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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ライオン・キング』

 
原題:The Lion King
ジョン・ファヴロー監督
2019年、米国

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【この映画は深刻に病み付いてる】

この夏リリースの最新型超高画質テレビの
コマーシャルを2時間たっぷり見せられたような感じ。
映像表現の質の高さは、本当に驚愕の一言だった。
だけど映画としては全然おもしろくなかったのだ。

というか 気になってしょうがなくて
物語以前の問題です、ってことがあった。
基本的な、スタンスの部分がおかしくないか?ってこと。

ややこしいものが出来上がっちゃってるよ。
で、作り手がそのことに気づいてないっぽい。
そこが怖い。
しかも思えばそれって
ライオン・キング』に始まった話じゃない。
何を考えて作ったらこうなるのかね。
おかしいと思わないんだろうか。



【リアルだけどリアルじゃない】

映像が美しかっただけにかえって、
・・・ということなのかもしれないが、
不気味で醜悪な映画、と感じた。
虫唾が走るんだわ。
動物たちを使って、
しかもそこにいない動物たちを「作って」まで使って、
なぜ「人間の世界」を描こうとするのか。

そんなこと言ったら、
アニメ映画版でも、劇団四季のミュージカル版でも、
同じことを感じるべきなんだろうな。
擬人化した動物を主人公に据える物語は多い。
どれにも同じ感想を抱いてしかるべきだろう。
そのことは理解しているつもりだ。

だけど、なんかこの『ライオン・キング』を観てたら
特に、特に鼻について、気持ち悪かった。
動物に、人間のことをさせていることが。
しかもフルCG。そこにいないものを作った。

リアルさがかえって問題なのかな。
しつこいようだけど、この映画の
動物の映像のリアルさときたら、
そりゃもう恐るべきレベルだ。
過剰なまでにリアル。
フンのにおいまで漂ってきそうなほど。
なのに彼らの行動にはリアリティがない。
だって、動物がすることじゃなく、人間のことをしてた。
赤ちゃんを産んだばかりの奥さんライオンを、
だんなライオンが、頭をすりすりしてねぎらう。
未来の王たる子ライオンが生まれなすったというんで
サバンナじゅうの動物たちが集結して拝謁を賜る。
「ダディの足あとに比べたら僕のはちっぽけだなあ」
そんなようすで足あとをしげしげと見おろす子ライオン。
王弟ライオンはアウトサイダーのハイエナ連中を扇動し
クーデターを企てる・・・。



【動物は動物で忙しいんじゃないですかね】

わたしの表現はヘタだ。うまく伝えられてない。
誤解のないようにもう少し説明を試みたい。
「ケモノ風情が人間みたいな高度なことを
 考えたり、やったりするわけないだろ」
と言いたいわけじゃないの、わたしは。
むつみ合うライオンの夫婦は、いるだろう。
現行のボスを引きずり降ろそうとする、これも、
動物たちの世界においてありえるだろう。
こたびお生まれのお世継ぎのご尊顔を拝し
恐悦至極に存じ上げ奉りまするハハーッ!!
みたいなことも、百歩譲って、もしかしたら、
本当に行われているのかもしれない。
だが、
この映画でやっていたみたいにやるかどうかは、
わからないと思う。

「がんばったね!」って時、
人間は、相手を抱きしめたり、肩を優しく叩いたり、
キスをしたり、頬をすりすりしたりする。
そういうもんだというお互いの了解がある。
他人がしているのを見たときも、もちろん
「相手をねぎらっているのだな」とわかる。
でもこれはあくまでも、「人間であれば」。
動物に人のお約束をお仕着せるのは、どうなのか?



【ヌーの大群が物語る、スタンスの病理】

物語の主役をつとめる動物たちはみんな
やることなすこと、人間すぎる。
動物であることの必然性が見当たらないほどだ。
(動物が人語を発してる時点でおかしいんだが)
人間すぎる動物たちを見てると、気になる。
これほどまでに人間的な動物の世界の物語で
ヌーの暴走がなぜ起こるのか。
サバンナの王を足蹴にしておいて気づかないほど
夢中になって走りまくるヌーがなぜいるのか。
人間だって警察署の前では女を犯さない理性を持ってる。
人間みたいな動物の物語を作るならば、
「ここでこれをやったらマズいからやらない」っていう
最低ラインを動物たちが知ってる設定でなくては。
砂埃をまきあげ爆走するヌーの大群は
一言だに発さなかった。あれはただの動物のヌーだ。
なぜ走ってるんだかわからないけど脇目もふらず走る。
人間にとって非常に正しい、動物の在り方だ。
人の知性を備えた獣と備えない獣と、
「プライドランド」には両方いる設定か?
その設定めちゃくちゃおもしろいではないか。
そこ掘り下げていこう。シンバもスカーもどうでもよし。



ダライ・ラマシステムが導入されてたら多少良かった】

そもそも、「サバンナの覇者はライオン」
その発想からしてイージーだ。
とか言ったら元も子もなくなるから申し訳ないけど、
でもイージーだ(笑)。
なぜライオン。そしてなぜ世襲
そうだなあ・・・
たとえば、ダライ・ラマみたいに、
次の王が「サバンナのどこかに生まれる」設定だったら、
いくらか納得できたかもしれない。
だって「サークル・オブ・ライフ」。命が循環するわけだ。
なのに輪廻転生的な死生観はないのか?
次はイボイノシシ。水鳥。蝶。アリクイ。
何であろうと、次期王の印を体のどこかに持って生まれる。
ヒヒの長老さまがそれを確かめて
「疑いなき儲けの君」と認定する。
で、今回はたまたまライオン。
そんな流れだったら、ふーんって思ったかも。
シンバが王でなくちゃならないというその一点に限っては。


【『狩りのルール』、おかしい】

狩りのルールを定めることが王の仕事、みたいな
設定がうかがえたけど、イヤ、何それ。
無計画に食い散らかしたら動物がいなくなるから
食べ過ぎないようにしましょうってのか。
食われる側もちゃんと批准したんだろうな(笑)
「このくらいまでであれば食われることに同意します」。
イヤおかしいおかしい。まじめに考えてみると、
食われる側は、一定数の同胞を貢物として差し出す。
王はそれを受け取る代わりに、国の治安を維持する。
そういう協定なんだろうなってことが見えてくるわけだが、
ハイエナとライオンどっちがヤクザだって話だよ。
ヤクザなら、みかじめ料に金をとるんだろうが
動物の世界だから金っていう概念がないので
差し出すものは命ってことになるわけだ。わかるよ。
光さす場所と陰になる場所両方あって社会です、
この現実をそれとなく伝えている(のか???)点は
評価しても良いかなって気がするけど、
でも、それは本当に、「人間の社会」の話だから。

シンバはヴィーガンとしての食生活を選択していた。
狩りのし過ぎを戒めるならば王こそ率先して
肉食を控えれば良いのではないか。
どんな設定でも良いけど、やるなら「ちゃんと」やってくれ。


【死体で人形劇やってるみたいなタブー感】

話が脱線したけど、
王とか、お世継ぎが生まれておめでとうとか、
日陰者を抱き込んでクーデターとか
全部、人間のすることだ。
CGの動物にやらせて何になるのか。
本物の動物たちの世界で起こることをカメラでとらえて
まるで人のようだ、と勝手に感心するならまだしも、
なぜ、そこにいない動物の映像を作り出してまで?

動物は動物のすることを日々しているはずだ。
人間には理解しにくいのかもしれない。
でも、彼らには彼らの必然と営為とが必ずある。
彼らの営為はこれほどまでに語るに値しないものなのか。
そこにいない動物を作ってまで人間のすることをさせる。
人の死体を墓場から持ってきて人形劇、ってのと
大差ないくらい、おぞましくはないか。

「サークル・オブ・ライフ」つまり、
生き物はそれぞれの役割を果たし、命はめぐり、
かくして営々と共存するみたいな歌だ。
だが適者生存のシビアにして合理的な機構、
捕食する者とされる者、
同じことでもあの子は死んでこの子は生きるめぐりあわせ、
偶然なのに必然としか思えないバランス、
それは、真の大自然の不可思議に捧げる頌歌だ。
CGハリボテランドに贈られるべきじゃない。

この世には人間に理解できることしか起こらない。
そんな不遜なスタンスでもない限り、
この映画のような代物は作れないのでは。

テレビCMの「お父さん犬」なんかカワイイもんだな。
本物のワンコがワウワウとお口を動かしているところに、
人の声を当てる。
人間のキャラにも属性のシャッフルが発生し人獣平等。
大したことをしようとしていない点で謙虚。
けっこうなことだ。

 


【ムファサ、器ちっさ!】

シンバの父は、できた王さまみたいに言われていたけど、
器が小さいよ。
王子のお披露目に顔を見せなかったからというだけで
いじけ虫の弟が引きこもってるところへやってきて
なぜ来なかった、と文句をたれる。
兄貴なら大目に見てあげたらどうか。
「俺にだって王になる資格はあるのに」?
弟がいじけている理由がそれだけじゃないことは
観ていれば明らかだ。
かつて王妃をめぐって兄弟間に悶着があったようだ。
王妃が選んだのは兄だった。
スカーのわだかまりはそこにある。
いい大人が惚れたメスの1匹や2匹でいつまでも
イジイジしてるなんて我ながら恥ずかしい。
そんなこんなで気持ちがこじれた。
さしずめ、そんなところだ。
その程度のことも汲んでやれない兄貴だから
クーデターなんか起こされる。
恵まれた者は鈍感だ。
考えてみれば、一見繁栄しているようでも、
心弱い者に冷淡で、偏狭で、つまらん王国ではないか。


【大人は何かと『見える化』したがる】

目に見えるものとして、何でもクリアに表現しないと
気が済まない的なアレ、いい加減どうにかならんのか。
そういう映画ばっかりじゃないと思うし、
日本も似たようなものかもだけど、
欧米さんが作るファンタジー映画には
どうもそういうのが多い気がする。

王の責務を果たすべき時が迫るも、
偉大な父王のようにやる自信がなく、迷うシンバ。
ダディ、僕はどうすれば。
そこに名付けの長老さまが現れ、
「王はあなたの心のなかに生きている」。
シンバは夜空を仰ぎ・・・

息子よ、わたしはいつもお前を見守っている。
・・・突如、お空がしゃべりだす!!
これには引いた。

雲間から急に光とか差すんじゃありません!
いいからちょっとお空は黙ってなさい。
水面に映る自分の顔が在りし日のお父さんに生き写し、
僕の心のなかにダディはいる!迷いが晴れるシンバ
・・・感動的なシーンが直前にちゃんとあった。
そこにとどめてくれれば良かったのに。

5万歩譲って雲間から光が差すのは可とする。
だがシンバにはただ空を仰がせておこうよ。
言葉はいらない。父子の魂の静かなる対話。
お空にしゃべらせたら台無しだ。

思えば『ネバーエンディングストーリー』(1984年)。
バスチアンがファンタジーエンから
石ころか何かを持って帰ってきたばかりか、
いじめっ子退治にファルコン召喚。

新しめのところでは『ドラゴンキングダム』(2008年)。
弱虫の男子高校生が異世界で武術を会得する。
覚えた技が元の世界に戻ってきても健在、
いじめっ子をボコボコにして撃退しちゃう。
「できると思ったらもうできなくなってて
 やりたい放題殴られて鼻血出しちゃうけど、
 でも心は成長してて、勇気を出して戦い、
 骨のある抵抗を見せたことでいじめっ子に一目置かれる」
そのくらいにしておけば良いのにカンフー炸裂。
ジェット・リージャッキー・チェンの共演、
今でも観返す楽しい映画だが、このオチには気が抜けた。

証拠を「見える化」しないと納得できないやつだ。

この世は、見えるものだけでできてない。
生命のサイクルの峻厳は目に見えない。
たからかに謳ってそれを肯定しておきながら
死んだ父親にお空から語らせないと気が済まない。
ちぐはぐで、不器用だ。



【可能性を信じてないからこうなるのかも】

どうしてこうなる?
何を考えて作っている?
おかしいと感じないのか。
おかしいと思わせて問題を提起する高度な手法か?
ライオン・キング』は、そういう風じゃなかった。
自己批判的な姿勢はまったく感じられない作品なのだ。

ライオン・キング』も
ネバーエンディングストーリー』も
存在してくれてて別にかまわない。でも、
この手の映画を観て育つ子どもたちには、悪い気がする。
本当に大切なものは目に見えないかもしれない
ということをちゃんと伝えられる物語を作るのが
わたしたち大人はヘタみたいだ。
多分、信じてないからだ。
本当に大切なものは目に見えないかもしれない、
ということも、
それを理解する力を子どもが持っている可能性も、
どちらも信じることができていない。
心の力を誤って見積もっているから、
「夢じゃないよ」って見える化してあげないと
わかるまい、ってなっちゃうのでは。
一方で都合の悪い真実は
(「プライドランドは王という名のヤクザのナワバリ」)
言わなければバレやしないと、隠したつもりになっている。

生きる上での基盤がまったく違うのに
動物を人間ドラマのためのお人形としてひっぱりだし
ムリヤリ関節をボキボキねじまげ言葉をしゃべらせた。
それで人の偽善や欺瞞、救いようのない無知という
馬脚をあらわしてしまったのだ。

物語の在り方として、完全にしみったれている。
思索も、夢も、ロマンも足りないということだ。
物語がしみったれているなんて最悪だ。



【良い所もあったよ】

赤ちゃんシンバがカワイイ。
そこは良かった!