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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

Netflixドラマ『FOLLOWERS』-第6話

 

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)

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【第6話 あらすじ】

自分と向き合い、再び前を向くなつめだが、
現実は厳しく、さらなる試練が降りかかる。
歌手のSAYOはプレッシャーの中でもがく。
リミにもたらされる吉報。
エリコは忍び寄る病のかげで恋人との関係に悩む。



【第6話 疑問・謎】

・なつめが着たきりスズメ状態。
 特に、台本の読み合わせの前夜? と
 台本の読み合わせが行われた日(昼間)と、
 台本の読み合わせが終了した日の夜、全部同じ服装だ。
 読み合わせ前日の昼間からあの服装だったと考えると
 丸二日とちょっと、同じ服装でいたことになると思う。
 着回しているならまだしも、着こなしまで同じだ。
 「小さな役でもベストを尽くそうと練習に励むなつめの数日」
 のダイジェスト的シーンだったので、
 同じ日のはずでもシーンが離れていたり
 さっきとこのシーンとは離れているが同じ服だったりと
 そういうことがある程度起こるのは、理解できる。
 だが、なつめは大変なおしゃれさんだ。
 その彼女が、同じ服を、同じ着こなしで、
 例えば一昨日と今日といったような近い間隔で
 続けて着用することなど、ありえないのではないか。
 時間が確かに経過していることを示すためにも、
 シーンをシャッフルするのではなく、
 過去から今へと順番通りに流して、
 都度、衣装を変えた方が良かったのではないだろうか。
 素人考えで恐縮だが。

・リミの懐妊が判明した場面の直後に、
 どこぞの砂漠で撮影に励むタミオの姿が一瞬入るのだが、
 これだとまるで子どもの父親がタミオかのようだ。
 だが父親は別の男友達(中村獅童)のはず。
 誤解を招きかねない描写を入れるのはいかがなものか。
 え、まさかタミオの子だとでも言うのか???
 どうでも良いけどあの友達(中村獅童)、
 ちゃんともう一度くらい登場させてやるんだろうな。 
 性的マイノリティである自分は子どもを持ちにくいから
 自分の遺伝子(子ども)を見てみたい、って言っていたぞ。 

・なつめはもうあきらめちゃうの?
 端役ながらテレビドラマに出演したにも関わらず
 エンドクレジットに名前が表示されなかった。
 己の引き起こした炎上騒動のせいでスポンサーから
 名前表示にストップがかかったのだ。
 落ち込んだなつめは
 「あたしはやっぱりただの平凡な『丸』だった」。
 ※「平凡な『丸』」については、過去の回において、
  なつめが説明している。実際に観てご確認を。
 まさかもうあきらめちゃうの?? 早くない?
 あきらめる理由は「傷付くのが怖い」。うーん。
 ちなみにこの劇中ドラマのエンドクレジット、
 映像もフォントも、目も眩むほどダサかった。
 安っぽいカラオケ映像みたい。 

・なつめの行動原理がおかしい。
 芸能活動を辞めるようなことをヒラクに言ったくせに、
 炎上の謝罪コメントを撮ることを事務所に指示されると、
 「顔も見えない人たちに謝るくらいなら辞めます」。
 イヤ、君、つい昨夜、あたしはどうせ平凡な・・・とか
 辞めたいようなことを自分で言っていたじゃないか。
 「意に染まないことをさせられるから」
 という大義名分を得て格好をつけたつもりか。
 でも、それはいったい誰に対しての大義名分だ。
 編集の問題(エピソードの配置の順番がおかしい)か、
 登場人物の心情の描写がデタラメなのか。
 このドラマ、みんな精神を病んでいるというか・・・
 自分のしたことを一晩寝たら忘れちゃう人みたいに見える。 

・リミの父親のセリフがヤバイ
 「ママの時代はどんなに勉強できて能力があっても
  女性は『家庭か・仕事か』の二択しかなかった。
  ママがリミの世代に生まれていたらきっと
  (リミと)同じようにバリバリ働いてたと思うよ」
 男性であるリミの父親にこれを言わせる脚本家の神経。
 フェミニズム論やジェンダーダイバーシティ理論が
 男こそそういう時代を作って強化してきた体制側、
 という基調で構築されていることを理解してないのか。
 百歩譲ってもこれは母親に言わせるべきセリフだろう。
 それともこの父親はフェミニズムの論客か何かなのか。

・SAYOを励ますあかねのセリフがヒドイ
 「あなたの声で あなたの歌声で
 救われている人たちがたくさんいる
 あなたは神さまにギフトを与えられたの
 そしてトップに立ったの
 ステージに立つのは義務なのよ あなたの運命なの
 毎日 毎日 山のように送られてくるデモテープの中から
 あなた見つけた時 あなたの歌声を聞いた時
 私 思わず叫んだのよ『ああ これだ!』って」
 薄っぺらいだけならまだしも、このセリフ
 あかねの無能っぷりを露呈している。
 「ギフト」「義務」「運命」・・・オエっ。
 言わされた板谷由夏が本当に気の毒だ。
 優秀な女優さんになんてことを言わせるんだ。
 特にデモテープうんぬんという後半の部分。
 このようなことを本気で思っているならば、
 「私のために歌って」と一言 言えば。
 SAYOのことを本気で考えていないようにしか見えない。
 こう言っておけば場が収まる、という常套句を
 並べただけ、って感じだ。この時のあかねは。
 だいたいあかね自身がSAYOの歌に惚れ込んでいることを
 示す描写など、これまでの回に、なかったぞ。
 それに、事務所の壁は、SAYOのポスターでいっぱいだ。
 SAYOはルックスを前面に押し出して売られているのだ。
 当初はSAYO本人もそのことに満足していたようだ。
 だが息長く活躍できる見込みのある歌手に、
 この売り方をずっと適用していくことは酷というものでは。
 SAYOが歌に対して非常に真剣であることは、録音中に
 「これじゃ伝わらない」と言って泣く姿を見れば明白だ。
 彼女は歌を通じてクリエイティヴィティを追究している。
 見た目を取りざたされる売られ方が精神的な重圧となり
 彼女が真価を発揮することを阻んでいる。
 マネジメントの失策だ。
 才能ある者としての「義務」を果たさせたいなら、
 SAYOの性格や志向次第で柔軟に方針を変える必要があった。

 あかねはこんな人をバカにしたお世辞を並べ立てて
 SAYOをうまく動かしている気になっているみたいだが、
 その割になつめのような新人に「辞めてやる!」と
 啖呵を切られて動揺していた。
 なつめが去ってあんなに困った様子を見せるということは、
 事務所として、かなりなつめを重要視しているのだろう。
 だが・・・そこがピンとこないんだよ。
 なつめがそれほどの人材だ、という納得感がない。 
 やっぱり、あかねが単に仕事できないだけじゃない?
 だって、・・・そういう風に見えちゃうよ、これじゃ。

・スエオがエリコの病を知るシーンがちょっと・・・
 ブラウザの検索履歴に「乳がん」とかズラリと出てきたら、
 よほどの鈍感でない限り何かしら勘付いて当然だろうが、
 スエオの反応は、早合点が過ぎないか。
 「乳がんについて調べていたみたいだけど、
  もしかして体調に不安でもあるの」
 そう聞いてみれば良いではないか。そうすればエリコは
 「そんな歳だから一応ね」「友人に罹った人がいてね」
 その場しのぎを言うこともできた。
 こうして時を稼いでお互い冷静になったなら、
 病気の件でじっくり語り合うこともできたろう。
    このドラマの登場人物は、とにかくやたらとせっかちだ。
 まあ、その理由はわかるよ。
 「話を早く先に進めたい」。
 どのエピソードもどのシーンも、説明のための説明。
 役者の熱演がもったいないなあ、FOLLOWERS。



【第6話 好感】

・あかねの薄~い励ましは噴飯ものだが
 同じシーンのSAYOの表情は良かった。
 不安定で幼い、彼女の内面が伝わった。
 しゃべり方が幼稚園児みたいで腹立つが。
 SAYOが床にくずおれるのと同時に、
 壁に貼られたポスターもずり落ちる、という
 あの構図も良かった。

・エリコのパソコンの検索履歴を見て動揺する
 スエオの演技も、素直な感じで良いと思った。


物語の本質、方向性を探るうえで
第6話からは一筋の光さえ見えない。
基本的に退屈なドラマという印象しか今の所、ないが、
この回は特にひどかった。

Netflixドラマ『FOLLOWERS』-第5話

 

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)

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【第5話 あらすじ】

タミオと再会し、ふたりの将来に夢をふくらませるリミだが
彼から思いがけない告白を受ける。
バッシングで落ち込むなつめは、親友の叱咤も受け入れられず。
あかねはマンションの隣に引っ越してきた男性と距離を縮める。
エリコの息子ルイは、エリコの年下の恋人スエオに心を開く。




【第5話 疑問・謎】

・売れっ子とは言え一介の写真家の誕生日パーティー
 こんなにも盛大に開催されるものか。
 40にもなろうという良い大人の誕生日祝いなのに、
 なんて享楽的で、頭の悪そうなパーティーなんだ。
 
・なつめが炎上したことが納得しにくい。
 知名度がある程度なければバッシングのしがいもなく
 あんなに話題にはならないのではないかと思う。
 だが、なつめがバッシングにさらされるほどの知名度
 獲得していたと納得できる十分な描写がなされていない。
 だから、彼女が炎上し叩かれることがピンと来にくい。
 例えばトーク番組に出演したり、取材を受けたりして、
 カメラの前で印象的な発言をするシーンでもあれば、
 彼女が世間にどうとらえられているか、少しは感じられた。
 でも彼女はまだタレントとして何ら公的な発言をしていない。
 これでは世間と彼女との関係も全然わからないのではないか。

・キャラクターの言動に一貫性がないことについて説明が不十分
 <例:タミオ>
 大手写真誌の仕事を蹴ったと後輩に語ったのに、
 結局その写真誌の仕事が決まったと言って、リミの元を去る。
 <例:リミ>
 タミオとの子を持てる可能性が低いと判明したにも関わらず
 「最近元彼(タミオ)とイイ感じでさ・・・」と友人に話す。
 <例:サニー>
 失恋の痛手でスランプに陥っていたサニーに至っては、
 「悩むくらいなら告白しろ、好きな人がいることは幸せなこと」
 と友人にアドバイスされると、
 まだなつめに愛を告白したわけでもないのに突如元気になり、
 アホの子みたいに笑いながら街を走り抜け創作に没頭し始める。
 このドラマのキャラの中で、サニーが一番、挙動がおかしい。
 頭大丈夫か。


【第5話 好感】

今から述べる点を、果たして、この物語の良い所として
確定的に評価して良いのかどうか、まだ自信はないが・・・
 
・やはり、下手なサブリミナル効果か強迫観念のごとく
 何度も何度も何度も挿入される東京タワーのカットは、
 リミが内面化している未成熟なフェミニズム的価値観が
 言わば具現化したものである、との実感を強めた。
 (それが使い古されたメタ表現かどうかは別として)
 直截な表現をすれば
 「屹立する東京タワーのように立派な男根は私にはない。
  でも、あたかもあるかのような勢いでタフにハングリーに
  『男らしく』生きる、それが私なのよ!」。
 だが、第5話で、リミとタミオが東京タワーの内部に入り、
 リミはそこで、タミオから重大な告白を受ける。
 実は彼は子どもができにくい体質になっていたのだ。
 リミの「新しい女」幻想の投影としての東京タワーが
 この時、内側からへし折れたと解釈できると思う。
 だが、リミが、このできごとから何かの学びを得れば、
 この東京タワーから「成長」という素晴らしい成果が
 放出されることになる。そういう風にも言えるのでは。
 具体的にはどういうことかと言うと、
 リミの第一希望はタミオと結婚して子どもをもうけること。
 望めばそれは叶えられる、リミは当然のようにそう思っていた。
 好きな男と結婚すれば、1年か2年で自然に妊娠できる、
 そうに決まっている・・・みたいな感覚だ。
 だが、タミオの告白を受けて初めて、
 その考え方の幼稚さを知ったのだろう。
 自分が当たり前だと思っていることが、そうではないこと。
 他人には他人の独自の人生、さまざまな事情があること。
 他人は自分の理想の人生設計のためのパーツではないこと。
 そういうことを知ったのだと思う。
 タミオも早晩、体のことをリミに話すつもりだったのかも。
 でもその時期は彼にとっては今ではなかったかもしれない。
 それなのにリミは、何も知らなかったとは言え、
 自分の要求を無邪気に押し付けたことで、あまりに性急に
 タミオにとってきわめてナイーブな告白をさせてしまった。
 リミはそんな自分を心底恥ずかしく思ったのではないか。
 否、彼女がそういうことを、ほんの少しでも思えたなら、
 (別にそのままこの通りの気持ちではなくてもかまわない)
 それだけでも彼女はかなり何か、変わってくる気がする。
 実際、この後リミは、かねて精子提供を打診していた友人
中村獅童)と会い、セクシャルマイノリティとしての彼の
 複雑な悩みを知る機会に触れている。
 これも、リミの学びと成長の可能性を示唆し、補強する
 重要なエピソードだったと言えるはずだ。
 ・・・はず。多分。

・「眼そらさないでさ ちゃんと傷付いたら?」から始まる
 サニーのセリフは秀逸であった。
 炎上騒ぎでイジケたなつめを叱咤しての言葉だった。
 アホの子サニーちゃん的な印象が固まりつつあったが
 瞬間的にやる気スイッチオン! である。 
 サニーちゃん、どうした急に!! 目が覚めたのか!!
 蜷川実花監督!! やればできるじゃないですか!!!
 一瞬だけど監督のこと見直しそうになりましたよ!!!
 こういう生きたセリフ、すごく良いですよ!!!
 なんですかこれは。良いじゃありませんか!!!
 監督の実生活のどこかでこんなやり取りがあったのかね? 

・子どもが欲しいリミのために、自分に何かできないかと
 タミオが奔走する場面は、可愛くてとても良かった。
 オーガニック食品店の店員との会話はバカバカしすぎて、
 あんなシーンは丸ごと焼き棄てちまえ、と思ったけど、
 でも、病院のシーンは良かったな。キュートで笑えた。
 タミオ役が浅野忠信で良かったな、と一瞬思った。
 タミオがこんなに努力したことを、リミは知らない。
 このことを、いったいどう解釈すれば良いのか・・・。
 というか、身もフタもないことを言うようで恐縮だが、
 リミとは、周囲の人たちがこうまでこぞって
 何かしてあげたいと思うほどの人物なんですかね。
 リミの何が彼らにそうさせるんですかね。
 改めて考えてみると、その部分、まったく共感できない。
 何かしたい! 力になりたい! とみんなが思う人物、
 それがリミです、と思わせる説得力がこのドラマにはない。
 ひとつだけわかるとすれば、かつて下積み期だった友人に
 カレーライスをおごったことがあるということくらいだ。

【第5話 疑問・謎(蒸し返し)】

 話を蒸し返すようで恐縮だが
 あれだよな、タミオは結局、あきらめたんだよな。
 先に述べた通り、タミオは子どもができにくい体質だ。
 だが、子どもを持ちたいというリミの夢を知って、
 俺ももう一度、自分の可能性に賭けてみようかな・・・と
 発奮したようだった。理論上、可能性はゼロではないのだ。
 でも、結果としては、やはり難しかった。
 これを受けてタミオは、リミの元を去る、
 普通にストーリーを見守る限り、そういう流れだった。
 体質という事情があるのだし、努力を断念したのは是非もない。
 だが、おかしいと思ったのは、その時のタミオの言い草だ。
 もっと言うなら、やはり作り手の不手際からくる説明不足。
 タミオは、リミにこう伝える必要があったのではないか。
 「君は子どもが欲しいんだよね。
  俺はこの通り、難しい体質なんだ。
  でも、ダメだったらゴメンだけど、ちょっと努力してみる。
  君を見てたら、何だか、そうしてみたくなったんだ」
 それがなかった。物語上のタミオの行動は以下の通りだ。
 (1)リミに「子どもができにくい体質」と告白
 (2)わずかな可能性に賭けてこっそりあれこれ奔走
 (3)でもやっぱりダメだった。あきらめる
 (4)リミに伝える
   「二人で暮らすのはムリ」「大きな仕事が決まった」
   「自分の心の声を聞け」「求めよさらば与えられん」 
 (5)リミの元を去る 
 努力したことをリミに伝えもせずに、
 「お前が本当に欲しいのは妊娠出産で、俺ではない」
 と決めつけたに等しいことを言ってのけ、勝手に去った。
 この流れはどうか。
 もしかしてと思って俺も頑張ってみたけどダメだった、
 俺と一緒にいてもやっぱり子どもは望めそうにないよ、
 でも、そのうえで、俺は君と一緒にいたいと思う。
 君はどうしたい? ・・・と 
 なぜリミに一度でも、確認しなかったのだろう。
 というかタミオは何のためにリミの前に現れたのか。
 タミオ自身は、リミと何がしたかったのか。
 まったくわからない・・・
 単純にリミに何かしらの心地良いものを提供するか、
 成長を促す存在として登場させただけ? としか思えない。
 リミの第一希望はタミオの指摘通り「子ども」であり、
 子どもさえ持てれば父親は誰でも良い、のだろうか?

わからない・・・
わからないことが多すぎる・・・
登場人物たちに意味不明な行動をさせまくって
各話ごとに数えきれないほどの疑問点を残していく。
これらのすべてが計画的な問題提起であり
最終話に向けてひとつひとつ収束し解決されていく
そう信じて観ていて良いのだろうか???
頼むよ。頼むからそうであってくれ。

リミとなつめはいつ出会うんだ!!!

Netflixドラマ『FOLLOWERS』-第4話

 

 

英題:FOLLOWERS
蜷川実花監督
全9話
2020年2月27日全話一挙配信(完結)

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この物語には、視聴者へのメッセージとなりうる要素が
すごくいろいろ含まれている。
多分、そのことは、蜷川実花監督も、理解している。
だが、それらの全部を伝えたいためにポイントを絞れなくて
結果、どれも伝わらなくなっている・・・あるいは、
「どれも、大して『伝えたい』と思っていない」。
「メッセージとなりうるものがあることを認識している」と、
「メッセージを伝えたい」とは、全然違うからなあ・・・

で、まあ、正直な所、どうでも良いんだけど、
結局、何がしたいんだこのドラマは。
どこに行きたいのかが見えてこない。
4~6話を観てみても、虚無が深まるばかりだ。
突破口は、いつ見えるんだろうか。
なつめとリミの邂逅の時はいつ訪れるのか。
ふたりの出会いこそこの物語の唯一の希望、と
わたしは思ってるのだが。
でも、出会う気配がまったくない・・・
つらい・・・。 観るのがひたすらにつらい・・・。
ろくな結末にならないという予感しかしない・・・。



【第4話 あらすじ】

女優の卵なつめ(池田エライザ)にチャンスが到来。
あかね(板谷由夏)が務める大手芸能事務所に移籍したことで
念願の女優の仕事が入るようになり、人気も急上昇していく。
だが、浮かれた彼女の軽率な言動を、メディアがキャッチ。
またたくまに炎上さわぎとなってしまう。
リミ(中谷美紀)は、昔の恋人タミオ(浅野忠信)と再会。
エリコ(夏木マリ)は、体調に違和感を覚えて病院へ。




【第4話 疑問・謎】

・ドリーミーな母の突然の来訪につきあわされて
 疲弊したリミが「血を吐く」、というジョーク演出
 ダサい。とてつもなく。


・思えば、
 リミが物語の序盤で流産したのは誰との間の子なんだ???
 タミオとは10年ぶりと言うから、彼との子ではないようだ。

・ゆる子は、一体何の用事で、あかねに電話をかけたんだ。
 さては、用事、ないだろ。あれは、
「芸能事務所は、所属タレントの話題作りのために、
 時にはこんなこともするんです」
 という説明をさせて「それっぽさ」を出すために
 ゆる子とあかねの電話シーンを入れただけだろ。
 そういう、説明のための説明みたいなの、カッコ悪い。
 しかも第4話全体を見ても、
 まったく必要性が感じられない説明だった。
 そういうの、めちゃくちゃ不細工だ。

・服飾ブランドの新作発表会? で、なつめとSAYO(中島美嘉)が
 全く同じドレスであわや鉢合わせ、というアクシデントが発生。
 あかねはSAYOにつきっきりで、新人のなつめのマネジメントは
 部下にでも任せているのだろう。それは容易に想像できる。だが、
 気まぐれなSAYOが予定と違うドレスを着てきて困ったのはまだしも
 あかねが、なつめのドレスを把握していない、というのは謎だ。
 いや、そういう手違いも現実にはありえるのかもしれない。
 でも、それまでのあかねの、なつめとの関わり方を見ていた限り、
 あかねは、なつめの衣装くらい、完全に把握していそうだった。
 そのくらいなつめにコミットしているかのように描いていた。
 なのに「イヤ、衣装までは把握していません」と落とされたので、
 違和感を覚えた。というか「あかね仕事できないなあ」って印象。
 同じ現場に、所属タレントを複数人いっせいに出席させる場合、
 その全員が着用する衣装を簡単に一覧チェックできるような、
 システムくらい、導入していないのだろうか。
 大手芸能事務所なのに。
 ばーっと画像で一覧チェックできれば、色カブリ対策くらいは
 できると思うけどね。やってないのかね。
 「大手芸能事務所」への全能イメージ強すぎか、わたしは。

・あかねの「お隣さんとの恋の予感」エピソードが
 この物語にとって何の意味があるのか、わからない。
 だがこのお隣さんのおかげで、知識層のキャラクターが
 ようやくひとり加わったことになるな。

・エリコが、本当に病気になった・・・ サマンサ過ぎる。
 どうでも良いのだがエリコの診察をする医師は、
 なんであんなに偉そうなんだ。タメグチ。

・なつめのモデル仲間たちがSNSで繰り広げる陰口の文言が、
 紋切り型で幼稚で、ダサい。陰口とは、もっと言葉を工夫して、
 さも自分は正しいことを言っています風にやるものだろう。
 あんなおこちゃまな文言で、言いたいこと言っているようでは、
 途中で自分が情けなくなってきて、書けたものではない。
 モデルなんて美人なだけでおつむは弱いです、と言いたいのか。

・蜷川監督が「3分に1回東京タワーを撮らないと脳が爆発する」
 という強迫観念にとらわれているのか・・・? と思うほど、
 東京タワーの映像が頻繁に差しはさまれる。
 第1話からずっとだ。
 あの東京タワーに何の意味があるのか。
 意味があるよ、と訴えているとしか思えない頻出っぷりだ。
 第1話~第3話までは、物語の構造に、強烈に内面化された
 未熟なフェミニズムを感じた。
 だから、個人的な解釈としては、あの屹立した東京タワーは、
 「『男のように』何でもできる、それがこれからの強い女」
 とか思っているリミの言わば内的「男根」の投影、と見ていた。
 女に「それ」はないけど、「それ」が生えてくるくらいの勢いで
 タフに男らしく生きるのよ! 的な、・・・そういうことだ。
 バカなことを言っていると思われるかもしれないけど、
 タワー状のものを、そういうことのメタファとするのは
 古典的な手法と言えるし、というかオーソドックス過ぎて
 今や誰もやらないくらいの感じじゃないかなとわたしは思う。
 だが、今回観た第4話~第6話では、
 「フェミニズム」とかそういうテーマ感が、
 もうすっかり鳴りをひそめてしまっている・・・。
 東京タワーに込められた意味も、だから、わからなくなった。
 まあ、意味がなくてもあっても、正直どうでも良いのだが、
 もし東京タワーでなくても別に良いのであれば、
 たまにはスカイツリーも入れてあげたら。 
 
・なつめは、一体、何を根拠に、自分は演技ができるとか
 すぐにも主役が張れるみたいなことを考えているのか。
 自分の言っていることがおかしいと思わないのだろうか。
 大手事務所に入ったから、言えばどんな希望も叶うと
 信じ切っているフシがある所が、非常に痛々しい。
 そもそも、なつめというキャラクターの造型には何か
 もっと決定的におかしな部分があるように思う。
 それがまだうまく説明できない。 

・パーティーで、VIPルームの前にセキュリティがいて、
 なつめは最初、通してもらえなかった。
 だが、なつめを迎えに来たヒラクは部屋にすんなり入ってきた。
 セキュリティはどこに行った。
 自分で作った世界観をものの1分で破壊しないでくれ。
 


【第4話 好感】

・なつめに嫉妬するモデル仲間の表情やしぐさが、
 あんまりわざとらしくなくて、良いなと感じた。
 思えばあのモデルたちは、なつめの初めての撮影の時から、
 ちょっとおもしろくなさそうな空気を出していた。

・タミオ、というか浅野忠信が順調にヘラヘラしている。
 「笑ってねえよ・・・」と言いながら煙草をふかす、
 タミオ、というか浅野忠信のヘラヘラした表情が良い。

・なつめの「ねえ電気消して」の言い方と、そのあとの
 「ふふっ」と笑うのが、自然でかわいい。

・エリコが体調の違和感に気付くシーンは良かった。
 実際、ああいうものなのかもしれない。

・本人役で出演の山田優が、のびのびとしていて良い。

・なつめの身の程知らずな言動に内心あきれるあかねの
 一瞬の表情が最高だった。
 あかね役の板谷由夏は、セリフも明瞭で聞き取りやすいし
 役者としてちゃんと仕事している感じを受け好感が持てる。


第4話は こんな所か。
率直に言って、もうこのドラマには
全然期待していないけれども、
一応最後まで物語を見守っていこうと思う。

『ムーンライト』

原題:Moonlight
バリー・ジェンキンス監督・脚本
2016年、米

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この映画がアカデミー賞を獲った時、
映画館で公開されたけど、
その時には観なかったので、今観てみた。

製作会社「A24」の社名を最近目にすることが多い。
今すぐに出てくる限りでは確か、
『ミッドサマー』『手紙は憶えている
エクス・マキナ』のオープニングで
「A24」のロゴを見たと記憶している。
この3作品はわたしはどれも大好きだった。
めちゃくちゃおもしろかった。
ノッてる製作会社なんですかね~。
(良くわかってない・・・)

『ムーンライト』は個人的にはまあまあ、かなあ・・・。
なんか、批判しちゃいけない雰囲気を感じるんだけど(笑)、
とにかく大人しすぎる。
2時間、ほとんど何も起こらないではないか。
それに、びっくりするほどパーソナルな物語だった。
同じ年に、これとアカデミー最優秀作品賞を争ったのは、
ラ・ラ・ランド』じゃなかったっけ??? 
テイスト的に対極すぎるよね!
アカデミー賞、懐が深いなあ(笑)。

細部の描き込みは、もう少し欲しかったよな~。
シャロンの生活ののっぴきならなさが十分に伝わらない。
こんな風に言ってはアレなのかもしれないんだけど、
あれだと母親のポーラが、「まとも過ぎる」と感じた。
テレビは観ちゃダメ、本でも読んでなさい、と言ったことで
「(子どもには言えないけど)電気が止められている」
ということをほのめかしていたのは、うまかった気もするが。
なんかな~。
シャロンのつらさをもう少し濃いめに伝えて欲しかった。
この物語は、シャロンが、長い長い闇夜のような孤独の中で、
誰か一人でも良いから心をつないでくれる人が欲しいと願う、
その切なる思いをたどるものだった、とわたしは思う。
そのためにはやっぱり、彼の環境をもっと過酷なものに
しなくちゃいけなかったはずだと思うのだ、
特に家庭環境を。

でも何もかもがダメだとはまったく思わなかった。
良い所もたくさんある映画だった。
シャロンは繊細な性格で、比較的、頻繁に泣くのだが
その泣くシーンがいつも本当につらそうで、とても良い。
唯一の友だちのケヴィンに裏切られた形となってしまい、
同級生の集団リンチに遭った所を救護されたシャロンは、
カウンセラーに、いじめのことを打ち明けるよう促されるが
「何も知らないくせに」と、むせぶように泣いた。
あの場面には、わたしも観ていて胸が痛んだ。
シャロンの苦悩は、とても深い所にあったのだろう。

暴力を振るわれた経験はわたしもあるので想像がつく。
暴力を、肉体に受けると、壊れるのは体だけではない。
心の真ん中の、芯の部分、自尊心とでも言えば良いのか、
ともかく人が生きるうえで非常に重大な心の部分が、
狙いすましたように、激しく損なわれるものなのだ。
具体的には、体を殴られると、
自分はこういう風に扱われて当然のゴミみたいな存在なんだ、
という気持ちが生まれる。
ものすごく陰惨で、強固にいじけた、弱よわしい気持ちだ。
変だと思うかもしれないが、たった1回の暴力でも、そうだ。
とてもじゃないが自分ひとりの力では立ち上がれない。
そんな、心の奥の奥の方なんて、他のことではそうそう
簡単に揺れ動かないはずなのに、肉体への暴力は、
非常に的確にそこを突いてくるから、とても不思議だ。
こんなに激しく心を破壊されたら、生きていくことが
きわめて困難になってしまう。肉体への暴力は、
心にそのくらい強く影響を及ぼすものだ。

でも、誰かを大切に思うこと、この人が好きだと思うこと、
その気持ちも、自尊心を高めて、心の芯の部分を温め、
生きていくことができると思わせてくれる、得難い感情だ。
ケヴィンに殴られたシャロンの痛みは、だからこそ強いのだ。
ケヴィンに殴られたけど、シャロンはケヴィンが好きだった。
気が弱く、あまり自己主張をするタイプではないシャロンだが、
ケヴィンを思う気持ち、これだけは何があっても譲れなくて、
誰とも分かち合えない。
だからケヴィンに殴られ、ケヴィンが好きだという気持ちは、
シャロンだけの苦しみなのだと思う。他人にはわからない。
彼が「何も知らないくせに」と言って泣いたのは、
それだからだったのではないだろうか。

母とシャロンの和解の場面も、決して悪くなかった。
あんなに簡単に和解できてしまう展開それ自体は、
何だかイージーだな~! と思ったけど・・・。
ここでも、シャロンは少しだけ泣く。
母親の謝罪の言葉を聞いた時、シャロンの左のほほを
一筋、涙が伝って落ちたのがあまりに痛切で、美しかった。
何か、ああ、もうこれで良いや・・・という気になった。

良いんだよね~あのシャロンのキャラクター。繊細な・・・
子ども時代/10代/成人後と全部違う役者が演じていたけど
ナイーブな性格をずっとちゃんと受け継いで表現していて
素晴らしかったと思う。

基本的には正直言ってわりと退屈な物語だったが、
シャロンとケヴィンの再会~ラストシーンまでは、
ラブストーリーとしてなんだかすっごくドキドキしちゃった。
お店でケヴィンがかけてくれた音楽が
バーバラ・ルイスの『ハロー・ストレンジャー』なのが
泣かすよ。
「とってもしばらくだね、会いに来てくれてうれしいよ」
そんな、古い顔なじみへの優しい呼びかけの歌だと思う。

良く見るとシャロンの車のナンバープレートが
「BLACK305」になっていた。この「BLACK」は、
子どもの頃、ケヴィンだけが用いた、シャロンの愛称なのだ。
シャロンが打ち明けた通り、彼にとっては今までずっと、
かつてのケヴィンとの思い出だけが心の拠り所だった、
ということなんだろうね。

ケヴィンとは過去にはあんなできごとがあったけど、
シャロンは最初から、彼を赦していたのかもしれない。

『アースクエイク・バード』

原題:Earthquake Bird
ウォッシュ・ウェストモアランド監督
2019年、アメリ
Netflixで2019年11月15日~ 独占配信中

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1989年の東京を舞台に描かれるサイコサスペンス。
スウェーデン人のルーシーは、5年ほど前に日本に単身移り住み、
翻訳会社で働いている。彼女は日本人男性のテイジと恋に落ちるが、
やがて彼と、女友達リリーとの、三角関係に苦しむようになる。
そんな時、リリーが行方不明になり、ルーシーはリリー殺しの
嫌疑をかけられ、日本警察の追及を受けることとなる。

ルーシーはアリシア・ヴィキャンデル
テイジは三代目 J SOUL BROTHERS小林直己
リリーはライリー・キーオがそれぞれ演じている。

ストーリーは、先が見え見えで、凡庸だ。
でも、雰囲気が良くて、観るのはイヤじゃなかった。
別におもしろいわけでも何でもなかったのに、ただ単純に
また観たいという気持ちになって、3回も繰り返し観た。

舞台となる日本の情景描写に、力が入れられていたことが
雰囲気の醸成に良い影響を与えていたのではないだろうか。
日本は日本と言っても、1989年なので、
街の見た目も人びとの服も言葉遣いも、今とは違ったのだろう。
おそらくはとても微妙なその「違い」が意欲的に再現されていた。
知っている街のはずだが、どこか今とはちょっと違う、
違うのだが、何か懐かしく好ましい、そんな感じが、
この映画を観ていると、ずっとあって、そこが良かった。
しとしとと雨の降る場面が多かったのも、
夏の日本が舞台のこの映画らしくて、悪くなかった。

まあ、
ヒロインが趣味で参加している弦楽四重奏のグループが、
なぜ普段の練習の時に、わざわざ和装なのかとか、
あと、あのカルテットのメンバーはみんな、
ヒロインよりもかなり年齢層が上のようだったのだが、
ヒロインは彼女たちとどうやって接点を持ったのか? とか、
それから、確かに日本は地震が多い国だけど、
あんなにめちゃくちゃ揺れるかなあ・・・とか
いくらバブル期とはいえ、一人暮らしの外国人女性が、
あんな広くて快適な部屋をかりられたのかな? とかとか
「?」となる部分が少なくなかったが、
しかしそれもまあ、言うほど気にはならなかった。

キャラクターの造型や心の動きの描写が不十分だったせいか
3人の主要キャラのうち誰にも感情移入できなかったのは、
ちょっと問題のような気もしたが、まあこんなもんかと思う。
何をやっているのかわからない、というほどのことはなかった。
役者さんは3人とも、自分の仕事をちゃんとしていた。

特にルーシー役のアリシア・ヴィキャンデルは良かった。
ルーシーの過去のつらいできごとが淡々と振り返られていき、
それはいずれも、実に良く聞く話で、これと言って
関心をそそられるようなものでは正直なかったが、
ただ、ルーシーが語ったそれらの「過去」が事実なのか、
それともルーシーの幻想に過ぎなかったのか、
判然としないようになっていた。そのために、
「何か怪しいな」
「まだ何か隠されているのではないか?」
と常に思わされた。
(まあ、結局なんにもなかったんだけど)
この、ミステリアスな感じが最後まで持続したのは、
アリシア・ヴィキャンデルの演技が良かったからだと思う。

テイジは、ルーシーと出会った日の夜に、
地震鳥/Earthquake Bird」について説明している。
地震がおさまった時に耳をすますと微かに聞こえる鳥の声だと。
ルーシーは日本に来て長いのだが、日本の地震の多さには
なかなか慣れないようで、揺れると、かなりおびえていた。
そこへ、テイジがこの鳥の声のことを教えたので、
彼女は「地震鳥」を、心のお守りにするようになる。
波立つ気分を落ち着かせてくれるさえずり、という風に。
でも、わたしが思うに・・・
鳥が鳴くのは地震の前じゃないのかね?
大きな自然災害の直前に、動物たちがおかしな行動をした、
という話は良く聞くし、
今までどこに隠れていたのかと思うほどの鳥の大群が、
一斉に空に飛び立つのを見ることがあって、そんな時は
「何かあったから鳥が飛んだ」というよりはむしろ、
「鳥が飛び立ったので、これから何かあるのでは」
と思うではないか。不思議な感覚ではあるが。
だから鳥が鳴くのは地震のあとじゃなくて、
感覚としては、地震の「前」じゃないかな。
そこから考えると、この物語における地震鳥は、
「平穏が訪れたことを知らせる音」なのではなく、
「何か良くないことが起こる先触れ」だったのでは。

リリーは、ちょっと気になるキャラクターではあった。
ルーシーにしてみれば、リリーは不愉快な女友達だろう。
なんだかちょっとずうずうしい所があるし、
決意を胸に、異国の地で独力で生きてきたルーシーと比べると
軽いノリで日本に来て、人に頼り切ってヘラヘラと暮らしている。
そんな風に見えて、うとましく感じても、しかたがないと思う。
何より、テイジにちょっかいをかけたしね。
でも、他人の眼でこの映画を観ている分には、
リリーは、不思議と全然イヤな子ではなかった。
確かに人のプライバシーにやや強引に入ってくる所はあるが
他人に迷惑をかけるようなことはないし、性格も快活だ。
ルーシーも、何だかんだで、
優しく明るいリリーに元気をもらっていた所があった。

リリーがルーシーの手相を見るシーンがあった。
あの時、ひょっとするとリリーは、
テイジの本当の姿を見たのでは。
テイジとルーシーが交際を続ければ、
いずれルーシーが殺されると見て、
身代わりになろうとしたのではないか、とか、
そんな想像をしてみたりした。
真相は描かれなかったのでわからないけど。

ルーシーは、恋の苦悩と嫉妬と、
ストレスから来るらしい体調不良とで
しばしば白昼夢を見るようになっていく。
そこでどうせなら、リリーと最後に会った日の描写も、
夢ともうつつとも取れる感じだったら良かったのに、と思った。
テイジが働く店の前で様子をうかがっていると、ドアが開き、
そこにいたリリーと目が合ってしまう。浮気確定の瞬間だ。
この時リリーは、ピンクと白のストライプのシャツを着ていた。
ルーシーが自宅にとってかえすと、リリーが追いかけてきて、
玄関先で激しく口論することになるのだが、
この時のリリーの服装が
「あのストライプのシャツとは別のもの」
とかだったりすると、ちょっとおもしろかった気がする。
えっ、どういうことなの、時間の流れどうなってるの、
これはルーシーの幻想なの?
どこまでが現実で、いつからが幻想?
って、謎が深まったのではないかと思う。
だけど実際には、玄関先の口論の場面はバストアップで
ルーシーはシャツの上からレインコートも着ていたので
ストライプのシャツだったかどうか、わからなかった。

まあ謎が深まったからと言ってどうということもないのだが。

そんなこんなで、
正直言うと取り立てておもしろい映画ではなかったのだが、
かといって特にひどい所があったわけでもなく、
役者さんの好演が雰囲気の良さを引き立ててもいて、
気分良く観られた。

少し、救いを感じさせるラストになっていて、
ルーシーが、これからは光の中を生きていけますようにと
祈りたいような気持ちになった。

『ナイチンゲール』

 

原題:The Nightingale
ジェニファー・ケント監督
2019年、オーストラリア

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※物語の核心に深く踏み込んでいます。
 また、場面の描写について述べるうえで、
 性暴力などのことについて書いているので、
 あらかじめご了承ください。


19世紀、英国の植民地政策下にあった頃の
タスマニアを舞台に繰り広げられる復讐劇だ。
ヒロインはアイルランド人の女性クレア。
すねに傷があって流刑されてきている弱みを、
英国軍の将校ホーキンスに握られて虐待されたうえ、
家族の命まで奪われてしまい、復讐を心に誓う。
だが、ホーキンスは遠方の街を目指して立ち去った。
クレアは先住民の青年ビリーを案内人として雇い、
危険な原生林をかき分け進みながら、憎き仇の後を追う。

英国軍と先住民アボリジニの人びととの間に、
激烈な戦争が起こっていた頃の物語だ(ブラック・ウォー)。
クレアは復讐の旅の途中で多くの悲惨な光景に触れる。
炎上する家のそばに立ち尽くして泣く白人女性、
寝込みを襲われたらしい白人夫婦の惨殺死体。
これらのシーンは唐突に放り込まれるので、
一見、ちょっと意味不明だ。
でも、歴史的な背景がわかれば飲み込める。
彼らは英国軍とアボリジニの戦闘に、
何らかの形で巻き込まれてしまったのだ。
クレアがこういう現場を目撃しても案外冷静なのも道理で、
当時、タスマニアで暮らしていた人びとにとっては、
死や血や暴力が、日常の一部だったということだろう。

作った人の気迫が伝わる、傑作だった。
おもに4つのことが心に強く残った。
性暴力描写、
差別や憎悪の構図、
ホーキンスの心の荒廃、
クレアとビリーの対比関係だ。



【性暴力描写】

ホーキンスたちが先住民の女性に加える
性暴力の描写は、
これまでに他の映画などで観てきたそれとは、
質的に全然違った。
すごく異様なものを投げかけてきた。

わたしが知る限り、映画の中の性暴力と言うと、
加害者側が「犯しても良いと思っている理由」を
こねくり出してくるのが常だ。
「お前は約束を破ったから罰を受けるべき」
「~してやるのだから見返りをもらう」
「誘ったのはお前」
「お前もそのつもりだったんだろう」
・・・こんな感じのことを、つまり、
よってあなたを犯します/犯しました、的なことを
加害者が言う。誰もそんなこと聞いていないのに。

だがホーキンスたちの認識は、もっと歪んでいた。
「この男たちには被害者が『モノ』に見えている」。
あえて言葉にするなら、そう感じた。

彼らは先住民の女性を犯すに際して、言い訳をしない。
犯すことを明確に目的に掲げて被害者を捕らえ、
殴るなどして無力化し、動けないように拘束し、
・・・と、迷いがなく、極めて手際が良い。
そしてまぬけな恍惚の表情を浮かべて行為にふける。
ずっと我慢していたトイレにやっと行けた時の、
あースッキリした、という、あの表情を連想した。

彼らには被害者が「人」ではなく
言わば「便器」に見えていた。
自分の下で、一人の生きた人間が、
死ぬほど泣き叫んでいるのに、全然平気なのは、
一人の生きた人間だという認識がないからだ。
観ていて、我ながら驚くほど冷めた軽蔑を覚えた。

これまでに他の映画で観てきた加害者たちは、
愚にも付かない言い訳をしていたという意味では
まだ頭のどこかに「相手は人間」という認識があった。
人はモノ相手に交渉や釈明はしない。
でもホーキンスたちはそれですらないのだ。

人を人として見ていない人を観るのは、気持ちが悪い。
例えば、嘔吐物とか人間の糞尿とかあるいは乾電池とかを
ナイフとフォークで喜んで食べている人がいるとする。
その人は嘔吐物や糞尿だとちゃんとわかって食べている。
わかっていないのは、自分のしていることの異常さだ。
そういうのを見たらそりゃもうゾッとするだろうな。
ホーキンスたちに感じた気持ちの悪さはそういう感じ。

 


【差別や憎悪の構図】

ナイチンゲール』では、至る所に
差別、憎悪、力による抑圧、の構図が見られたが、
ホーキンス一行には特に興味深いことが起こっていた。
部下たちに序列付けをしていた。
先ほどまでナンバー2待遇だった者を奴隷に格下げし、
子どもに銃を持たせて脅させる、そんなことをやる。
彼に従う者の間で、序列が目まぐるしく変動する。

こんな上官は早く見限って逃げれば良いのに、と思うが、
状況的に、そういうわけにいかない。
ホーキンスは、出世工作のために、部下たちを連れて
軍の司令部のある街へと向かっている。
でも、彼も部下も、街までのルートを知らないので、
先住民などを雇って、荷物持ちと案内係をさせている。
だからまず、ホーキンスは案内人を失うわけにいかない。
案内人は金で雇われているから、仕事を完遂したい。
部下も、帰り道を知らないからホーキンスと離れられない。
つまり下の者たちが逃げられない、というだけではない。
ホーキンスも、彼らと離れられないのだ。
ところで、白人が先住民の奴隷を連れて歩く場面があった。
奴隷たちの体を鎖か何かで繋ぎ合わせて、歩かせていた。
ホーキンス一行は、この奴隷の隊列と似ていた。
ホーキンスは下の者たちを牽引しているつもりだが、
実は自分も含めお互い離脱不可能な状態に陥っている。
鎖で繋がれて歩かされていたあのアボリジニたちと
それほど変わらないのではないか。

 

【ホーキンスの心の荒廃】

わたしは、ホーキンスの瞳の中に
罪の意識や後悔の色が少しでも見えないか、探した。
そんなものはまったく見出せなかった。
だが、彼をサイコ野郎とは思わなかった。
極悪人と言うよりは、心が崩壊した人間だった。
ホーキンスの内面は壊滅的に傷付き荒んでいた。
ありきたりな表現で言えば「心に穴が開いて」いた。
心の巨大な穴を埋めたい、という衝動が、
ホーキンスを破壊と虐待へと駆り立てる。
彼には破壊も虐待も、言わば求愛なのかも。
美しいクレアに明らかに魅かれていながら、
傷付け奪うことでしか気持ちを表現できない。
あわれだ。

タスマニアで任務として行ってきた殺戮や虐待が、
彼の心を荒ませ、とは言い切れないと思う。
初めから、ホーキンスの心に「芽」があったのでは。
例えば自分だけは他人より良い思いをしたいとか、
美しいものや快いものを手に入れたいという、欲だ。
人間だったら誰でも持っているこれらの気持ちが、
置かれた環境によって、最悪に歪んだ形で覚醒したのでは。
殺して奪う必要のない平穏な環境にいる分には、
金を稼ぐとか知識を吸収するとか美しい妻を迎えるとかで
大抵の欲を、満たすことができる。少なくとも、
満たすことができると、信じていられる。
でも、環境によって、話が変わってくるんじゃないか。

もちろん全部環境のせいだ、とは思わない。
ホーキンスは惰弱だった。なぜなら
「それでも俺は虐待をしない」と
自分の意思で選択するべき所だったのに、しなかった。
わたしが言いたいのは、
「(もちろんホーキンスはクソ野郎だが)誰でも、
 環境や状況次第で彼のようになるおそれがある」
ということだ。

 

【クレアとビリーの対比関係】

クレアとともに旅をするビリーの、
本当の名は「マンガナ」だ。
彼らの言葉で「黒い鳥」という意味だそうだ。

映画を観終わってから、あっ! と気付いた。
クレアの歌の詞に「ナイチンゲール」が出てきた。
「小夜啼鳥/夜鳴鶯」だ。
黒い鳥マンガナ、夜に鳴く鳥ナイチンゲール
黒人男性のビリーと、白人女性のクレア。
対比的に配置されたキャラクターだったのだ。

それに、男女の愛ではないかもしれないが、二人の間に
特別なものが芽生えた可能性が示されていた。
でも、それでもやっぱり二人は「違う」のだと思う。
物語の最終局面に、それを感じた。

ビリーは、太陽を眺めて「俺の心臓」とつぶやいた。
クレアが繰り返し口ずさむナイチンゲールの歌には、
「あなたの元へ帰る」という詞があった。
クレアはホーキンスにこう主張もしていた。
「私は私のもの。あなたの持ち物ではない」。

まず、太陽を我が心臓と言うビリーの感覚は興味深い。
崇拝するべき神、と仰ぐのは理解できる。
生命を育む偉大な存在、という感じもわかる。これらは
我にはない、我とは違う、というニュアンスを含む感覚だ。
でも「俺の心臓」は、自分の中に太陽を取り込んでいる。
彼の民族ならではの世界観ではないかな。
自分と世界の関係のとらえ方が独特なのだ。

クレアは、ビリーとはまた違った感覚を持っていると思う。
陽の光を浴びる彼女の表情は、切なげだった。
というのも、彼女は復讐のために手を血で汚した。
どんな事情があったにせよ、重大な罪を犯した。
二度と「あなた(≒太陽)の元に帰る」ことができない。
明るい所で大手を振って生きられない者に、私はなった。
拡大解釈すれば、ビリーと共に新しい人生を歩む未来を
思い描くことももちろん許されない、ということだ。
ビリーもクレアに手を貸したので立場は同じなのだが、
世界観が根本的に違う以上、やっぱり二人は「違う」。
かくしてクレアの今後の人生は常夜の中を歩むものとなり、
ビリーの人生は・・・、と、ここでも対比が活きている。

このラストシーンは、セリフはほとんどなかったけれど、
美しい映像がどんな言葉より雄弁に語って、素晴らしかった。
二人はごく近い所に並んで、同じ太陽を見ていたけど、
遠くかけ離れた所で、違う太陽を見ていたのでは。

クレアのしたことは、行為としては間違っていた。
自分の意思で「やらない」と選択すべき所を、しなかった。
ホーキンスと同様、彼女も惰弱なのだろうか。
そうかもしれない。
でも、彼女を闇へと突き動かしたものがあった。
いったん闇の中に飛び込まないと、明るい陽の下に戻って
来ることもできないのだ、と信じたかったのかもしれない。
そう自分を騙しておかないと狂ってしまうからだ。
その結果、むしろ陽の下には帰れなくなった。
クレアを闇に突き落としたものは何なんだろう。

『彼女がその名を知らない鳥たち』

白石和彌監督
2017年、日本

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沼田まほかるの同名の小説が原作となっている(幻冬舎文庫)。

www.gentosha.co.jp


8年前に別れた男を忘れられないヒロイン・十和子が
さびしさを埋め合わせるために選んだ同棲相手は、
15歳年上の陣治だった。
十和子は不潔でみっともない陣治を毛虫のように嫌うが、
生活能力も生きる気力もないため、彼と離れられない。
そこへ、かつての男が行方不明になっているとの情報が。
十和子は陣治が彼を殺したのでは、と疑い始める・・・。


この映画、
わーーースゴイ良かった! と思うほどではなかったが
(もし完全オリジナル脚本だったら話は別だった)
原作の小説を読んだ立場から言わせてもらえば、
原作ありの実写映画作品としては成功していたと思う。
観るのが全然イヤじゃなかった。

映画化するにあたって、
原作の物語のなかの「恋愛」の要素だけを取り出し、
凝縮して描き出した映画として仕上げられていた。
それは妥当な所だったと思う。
原作は、明らかに何かもっと入り組んだ物語だった。
ヒロインの内面の異常性の描写にももっと力を入れていた。
でも、その手のことを映像で表現するのはほぼ不可能だろう。

原作のエピソードの換骨奪胎が大胆になされていて、
それらの多くは成功していた。
特に、十和子と陣治の出会い~これまでの思い出を
最終局面で早足で一気に描き、そこにおいて
「かつての陣治」と「今の陣治」のイメージの落差を
鮮やかに示していたのが、うまかった。
小説では、ふたりの出会いや思い出のエピソードは、
もっと序盤の方から前もって、
所々に差しはさむ感じで説明されていく。
映像を観て気づかされたことなのだが、
十和子と出会って間もない頃と「現在」の陣治は、
別人かと思うほどイメージが違うのだ。
十和子と出会った頃の彼は
白シャツにスーツ姿が多く、肌も今よりは日焼けが目立たない。
原作では、当初は一流建築会社の施工管理か営業職だったのが、
転職を繰り返すうちに条件の悪い職場の肉体労働へ、という設定。
現在の陣治は服も顔も全身真っ黒で汚らしく、土方焼けもひどい。
白髪の混じったぱさぱさの髪がのびて、フケもありそうだし、
言いようもなく不潔な感じで、見られたものではない。
・・・その違いが早足の回想を通してクッキリ示されるのだ。
映画で、彼の転職歴なんかいちいち言葉で説明していたら
煩雑になる・・・というのもあったのだろうが、
「昔の陣治像」をいちどきに集約してわかりやすく示し、
イメージの落差を見た目ではっきり打ち出したことによって、
「映像化したかいがある」効果を生んでいて、良かった。
というのも、陣治は終盤において、
「十和子が思い出したこと 俺が全部持っていったる」
幻冬舎文庫 381ページ、映画版にも同様のセリフがある)
と言い放ち、ある驚くべき行動に出るのだ。
陣治は、十和子の傷を肩代わりするために生きてきた。
傷を引き受けるたびごとに、彼は薄汚れていったのだ。
これ以上背負えないという段階に来た時、
残された選択肢があの行動だった、ということになる。
元はそこまで見てくれの悪い男でなかったのが、ああして
どんどん汚く黒っぽくなっていったのは、
十和子の傷を自分の身にかぶっていったことの証、
と解釈できるようになっていたわけだ。
映像作品だからこその、うまい演出だったと思う。

一方、ちょっといただけない所もあった。
映画を実際に観て確認していただきたいので、
詳しくは書かないが、
原作にはなかった「国枝」との再会の場面を
映画で入れてきたのは、余計な脚色だったと思う。
(国枝って誰だよ! って話なんだけど、
 映画を観るか原作を読んでご自分で確認を・・・)
ああいう時に、
「わたしちょっと出かけなくちゃいけないので」って
ホストが席を外すことって、ないと思うんだよな。
普通に考えてもちょっと・・・。
こんなの、原作にあったかな? と思って
小説を読み直したが、やっぱり、なかったね。
映画で追加されたのだ。あれはいらないだろ。 
おばけかと思って本気でゾッとした。

でも全体としては、
「映像化なんて余計なことしてくれやがって」
と思わされるような作品では決してなかった。
映像であることの強みを活かして演出を工夫していたし、
それは多くの場合、成功していた。

何と言っても
十和子役の蒼井優と、陣治役の阿部サダヲ
このふたりあっての映画化だったろうな。
阿部サダヲだと、陣治が良い男すぎるかもしれないけど、
こう言っちゃなんだが
いろいろ、ちょうど良い所ではないかなと。
本気で気持ち悪い男すぎてもダメだし、
気持ち悪い男が似合わなすぎてもダメだし。

「なんやねんタッキリ・マカンて!」には
笑っちゃ申し訳ないんだが声を出して笑った。