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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『イエスタデイ』

 


原題:Yesterday
ダニー・ボイル監督
2019年、英

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スキマ、スキマを見計らっては何度となく観に行っている
『ジョーカー』の影響か、
心の荒みがしだいに深まってくるのを感じているなかで、
(だったら観なきゃ良いじゃんって言われると弱るんだが)
こうした軽快な映画を観ることができたのは、良かった。
世界最高の映画だとまでは思わないにしても、
音楽は良いし、キャラクターは魅力的で、美しいシーンも多い。
とても楽しめた。


【コレやられたらもうかないません、という映画】

圧倒的なまでの「勝ち逃げ」映画でもあった。
「もしも〇〇が・・・だったら」というアプローチで
物語が作られることはめずらしくないと思うが、これを
「もしも実在の世界的ポップアイコンが存在しなかったら」
に設定した場合で、考え得る最大の効果を期待した時に、
「実在の世界的ポップアイコン」
の部分に当てはめるべきは「ビートルズ」一択だろう。
世界にファンを持つビッグネームは数あれど、
社会に文化に経済に政治に爪痕を食いこませ、
年齢、境遇、言語などに関係なく誰もが親しめる楽曲を生んだ、
そんな存在はビートルズをおいて他には考えにくい。
そのビートルズは英国生まれで、
その英国にはダニー・ボイルがいる。
勝ち逃げの構図として完璧だ(笑)
二度と誰にもマネされることがない。
考え得る最高のことをやりおおせたので、
類似品を作ることにも意味がない、と思わせてしまう。



【『大停電』の華麗さよ】

事件の発端となる、世界的な大停電のシーンが美しい。
照明がダウンして、各地の名所観光地が闇にとけていく。
間もなく通電が復旧し、再び動き始める世界。
明るい曲調の音楽とともに鮮やかに表現されていた。
普通、あんな風に急に、広範囲で停電が発生したら、
みんなパニックになるんじゃないかなと思うけど、
深刻な描写は排され、美しさが強調されていた。
 

ビートルズがないとコークもない】

地球上から、ビートルズに関するすべてのものがかき消える。
ビートルズの影響を受けて生まれたはずのものも、
何もかも「ない」ことになる。
例えばロックバンド「oasis」などはカゲも形もない。
だが影響はもっと全方位的に波及するはずだ。
ビートルズがない」ことがどこにどう影響するかなんて、
とても複雑なアルゴリズムの構築的なことをしない限り、
精確な所を打ち出すのは不可能だろう。
監督たちもその辺は真剣に考えるのをあきらめたらしい。
ビートルズがないのでねえ~、という名目のもと
よくわからないものまでテキトーにザクザク消していた(笑)。
例えばペプシはあるがコカコーラはない。
ハリー・ポッター』の存在が抹消されている。
謎だ。
もしかして、熱心なビートルズファンには、
コークやハリポタが消されたことの意味がわかるのだろうか。

 

【多分『パラレルワールド』】

先述の大停電が何かしら作用して、
世界からビートルズがかき消えた。ここから、
『イエスタデイ』の物語が動き出す。
この点についてなんだけど・・・。
主人公ジャックは当初、
「みんな、どうしてあのビートルズ
 忘れちゃったみたいな顔をしてるの??」
って不思議でしょうがないみたいだったけど、
そうじゃないんだと思う。
つまり「集団記憶喪失」ではない。多分、
「『元もとビートルズが存在しない世界』に、
ジャックが飛ばされた」・・・という方が近い。
さっきまで確かにあったビートルズ
「みんなが忘れてしまった」というのなら、
「モノ」の消滅までは起こらないと思うのだ。
それが、レコードやCDなどまでも消え失せた。
ということは、「忘れてしまった」のではなく、
ビートルズが元もと存在しない世界」なのだろう。
いわゆる「パラレルワールド」だ。
そこに、どういうわけだか、
ビートルズが存在する世界の住人であるところの
ジャックが飛ばされてきた。
もっとも、「みんながビートルズを『忘れた』」
とジャックが思ってもおかしくはなかったと思う。
人びとがビートルズを知らないこと以外は、
基本的に元いた世界となんら変わりがなく、
身近な人間関係や体験も連続していたので。
だが、なんといっても、彼は出会った。あの人物に。
会えたのは「ビートルズがない」からに他ならない。
「あったのに、みんなが忘れた」なら、
ジャックがあの人に会える可能性はゼロだ。

この線で考えてみたいことがある。それは、
ビートルズを知るジャックが
ビートルズなき世界に飛ばされたことの、意味だ。

個人的には、それはふたつ見出せる。
先に結論を言ってしまいたい。

ひとつはジャック視点。
「音楽の道をきっぱり断念するきっかけとしての体験」。

もうひとつは、もっと俯瞰的な視点。
ビートルズを知るミュージシャンであるジャックは、
ビートルズがないあの世界のクリエイターたちに、
霊感の源を残した。


【ジャック視点:音楽ではやっていけないと知りながら】

ジャック視点で考えるのは、そんなに難しくない。
元もと彼は、音楽をやめようかなと考え始めていた。
その矢先に友人たちから立派なギターを贈られて、
複雑な表情を浮かべつつ、
「このギターにふさわしい曲を」
と言ってジャックが歌い始めたのは『イエスタデイ』。
自作の曲ではなかった。
自分の曲で世界中の人を喜ばせてみたかった、
でもそれは自分の仕事ではないのだ・・・と
すでに理解していたことがこの行動からくみ取れた。
彼は『イエスタデイ』を「最高の曲だよ」と言った。
自分では作れないが、何が最高かはわかる人なのだ。
だが彼にはエリーがいた。
音楽は彼とエリーをつなぐ大切なものでもあった。
エリーとの関係に煮え切らなかったのは、もしかしたら
いつか成功できたらその時こそ告白すれば良いじゃないか
なんてことを考えていたからかもしれない。
要するに勇気がなくて告白を先延ばしにしていた。
はたしてジャックはスターになれたけれども、
それは他人の曲を失敬することで獲得した地位。
「盗作」を続ける一方で罪悪感は日々ふくらみ、
真実を言えばエリーに軽蔑されると思うと告白もできなくなった。
あまつさえスターになったことで彼女との心の距離は開いた。
これで今の名声まで失ったら、彼にはもう何も残らない。
そんな感じで迷走に迷走を重ねてしまったけど、
ジャックは早くからちゃんと自覚していたのだ。
第一線で認められるミュージシャンにはなれないことを。
腹を決められない言いわけに他人を使うなよって感じだが、
そう言えるのはやっぱり他人ごとだからで、
我がこととなると誰しも意外とこんな風になっちゃうのが、
人間てものじゃないか。
恋とか、人との心のつながりとか・・・要するにエゴだが、
このエゴってやつがからむと、
何かを決めたり断念したりするのが、怖くなるものだ。
吹けば飛ぶようなミュージシャンのジャックでも、
自分と音楽とを切り離すことはきわめて困難だった。
切り離すのにどのくらいの力が必要だったか。具体的には、
ビートルズが存在しない並行世界に、
ビートルズがある世界の人間が1名飛ぶ、
そんな天文学的数値の力場が発生するほどの力だ。
と言って話が飛躍し過ぎなら、こう言っても良い。
ジャックの音楽への執着は強かった。
どのくらい強かったかと言うと、
誰も知らないのを良いことにビートルズの曲でスターになり、
ビートルズの偉大さを思い知るとともに「盗作」の罪悪感に苦しむ
などという余人に関知しがたい所まで自分を追い詰めないと、
音楽の道を断念すべきだというセルフジャッジを
受け入れることができなかったほど、だ。



【俯瞰的な視点:それでも作り続ける者たちのために】

次に、ビートルズを知らないクリエイターたちへの
霊感の源としてのジャック、という視点についてだ。
こっちはもうちょっと複雑な問題のような気がする。
「こうとしか考えられない」と言い切れるだけの
エビデンスがあるわけでもないから
完全なる個人の見解と とらえていただいてかまわない。

何が「最高」かわかる感性を持っているうえに、
その「最高」を自分で作るのだという意志を捨てない、
そんな人も世の中にはいる。
『イエスタデイ』で言えばエド・シーランがそれだと思う。
ジャックの音楽(正確にはジャックが歌うビートルズ)に触れて、
「いつか誰かに追い越されると(思っていたよ)」。
ジャックの音楽の方が、自分のよりも優れていることを
素直に認めた。つらそうだったけど。
エドはそれでも、今後も音楽を作り続けるだろう。
ジャックのラストステージを見ていたはずのエドの反応が
まったく描かれなかったことからわたしはそう感じた。
自分よりもあいつの方が才能があるとか、
あいつと一緒にいると自分がかすむとか、
そんなつらい現実をどれだけ突きつけられようとも、
エドが音楽を続けていくことに変わりはない。
彼は今後も音楽を作る。
ジャックのステージをどんな顔をして見ていたかなんて
描写しなくても明白、ということではないだろうか。

ビートルズを知るミュージシャンであるジャックが、
ビートルズのない世界に降り立ったのは、
エドのような人のためと言えないか。

マネージャーのデブラがジャックにこう言った。
エドはしょせんヨハネね。あなたこそが救世主」。
預言者ヨハネが救世主(イエス・キリスト)の到来を告げ、
人びとに改悛と受洗をすすめてまわったという、
新約聖書のエピソードを引いている。
要するに真のヒーローはあくまでもジャックで、
エドは二番さん、みたいなことだ。失礼な話だが。
この言葉をかりるなら
ジャックは、たとえ人が自分を救世主と呼ぼうとも
預言者であろう、としたのではないか。
自分で最高の曲を作ることはできないと知っているが、
最高の楽曲群を知る唯一のミュージシャンだから。
表舞台から退く代わりに彼が用意した置きみやげは、
最高の曲を作れる可能性を秘めた多くのミュージシャンに
インスピレーションを与えるだろう。
むろんジャックが残したのは本物のビートルズではない。
記憶から必死にたぐりよせた「確かビートルズ」に過ぎない。
でも、ファーストワンマンを訪れたあの二人が言っていた。
ビートルズのない世界はつまらない」。
じきに救世主がおでましになるとのうれしい知らせを
人びとに触れてまわったヨハネのように、
いずれ来る神の国は心貧しき者のものと
福音を告げてまわったイエスのように、
ジャックはビートルズを広めることに決めた。
世界がおもしろくなっていく種を蒔くことにしたのだ。
本物のビートルズがある世界とは、
まったく別の花が咲くことになるのだろうが。



【ジャックも『故郷では尊ばれない』(笑)】

聖書の話が出たので思い出したが
福音書・・・『ヨハネ』や『マタイ』に
預言者は故郷では尊ばれない」
預言者が尊敬されないのは郷里、家族だけ」
という文言がある。
この場合の「預言者」とはイエスのことだ。
エスガリラヤやエルサレムに伝道に行く。
ガリラヤは人としてのイエスの故郷だ。
エルサレムは神殿があるので神の子としてのイエスの故郷。
そのどちらでも、イエスは手放しでは歓迎されない。
ガリラヤでは「イエスのやつ、ちやほやされているけど、
ただの大工の息子だろ」と陰口を叩かれる。
エルサレム神殿ユダヤ当局ととらえるならば
エスは司祭たちにやっかまれ、のち磔刑に処された。
言わば我が家でありながら、安らげなかった。
思えば『イエスタデイ』のジャックもちょっと似てる。
ビートルズの名曲をいくら弾いて聞かせても、
両親や親類にだけは、てんでウケないのだ。 
あの「相手にしてもらえないっぷり」は、必見モノだった。

 

【名もなきひとりの人として】

ラストステージを控えて、
ある人物との対話の時間を持ち、ジャックは感激していた。
その人物は、歴史に残るような偉大なことは何もしなかった。
だが、自分の人生を元気でしっかりと歩んでいた。
すべてをなげうつ覚悟を決めようとしていたジャックにとって、
これほど勇気がもらえることはなかっただろう。

平穏な生活を取り戻したジャックは、
「やっぱり普通が良いよ・・・」とつぶやいた。
映画の主人公にしちゃ夢のないことを言うなあ、と
このセリフを聞いて思った人も、いたかもしれない。
でも、自分の役割を知り、専心することは
夢のないことでも、つまらないことでもない。
その充実は、やってみて初めて感じられるんだと思う。
子どもたちと『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を歌う
ジャックの姿をうつしだして、物語は幕を閉じた。
彼も、エリーも幸福そうに見えた。
ジャックは、自分の役割を知ったのだと思う。