une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『きみの鳥はうたえる』

三宅唱 監督・脚本
佐藤泰志 原作
2018年、日本

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好みではないが、すごい良作だなこれは、と感じた。

原作小説は未読のまま観た。
でも映像だからこそのことを、わざとらしくない範囲内で
いろいろ盛り込んでいる感じがして、良かった気がする。

ほとんど何も起こらない物語だからなのか、かえって
登場人物たちの小さな行動や口調などに注意が行きやすく
そこにいつも何かしら「おっ」と思わされる所があった。

・職場の同僚にいきなり襲いかかる「僕」の鬼の形相が
 鏡ごしに見える構図になっていたのが怖くて良かったし、

・サチコのひとつひとつの細かな行動も、なんか良い。
 すれちがいざま、ヒジにタッチする、とか
 約束をすっぽかされて本当なら怒って良い所をそうせず、
 「これ食べる?」といってランチをそのままゆずるとか
 なんなんだそれは・・・なぜ君はそれをするんだ・・・
 謎すぎる感じが、何か個人的に好きだった。

・こと「僕」とサチコの関係に関してはすべて、
 サチコからの投げかけがあって初めて、事態が動く。
 それがなければ本当に最初から最後まで何もない。
 
・朝早く、母の見舞いに行くために静雄が支度をしていると
 「僕」が無言で、長袖のきれいなシャツを出してよこす。
 多分、自分の手持ちの服を貸してあげたんだろう。
 おっかさんに会うのだからマシな格好をして行け、みたいな。
 何かああいう所も非常に良かった。


「すぐわかること」「速いこと(インスタントなこと)」が
すなわち「良いこと」のようにとらえられやすい昨今だが、
それで考えたらこの映画は「悪い映画」になると思う。
登場人物が、あまり自分の心の中を語ってくれないし、
表情もほとんど変えないので、いろいろわかりにくい。
何回か、「僕」や静雄による独白が挿入されるのだが
「そういうこと考えているのね」と思わせてくれる独白ではない。
むしろそれを聞くと余計に謎が増えて「え、結局なんなの?」。

わかりにくいと言えば、この映画の登場人物はみんな
見た目の印象と中身が、かなり違う。
地味子さんに見えるサチコが、実は恋多き女性だ。
不誠実な奴だとみんなに言われてる「僕」が実はそうじゃない。
静雄も無気力、自堕落に見えて、意外といろいろ考えている。
「『持ってる』大人の男」、「実直な勤労青年」、
サブキャラたちのそんなイメージも、
すべてがひっくり返される。
わたしなんかは、だからラストの
「僕」とサチコの急速展開に
「え、そういうこと考えてたの君!!!」
って、すごく驚いた。
結果、迷わず即リピート鑑賞した。観返してみると、
ちゃんと「そういうこと考えてる感じの『僕』」が
そこかしこにきちんと提示されていた。
思い付きの演出ではなく、
ちゃんと計算のうえでお膳立てされているのだ。

サチコを演じた石橋静河という女優さんが良かった。
とにかく自然。どこか色っぽい。
ダンサーでもあるそうで、
クラブで踊る姿がのびのびとして、とても素敵だった。
また、背中越しの着替えのシーンが繰り返し入るのだが、
白い肌と、ムリなく付いたしなやかな筋肉がすごく魅力的。
職場の後輩に「(『僕』との)セックスはどうでしたか」
と聞かれて「ちょうど良い」と答えるのとかちょっと参った。

サチコと静雄の二人で、
泊りがけのキャンプに行く展開があった。
その肝心のキャンプのシーンがまったく描かれなかった。
二人が帰宅した所から、そっけなく話がつながれていった。
このやり方には「おっ」と思った。
キャンプに何日間行っていたのかもわからないし。
出かけていた間、この二人に何があったのかなと
想像をめちゃくちゃ掻き立てられた。

「僕」は、他者に期待せず、他者にあまり興味がない。
他者との間に関係のようなものを持ったとしても、
その関係に名前を付けることを極端に嫌う。
自分の行為が他者に何かしら作用する可能性がある、
という当たり前のことさえ、意識の外のように見える。
実は静雄にもサチコにもちょっとそういう感じがあった。
(「僕」が一番、その感じが顕著ではあるのだが)
他者とコミットしたがらない理由を仮に彼らに聞けば、
「縛られたくない、身軽でいたい、自由でいたい」
と答えるのかもしれない。
でも「自由でいたい」と思っている彼らでも、
たまにはやっぱり、自分の気持ちや他者との関に
名前を付けたい、と思うことがあるのだろう。
友達なのか、恋人なのかとか。
悔しいのか、うらやましいのかとか。
名付けの行為とひきかえに、
自由の持ち分をいくらか手放すことになっても。
あの「僕」とサチコのラストシーンは
多分彼らの「名付けの行為」を描いていたんだろう。
けど、
「そうです、そして自由と引きかえに責任を持つ、
 それこそが『大人になる』ということなのです!」
などと言った評価のしかたをするのは
この物語にはそぐわない、と感じる。

「僕」が最後にあんな行動に出て、
「大人になった」からといって、
今後の「僕」が、まるで生まれ変わったように
何ごとにも誠実で責任ある行動を心掛けるようになる
・・・そんな展開は、ありえないだろう。
人の心とは、歳がいくつになってもまあ、
あのくらい散発的で一貫性を欠いて当然、くらいに
思っていた方が良いのでは。
「『若さ』って、無くなっちゃうものなのかな」
というセリフがあったので、
「僕」も、静雄も、サチコも、もしかしたら、
厄介な世事と距離を置ける期間を極力引き延ばしたい、
社会の面倒なこととは無縁の解放された存在でありたい、
的なことを多少思っているのかもしれないが、
それでも、
薄汚れた建物の壁や、空を散らかすように錯綜する電線や、
酔っ払いが吐いたあとやら何やらで構成された、
あの街の中に、ちゃんと彼らは組み込まれていて、
全部、彼らの暮らしの一部だった。
「僕」たちがそれを望むか否かに関係なく。
入院した母につきそう静雄は、
「三人で過ごした部屋のにおい」だけでなく
「街のにおい」も「思い出そうとした」ものの、
「どうしても思い出すことができない」・・・と語る。
もし彼が、本当に、
社会と遮断された所でいつまでも好きに生きていたいと
思っているのならば、
「街のにおい」までも思い出したいのに、できない、
という表現は、出て来なかったのではないかと思う。

だから
「彼らは自由でいたくて、
 それは『青春』、ということです。
 自由とひきかえにしても、何かに対して責任を持つ、
 それは『大人になる』、ということです」
みたいな、とらえ方はしたくないかなと思う。
そんな子どもと大人の二元論みたいな
単純なことじゃないのだ。

こんな感じの人間関係を、体験することが
人には時々あるものだ。
体験していれば、この物語にも共感しやすいと思う。
でも「体験した方が良いかどうか」で言うと、
それはわたしにはわからない(笑)