン監督のファンはわたしの周囲に多くて
『わたしはロランス』(2012年)
『たかが世界の終り』(2016年)
などを薦められているのだが、あいにくまだ観ていない。
この『ジョン・F・ドノヴァン~』が、初めて観る
グザヴィエ・ドラン監督作品となった。
どんな映画なのか期待していたので、
『ジョン・F・ドノヴァン~』について、
このようなレビューを書くことになり、残念だ。

でも、グザヴィエ・ドラン監督の映画の真価が
『ジョン・F・ドノヴァン~』にすっかり出ていたとは
わたしも思いたくないので、
今後は監督の作品を過去のものも含めチェックしていくつもりだ。
個人的には、以下の三つが気になるので、確認してみたい。
まず、彼の映画では『ジョン・F・ドノヴァン~』のような
あからさまに説明のための説明、みたいなセリフが
けっこう普通に出てくるのかどうか。
セクシャルマイノリティの人物を積極的に登場させるのか。
また、「母と息子」または「父の不在」というテーマを
割と頻繁に物語に採り入れているのかどうか。
傾向を知ることができれば、
監督が映画を通して言いたいことが少しはわかるだろうし、
そのために映画をどのように作っているかも知れるんじゃないか。