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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『アイリッシュマン』

 

原題:The Irishman
マーティン・スコセッシ監督
2019年、米国

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www.youtube.com

 

【若返りの映像技術に驚嘆】

デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ぺシの
主要3キャラの、姿かたちの映像表現がスゴかった。
老いていく所なら、どうにでも見せようがあるだろうけど、
若い姿、それも役者の実年齢よりも若い姿を表現するのは至難だろう。
いったいどうやって、彼らをあんなに若く見せたのか。
クローズアップにも耐えるリアリティを確保して。
80に手が届く役者たちが、40歳代や50歳代の自分の姿を
すべて自分の体で演じ切っていた。信じられない!


【2回観たら案外スンナリ】

2回観た。
マフィアの抗争、政府と裏社会、カネと利権、
話が複雑そうで、きっと全然わからないと思っていた。
1回目は本当にその通りだった。でも2回観ると、
不思議なほどするすると頭に入ってきた。
ケネディファミリーとマフィアたちの黒い関係も
キューバ革命の裏事情も、正直言って、知らなかったが、
この映画で少し、学ぶことができたのは良かった。

 

【『労働組合』がパワフルすぎる】

それにしても、産業界の一部門の労働組合が、
中央政府も無視できないほどの発言力を持つなんて。
一流ホテルのパーティールームで大会をやったり、
支部長ひとりのために作られたテーマソングがあったり、
ものすごい盛り上がりようだった。
今の日本じゃ、あんなのとても考えられない。
わたしは数年前、勤務先に未払い賃金の支払いなどを求めるために、
1人でも入会できるNPO法人労働組合に加わったことがある。
その時、わたしの団体交渉を仕切ってくれた組合員の方から
いろんな話を聞かせていただいた。その限りでは、
現在の日本では、一般企業の労働組合も、産業別組合連合も、
これ以下はないというほど弱体化しており、
労働者の権利のために真剣に活動している所はきわめて少ない、
ということだった。
アメリカではどうなのかね。あちらの労働組合も今ではやはり
かつての「チームスター」ほどの活況を呈する所はないのかな。
フランクの老人ホームの、若い看護師の女性は、
ジミー・ホッファのことなんて全然知らないようだった。


【穏健なラッセルが陰険】

スコセッシ監督は、マフィアが登場する映画を良く作る。
彼の描くマフィアは、わたしの眼には陰険に映る。
アイリッシュマン』でも、大の男がヒザ突き合わせて
ひそひそ話す場面が何度もあり、ただでさえ感じが悪い。
しかも話す内容は「人殺しの相談」というのが、さらに最悪だ。
ラッセル・バファリーノが、暴走するジミー・ホッファに
自重しろと最後通告するシーンがあった。これは、要は
「これ以上俺たちの気に入らない動きをしたら殺すよ」だ。
それを、
「俺じゃないが、ある人が君のことを『やりすぎだ』と言ってる」
「俺じゃないが、俺の友人がみんな、心配してるんだよね」
持って回って、イヤな感じだ。
それに、決して自分の口から「殺すぞ」「殺せ」と言わない。
根回しをして、匂わせて、相手に忖度させる。
何だこの男は。気持ち悪い(笑)。
ラッセルは、裏社会で起こる悶着ごとを解決するのに、
比較的穏健な手法を好んだことで有名なのだそうだ。
穏健だか知らないが、わたし全然好きじゃない。
俺がムカついたからお前を殺す、とハッキリ言え。
ジョー・ぺシ最高。最高に気持ち悪い(笑)。


【ジミーは人の言うこと聞きゃしない】

きかん坊でどうしようもないジミー・ホッファを、
アル・パチーノが好演していたおかげで、
それはもう素晴らしくイライラさせられた3時間半だった。
フランクは、あの男に何十年も耐えたのか。えらい。
ジミーを含む4人で、車で移動するシーンがあったが、
空気を読まないジミーがまた、やいのやいのと騒ぐので、
車中の雰囲気が非常にビミョーな感じになっていた(笑)。


【長大な物語のなかに『人の心』】

スコセッシ監督のマフィア映画にしては、
暴力描写が烈しくない印象だった。
(とはいえ少なくとも20人は殺されていたが)
3人の男たちを中心とする複雑に入り組んだ人間関係が
枯れた、控えめの表現で描き出されていく。
エピソードが盛りだくさんのようでいて、
浮かび上がって見えたのは結局、切ない人の心だった。
ここさえ変わればな、と思う所は頑として変わらず、
変わらないで欲しいと願った所に限って変わっていくのが
人の心だね。自分も、他人も。


【人を殺す:フランク・シーランとクリス・カイル】

フランク・シーランは、
もう誰にも自分の心を理解してもらうことができないのだ。
クリント・イーストウッド監督の
アメリカン・スナイパー』(2014年)を観た時も、
クリス・カイルに、似たようなことを感じた。
思えばフランクもクリスも、
もと軍人で、戦場で人を殺した経験がある点が同じだ。
人を殺すか殺さないかの境目を超えて殺す選択をすることは
人にとって何か、決定的なことなのだろう。
わたしが思うに、人を殺すということは、
誰にも理解してもらえない境地にひとりで足を踏み入れることだ。
たとえ死んで生まれ変わっても拭えない、穢れを背負うことだ。
誰かと共謀して行った殺しだとしてもそれは同じ。
すべて、ひとりで背負わなくてはならない。
殺したことがなかった頃の自分には決して戻れない。
もっとも、フランクとクリスは似ているようで違うと、
言う人もいるだろう。
フランクは戦争が終わっても裏社会で人を殺し続け、
クリスは戦争が終わったらもう人を殺さなかった。
その点では、確かにこのふたりは違う。
でも、わたしが思うに、一度でも殺したなら、同じだ。
続けようが、やめようが、ことの本質は変わらない。

老いたラッセルを見ていると、
わたしの感じがそう的外れでもないと思えた。
ラッセルは、教会に通うようになった。
でも、彼は、フランクを誘わないのだ。
「教会に行くけど、一緒にどうだ」とは言わない。
「お前もいつかわかる」。
ラッセルは、感じていたんじゃないかなと思う。
これはひとりで引き受けることだ、
誰かと共有することではない、ということを。


【フランクが欲したもの】

フランクには、はたして何か、欲しいものがあったのか。
若い頃の彼を見ていると、それがまだ少しはわかったのだが。
普通の仕事をしていたのでは望むべくもない金が、
裏稼業なら容易に稼げる。
家族に良い暮らしをさせてやれることが、
やりがいだったのかな、と思えるフシがあった。
副収入を得ようとして、危ない橋も渡っていたし、
稼いだ金を妻に渡す時には、誇らしげな表情だ。
でも彼は、愛娘のペギーに嫌われてしまったし、
家庭には落ち着ける場所を見出せないようだった。
ではフランクにとってのもうひとつの世界である裏社会はどうか。
確かにラッセルには弟同然に愛され、
ジミーには一番の親友として遇されていた。
だが、二人の板挟みとなって良いように使われていると言えば
その通りでもあった。
彼らといる時にフランクが笑顔でいることなどほとんどない。
でもフランクは、彼らの信頼を勝ち得たことを
喜んでもいるようだった。
どういうことなのだろう。


【暴力を振るっても良い】

もしかするとフランクには
ラッセルたちとのつながりが、必要だったのかも。
それがフランクにとって幸福ではなくても。
なぜなら、わたしが思うにラッセルやジミーは、
フランクの内なる暴力性に価値を見出してくれた。
身もふたもない言い方をすれば、
彼らはフランクに、思いっきり暴力を振るわせてくれた。
元もとの資質も多分に関係しているのだろうが、
従軍体験において、彼の暴力癖は完全に覚醒してしまったのだ。
それはフランク自身にも、どうしようもなかったのでは。
人が血まみれで苦しむさまを見るのが愉快でしかたなくて
それを追求することが人生のすべて・・・などといった、
偏執的な所まで到達していたようにはさすがに見えなかったが、
少なくともフランクの中に根ざした暴力への性向は、
例えば「数日に1回無性にタバコが吸いたくなる」的なことと
同程度くらいの依存性を帯びていたのではないか。
それは、本人にどうにかできるものではなかった。だから、
ラッセルやジミーとの関係はその意味でぜひとも必要だった。
彼らはフランクの暴力性を疎まず、むしろ重用してくれた。
暴力を振るってくれよ、強いお前に居て欲しい、と言ってくれた。
フランクは、ラッセルたちといる時に「幸福だなあ」とは
思っていなかったのかもしれないが、
彼らとの関係がなければ、生きることが難しかったのだと思う。
哀しいことだが、暴力性もまた、フランクという人を形づくる
不可欠の一部となってしまっていたからだ。
ただ、フランク自身にはそんな明確な認識はなかっただろう。
俺の内なる黒い欲求が、裏社会との絆を欲している、などと
省察する性格には見えない。


【家族も裏社会も必要】

一方で、フランクは若い頃も晩年になっても一貫して
家族との関係がうまくいっていないことを哀しんでいた。
フランクには、家族も、ラッセルやジミーとの関係も
どちらも必要だった、ということだと思う。
家族を愛せる自分でいたいし、
暴力的な世界にも、抗いがたく惹かれてしまう、
とでも表現した方がより正確かもしれない。
切ないのだが、本当にフランクには両方が必要だった。
だが、結果的にフランクと家族の関係は修復困難なレベルで壊れ、
ラッセルやジミーたちはみんな、フランクを置いて去った。
両方必要だったのに、どちらからもはぐれてしまったのだ。


【土葬の理由:ワンチャンスはあるか】

フランクは「部屋のドアをいつも少しだけ開けておく」
という、かつてのジミーの習慣を受け継いだ。
ジミーは人の恨みを買いやすい立場だったから、
この習慣は身辺の用心のためだったのだろう。

ホテルで、フランクの寝室に通じる扉を

半開きにしたのは、

「お前のことを信頼しているよ」の

印だったかもしれないが・・・。

だがフランクの場合はどうだろうか。
彼は、死後、土葬にしてもらうことを希望する。
「死んではいるが終わりの感じがしない」からだと言う。
また、晩年にはラッセルと同様、信仰に親しみ、
神父と一緒にお祈りをする時間を持つようになる。
だが、傷付けた人たちに謝罪をしてはと薦める神父に
「そんなことできるわけないだろ」。

(実際のセリフは『そんな電話かけられるわけないだろ』だ。これは、前の方のとあるシーンを受けたセリフなので、説明が難しい。気になる方は、映画を観て確認してみていただきたい)
ものごとが完全に終わってしまうこと、
閉じてしまうことを避けたい、という願望が見え隠れするように思う。
自分の気持ちをペラペラ話すタイプの人物ではないので
これはわたしの推測だが、
「いつか、正しくチョイスできる時が来るかもしれない」
「その時こそは、ヘマはしない」
そう思っていたいのかなと。
何を正しく選ぶのか。あえて言語化するならば、
自分が住まうべき世界、だ。
でも、先に述べたことだが、
わたしが思うに「人を殺す」ということは、
誰にも理解してもらえない境地にひとりで足を踏み入れることだし、
たとえ死んで生まれ変わっても拭えない、穢れを背負うことだ。
哀しいのだが、命がまためぐったとしても、
フランクは変われないんじゃないかな。

わたしは人を殺したことはないが、
もう誰にも自分の本当の気持ちを語ることはできない、
という感じは正直言って、よくわかる。
だからひょっとして自分もフランクみたいな感じに
死んでいくんじゃないかな、とか思ったりした。