une-cabane

ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ジョジョ・ラビット』

原題:Jojo Rabbit
タイカ・ワイティティ監督
2019年、米国

f:id:york8188:20200815155330j:plain

www.youtube.com
単純な反戦映画って感じじゃない。
権力や軍事力や暴力よりも強いものがこの世にはあると
言いたかったのではないかなと。
ジョジョの母が語った「愛こそ最強の力よ」がポイントだろう。
実際に、ナチス独裁政権という狂った状況のなかにあっても
至る所に、愛の花が咲くのが見られた。
相反するイデオロギーのはざまでジョジョが苦しんだのは、
ヒトラーも母もエルサも愛していたからだろう。
ラームは教え子の背中に爆弾を取り付けて敵前に送り出すが
子どもを18人産んだわ、とうそぶいてもいた。
クレンツェンドルフはナチスの大尉だが
側近の青年とひそかに思い合っているらしかった。
ナチス性的少数者も排除対象とした)
ジョジョの母が、守るべき者を二人も抱える身でありながら
あの活動に身を投じたのは、考え方はいろいろだろうが
息子に伝えたかったからでは。「愛こそ最強の力」と。
そのために命まで懸けることになったのは、戦争のせいなのだ。
でも、思うんだけれども、
人の愛はえてして、「差別」「ひいき」の類語に堕ちる。
愛する人のためなら、それ以外の人を殺すことさえあるから。
良心のすこやかさ、良心の声に耳を澄ます力、
人の愛にそれが備わった時、人の世に調和がもたらされるのだろう。
ものすごく難しいことみたいに思えるけど、本当にそうだろうか。
10歳のジョジョでも、心の声を最後まで正しく聞いていた。
まして大人が、やって良いこと悪いことも判らないのはクズ。
そんなことを悪趣味スレスレのユーモア爆弾に練り上げて
全力で投げつけてくる映画だった。
クレンツェンドルフの眼前に立つや、
彼の股間を蹴り上げ、横っ面を張り倒す
ママ・ラビットの伸びた背筋が美しい。

『永遠の門 ゴッホの見た未来』

原題:At Eternity's Gate
ジュリアン・シュナーベル監督
2018年、米・英・仏合作

f:id:york8188:20200815155619j:plain

www.youtube.com
スケッチに励むゴッホを、子どもらがからかう場面があった。
教師までもが侮蔑する。
「今時の画家は木の根っこを落書きして画家を名乗るのよ」
神経を病んだゴッホの幻覚と解釈したが、
社会に受け入れられていないと絶えず感じているなんて、
神経を病んでむしろ当然というものだ。

だが、それでも描き続ける道を選んだ人として
この映画はゴッホを描いていた。
司祭との対話の場面がその覚悟を伝えていたと思う。
ゴッホはこんなことを語っていた。
「どうして、神は僕に、
 『誰にも喜ばれない絵を描く才能』を与えたのか」
「この世界の追放者だと感じてる」
「僕は今ではなく未来の人のために遣わされた」
「イエスの教えも彼の時代には『未来の宗教』だった」

生きている間は誰にも認められなくても、未来のために描く。
重い覚悟だ。ゴッホはキリストではなく、ただの人なんだし。
だが、イエスが人の世の罪を一身に背負って死んだのに似て、
ゴッホは少年たちの罪をかぶり、口をつぐんで逝った。
今や世界宗教としてのキリスト教の地位がゆるがないように、
今日の世界はゴッホの絵を愛し彼の才能を疑わない。

ゴッホは、生きている間には、あんまり
幸福を実感できなかったんじゃないかな、と思う。
苦しい、でも、神が「描き続けよ」と言っているはずなんだ
・・・それだけが頼りだったのだとしたら、
本当に、喘ぐように描いた人生だったんだろうな。
弟とゴーギャンの他には褒めてくれる人もいなかったようだし。
でも、森や山のなかにある時、彼は
優しい陽の光や風に目を細め、満ち足りているように見えた。
大自然とは、神が創りたもうたものなのだと言う。
そこに身をゆだねた時だけは、神が確かに見てくれている、と
感じることができたのかも。

『アナと雪の女王2』

 
原題:Frozen II
クリス・バックジェニファー・リー監督
2019年、米

f:id:york8188:20200815155932j:plain

www.youtube.com
【総括:3回観たら大好きになった】

おもしろかった。もう1回くらいスクリーンで観たい。
特にエルサが海を渡る所は素晴らしかった。
クリストフの歌が長い割に大して良くない、
クリストフの歌の演出がダサおもしろい、
クリストフが空気が読めない、
クリストフがアホ・・・などの点がやや不満だったが、
今ここに書いたら満足した。もうどうでも良い(笑)。

ネット上で、「良くなかった」というレビューが
前作よりやや目立つことは、一応知っている。
「説明不足」「設定盛り込みすぎ」あたりが、
そうしたレビューの基調にあるようだ。
実はわたしも最初は、全体的に納得いかない部分があった。
説明不足、中途半端、と感じた。
だけど、良かったシーンもあったので、
それらをまた観たくて繰り返し映画館に通うなかで、
不足な所、疑問点を以下のように自分なりに整理、補完した。
するとラクに観られるようになり、断然大好きになった。



【疑問1:四つの精霊が何だっての】

四大精霊/四元素/エレメンタルの概念は、
わたしたちの実世界で古来から支持されてきたもので、
何も、映画のために新規で開発された「設定」じゃない。
google先輩に聞けばすぐに教えてもらえる。
でも、そういうものがあるんだ、と思っておけば十分だ。
仮に四元素の難解な理論を理解しても、
それで『アナと雪の女王2』がおもしろくなる、
というわけではないから。



【疑問2:なぜエルサが『第五の精霊』なのか】

アナがこんな意味の発言をした。
「エルサの力は、お母さまが正しいことをしたから、
 その『ご褒美』として与えられた」
姉を励ましたい一心で言ったことで、何の根拠もないのだが、
これが疑問への答えと、とらえておけば良いのでは。
この際、エルサの力=「第五の精霊」くらいに思っておこう。
「第五の精霊」は、選ばれた血筋の者が代々務める「お役目」
・・・とか言うような、意義の明確な存在ではなさそうだ。
わたしのイメージとしては、
「精霊がノーサルドラの民にもたらす恩寵の最たるもの」。
それ以上でも以下でもないのではないか。



【疑問3:『魔法』の解釈がキャラによってブレブレ】

アナと雪の女王2』の世界においては、
魔法は精霊/自然現象。
これが解釈として適当な所ではないか。
魔法の栄養は、「信じる力」だ。
精霊の力を信じられる純粋な人がいればいるほど、
精霊はその力を増し、世界に大きく働きかける。
良く信じる人には力が分け与えられることもある(恩寵)。
亡き父王が娘たちに
「ノーサルドラの民は魔法を使わない」が
「精霊の恵みを受けて暮らしている」と語ったのは
そういうことなんだろう。
また、エルサが、自分が知るはずもない過去のできごとを
「真実が知りたい」と念ずるだけで眼前に可視化した
あのシーンを思い出してみると良い。
ずいぶんとまた都合良くパワーを操るね、って感じだが、
「ご都合主義だなオイ!」と意地悪くツッコむよりも、
エルサの信じる力のまっすぐさに精霊が呼応して、
アートハランに取り次いでくれた、とでも考える方が、
物語が崩れないんじゃないかな。
「信じる心に魔法は宿る」
・・・昔読んだ、妖精さんや魔法が出てくる物語は、
たいていこうした考え方に基づいて書かれていた。
「魔法」とか「信じる」とか意識しなくても実生活は回る。
だからわたしたちはそういう考え方を忘れがちなのでは。
それにしてもエルサに与えられた力は、強力だよね。
彼女が、優しい良い子だから良かったようなものの
(と言うか、そういう子だから力が与えられたのだろうが)
もしあんな力を敵に回したら、大変だ。



【疑問4:ダムが何なのよ】

「疑う力」増幅補給装置。
これが建ったために精霊が力を発揮できなくなり、
精霊の種類によっては、人に敵対さえするようになった。
思うに、魔法の森は、元は霧深い常闇の土地だったのかも。
ノーサルドラが土地を拓き、長い長い年月をかけて
信仰の「場」を形成した結果、
あのような奇跡の森になったのではないか。



【疑問5:エルサの前にも『第五の精霊』がいたのか】

わからない。
いたとしてもそれがエルサの母でないことは確実だ。
「第五の精霊」が精霊の恩寵なのだとすれば、
「第五の精霊」がいないからといって、
世界が崩壊するわけではないのだろう。
いれば理想的、くらいの感じなのかもしれない。



【疑問6:なぜ『今』、一連の騒動が起こったのか】

それを言ってしまうと映画が成立しない(笑)
だが、まあ、
精霊たちが姉妹の成長を待っていたのかもしれない。
エルサとアナが精霊の使者にふさわしいかどうかを
じっと見守ってきたのではないか。



【疑問7:アートハランとは結局何か】

ユングの言う集合的無意識
エンデの『はてしない物語』のファンタージエン
みたいなものなんじゃないかな、とわたしは思った。
亡き母の子守歌は、アートハランの川を
「すべての記憶が潜んでいる」場所だと、うたっている。
アートハランは世界のすべての経験の集積であり、
時間や空間の概念から解放されているんじゃないかと
わたしは想像している。
アートハランの源泉たる氷山でエルサは母と出会った。
あの氷山は、そこにたどり着いた人の心に感応し、
その時どきで、映し出すものを変えるのでは。



【おわりに】

全体的に、不十分な所があった映画だとは思う。
ディズニーにしちゃ不器用というか・・・。
でも、一貫して、プリミティブなものを肯定的に
描こうとしている物語だった。その意味でわたしは
ライオン・キング』(2019)よりはずっと好きだ。
想像力をできるだけ駆使しよう、というつもりになって
積極的な姿勢で細かい所を読み解いていけば、
それなりの答えを用意して待っていてくれる物語だと思う。

 

【やっぱりココはいただけねえや(笑)】

ラストでブロンズ像をおっ建てちゃったのは
必殺的に興ざめ・・・ 
いやあ、ほんと、あれさえなければねえ。
でも、しょうがないか。
アナにしてみれば、ああせずにはいられなかったのだろう。
国の人びとに真実を伝えなければ、
悲劇が繰り返されるかもしれないと思うと。

『17歳』

原題:Jeune et Jolie
フランソワ・オゾン監督
2013年、フランス

f:id:york8188:20200815160124j:plain

www.youtube.com


ヒロインのイザベルが、大人への階段を上り始めるまでを
見つめた物語だったかなと思っている。

得意客だった男の未亡人と会う、終盤のシーン。
未亡人アリスは、ヒロインを立場ある一個の人間として扱った、
最初の人だったと思う。

いっぱしの娼婦のように
「服を脱ぎますか」なんて尋ねたイザベルを、
アリスは笑わないし、怒りもしない。
まして売春なんてよしなさい、と諭すこともない。
笑っても諭しても少女の立場を否定することになる。
それを慮った。
つまり一個の人としてのイザベルを尊重したのだ。

物語のなかで少女は多くの人と関わる。
家族がいる。恋愛もする。大勢の男と寝る。
その全員からではないにせよ必要十分な愛情を受け取る。
でも、自分から愛を与えることは、思えば一度もない。
なぜか。
誰も彼女を「愛を与えることができる人」として扱わない、
言い換えれば、「大人」として扱わないからでは。

親はイザベルを判断力のない子どもとして扱う。
恋人たちは彼女に体やキスをねだる。
顧客たちはイザベルを性器の付いた人形として扱う。
少女はそれにただ対応していく。
親が心配すれば、もっと心配をかけることをする。
恋人たちに体やキスを与える。
男たちの求め通り性器の付いた人形としてふるまう。
扱われるように扱われ、与えられるものを受け取る、
それだけだ。それがイザベルだったと思う。
アリスと出会うまでは。

アリスがイザベルを目覚めさせたと言えないか。
イザベルがどこまで理解していたかわからないけど。
「わたしは何か決定的に『違うこと』をしてきた」、
そんな悟りはあったと見て良いんじゃないかな。
と言うのもアリスは
「夫を最後に見た女と会いたかった」と。
その女とともに過ごす時間を金で買った。
でも女にオーダーしたのは、並んで眠ることだけ。
いったい何を考えてのことか?

「一言で言いつくせないが、強いて言うなら愛」
そう言うしかないものを、夫と育んできたのでは。
長年のそれが不意に失われた時、彼女にできたのは
夫と寝た娼婦と会うことだった。
と言うか、それしかなかったんだろう。
泣きも騒ぎもしない人だが思いは複雑で、深い。
彼女の視線、動作、口調、すべてがそれを伝えてくる気がした。
これを書いているわたしも実のところ未婚で、
人生経験も恋愛経験も豊富とは言えないから、
アリスの気持ちが完全にわかるはずもないのだが、
彼女と夫の間にあったものが愛だったなら、
遺された彼女の思いは愛したからこそのものだ。
イザベルにはない気持ちだ。愛したことがないから。

だが、アリスとのひとときを通してイザベルは
「自分が誰かに愛を与える」可能性に気付いたかも。
一個の人に、一個の人として扱ってもらった。
今後は子どもでも人形でもなく、人として歩めるだろう。
大人になっていく。愛を与えることができる人になる。

そうであって欲しい、という気分だ。

『ドクター・スリープ』

原題:Doctor Sleep
マイク・フラナガン監督
2019年、米国

f:id:york8188:20200411151111j:plain

www.youtube.com

2回観た。
1回目の翌日、同じ映画館の同じ席を取って観た。
2回とも、帰り道は良い気分だった。
だが、今、冷静に考えると、ま~
イマイチだったのかもなという感じがしている。
でも、おもしろかったけど。
そういうこともあるわな~。

わたしが、『ドクター・スリープ』を
イマイチだったかもなと思うわけは、
だいたいこんな感じだ。↓


・芸術性に欠ける
キューブリックの『シャイニング』への
オマージュシーンが盛りだくさんでうれしい限りだったが、
そこに『シャイニング』に匹敵する芸術性を感じたか? 
と言うと、感じなかった

・深みに欠ける
観たあともずっとその映画のことを考えてしまうような
強い印象、または深読みをさせてくれるような
懐の深さのようなものが、あまりなかった

・俳優
ダニー/ユアン・マクレガーは健闘していたが、
残念ながらジャック/ジャック・ニコルソン
足元にもおよばない。
『シャイニング』のジャックの表情は
忘れたくても一生忘れられないけど、
『ドクター・スリープ』のダニーの表情は
すでにして忘却の彼方

・スーパーパワー感濃いめ
キューブリックの『シャイニング』においては
存在がほのめかされる程度となっていた、
異能力/ダニーの言うところの「The Shining」が、
『ドクター・スリープ』では前面に押し出される。
映画『シャイニング』しか知らないわたしは
『ドクター・スリープ』の超絶異能力バトルシーンや
能力者たちの眼がビカーっと白く光る所などには
やや面食らった(でも、これはすぐ慣れた)

・展望ホテルとその霊たちの扱い
展望ホテル/死霊たち・・・が
『ドクター・スリープ』ではずいぶん軽く扱われていた。
単に、新たな敵を倒すための道具として使い倒されるのだ。
そこに何か、救いようのない、安直さみたいなものを感じた。
展望ホテルは、ダニーの心の傷そのものだ。
あのホテルでの冬さえなければ、ダニーは
今のようなみじめな人生を送っていなかったはずではないか。
それほどのことだったのに、ただの道具扱いなのかと。
あと、ダニーとアブラを狙う「真の絆」の者が
実の所、どいつもこいつもそんなに強敵ではなかった

ところで、
わたしはキューブリックの『シャイニング』が好きだ。
でも、原作者スティーブン・キング老は、あの映画の出来を
あまり気に入っていなかった、と聞いたことがある。

そのキング老は、
『ドクター・スリープ』の出来を絶賛している。

www.youtube.com

察するに、
わたしがあの『シャイニング』を好きなわけと、
キング老があの『シャイニング』に不満だったわけ
(『ドクター・スリープ』にご満悦なわけ)は、
同じ根っこからきているんだろう。

『シャイニング』と『ドクター・スリープ』
両方観てみるとわかるんだけど、
キング老はやっぱり自身の作品が映画化される際に、
「異能力/The Shining」や「霊的存在」の要素に
しっかりフィーチャーして欲しかったんだな。
キューブリックの『シャイニング』は
そこが明らかに、あいまいにされていた。
他の視点での解釈も可能なようになっていたのだ。
ダニー坊やの「The Shining」のこと。
さらには、ジャックが「ああなった」理由。
ジャックの飲酒と暴力の問題、家庭の危機。
ホテルの過去と今。
それら全部が、ほのめかされる程度にとどめられていた。

わたしに限って言えば、それだからこそ、
かえって『シャイニング』が好きなんだよな。
わずかなヒントを頼りに勝手に情報を補完して、
自分だけの『シャイニング』を繰り返し作った。
大人になっていろいろ経験を積むにつれ、
前はわからなかったことがわかってきたりするので、
それは何度でも楽しめる遊びのようなものだった。
実際、わたしは今にいたるまで
原作小説に手を出そうと思ったことが一回もない。
本当に、自分なりの『シャイニング』を作るのが
楽しくて、それでまったく満足だったんだろう。

でも、老にしてみたらあの『シャイニング』は、
多分「ほとんど何も言ってない」に等しい映画だった。
「なんでそこをあいまいにしちゃったんじゃい!」
「ワシはThe Shiningや霊的存在を描くことにこそ
 意味があると思ってあの小説を書いたんじゃい!」
と憤懣やるかたなかったんだろうな。
だって仮に映画『シャイニング』が、
異能力者や霊的存在を全然描いていなくても、
他の方法、他の切り口で、キングのメッセージを継承していたなら、
キングは映画『シャイニング』に、そこまで不満を
いだかなかったと思うんだよ。
やっぱりキング老が『シャイニング』や
『ドクター・スリープ』で伝えたいことは、
「The Shining」や「霊」を描かないことには、
表現できないものだったんだと思う。
少なくともキング老は、そう考えているのだろう。
『ドクター・スリープ』を観て、
それがかなりはっきりと想像できた。

だが、そこで気になるんだけど、
キング老は小説『シャイニング』と
『ドクター・スリープ』で、何を描きたいのか。
あの人は自分の小説のなかで、いわゆる「超能力者」や
霊が生者に働きかけることで引き起こされる事件を
頻繁に題材としてとり上げて、描いている印象だ。
それらの作品のなかで、老が言わんとしていることの
内容がわからない。
キングの小説を、全然読んだことがないから。
そこがちょっと知りたいかな~。

『シャイニング』『ドクター・スリープ』を読んで
そこに託されたメッセージを理解することができたら、
それが、映画にどれくらい反映されているかを
知ることもできるはずだろう。

原作小説を、読んでみようと思う。

『ジョーカー』


原題:Joker
トッド・フィリップス監督
2019年、米

f:id:york8188:20200411150658j:plain

www.youtube.com
どこに注目するかで、解釈が異なりそうだ。
ここに述べることが唯一絶対の解釈などとは
もとより思わない。
今後、考えが変化することもあるだろう。

現時点での、わたしの結論。
『ジョーカー』は、
ある不幸な男が自分の人生を選び取るまでの物語
と言えるのではないだろうか。
その選択は他者を幸福にしないが、本人だけは幸福だ。

また、考えるべきなのは、
アーサーが本当は何をしたかではなく、
彼の心の事実ではないかなと思う。


【一つしかないベッド】

アーサーは多分、一度も女性と寝たことがない。

憶測にすぎないのだが・・・。
母と二人暮らしのアパートには、
アーサー専用のベッドがなかった。
とはいえ別に、あの母子の関係に近親姦のような異常性を
感じたわけではなく、そう断定できるだけの根拠もない。
単に部屋が狭くて一緒に寝ざるを得ないのだろう。
そのくらいはわかるつもりだ。だが・・・。

アーサー童貞説とか やぶからぼうに何だよと
思われることは承知だが、この線で、もうちょっと話を。

周りで『ジョーカー』を観た人は多い。
3回以上のリピーターもいる。わたしもそれだ。
たくさんの人と、感想を語り合ってきた。
そのうえで、あくまで個人的な印象だが、
男性の方がアーサーに深く強く感情移入している。
もちろん女性にもそういう人はいた。
「良くわかんなかった」と言う男性もいた。
だが、
「アーサーがかわいそうでかわいそうで」
「自分が同じ立場だったら生きていけない」
「何日も引きずった」
とまで言ったのは、わたしの周りでは男性だけだ。

「かわいそうでかわいそうで」。

繰り返すが、アーサーが童貞かもと思うことに根拠はない。
だが、実際わたしは彼を見て、
「『生後間もなく去勢手術を受けた』という事実を
 大人になってから知った人、って感じだ」
言葉にしてそう思った。
もののたとえだ。なぜだかそう思っただけ。
だが、「なぜだか」そんなことを思ったのはなぜか。
「去勢」。こんな言葉を思いついた理由は。
まず「アーサーがそういう人だから」だ。
彼は命にも関わる大切なものを
あらかじめすべてもぎ取られた状態で
ただでさえ世知がらい世の中に放り出され
喘ぐように生きている。
それに加えて、
彼の暮らしからは、セックスの要素が徹底的に排されていた。
リアルな性のにおいが、まったくと言って良いほどしない。
そのせいでかえって、「ない」ことが浮かび上がって見えた。
結果、彼の、非常に根源的なものに思える心の苦痛を思う時、
去勢されていたことを大人になってから知った人、などという
連想につながったのではないか。

アーサーに女性経験がないことが事実、とする。
「それ」を抱えて生きることがどんなにつらく困難か、
実際的に理解できるのは、やっぱり男性だろう。
『ジョーカー』を観た男性諸君は
理屈じゃない部分で感じ取ったんじゃないか。
アーサーの性的な意味での欠乏感、耐えがたい孤独を。
「かわいそうでかわいそうで」。
ここまで言わせたのはそのせいじゃないかと思う。

憶測にすぎない。
アーサーは童貞じゃないかもしれない。
だがあえて彼に女性経験がないことの証拠を探すなら、
マーレーのテレビショーに出演するシーン。
「アーサーって、女性経験ないんじゃないかな」
と思わせる所があったと、言えなくもない。
テレビショーには60代後半か70代くらいの
女性のコメンテーターが同席している。
「教授」と呼ばれている。話の流れから察するに、
フェミニストで、夫婦関係カウンセラーみたいな人だ。
マーレーはアーサーを紹介する時に、
「ここからのゲストにも教授のアドバイスが必要だね」。
教授「あら、性の問題かしら」。
マーレー「他にも問題だらけの男だよ」。
「他にも」。
※もちろん隠喩だ。アーサーに秘密があったとしても、
 マーレーがそれを知っているはずはない。


うーん。やっぱり根拠としては弱いよな。
いや、わたしもわかっているんだ、それは。



【あの「ジョーカー」じゃない】

ところで、
アーサーは童貞じゃないどころか「リア充」だ、
なぜならバットマンの宿敵ジョーカーには
ハーレイクインという恋人がいるのだから
・・・という考え方をわたしは採用しない。
アーサーが「そのジョーカー」と同一人物とは考えにくい。
『ジョーカー』のストーリーのなかで、アーサーは、
ブルース・ウェインと邂逅している。
バットマンの正体がブルースであることは言うまでもない。
だが、このブルースはほんの少年だった。12歳くらいか。
ブルースが成長してバットマンになる頃、
アーサーはすっかりおじいちゃんの計算だ。
これまでのバットマン映画において、このふたりは
同年代くらいの設定感だった。
少なくとも10も20もは離れていなかった。
当たり前のように、いつもそうだった。
それが『ジョーカー』では両者の歳がかけ離れていた。
もちろん、アーサーが「あのジョーカー」ならば
このふたり以上にわかりやすい因縁の敵対関係はなく
話としてもスムーズで、おもしろいのだろうが・・・
でも歳が違いすぎる。普通に考えておかしい。
『ジョーカー』のアーサー・フレックは
「あのジョーカー」ではない、のだろう。


【アーサー・フレックとは誰なのか】

だけど、そうなると、アーサーとは誰なんだ。
彼という男の存在は、頼りなくゆれている。
情報がゼロということもないのだが、
考えてみるとおかしな点も多く断定しにくいのだ。
例えば、
トーマス・ウェインはペニーとアーサーを突き放した。
だが「素敵な笑顔だね  T.W」とのメッセージ入りの写真が
ペニーの手元に残されていたことも確かだ。
お手付きがあったことは事実か?
ウェインは否定したが、落胤の可能性は残るか?
だが、ペニーの内縁の夫のイニシャルがT.W、
これも考えられない筋ではないだろう。

アーサーとは誰なんだろう。
行政に見捨てられたマイノリティであり、
社会的に誰、と特定しにくいレベルまで
存在を希釈されている。
出生と生育をめぐる哀しい事実の面で見ても、
実際問題、彼がどこの誰か判然としない。

アーサーとは誰なんだろう。
30年前の時点で何歳だったのか?
苦労続きとはいえ、年齢の割に老け込みすぎでは?

アーサーとは誰なんだろう。
30年前、どこの誰のもとからやってきたのか?

アーサーとは誰なんだろう。
なぜ、幼少期の記憶がない様子なのか?
なぜ、閉鎖病棟に入院していたのか?
なぜ、入院に至った事情を覚えていないのか?
だが、場面の配置が時系列順でない可能性も。

アーサーとは誰なんだろう。
一人目のカウンセラーと
好意を寄せるソフィーと
二人目のカウンセラー
なぜ3人とも黒人女性なのか?
思慕する相手が常に知的な黒人女性であることに
意味を見出すとすると・・・
想う相手はまず第一に母(白人)なのだが、
それは望むべくもないことを知っている、
または、深層心理的に母を拒絶しているからか。
そもそも、あの黒人女性たちは本当にそこにいたのか?
アーサーの心が作り出した存在とすると、
ソフィーへの夢がやぶれてなお、
黒人女性のカウンセラーを登場させたのはなぜか。
夢への執着か、それとも復讐か。
だが、場面の配置が時系列順でない可能性も。

アーサーとは誰なんだろう。
アーサーは「ジョーカー」を名乗った。
トランプゲームにおいて、ジョーカーが
ワイルドカードになる場合が多いことから考えれば、
「誰でもないし、誰でもあり得る」ということか。


ワイルドカードとしての「ジョーカー」】

アーサーは誰でもないし、誰でもあり得る。
こんなモヤっとした線で落ち着くのは
わたしも本当は気持ちが悪いのだが、
この線を頼りに、もう少し考えてみたい。

バットマンの宿敵ジョーカーという存在にからめるなら、
アーサーは、
いずれ「ジョーカー」となる別の誰かの覚醒を促した存在。
そのくらいは言っても良い気がする。
ピエロの扮装と重大な犯罪行為によって、
社会に燻る不満分子のインフルエンサーとなった。
ただし、
いずれ「ジョーカー」となる誰かに影響を与えたのが
アーサー(だけ)とは、限らない。
精確に言うならば、
「ジョーカーたる存在が何から生まれたか」なんて
誰にもわからないのだ。
可能性としては、『ジョーカー』のなかでは、
誰でも、ジョーカーたる存在に影響を及ぼし得た。
誰でも、ジョーカーたる存在になり得た。
また、誰もジョーカーではないかもしれない。


【幸せになるために人は孤独を抱きしめる】

アーサーという人を見ていて思う。
なぜわたしたちは、この胸の痛みに
「孤独」と名前を付けるのだろう。

「僕なんて本当は存在していないんじゃないか」
「話を聞いてくれてないよね、全然」
「みんな僕を邪険にする」
アーサーにこんなことを言わせる狂おしい心の疼きが
孤独だ、と わたしたちはなぜわかるのか。

胸が痛むのはなぜ。
言葉を知ることがなければ、疼く心に
名前を付けることもなかったのに、
なぜ知ってしまい、しかも探し当てたのか。

それが「孤独」だと、わたしたちが感じるのはなぜか。
わたしが思うに、その気持ちを「特別なもの」として
とっておくためじゃないかな。
ある目的のために、名前を付けて、
見えるようにしておく必要を感じているのだ。例えば、
いずれ選り分けて、取り除く時のため。
人を驚かせる新たな創造への原動力とするため。
はたまた、
世界のどこかにいる、同じ痛みを知る友を探し出すため。
想定されるどの目的も、こう言い換えられる。
「人びとのなかで、幸せに生きるため」だ。


【ラベルの貼り替え:「孤独」から「憎悪」へ】

アーサーは己の孤独をどう処理したか。
ある時点までは、「孤独」を自覚していた。
(「僕が欲しいのはぬくもりとハグだよ!」)
母がウェインに手紙を出し続けるのにうんざりしていたくせに、
自分も彼を求めずにいられなかった。
アーサーは心の痛みを「孤独」と認識していた。
激しく笑ってしまうつらい神経障害を抱えているうえに
感情表現のスキルが著しく壊れているにも関わらず、
人並みになりたくて、的外れな努力を重ねる姿は痛ましい。
お笑いライブに足を運び、普通の人が笑うタイミングを学ぶ。
変な所で笑ってしまうせいで、みんなに白い目で見られるのに。
他者との心のつながりを求めていた。
自分のためだけに時間を作ってそばに座って、
話に耳を傾け、笑顔を向けてくれる人が欲しかった。
人のなかで生きる希望を確かに持っていたのだ。
ある時点まではアーサーも、孤独を抱きしめていたのだと思う。

でも、アーサーとわたしたちの道は分かれた。
アーサーは「孤独」を別の言葉に言い換えた。
誰も求めるものを与えてくれないと悟って。
どう理解するべきかは難しいが、
寂しいと叫ぶ声さえ涸れ果てた、
思いよ届け、と願うことをあきらめた、といった所か。

「僕にはもう失うものはない」
「今まで、僕の人生は悲劇だと思っていた。
 でもわかったよ、僕のそれは喜劇だ。
 喜劇かどうかは、主観で決める。
 みんなだって、善悪を主観で決めているだろ。
 良く知りもしない証券マンの死は悼むくせに、
 僕には誰も見向きもしない。
 なぜ僕を非難するんだ」
他者のなかで生きる夢に破れて、
胸の痛みに貼っておいた「孤独」のラベルを棄てた。
多分、「憎悪」と貼り替えたのだと思う。
主観で良いのなら、それで自分の人生はハッピーなのだと
考えれば良いじゃないか、ということだ。簡単に言えば。

人は、他者との間に育まれる心のつながりに
希望を見出して生きている。
でも、アーサーはそれをやめたのだろう。
他者は希望ではなくなった。
彼を無視するか、バカにするか、
道具のように使い捨てる者たち。
憎悪の対象でしかない。
だから殺していくのだろう。


【もう理解して欲しいとは思わない】

この線から拡げれば、
終盤のセリフも納得できる気がする。
ひとしきりの笑いの発作が止んだ時、
何を考えているのと問うカウンセラーに、
「ジョークを思いついてね」。
でも、
「(きっと、話しても)理解できないさ」。
普通の人がどんなジョークで笑うのか、
知りたいとはもう思わない。
僕のジョークで笑って欲しい、と
夢見ることもないのだろう。


【「自分第一」が幸せへの道か】

くちはばったいことを言うようだが、
最近は本当に、「自分第一主義」が進んだなと感じる。
もっと自分を大切にしよう。
もっと主張をしよう。
人の言うことでなく自分の選択を信じよう。
信じた道を進んで良い。
他人と違った考え方をしても良い。

こういうのがダメだとは全然思わない。
他者と豊かな関わりを持つためには
しっかりとした「自分」が必要、これは事実だろう。
だけどわたしたちの「自分」の求め方は、本当に
他者との豊かな関わりを築く道につながっているか。
また、信じた道を進んで良いとは言っても、
アーサーの道をわたしたちは尊重できるか?
「もう僕は他者のことなんて全然必要じゃない。
 他者を必要としては裏切られてきたこの憎しみを
 エネルギーに変換して、これからは殺人に励む」
という道を 彼は選択したのだが?


【アーサーはわたしたちの代弁者じゃない】

『ジョーカー』という映画は一見、受け入れやすい。
孤独に圧し潰され、喘ぐように生きるアーサーは
寂しく不安なわたしたちと、そっくりだ。
彼の心の叫びが、嵐となって社会に吹き荒れた。
そう理解するなら、これはこれで溜飲の下がる映画体験だ。
アーサーがわたしたちの気持ちを代弁してくれた、と言えるから。

だが、彼は誰の気持ちも代弁したつもりはないだろう。
誰かに話を聞いて欲しかったのに、
それが叶わなかったから、あきらめた人なのだ。
アーサーの孤独は憎悪の炎に変わった。
その熱波はわたしたちに向かう。
代弁者なんて悠長なことは言っていられない。
ジョーカーはワイルドカードになり得る。
アーサーが「ジョーカー」を持って任ずる時、
彼がわたしたちの持ち場を乗っ取ることも考えられる。
アーサーは、わたしたちのひとつの姿でもある。
孤独を孤独として抱きしめるのをやめたとき、
わたしたちも「ジョーカー」になるかもしれない。


【アーサーはわたしたちでもある】

心を闇に売り渡し、自分だけの自由を獲得した。
今や明るい陽の光を受け、アーサーは幸せそうだ。
これからの人生は喜劇だ。彼がそう決めたのだから。
べっとり血の着いた足あとを残し、軽快にステップを踏む。
看守と追いかけっこをするラストシーンは、
ドタバタ喜劇映画そのものだ。

アーサーはそれで満足だから良いのだ。
だが彼が血塗られた道を選んだのは、
わたしたちのためではない。
そんなこと、彼はこれっぽっちも考えていない。
わたしたちが、アーサーみたいな人のことなんて
ろくすぽ考えてないのと同じ。
わたしたちが、誰かに気にかけて欲しくてたまらない、
寂しい存在なのと同じだ。

『イエスタデイ』

 


原題:Yesterday
ダニー・ボイル監督
2019年、英

f:id:york8188:20200411145942j:plain

www.youtube.com

スキマ、スキマを見計らっては何度となく観に行っている
『ジョーカー』の影響か、
心の荒みがしだいに深まってくるのを感じているなかで、
(だったら観なきゃ良いじゃんって言われると弱るんだが)
こうした軽快な映画を観ることができたのは、良かった。
世界最高の映画だとまでは思わないにしても、
音楽は良いし、キャラクターは魅力的で、美しいシーンも多い。
とても楽しめた。


【コレやられたらもうかないません、という映画】

圧倒的なまでの「勝ち逃げ」映画でもあった。
「もしも〇〇が・・・だったら」というアプローチで
物語が作られることはめずらしくないと思うが、これを
「もしも実在の世界的ポップアイコンが存在しなかったら」
に設定した場合で、考え得る最大の効果を期待した時に、
「実在の世界的ポップアイコン」
の部分に当てはめるべきは「ビートルズ」一択だろう。
世界にファンを持つビッグネームは数あれど、
社会に文化に経済に政治に爪痕を食いこませ、
年齢、境遇、言語などに関係なく誰もが親しめる楽曲を生んだ、
そんな存在はビートルズをおいて他には考えにくい。
そのビートルズは英国生まれで、
その英国にはダニー・ボイルがいる。
勝ち逃げの構図として完璧だ(笑)
二度と誰にもマネされることがない。
考え得る最高のことをやりおおせたので、
類似品を作ることにも意味がない、と思わせてしまう。



【『大停電』の華麗さよ】

事件の発端となる、世界的な大停電のシーンが美しい。
照明がダウンして、各地の名所観光地が闇にとけていく。
間もなく通電が復旧し、再び動き始める世界。
明るい曲調の音楽とともに鮮やかに表現されていた。
普通、あんな風に急に、広範囲で停電が発生したら、
みんなパニックになるんじゃないかなと思うけど、
深刻な描写は排され、美しさが強調されていた。
 

ビートルズがないとコークもない】

地球上から、ビートルズに関するすべてのものがかき消える。
ビートルズの影響を受けて生まれたはずのものも、
何もかも「ない」ことになる。
例えばロックバンド「oasis」などはカゲも形もない。
だが影響はもっと全方位的に波及するはずだ。
ビートルズがない」ことがどこにどう影響するかなんて、
とても複雑なアルゴリズムの構築的なことをしない限り、
精確な所を打ち出すのは不可能だろう。
監督たちもその辺は真剣に考えるのをあきらめたらしい。
ビートルズがないのでねえ~、という名目のもと
よくわからないものまでテキトーにザクザク消していた(笑)。
例えばペプシはあるがコカコーラはない。
ハリー・ポッター』の存在が抹消されている。
謎だ。
もしかして、熱心なビートルズファンには、
コークやハリポタが消されたことの意味がわかるのだろうか。

 

【多分『パラレルワールド』】

先述の大停電が何かしら作用して、
世界からビートルズがかき消えた。ここから、
『イエスタデイ』の物語が動き出す。
この点についてなんだけど・・・。
主人公ジャックは当初、
「みんな、どうしてあのビートルズ
 忘れちゃったみたいな顔をしてるの??」
って不思議でしょうがないみたいだったけど、
そうじゃないんだと思う。
つまり「集団記憶喪失」ではない。多分、
「『元もとビートルズが存在しない世界』に、
ジャックが飛ばされた」・・・という方が近い。
さっきまで確かにあったビートルズ
「みんなが忘れてしまった」というのなら、
「モノ」の消滅までは起こらないと思うのだ。
それが、レコードやCDなどまでも消え失せた。
ということは、「忘れてしまった」のではなく、
ビートルズが元もと存在しない世界」なのだろう。
いわゆる「パラレルワールド」だ。
そこに、どういうわけだか、
ビートルズが存在する世界の住人であるところの
ジャックが飛ばされてきた。
もっとも、「みんながビートルズを『忘れた』」
とジャックが思ってもおかしくはなかったと思う。
人びとがビートルズを知らないこと以外は、
基本的に元いた世界となんら変わりがなく、
身近な人間関係や体験も連続していたので。
だが、なんといっても、彼は出会った。あの人物に。
会えたのは「ビートルズがない」からに他ならない。
「あったのに、みんなが忘れた」なら、
ジャックがあの人に会える可能性はゼロだ。

この線で考えてみたいことがある。それは、
ビートルズを知るジャックが
ビートルズなき世界に飛ばされたことの、意味だ。

個人的には、それはふたつ見出せる。
先に結論を言ってしまいたい。

ひとつはジャック視点。
「音楽の道をきっぱり断念するきっかけとしての体験」。

もうひとつは、もっと俯瞰的な視点。
ビートルズを知るミュージシャンであるジャックは、
ビートルズがないあの世界のクリエイターたちに、
霊感の源を残した。


【ジャック視点:音楽ではやっていけないと知りながら】

ジャック視点で考えるのは、そんなに難しくない。
元もと彼は、音楽をやめようかなと考え始めていた。
その矢先に友人たちから立派なギターを贈られて、
複雑な表情を浮かべつつ、
「このギターにふさわしい曲を」
と言ってジャックが歌い始めたのは『イエスタデイ』。
自作の曲ではなかった。
自分の曲で世界中の人を喜ばせてみたかった、
でもそれは自分の仕事ではないのだ・・・と
すでに理解していたことがこの行動からくみ取れた。
彼は『イエスタデイ』を「最高の曲だよ」と言った。
自分では作れないが、何が最高かはわかる人なのだ。
だが彼にはエリーがいた。
音楽は彼とエリーをつなぐ大切なものでもあった。
エリーとの関係に煮え切らなかったのは、もしかしたら
いつか成功できたらその時こそ告白すれば良いじゃないか
なんてことを考えていたからかもしれない。
要するに勇気がなくて告白を先延ばしにしていた。
はたしてジャックはスターになれたけれども、
それは他人の曲を失敬することで獲得した地位。
「盗作」を続ける一方で罪悪感は日々ふくらみ、
真実を言えばエリーに軽蔑されると思うと告白もできなくなった。
あまつさえスターになったことで彼女との心の距離は開いた。
これで今の名声まで失ったら、彼にはもう何も残らない。
そんな感じで迷走に迷走を重ねてしまったけど、
ジャックは早くからちゃんと自覚していたのだ。
第一線で認められるミュージシャンにはなれないことを。
腹を決められない言いわけに他人を使うなよって感じだが、
そう言えるのはやっぱり他人ごとだからで、
我がこととなると誰しも意外とこんな風になっちゃうのが、
人間てものじゃないか。
恋とか、人との心のつながりとか・・・要するにエゴだが、
このエゴってやつがからむと、
何かを決めたり断念したりするのが、怖くなるものだ。
吹けば飛ぶようなミュージシャンのジャックでも、
自分と音楽とを切り離すことはきわめて困難だった。
切り離すのにどのくらいの力が必要だったか。具体的には、
ビートルズが存在しない並行世界に、
ビートルズがある世界の人間が1名飛ぶ、
そんな天文学的数値の力場が発生するほどの力だ。
と言って話が飛躍し過ぎなら、こう言っても良い。
ジャックの音楽への執着は強かった。
どのくらい強かったかと言うと、
誰も知らないのを良いことにビートルズの曲でスターになり、
ビートルズの偉大さを思い知るとともに「盗作」の罪悪感に苦しむ
などという余人に関知しがたい所まで自分を追い詰めないと、
音楽の道を断念すべきだというセルフジャッジを
受け入れることができなかったほど、だ。



【俯瞰的な視点:それでも作り続ける者たちのために】

次に、ビートルズを知らないクリエイターたちへの
霊感の源としてのジャック、という視点についてだ。
こっちはもうちょっと複雑な問題のような気がする。
「こうとしか考えられない」と言い切れるだけの
エビデンスがあるわけでもないから
完全なる個人の見解と とらえていただいてかまわない。

何が「最高」かわかる感性を持っているうえに、
その「最高」を自分で作るのだという意志を捨てない、
そんな人も世の中にはいる。
『イエスタデイ』で言えばエド・シーランがそれだと思う。
ジャックの音楽(正確にはジャックが歌うビートルズ)に触れて、
「いつか誰かに追い越されると(思っていたよ)」。
ジャックの音楽の方が、自分のよりも優れていることを
素直に認めた。つらそうだったけど。
エドはそれでも、今後も音楽を作り続けるだろう。
ジャックのラストステージを見ていたはずのエドの反応が
まったく描かれなかったことからわたしはそう感じた。
自分よりもあいつの方が才能があるとか、
あいつと一緒にいると自分がかすむとか、
そんなつらい現実をどれだけ突きつけられようとも、
エドが音楽を続けていくことに変わりはない。
彼は今後も音楽を作る。
ジャックのステージをどんな顔をして見ていたかなんて
描写しなくても明白、ということではないだろうか。

ビートルズを知るミュージシャンであるジャックが、
ビートルズのない世界に降り立ったのは、
エドのような人のためと言えないか。

マネージャーのデブラがジャックにこう言った。
エドはしょせんヨハネね。あなたこそが救世主」。
預言者ヨハネが救世主(イエス・キリスト)の到来を告げ、
人びとに改悛と受洗をすすめてまわったという、
新約聖書のエピソードを引いている。
要するに真のヒーローはあくまでもジャックで、
エドは二番さん、みたいなことだ。失礼な話だが。
この言葉をかりるなら
ジャックは、たとえ人が自分を救世主と呼ぼうとも
預言者であろう、としたのではないか。
自分で最高の曲を作ることはできないと知っているが、
最高の楽曲群を知る唯一のミュージシャンだから。
表舞台から退く代わりに彼が用意した置きみやげは、
最高の曲を作れる可能性を秘めた多くのミュージシャンに
インスピレーションを与えるだろう。
むろんジャックが残したのは本物のビートルズではない。
記憶から必死にたぐりよせた「確かビートルズ」に過ぎない。
でも、ファーストワンマンを訪れたあの二人が言っていた。
ビートルズのない世界はつまらない」。
じきに救世主がおでましになるとのうれしい知らせを
人びとに触れてまわったヨハネのように、
いずれ来る神の国は心貧しき者のものと
福音を告げてまわったイエスのように、
ジャックはビートルズを広めることに決めた。
世界がおもしろくなっていく種を蒔くことにしたのだ。
本物のビートルズがある世界とは、
まったく別の花が咲くことになるのだろうが。



【ジャックも『故郷では尊ばれない』(笑)】

聖書の話が出たので思い出したが
福音書・・・『ヨハネ』や『マタイ』に
預言者は故郷では尊ばれない」
預言者が尊敬されないのは郷里、家族だけ」
という文言がある。
この場合の「預言者」とはイエスのことだ。
エスガリラヤやエルサレムに伝道に行く。
ガリラヤは人としてのイエスの故郷だ。
エルサレムは神殿があるので神の子としてのイエスの故郷。
そのどちらでも、イエスは手放しでは歓迎されない。
ガリラヤでは「イエスのやつ、ちやほやされているけど、
ただの大工の息子だろ」と陰口を叩かれる。
エルサレム神殿ユダヤ当局ととらえるならば
エスは司祭たちにやっかまれ、のち磔刑に処された。
言わば我が家でありながら、安らげなかった。
思えば『イエスタデイ』のジャックもちょっと似てる。
ビートルズの名曲をいくら弾いて聞かせても、
両親や親類にだけは、てんでウケないのだ。 
あの「相手にしてもらえないっぷり」は、必見モノだった。

 

【名もなきひとりの人として】

ラストステージを控えて、
ある人物との対話の時間を持ち、ジャックは感激していた。
その人物は、歴史に残るような偉大なことは何もしなかった。
だが、自分の人生を元気でしっかりと歩んでいた。
すべてをなげうつ覚悟を決めようとしていたジャックにとって、
これほど勇気がもらえることはなかっただろう。

平穏な生活を取り戻したジャックは、
「やっぱり普通が良いよ・・・」とつぶやいた。
映画の主人公にしちゃ夢のないことを言うなあ、と
このセリフを聞いて思った人も、いたかもしれない。
でも、自分の役割を知り、専心することは
夢のないことでも、つまらないことでもない。
その充実は、やってみて初めて感じられるんだと思う。
子どもたちと『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を歌う
ジャックの姿をうつしだして、物語は幕を閉じた。
彼も、エリーも幸福そうに見えた。
ジャックは、自分の役割を知ったのだと思う。