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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

「ジョーカー」

 

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原題:Joker
トッド・フィリップス監督
2019年、米

どこに注目するかで、解釈が異なりそうだ。
ここに述べることが唯一絶対の解釈などとは
もとより思わない。
今後、考えが変化することもあるだろう。

現時点での、わたしの結論。
『ジョーカー』は、
ある不幸な男が自分の人生を選び取るまでの物語
と言えるのではないだろうか。
その選択は他者を幸福にしないが、本人だけは幸福だ。

また、考えるべきなのは、
アーサーが本当は何をしたかではなく、
彼の心の事実ではないかなと思う。


【一つしかないベッド】

アーサーは多分、一度も女性と寝たことがない。

憶測にすぎないのだが・・・。
母と二人暮らしのアパートには、
アーサー専用のベッドがなかった。
とはいえ別に、あの母子の関係に近親姦のような異常性を
感じたわけではなく、そう断定できるだけの根拠もない。
単に部屋が狭くて一緒に寝ざるを得ないのだろう。
そのくらいはわかるつもりだ。だが・・・。

アーサー童貞説とか やぶからぼうに何だよと
思われることは承知だが、この線で、もうちょっと話を。

周りで『ジョーカー』を観た人は多い。
3回以上のリピーターもいる。わたしもそれだ。
たくさんの人と、感想を語り合ってきた。
そのうえで、あくまで個人的な印象だが、
男性の方がアーサーに深く強く感情移入している。
もちろん女性にもそういう人はいた。
「良くわかんなかった」と言う男性もいた。
だが、
「アーサーがかわいそうでかわいそうで」
「自分が同じ立場だったら生きていけない」
「何日も引きずった」
とまで言ったのは、わたしの周りでは男性だけだ。

「かわいそうでかわいそうで」。

繰り返すが、アーサーが童貞かもと思うことに根拠はない。
だが、実際わたしは彼を見て、
「『生後間もなく去勢手術を受けた』という事実を
 大人になってから知った人、って感じだ」
言葉にしてそう思った。
もののたとえだ。なぜだかそう思っただけ。
だが、「なぜだか」そんなことを思ったのはなぜか。
「去勢」。こんな言葉を思いついた理由は。
まず「アーサーがそういう人だから」だ。
彼は命にも関わる大切なものを
あらかじめすべてもぎ取られた状態で
ただでさえ世知がらい世の中に放り出され
喘ぐように生きている。
それに加えて、
彼の暮らしからは、セックスの要素が徹底的に排されていた。
リアルな性のにおいが、まったくと言って良いほどしない。
そのせいでかえって、「ない」ことが浮かび上がって見えた。
結果、彼の、非常に根源的なものに思える心の苦痛を思う時、
去勢されていたことを大人になってから知った人、などという
連想につながったのではないか。

アーサーに女性経験がないことが事実、とする。
「それ」を抱えて生きることがどんなにつらく困難か、
実際的に理解できるのは、やっぱり男性だろう。
『ジョーカー』を観た男性諸君は
理屈じゃない部分で感じ取ったんじゃないか。
アーサーの性的な意味での欠乏感、耐えがたい孤独を。
「かわいそうでかわいそうで」。
ここまで言わせたのはそのせいじゃないかと思う。

憶測にすぎない。
アーサーは童貞じゃないかもしれない。
だがあえて彼に女性経験がないことの証拠を探すなら、
マーレーのテレビショーに出演するシーン。
「アーサーって、女性経験ないんじゃないかな」
と思わせる所があったと、言えなくもない。
テレビショーには60代後半か70代くらいの
女性のコメンテーターが同席している。
「教授」と呼ばれている。話の流れから察するに、
フェミニストで、夫婦関係カウンセラーみたいな人だ。
マーレーはアーサーを紹介する時に、
「ここからのゲストにも教授のアドバイスが必要だね」。
教授「あら、性の問題かしら」。
マーレー「他にも問題だらけの男だよ」。
「他にも」。
※もちろん隠喩だ。アーサーに秘密があったとしても、
 マーレーがそれを知っているはずはない。


うーん。やっぱり根拠としては弱いよな。
いや、わたしもわかっているんだ、それは。



【あの「ジョーカー」じゃない】

ところで、
アーサーは童貞じゃないどころか「リア充」だ、
なぜならバットマンの宿敵ジョーカーには
ハーレイクインという恋人がいるのだから
・・・という考え方をわたしは採用しない。
アーサーが「そのジョーカー」と同一人物とは考えにくい。
『ジョーカー』のストーリーのなかで、アーサーは、
ブルース・ウェインと邂逅している。
バットマンの正体がブルースであることは言うまでもない。
だが、このブルースはほんの少年だった。12歳くらいか。
ブルースが成長してバットマンになる頃、
アーサーはすっかりおじいちゃんの計算だ。
これまでのバットマン映画において、このふたりは
同年代くらいの設定感だった。
少なくとも10も20もは離れていなかった。
当たり前のように、いつもそうだった。
それが『ジョーカー』では両者の歳がかけ離れていた。
もちろん、アーサーが「あのジョーカー」ならば
このふたり以上にわかりやすい因縁の敵対関係はなく
話としてもスムーズで、おもしろいのだろうが・・・
でも歳が違いすぎる。普通に考えておかしい。
『ジョーカー』のアーサー・フレックは
「あのジョーカー」ではない、のだろう。


【アーサー・フレックとは誰なのか】

だけど、そうなると、アーサーとは誰なんだ。
彼という男の存在は、頼りなくゆれている。
情報がゼロということもないのだが、
考えてみるとおかしな点も多く断定しにくいのだ。
例えば、
トーマス・ウェインはペニーとアーサーを突き放した。
だが「素敵な笑顔だね  T.W」とのメッセージ入りの写真が
ペニーの手元に残されていたことも確かだ。
お手付きがあったことは事実か?
ウェインは否定したが、落胤の可能性は残るか?
だが、ペニーの内縁の夫のイニシャルがT.W、
これも考えられない筋ではないだろう。

アーサーとは誰なんだろう。
行政に見捨てられたマイノリティであり、
社会的に誰、と特定しにくいレベルまで
存在を希釈されている。
出生と生育をめぐる哀しい事実の面で見ても、
実際問題、彼がどこの誰か判然としない。

アーサーとは誰なんだろう。
30年前の時点で何歳だったのか?
苦労続きとはいえ、年齢の割に老け込みすぎでは?

アーサーとは誰なんだろう。
30年前、どこの誰のもとからやってきたのか?

アーサーとは誰なんだろう。
なぜ、幼少期の記憶がない様子なのか?
なぜ、閉鎖病棟に入院していたのか?
なぜ、入院に至った事情を覚えていないのか?
だが、場面の配置が時系列順でない可能性も。

アーサーとは誰なんだろう。
一人目のカウンセラーと
好意を寄せるソフィーと
二人目のカウンセラー
なぜ3人とも黒人女性なのか?
思慕する相手が常に知的な黒人女性であることに
意味を見出すとすると・・・
想う相手はまず第一に母(白人)なのだが、
それは望むべくもないことを知っている、
または、深層心理的に母を拒絶しているからか。
そもそも、あの黒人女性たちは本当にそこにいたのか?
アーサーの心が作り出した存在とすると、
ソフィーへの夢がやぶれてなお、
黒人女性のカウンセラーを登場させたのはなぜか。
夢への執着か、それとも復讐か。
だが、場面の配置が時系列順でない可能性も。

アーサーとは誰なんだろう。
アーサーは「ジョーカー」を名乗った。
トランプゲームにおいて、ジョーカーが
ワイルドカードになる場合が多いことから考えれば、
「誰でもないし、誰でもあり得る」ということか。


ワイルドカードとしての「ジョーカー」】

アーサーは誰でもないし、誰でもあり得る。
こんなモヤっとした線で落ち着くのは
わたしも本当は気持ちが悪いのだが、
この線を頼りに、もう少し考えてみたい。

バットマンの宿敵ジョーカーという存在にからめるなら、
アーサーは、
いずれ「ジョーカー」となる別の誰かの覚醒を促した存在。
そのくらいは言っても良い気がする。
ピエロの扮装と重大な犯罪行為によって、
社会に燻る不満分子のインフルエンサーとなった。
ただし、
いずれ「ジョーカー」となる誰かに影響を与えたのが
アーサー(だけ)とは、限らない。
精確に言うならば、
「ジョーカーたる存在が何から生まれたか」なんて
誰にもわからないのだ。
可能性としては、『ジョーカー』のなかでは、
誰でも、ジョーカーたる存在に影響を及ぼし得た。
誰でも、ジョーカーたる存在になり得た。
また、誰もジョーカーではないかもしれない。


【幸せになるために人は孤独を抱きしめる】

アーサーという人を見ていて思う。
なぜわたしたちは、この胸の痛みに
「孤独」と名前を付けるのだろう。

「僕なんて本当は存在していないんじゃないか」
「話を聞いてくれてないよね、全然」
「みんな僕を邪険にする」
アーサーにこんなことを言わせる狂おしい心の疼きが
孤独だ、と わたしたちはなぜわかるのか。

胸が痛むのはなぜ。
言葉を知ることがなければ、疼く心に
名前を付けることもなかったのに、
なぜ知ってしまい、しかも探し当てたのか。

それが「孤独」だと、わたしたちが感じるのはなぜか。
わたしが思うに、その気持ちを「特別なもの」として
とっておくためじゃないかな。
ある目的のために、名前を付けて、
見えるようにしておく必要を感じているのだ。例えば、
いずれ選り分けて、取り除く時のため。
人を驚かせる新たな創造への原動力とするため。
はたまた、
世界のどこかにいる、同じ痛みを知る友を探し出すため。
想定されるどの目的も、こう言い換えられる。
「人びとのなかで、幸せに生きるため」だ。


【ラベルの貼り替え:「孤独」から「憎悪」へ】

アーサーは己の孤独をどう処理したか。
ある時点までは、「孤独」を自覚していた。
(「僕が欲しいのはぬくもりとハグだよ!」)
母がウェインに手紙を出し続けるのにうんざりしていたくせに、
自分も彼を求めずにいられなかった。
アーサーは心の痛みを「孤独」と認識していた。
激しく笑ってしまうつらい神経障害を抱えているうえに
感情表現のスキルが著しく壊れているにも関わらず、
人並みになりたくて、的外れな努力を重ねる姿は痛ましい。
お笑いライブに足を運び、普通の人が笑うタイミングを学ぶ。
変な所で笑ってしまうせいで、みんなに白い目で見られるのに。
他者との心のつながりを求めていた。
自分のためだけに時間を作ってそばに座って、
話に耳を傾け、笑顔を向けてくれる人が欲しかった。
人のなかで生きる希望を確かに持っていたのだ。
ある時点まではアーサーも、孤独を抱きしめていたのだと思う。

でも、アーサーとわたしたちの道は分かれた。
アーサーは「孤独」を別の言葉に言い換えた。
誰も求めるものを与えてくれないと悟って。
どう理解するべきかは難しいが、
寂しいと叫ぶ声さえ涸れ果てた、
思いよ届け、と願うことをあきらめた、といった所か。

「僕にはもう失うものはない」
「今まで、僕の人生は悲劇だと思っていた。
 でもわかったよ、僕のそれは喜劇だ。
 喜劇かどうかは、主観で決める。
 みんなだって、善悪を主観で決めているだろ。
 良く知りもしない証券マンの死は悼むくせに、
 僕には誰も見向きもしない。
 なぜ僕を非難するんだ」
他者のなかで生きる夢に破れて、
胸の痛みに貼っておいた「孤独」のラベルを棄てた。
多分、「憎悪」と貼り替えたのだと思う。
主観で良いのなら、それで自分の人生はハッピーなのだと
考えれば良いじゃないか、ということだ。簡単に言えば。

人は、他者との間に育まれる心のつながりに
希望を見出して生きている。
でも、アーサーはそれをやめたのだろう。
他者は希望ではなくなった。
彼を無視するか、バカにするか、
道具のように使い捨てる者たち。
憎悪の対象でしかない。
だから殺していくのだろう。


【もう理解して欲しいとは思わない】

この線から拡げれば、
終盤のセリフも納得できる気がする。
ひとしきりの笑いの発作が止んだ時、
何を考えているのと問うカウンセラーに、
「ジョークを思いついてね」。
でも、
「(きっと、話しても)理解できないさ」。
普通の人がどんなジョークで笑うのか、
知りたいとはもう思わない。
僕のジョークで笑って欲しい、と
夢見ることもないのだろう。


【「自分第一」が幸せへの道か】

くちはばったいことを言うようだが、
最近は本当に、「自分第一主義」が進んだなと感じる。
もっと自分を大切にしよう。
もっと主張をしよう。
人の言うことでなく自分の選択を信じよう。
信じた道を進んで良い。
他人と違った考え方をしても良い。

こういうのがダメだとは全然思わない。
他者と豊かな関わりを持つためには
しっかりとした「自分」が必要、これは事実だろう。
だけどわたしたちの「自分」の求め方は、本当に
他者との豊かな関わりを築く道につながっているか。
また、信じた道を進んで良いとは言っても、
アーサーの道をわたしたちは尊重できるか?
「もう僕は他者のことなんて全然必要じゃない。
 他者を必要としては裏切られてきたこの憎しみを
 エネルギーに変換して、これからは殺人に励む」
という道を 彼は選択したのだが?


【アーサーはわたしたちの代弁者じゃない】

『ジョーカー』という映画は一見、受け入れやすい。
孤独に圧し潰され、喘ぐように生きるアーサーは
寂しく不安なわたしたちと、そっくりだ。
彼の心の叫びが、嵐となって社会に吹き荒れた。
そう理解するなら、これはこれで溜飲の下がる映画体験だ。
アーサーがわたしたちの気持ちを代弁してくれた、と言えるから。

だが、彼は誰の気持ちも代弁したつもりはないだろう。
誰かに話を聞いて欲しかったのに、
それが叶わなかったから、あきらめた人なのだ。
アーサーの孤独は憎悪の炎に変わった。
その熱波はわたしたちに向かう。
代弁者なんて悠長なことは言っていられない。
ジョーカーはワイルドカードになり得る。
アーサーが「ジョーカー」を持って任ずる時、
彼がわたしたちの持ち場を乗っ取ることも考えられる。
アーサーは、わたしたちのひとつの姿でもある。
孤独を孤独として抱きしめるのをやめたとき、
わたしたちも「ジョーカー」になるかもしれない。


【アーサーはわたしたちでもある】

心を闇に売り渡し、自分だけの自由を獲得した。
今や明るい陽の光を受け、アーサーは幸せそうだ。
これからの人生は喜劇だ。彼がそう決めたのだから。
べっとり血の着いた足あとを残し、軽快にステップを踏む。
看守と追いかけっこをするラストシーンは、
ドタバタ喜劇映画そのものだ。

アーサーはそれで満足だから良いのだ。
だが彼が血塗られた道を選んだのは、
わたしたちのためではない。
そんなこと、彼はこれっぽっちも考えていない。
わたしたちが、アーサーみたいな人のことなんて
ろくすぽ考えてないのと同じ。
わたしたちが、誰かに気にかけて欲しくてたまらない、
寂しい存在なのと同じだ。

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お絵描き中。