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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ミッドサマー』

※鑑賞後にお読みくださいますようお願いいたします※

原題:Midsommar
アリ・アスター監督
2019年、スウェーデン・米国合作

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くそ~ 何なんだこの映画は~。
スゴイ~。
超カッコイイ~。

観たこともないような展開の連続だったのに、
どこか懐かしいような、ずっとこれを待っていたような、
長い間会いたくても会えなかった人と会った夢を見ているような、
観ているうちにそんな気もしてきた。
探ろうとすればするほど逃げていくたぐいの感覚だ。
直感でしかないが、あえて言うならばこの物語は
わたしの「前世」とか、何かそういう系の、
意識外の領域に到達してきていたのかもしれない。

衝撃的な事件が次々と起こるので、心が乱された。
とても複雑な映画だった気がする。
いや、いろんな視点から観て思いをめぐらすことができる
多層性を備えていた、と言うべきなのかも。
露悪的としか言いようのない過激なグロ描写が多かった。
むごい死に方をした人の顔面が
おもいっきりクローズアップされたのにはまいった。
ミートタルト、それ、何のお肉で作ったんだ! 言ってみろ!
いや、ダメだやっぱり言わないで! お願いします!
クリスチャンのグラスだけ飲み物の色が違いますけど!
それに、クマさんのところ・・・。
いやあ・・・笑って良かったのか、アレは。
まあ挙げ出したらキリがない。
何てものを見せてくれるんだ!
普段使わない価値観の枠組みで観ることを要求されるので、
放っておくと頭がかなり混乱した。
こういうのこそ、まさにカルト映画だと思う。
価値観の転換を(実験的に)迫られるのだ。
知っているのと別の世界をつきつけられるのだ。

だが、全然ついていけないということはなかった。
いろいろな視点から観ることができると述べたが、
わたしの場合は、ヒロインのダニーの視点で、
「ダニーが、新しい人生を選び直していく物語」と
とらえて観ていった。
その一点においては、シンプルに理解できた。

ラストの、ダニーの表情は気になったよなあ。
狂気の果ての愉悦に、身を任せてしまったんだろうな。
彼女はあのまま、共同体に同化していくのだろう。

アメリカの、ごく普通の女子大生が、
縁もゆかりもない北欧の、宗教的コミューンの一員となる。
人生の一大転換にしても、ドラスティックにもほどがある。
これほどまでに劇的に人生の舵を切ってしまった人を、
ダメだよ、こっちに帰っておいで! と説得できるか?
よほど魅力的な環境を整えたうえで迎えるのでなくては、
到底無理な相談だろう。
なぜなら、その人が舵を切ったのは、おおざっぱに言えば
「今までの環境が不満だったから」なのだ。

1年前に家族全員を失ったダニーには、帰る場所がなかった。
彼女は、独りぼっちになることを恐れ、不安定になっている。
今、ダニーをこれ以上悲しませるようなことをするのは、
非常に危険・・・というのは、誰が見ても明らかだった。
ダニーは、安心して寄りかからせてくれる人を求めていた。
頼みの綱は、恋人のクリスチャンだ。
でも、ふたりの関係はうまくいっていない。
繋ぎ止めようとすればするほど、彼の心は離れていく。

ダニーは、ホルガの村にやってきて3日目の夜、
男たちが自分を置いて逃げていく、という悪夢を見る。
独りぼっちになることが、夢にまで見るほど怖いのだろう。
でも、よくよく考えると・・・なのだが、
ダニーの、独りになるのが怖いという気持ちの目的格は、
「クリスチャン」ではなかった。
他の誰でもなくクリスチャンに置いて行かれるのが怖いなら、
あの悪夢は「男たちが逃げ出す」のではなく、
「クリスチャンが逃げ出す」という内容になるはずでは。
でも彼女の夢の中で、クリスチャンの顔はちっとも見えない。
おそらくダニーは、必ずしも、
「クリスチャンに」去られるのが怖いわけではないのだ。

何人かの人が、異口同音にダニーに尋ねる。
「あなたは本当にクリスチャンに守られていると感じるか」
ダニーは、うまく答えられない。
「ただひとりクリスチャンだけが私を安心させてくれる」
とは、一度も言わない。でも、不思議なことに、
クリスチャンが自分を安心させてくれないことを、
ダニーがそんなに不満に思っているようには見えない。
そんな中、ホルガの異様さについていけなくなった青年が、
恋人の女性を置いてきぼりにして村を出て行ってしまう、
というできごとが起こった。
この一件にはダニーもそれなりに動揺していたが、
彼女は、そばにいるクリスチャンに聞こえよがしに
「あなたも同じことをしそう」とつぶやいただけで、
その口調は、意外なほど冷めたものだった。
あれっ、結構落ち着いているんだな、と思った。
ただでさえ不安定になっている所にこんなアクシデントが起こったら、
ダニーはパニックを起こしてクリスチャンを責め立てそうなものでは。
あなたはあんなことしないよね? 私を置いて行ったりしないよね?
でも、ダニーはそうならなかったのだ。
やはり、突き詰めて考えると、
ダニーが必要としていたのはあくまでも
「心行くまで依存できる存在」であって、
「クリスチャン」ではなかったことになると思う。
だが、長年、恋愛関係にあるのだし、
「私はクリスチャンを愛していて、彼が必要」
という気持ちを手放すのが難しいのは当然だ。
その考え方をやめるのは、なかなか難しいだろう。
欠落を埋めてくれる新しい出会いでもないことには。

思うに、ダニーは、ホルガに滞在することを通して
古い考えを捨て、新しい考えを選び取ったのではないか。
古い考えとは、
「私が必要としているもの=家族=クリスチャン」
新しい考えとは、
「私が必要としているもの=家族=ホルガ」
「必ずしも必要でないもの=クリスチャン」
だ。
ニーズのすべてをクリスチャンで賄おうとしてきたが、
今やダニーは、ホルガという家族を獲得したので、
これからは、「必要でないもの」という役割だけを、
クリスチャンに振り分ければ良くなった。
「家族」と言うと、今のだいたいの社会規範では
すなわち血縁関係、というイメージだけど、
原初的な宗教観に依拠して構築された共同体では、
生命のサイクルという運命観を共有できる者こそが
すなわち家族なのだろう。
だからホルガの側にしてみれば、
新しく迎える家族が、外部から来た者でも、かまわないのだ。

いつからだったかはっきりとは指摘できないが、
ダニーはホルガで過ごすうちに、少しずつ
この共同体の中にいる自分を肯定していき、
同時に、自分がクリスチャンを必要としていない事実を
受け入れていった。
それはクリスチャンとマヤの行為を目撃したことで決定的となる。
メイクイーン(豊穣神のようなものか)に選ばれたダニーが、
生贄に誰を選ぶかは、もう答えを聞かずとも明白だった。
もちろんその選択には、痛みが伴ったように見えた。
長い付き合いのなかで育んできた情があるから。
でも、生きていくためには避けられないチョイスだ。
この1年間というもの、ダニーはほとんど天涯孤独だった。
彼女はみじめそのものだった。
恋人からも、その仲間たちからさえも疎んじられているのに、
愛されていることを確認しようとして、なおもすがりつく。
恋人の機嫌を損ねないように何十歩も先回りして気を回し、
そのくせ、何でもないわ、という顔をしようとしている。
はたで見ていても、みじめったらしいったらなかった。
そんなダニーが、ホルガでは女神扱いされ、皆に必要とされた。
悲嘆を共有してくれる心優しい仲間が、たくさんできた。
今、もし、この共同体で生きる道を選ばなかったらどうなるか。
自分を愛してくれる人なんて一人もいないアメリカに帰り、
アパートの薄暗い一室から、独りで全部やり直しだ。

ホルガは、女性優位の社会構造が確立された共同体だ。
尊崇の対象が、北欧神話の始祖神ユミルにあるようだから、
それに沿ってシステムを構築すれば当然こうなるだろう。
女は、子、命を生む存在だ。女から生まれた女が、
いずれ成長して男を迎え入れ、種を宿して、また子を生む。
生きとし生ける者の生は、女によってめぐっていくのだ。
大いなる生命のサイクルという観点で見ると、
男は、必要でない・・・ということはないにしても、
女に種を蒔くこと以外、これと言って「役割」がない。
わたしの言い方はザツかもしれないが、まあ、そんな要領だ。
そんな思想形態に貫かれた社会構造の中で、
クリスチャンはマヤに種を蒔き、
しかも、メイクイーンに捨てられた。
ホルガにおいては、これすなわち「完全に用なし」だ。
つまり、クリスチャンは・・・。

こりゃスゴイことになったなあ・・・と思いながら
成り行きを見守るしかなかった。
クリスチャンにはお気の毒としか言いようがない。
でも、当のクリスチャンは、共同体の長と話をしたあたりから、
「観念しました」って言う表情を浮かべていた。
この共同体にいる間はもう、流れに身を任すしかねぇな、
何を言っても通用しねぇんだもんな、という感じだった。
彼はジョシュほどまじめに学問をおさめていなかったので、
自分の最終的な運命までは予測できなかっただろうが、
「もうどうしようもないのだ」ということくらいは、
彼なりに察知していたと思う。

それにしても、
クリスチャンの眼に映るマヤは、息をのむほど魅惑的だった。
全篇にわたって、凄絶なまでに映像が美しい映画だったが、
この、マヤのシーンは、特に良かったな。

共同体の者たちが、周到にダニーをノセていったことは確かだ。
勘所を押さえて、いくばくかのドラッグの力もかりつつ、
丁寧に、丹念に、選択肢を摘み取って追い込んでいき、
ダニーが共同体にとって望ましい選択をするように仕向けた。
このやり方は、どう理解すれば良いだろうか。
ズルい、のかもしれない。
物語を観ていた人の中には、こう思った人もいただろう。
「クスリを使うなんてただの洗脳じゃないか」
「こんなものは、救いとは言いがたい」
「ヤクを盛られて、優しい人たちに慰めてもらって、
 わかるよ! と一緒に泣いてもらって癒やされて、
 ファミリーをゲットして、良かったね・・・
 そんな結末は安易そのもので、受け入れられない」
「どこぞの悪徳宗教か!」

だが、この物語のなかでダニーが選び取った道が、
観た人本人の価値観に照らして「正しくない」ものだとしても、
そのことと、映画の価値とは、何の関係もないだろう。
映画は「正しい」ことを伝えるためのものではないのだから。

わたしは、ダニーの視点で一面的に物語を把握したにすぎない。
もっと大きな視点でとらえ直したら、
この映画の包括的なテーマも見えるのかもしれない。

ひとつ確実に言えるのは、この映画が、
現代文明社会の一般的な価値観とはまったく別(真逆?)の
パラダイムを提示したものだ、と言うことだ。

現代の欧米ではキリスト教的宗教観が支配的なはずだが、
ホルガは、はるかキリスト以前の、神話に拠った共同体だ。
キリスト教から見たら、未開の野蛮な宗教ということになる。

わたしたちは、
「広い世界に踏み出して、個人の力をのびのび発揮しよう」
的コンセプトを、進歩的で開放的なものだとして受容する。
だが、ホルガでは
「小さな共同体の中で、一つのことのために皆で協力しよう」
が徹底されている。

わたしたちの社会はどうしたって男性優位なのが現実だが、
ホルガは完全に、女性優位のシステムで回っている。

全部、反転していた。
しかもホルガはそれでうまく機能していて、
ダニーはそのホルガに救われる。
現代の思想の支配的潮流にあからさまに逆行する価値観を
あたかも「良いもの」であるかのように提示していたのが
『ミッドサマー』という映画だったのだと思う。
※まあ、わたしがわざわざ言うことでもないとは思うが、
 「監督が『みんなホルガの人みたいに生きましょう!』
  と本気で言っている」
 わけでは断じてない、ということには注意が必要だろう。

幸福のようには到底見えない幸福というものも
この世にはあると思う。
付与された条件下で何に喜びを見いだすかは人それぞれだ。
誰にも否定はできないと思う。

『ミッドサマー』を気に入るか嫌悪するか、
はたまた特に何も思わないか・・・は、観た人それぞれだ。
でも、好きor嫌いを判じてハイ終わり、ではなく、
好き嫌いを飛び越えた所でこの映画をとらえ直してみて、
いったいこれって何だったのかな、と
考えてみるのも悪くないのではないかな。