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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『ブレッドウィナー/生きのびるために』

 



原題:Breadwinner
ノラ・トゥーミー監督
2017年
アイルランド、カナダ、ルクセンブルク

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2001年、米同時多発テロ事件直後のアフガニスタンを舞台に
ある少女の闘いを描き出す物語だ。
タイトル『ブレッドウィナー Breadwinner』は
「(一家の)稼ぎ手」という意味だそうだ。
本作品の監督は、パキスタンの避難民キャンプに通って
そこに身を寄せるアフガニスタンの女性たちに取材し、
この映画のストーリーを作り上げたとのことだ。
2001年という設定を踏まえて鑑賞して欲しいと思う。
そんなつい最近のことの物語だとは信じられないだろう。

 

 

【現実と『お話』の世界】

ヒロインのパヴァーナは、つらい暮らしの中にあっても、
「お話」の世界で遊ぶことで、希望をつないでいる。
それは、パヴァーナの家族たちも同じだ。
『ブレッドウィナー』は、
現実世界で彼女たちが直面する困難と、
彼女たちが心の支えにしている「お話」の世界とを、
並行して描いている。
この両軸はそれほど露骨にリンクするわけではないが、
確実に関連している。
「お話」の世界のディテールを検討したら、
パヴァーナたちの闘いの内容も、かなり見えた気がした。

 


【お話:『ゾウの王から種を取り戻した少年』】

パヴァーナが劇中で語る、
「ゾウの王から種を取り戻した少年の物語」の概要はこうだ。
村の作物の種が、恐ろしいゾウの王に奪われてしまう。
種がないと一年の糧となる作物が作れず飢えることになる。
悲嘆に暮れる人びとの姿を見た、村の少年は、
種を奪還するため、ひとりでゾウの王のすみかへ向かう。
道中で出会った老女が、ゾウに打ち勝つヒントをくれる。
戦いの前に、3つのものを揃える必要があるのだという。

1.something that shines 光るもの
2.something that ensnares   わなにかけるもの
3.something that soothes  なだめるもの

旅の中でこれらをクリアしていった少年は、
ついにゾウの王との対決に臨み、種を取り戻す。

このお話、細かく見ていこうと思えば、
興味深い所がもっとたくさんあるのだが、
わたしが特に印象的だったのは、やはり
お話のカギとなる「3つの備え」だった。
この角度から『ブレッドウィナー』を読み解いてみたい。

 

 

【『3つの備え』:獲得するか、棄てるか】

パヴァーナとその家族が
現実の苦難を乗り越えるためにも
ある3つのものが、非常に重要となっていた。
ただ、少年の物語とパヴァーナのとでは、違う所があった。
少年の物語における「3つの備え」は、
道中でゲットする、具体的なアイテムに加えて、
出会った人に頼まれて何かをやってあげるとか、
みんなにバカにされている誰かに優しくしてあげるとか、
そんな善い行いによって知らず知らずのうちに積んだ徳、
それが結果的に「3つの備え」のひとつだった、
という形になっている。
モノを揃えて、戦いの準備をするように見えて、
実は「心構え」を調えていく、という側面もあるのだ。

でも、パヴァーナたちの場合はそうではない。
揃えるとか、調える、とかではなく、むしろその逆だ。
3つのことをあきらめたり、手放したりする。
何のためにそうするのか。それはもちろん、
「生きのびるため」だ。

では、パヴァーナらの闘いにおける

1.something that shines 光るもの
2.something that ensnares   わなにかけるもの
3.something that soothes  なだめるもの

とは、何だったのか?

 

 

【something that shines 光るもの】

わたしが考える所によれば

something that shines 光るもの

は、「ドレスの飾り」だ。
一家で唯一の労働力だった父が刑務所に入れられたので、
次女のパヴァーナが、少年の姿に変装して働こうとする。
でも、11歳の少女に本格的な肉体労働などは難しい。
そこで彼女は、宝物のドレスを売ってお金を作る。
この赤いドレスは、物語の冒頭から出てきていた。
きらきら光る石の飾りがついた、おしゃれ着だ。
一家の暮らしが苦しいので当初から売りに出されていた。
パヴァーナは、できれば売りたくない様子だった。
だが、今や選択肢はなくなった。
着られずじまいだったドレスを彼女は潔くお金に変える。
それはすなわちパヴァーナが、
おしゃれという当たり前の楽しみや喜び、彼女の青春を、
生活のために手放した、ということではないだろうか。

 

 

【something that ensnares わなにかけるもの】

これは何だろう。
日本語字幕では「ensnare」は「わなにかける」であり、
少年の物語ではその通り、戦いの中でワナの工夫が活きる。
だが、自分なりに調べてみた所、「ensnare」は、
「誘惑/誘惑して~させる」という感じを含むらしかった。
そこから、ちょっと発想を飛躍させて、考えてみた。
パヴァーナたちの「something that ensnares」は、
「女性のアイデンティティ「結婚」
ではないだろうか。
その二つを生きるために投げ打ち、または妥協した。
これは論理で説明しきれるものではなかったので、
以下に述べることからおおづかみにしてもらえたら
とても助かるが。

まず、タリバン青年団員の少年が、
パヴァーナにことあるごとにつっかかっていくのは、
本人は無自覚なのだろうが、彼がパヴァーナに、
強く執着しているからに他ならないとわたしは思う。
結婚できる年齢のはずだから妻になれと要求もしていた。
暴力や命令の形でしか、気持ちを表現できないのだ。

パヴァーナの母ファティマは、
この映画の中の、女たちのアイデンティティについて
考えるうえで、参考になるキャラクターに思える。
物語の結末にからむので詳しくは書かないが、
家族離散の危機に直面するシーンで、ファティマは、
従順だったそれまでの様子からは想像もつかない、
驚くべき精神的な強さを発揮して窮地を切り抜けるのだ。

イスラム主義社会の男たちは基本的に
「女は男に従うもの、一人では何もできない存在」
という、男性優位の規範を押し付けることで、
女を支配している所があるようだ。
女たちも、自分や家族の命を守る必要から、普段は
社会のこうした要請に黙って従っているのだろう。
だが「男が導いてやらなければ何もできない」女が、
いざという時に自分の意志を見せ、男に反抗したら、
男は驚くに違いない。
ファティマが窮地で見せたあまりの気迫に、
相手は情けないくらいひるんでいた。

しかし、この映画が十分すぎるほど伝えていることなのだが、
イスラム主義社会において女性が男性に反抗することは危険だ。
女性が彼女らしさを発揮すること、
自分の頭で考えて行動すること、
それ自体が半殺しではすまないくらいの犯罪なのだ。
ファティマたちを追い込んだ男が、反抗されて
こんな捨て台詞を吐いていた。
「(お前の行動は)狂っている。
 (そんなことをしても)死ぬだけだぞ」
社会は、多分、既存の規範に抗ったファティマたちを
地の果てまでも追いかけて罰しようとするのだろう。
それでもファティマは、自己主張をするという命の危険を
冒してまで、家族が共にあることを選択したのだと思う。

パヴァーナの一家が、妥協せざるを得なかったこととして、
「結婚」も挙げられると思う。
家長を失ったことで一家が困窮し、悩んだファティマは
長女(パヴァーナの姉)を嫁がせることにした。
娘の嫁ぎ先に一家で身を寄せて食べさせてもらうのだ。
タリバン政権下では女性の行動や労働が制限されており、
一人で外を出歩く女など発見されれば袋叩きに遭う。
男手のない家は水の確保も命がけだ。
でも、それでは早晩、餓死することになる。どうするか。
考えられる打開策は、他家との縁組しかない。
花嫁の意思を考える余裕はない。
(「(結婚相手は)会ったこともない親戚」と言っていた)
多分これは、強権的イスラム主義社会で生きる庶民たちが
命をつなぐために、かなり普通に行っていることなのだろう。



【something that soothes なだめるもの】

最後に、
something that soothes  なだめるもの は、何か。

パヴァーナと父が、合言葉のようにささやき合う詩に

Raise your words, not your voise
It is rain that makes the flowers grow. 
not thunder.

という一節があった。

「声でなく、言葉で伝えてください
 花は雷ではなく、雨によって育つのだから」

この「声」は、「怒鳴り声」「罵声」のような、
相手の心を抑えつける強いものを指すのだろう。
「soothes」には「心癒す真実」「打ち明け話」
ニュアンスがあるらしい。
「ゾウの王から種を取り戻した少年の物語」では、
少年が、ある哀しい打ち明け話を聞かせることで、
怒り狂うゾウの王を鎮める筋書きになっている。

「声でなく、言葉で伝えてください
 花は雷ではなく、雨によって育つのだから」
本作品のメッセージとしてこの一節をとらえる時、
具体的には、どう解釈するべきなのだろう。
わたしはこんな感じかな・・・と とらえた。

「われわれはみんな、それぞれに傷付いている。
 みんな、誰かしら愛する者を失ってきた。
 ならば、もう縛り合うのはやめて、優しくしあおう。
 お互い事情がわかり、哀しみを共有できるのだから。
 そこから、すべてを新しく始めよう」

この映画はあくまでも映画、お話だ。
現実のアフガニスタンや、
政情不安を抱える世界の各地域には
この映画の描写程度ではすまないような
困難に見舞われている人たちがたくさんいる。
そして、その大きな課題を解決していく手段は、
「お話」なんかではない。それはわかっている。
だけど、それでも、わたしたち人間には、
お話が、心癒す優しい言葉が、必要なのではないか。
希望を持ち続けるため、つまり人として生きるために。

また、たとえ甘っちょろいきれいごとに思えても、
多分、世界平和という理想の実現には、
やはり、真摯な、人の思いが欠かせないのだろう。
それはこういうことを信じる気持ちではないかと思う。
「互いの事情と立場を理解し合おうとする
 不断の努力がいつかきっと実を結ぶはずだ」。

がむしゃらに頑張ればいつか世界平和が実現するよ、
と言いたいわけではない。そうではなくて、
「努力ではどうにもならないことはわかっているが、
 それでも努力なき所に世界平和はありえないのだ」
という痛ましいような信念だけが、
人間の営みを統制するシステム、すなわち「施政」に
生きた人間のぬくもりを加えてくれるのではないか、
ということだ。

映画は、一輪の花が開いて、ツルをのばしていき、
画面いっぱいに広がっていく映像で幕を閉じる。
何度も言うが、映画は映画だ。お話にすぎない。
だが、この映画でパヴァーナという少女を知ること、
苦難の中で生きる現実の女の子たちの存在を思うこと、
それがムダなことだとは、誰にも言えないだろう。
一つの花が咲き広がるこの映画のエンディングのように、
「知ること」が、世界の未来を優しく花開かせる
一粒の「種」になっていれば良いと思う。

『アナイアレイション 全滅領域』

原題:Annihilation
アレックス・ガーランド監督・脚本
2018年
米、英

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タイトルからは、あんまりおもしろそうな感じがしないが、
観てみたら、まぎれもない秀作だった。

この記事を書くためにYouTube上の予告動画を観た時、
スリラー感の強い予告に仕上げられていることに驚いた。
もし予告を先に観ていたら、わたしはこの映画を観ようとは
絶対に思わなかったと思う。怖いから。
実際は予告みたいなハラハラドキドキ満載の感じではなく、
とてもゆったりと、ひそやかに進行する物語であり、
郷愁に似た感傷的な気持ちにさせられる部分さえあった。

今思えばそこが、『アナイアレイション』の特長だった。
何と言ったら良いのか・・・わたし自身の感覚を振り返ると、
このゆるやかな物語の時の流れに身を任せて、
劇中で起こるさまざまな不可逆的事態をあきらめていった。

あきらめる、というのは、未知の事態に直面した時の、
人の態度(受け止め方)のスタイルの一つじゃなかろうか。
最初から「あきらめる」のは難しいかもしれないので、
考え得る限りいろいろとジタバタしてみたあげくの
最終形態、と言った方が的確か。
『アナイアレイション』の中では、本当にたくさんの、
恐ろしいことや理解不能なことが起こり、
ヒロインたちは激しい混乱に陥っていく。
ある者は、目の前で起きたことを錯覚だと言って否定する。
ある者は、ここには居たくないと言って逃げ、心を閉ざす。
理解しきれなくても全部自分の眼で見て確かめたいと言って、
あくまでも先に進むことを求める者もいる。
未知のできごとへの人の取り組み方のさまざまな形が、
『アナイアレイション』の中で見られたように思う。

わたしはこれが「お話」だと知っているから安心していたので、
その分「あきらめる」に到達するのが早かったんだろう。
でも、それだけでなく、この物語の中で描かれていく
世界の変容のあり方が、個人的にそんなにイヤじゃなかった。
『アナイアレイション』は、世界が将来的に
こういう風に変わっていくよ、ということを
人が学び受け入れていく過程の物語とも言えた。
変化の内容がとても静かにゆっくりと説明されるので、
「えー! 世界はこんな風になるの! 絶対イヤなんだけど!」
みたいな強い抵抗感がなく、案外、受け止めることができた。
ヒロインのレナも、
「(目の前で起こることが)到底理解できなかった。
 でも、美しいものもあった」
と言っており、新しい世界に恐れつつも魅かれていった部分が
あったことを認めていた。

もし実際にこの物語のような世界に自分が置かれたら、
どうなんだろうな・・・。
最初は怖いのかもしれないけど。
でも、個体の生と死の境界が、あいまいになるわけだ。
そして、めぐり続ける。場所と形態を転々と変えながら。
「ある」かのようだがなく、「ない」かのようだがある。
ある、ないという概念自体も溶けていくという感じだ。
身を任せてしまえば、それは、全然イヤじゃないのでは。

『アナイアレイション』では、
「見る/見える」「見られる」
「何かを通して(見る)」
というモチーフが、繰り返しあらわれた。
例えば、
夫がヒロインのレナを見つめる静かなまなざし(見る)。
レナは夫にじっと見られて内心動揺する(見られる)。
探査チームの仲間は、ある恐ろしいものを目撃した時に、
「光のいたずらでそう見えただけ」と言い張った(見える)。
探査領域「シマー」で起こる不可思議な現象を、
光のプリズム効果で説明する仲間もいた(何かを通して見る)。
レナは、三方を透明なガラスで囲われた狭い部屋の中で、
大勢の研究員に見られながら尋問を受ける(見られる)。
それから、
探査領域上空は常に花曇りで、太陽光が直接さしてこない。
カメラの視野は「『水の中』の魚」「『録画された』映像」
と言ったように、常に何らかのフィルタを通して事象を映し出す。
・・・作り手側が、「見る」とか「見られる」とかに、
かなり度を越して執着していることがイヤでも伝わってくる。
でもそれが作り手の手クセのレベルにとどまっていなくて
『アナイアレイション』の物語の根っこに関わっていたのが
おもしろい所だった気がする。
シマーというエリアではすべての境界線があいまいだった。
領域が広がる森林地帯は、虹色にゆらめくシャボン玉状の膜に
覆われ(または一帯から虹色の湯気が立ち上っている感じ?)、
レナたち調査隊は、そこに分け入っていくこととなる。
彼女たちはそれぞれの形でこの領域に呑み込まれていく。
リーダーのベントレス博士なんかそもそも何を考えているのか、
心がどこにあるのかわからない謎めいたキャラだったし、
また、チームメイトの一人は、曖昧模糊とした風景の中に、
いつのまにか溶けてしまった(独創的で美しい描写だった)。
シマーで起こる事件がメンバーの心を侵していく展開は
確かに一般的に言えば、恐ろしいものだったが、
でも、何か、ただひたすらに「怖い」という感じとは違った。
少し不自然でやや抵抗を感じるが、いずれ受け入れていく。
わたしはそういうもののように感じた。

終盤で、レナの左腕の内側に浮かび上がった、
八文字型のイレズミ状の文様には、驚いたな。
何度観返しても、序盤の方ではあの文様はなかった。
川下りの時、ぶつけて打ち身ができた、と言っていた。
あの時以降だった、としか考えようがないかな。
でも、打ち身ができた、というあのセリフ以外に、
脚本上、レナの腕の変化についての言及は皆無だった。
あんなにハッキリ変化が表れているのに誰も何も言わない。
レナ本人に至っては、
自分の体が見た目にわかる形で変化したのにそれは気にせず、
顕微鏡でしか見えない自分の血液細胞の変容には怯えていた。

レナが夫に作った「借り」についての描写が
少ししつこかった気はした。
あそこまで露骨に描いてくれなくても、
(しかも同じシーンを2回転用・・・)
序盤でそれをほのめかす描写がちゃんとあったから、
誰でも十分察しがついたと思う。
やや説明過多で、もったいない。
あの部分だけ、エピソードの手触りが生々しすぎる。
せっかく夢を見ている所を叩き起こされる感じがする。
まあ、別にそんなに気持ちの良い夢でもないのだが。

わたしは「シマー」領域で起こることのすべて、
この映画で提示された、世界の未来の姿に対して
正直言って 嫌悪感は全然持たなかった。
自分が仮に当事者となっても気持ちは同じだと思う。
最初はちょっと気持ち悪さを感じるかもしれないが、
いっそのこと死にたい・・・、とまでは思わないだろう。
だから「シマー」領域が拡大していく、という未来像を
個人レベルでは、少しも「悪」とは思わない。
でも、それはもちろん観る人それぞれだ。
人によっては、悪だと思うだろう。

この物語の、世界の未来についての「解釈」に
ちょっと圧倒されたことは確かだ。
考えようによってはこれはもう
「始まっている」未来なのかもしれないと思ったので。

『スチームボーイ』

英題:STEAMBOY
大友克洋監督、2004年

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大友克洋監督の長編アニメ映画としては
有名な『AKIRA』よりも、この作品の方が好みだった。
AKIRA』も大好きだが。

雰囲気が明るくて、楽しく観られるのが良かったのかも。

「お決まりの展開」的なものを、
首の皮一枚で躱していくやりくちが憎い。
例えば終盤で、ロイド老が
ここはわしに任せて早く行け! 的なやつを
カッコよくキメたつもりが、レイに
イヤおじいちゃん、そうじゃなくて! 
とツッコまれる所とか。

ドラマよりも作品世界の描き込みに傾注しすぎたために
ドラマにいくつかの問題が生じたことは否めないと思う。
大友克洋監督は本当に、こういう
人間が、有機的な存在へと進化していく無機物に取り込まれる、
みたいなのが、やりたいんだな。すっごくそれはわかる。
そして大友監督には、それができる。
すごいもんな。この徹底した描き込み。
どのシーンでも、どこで一時停止しても、
画面のすみからすみまで惚れぼれ見入ってしまうもん。

でもなあ(笑)
この映画は、おもに少年少女に贈る「冒険活劇」に、
なろうとしていたと思うんだよ、最初はちゃんと。
それが途中から、作品世界にドラマが併呑されていき、
何だかちょっと良くわからないバランスになっていった(笑)。
元もとは、言わば壮大な父子ゲンカの物語だったのが、
後半になってくるとそれとはあまり関係のない線で、
いろいろと、大規模すぎる騒動が起こってしまい
(ロンドン壊滅規模の大戦闘とか)
わたしなんかはそれであっけにとられているうちに
「物語」を完全に見失ってしまった。
エドワードの腕がああなったのを見た時、
ドラマとして共感することはもうあきらめた・・・。

どこから、とはハッキリと言えないのだが、
この映画を作っていくうちに、ちょっとこう・・・
監督自身、「あ、しまった、マズったかも」と
思ったんじゃないだろうか。
そう思われるフシがあった。

まずキャラクターの造型と人間関係の設定に、
一部、不自然さを感じる。
正直言ってロイドとエドワードが実の父子とは思えない。
とはいえエドワードが父に他人行儀なのは別にかまわない。
父親が息子に一定の距離感を要求する場合も実際あるだろう。
そんなことで本当に血が繋がってるの? とか疑いはしない。
そうではなく、序盤で一瞬映るスチム家の家族写真と、
レイの母の、ロイドへの接し方の親密さから考えた時、
ロイドとエドワードが実の父子という設定に違和感があった。
むしろエドワードは「ロイドの弟子/スチム家の婿養子」。
この場合、自然に感じるのはそっちの気がした。
だが、公式サイトのレイの母の人物紹介ページで
ロイドは彼女の「義父」と紹介されている。↓

::STEAMBOY::

だからロイド老がレイの母の実父でないことは確かなのだ。
再婚やら養女やらの可能性まで考えなければだが、
レイの母が、エドワードに嫁いだことによって、
ロイドが彼女の義父となった、それが事実だろう。
ロイドとエドワードは実の父子なのだ。
でもなんかそれが印象としていまいち腹落ちしないのだ。

でも、ロイドとエドワードが本当に実の父子なのかどうか
それ自体がどうこう、と言いたいわけじゃない。
わたしが言いたいのは、
「壮大な父子ゲンカ」の顛末の物語にも関わらず、
「実の父子じゃないんじゃないか」とか鑑賞者が疑っても
しかたがないような部分をなぜ残したのかということだ。
ここは、はっきりさせるべき部分だったと思う。
でも、劇中ではいっさい説明がなされなかった。
血のつながった親子であろうが、
婿養子であろうが、それはどちらでも良い。
大友監督ならいずれにせよきっとおもしろい話に仕上げた。
問題は、ふたりの関係が「良くわからない」せいで、
ふたりのケンカにも共感しにくい、ということだ。

レイが、城の内部に隠された無数の兵器を発見した時に、
オハラ財団の者たちに自宅を壊されたことを思い出して、
くっそー、と歯がみするシーンがあったのだが、
なんならあのへんとか30秒くらい削ってでも、
ロイドとエドワードの関係を明確にするべきだったと
わたしは思うけど、どうだろう(笑)。
あのレイが「家で暴れられたんだよな~、クソ~」と
思い出すシーン、あれ、正直要らなかった・・・
「見識なき破壊行為への烈しい怒り」は
スカーレットが抱いた感情だ。
美しかった博覧会の展示が破壊されていくのを
目撃した彼女は「ひどい!」と腹を立てていた。
同じ気持ちをレイも抱いた、ということであれば、
これは、作品にとって大切なテーマのひとつだと思う。
ならばもっと前もって、
何なら財団に家を襲撃されたその時に、
「くそ! 何てひどいことをするんだ! 僕の家を!」
と、レイに激怒させるべきだったのではないか。
でも実際にはレイはあの時、いち早く家を脱出していて
我が家が本格的に破壊された所を目撃していないのだ。

この通り、個人的に、
「ここで一言、説明しておいてくれたら」
「もっと前の段階で布石を打ってくれたら」
と思われる所がちらほらあった。
わたしでもそう思うくらいなので・・・、
生意気かもしれないけど、大友克洋監督だったら
気付いたんじゃないかなあ? と思われてならない。
出来上がってきたものを見て初めて気づく問題や
修正すべき微細なバランスの狂い、みたいなものも
きっとあるのだろう。
そこで補正が可能なら良いのだろうが・・・。

まあそんなこんなで、
惜しい! と思った部分がなきにしもあらず。
でも、冒険活劇として十分に楽しめた。
長々述べたので、ここに書いたことが、
あたかもこの作品の重大な欠陥かのような
印象を与えてしまったかもしれないけど、
「改めて考えてみるとちょっとアレかな?」
と思った程度のものだ。

楽しく観られるので、ぜひ機会があればどなたにも
おすすめしたい。

Netflixドラマ『ワイルド・ワイルド・カントリー』

 


原題:Wild Wild Country
マクレーン・ウェイ、チャップマン・ウェイ監督
全6部
2018年3月16日 全話一挙配信(完結)

※以下で、実在特定の宗教組織の呼称を挙げて
 わたしの考えを述べる所がある。
 繊細なテーマなので、どんなに気を付けても
 場合によってはご不快にさせるかもしれない。
 また、事実関係で間違っている所などがあれば
 ぜひ教えて欲しい。 

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www.youtube.com

 

【概要】

1981年~1985年の4年間、米オレゴン州に一大拠点を展開した
宗教的コミューンの実態を、ほぼ時系列どおりに振り返る
ドキュメンタリーシリーズ。以下『WWC』。
関係者への取材と当時の報道VTRを中心に構成されている。
コミューンはインドの神秘思想家バグワン・シュリ・ラジニーシ
戴くもので、ワスコ郡アンテロープシティの広大な土地に
インドから集団移住、自力で開拓して、版図を広げた。
だが共同体の規模拡大につれて近隣住民との軋轢が激化し、
両者は(暴力的手段をも含めた)あらゆる方法で争った。
最終的に、バグワンが国外退去を承諾したことにより、
抗争は収束、アンテロープの拠点は打ち捨てられた。
バグワンはインドに戻ったのち死去、組織は現在も存続している。
コミューンがあった土地は現在キリスト教系組織が所有・運営し、
青少年向けのセミナーやサマーキャンプの会場として用いている。

※以下バグワン・ラジニーシのもとに集ったコミューンのことは
 だいたいの場合において「ラジニーシコミューン」と表記した。
 それ以外の時は、それ以外とわかるように都度明記する。

<エピソードやインタビューに登場するおもな人物>

◆コミューン内部

マ・アナンド・シーラ
コミューンがインドにあった頃からバグワンの秘書を務めた。
オレゴン移住計画を全面的に仕切った人物で、
のちの組織的犯罪行為の首謀者とも目された。

スワミ・プレム・ニレン(フィリップ・トークス)
コミューンの顧問弁護士。

マ・シャンティ・B(ジェーン・ストーク
シーラの元側近。バグワンの主治医的な存在だった医師の
殺害計画に加わった。

マ・プレム・サンシャイン(サニー・マサド)
オレゴンのコミューンの広報担当だった女性。
笑顔が、ぱっと大輪の花がひらくような明るい感じで、
年齢を重ねた今もすごくきれいな人だ。

アンテロープシティの非信徒の住民たち
ジョン・ボワマン、ジョン・シルバートゥース、
マクレガー夫妻など

◆連邦検事関係者など
チャールズ・ターナーオレゴン州担当の連邦検事)
ロバート・ディーバー(連邦検事補佐)

他、多数。各方面の当事者が健在のため、
当時起こったことについて、両方の立場の言い分を、
本人の生の声で聞ける、というのが
このドキュメンタリーのスゴイ所。



【おもしろかった!!!】

1日1話、1週間かけて全6部、夢中で観た。
わたしはわりと宗教や神秘思想の歴史に関心がある方だと
自分では思っているのだが、
ラジニーシコミューンのことは皆目知らなかった。
こんなに派手に活動を展開していたのに!!!
関心があるとか、もう人前で言わないようにしよう・・・。

ラジニーシコミューン側の人びとの回想が良かったな。
彼らはコミューンでの日々を
生涯忘れられない恋の思い出みたいに語っていた。
ニレン弁護士が、バグワン・ラジニーシ
国外退去を勧めた時の話は、
正直言ってわたしもちょっと涙ぐんだ。



アメリカ宗教史とモルモン教会という切り口】

アメリカ」で
「1つの街がそのまま1つの宗教組織」と言うと
わたしは
末日聖徒イエス・キリスト教会」(以下「モルモン教会」)
を、すぐに連想した。
モルモン教会の教徒の人たちは、
19世紀半ばにソルトレークシティに根を下ろすまでに、
どんなプロセスを踏んできたのかなと、思った。
それに、モルモン教会も、ラジニーシコミューンも、
拠点を築く場所として、なぜアメリカを選んだのだろう。
また、両者とも、地域の非信徒の人びとと折り合えず、
争った時期があったようなのだが、なぜそんなにも
激しく衝突することになってしまったのか。
末日聖徒イエス・キリスト教会の概要については、
 Wikipediaなどで調べてみていただきたい。

自分なりに何冊か本を読んでみてちょっと考えた。
結果、彼らがアメリカを選んだ理由と、
非信徒や国家的マジョリティとの衝突が激化した原因には、
以下のことが共通して関わっているように思えた。

・信教の自由が憲法で保障されている
・ありあまる土地
・移民が都市を作りやすい社会システム
・一般の人でも武器を持てる

これはすべて、アメリカの特徴だ。
しかも時代にあまり関係なくずっとある特徴だ。
だから19世紀半ばに米西部に定着したモルモン教会も、
20世紀後半にやってきて定着に失敗したラジニーシコミューンも
時代は違うけど、条件としてはほぼ同じと言えると思う。




【信教の自由が憲法で保障されている】

WWC』の中で、ニレン弁護士も言っていたのだが
合衆国憲法は、
連邦政府が国教を定めてはならない」としていて、
これは1791年以来ずっと変わっていないのだそうだ。
ニレン弁護士は
「われわれは憲法で保障された集会、表現、結社、
 信教の自由という当然の自由を求めただけだ」
と、しきりに主張していた。
でも国としては宗教を定めない、というのと、
一つの宗教の元に集った人びとが街を作って良い、というのは
考えてみれば裏表で、うまく言えないが複雑な問題だと思う。
だがともかく1791年以来ずっと変わっていないということは
初期モルモン教会も、ラジニーシコミューンも、
憲法のもと自由に宗教活動をして良かったのは同じなのだ。



【ありあまる土地】

ラジニーシコミューンが選んだオレゴンの土地に、
当時、彼ら以外の人がいなかったわけではないが
その数はあまり多くなかった。
だがらラジニーシー(ラジニーシ教団の信徒)たちは、すぐに
その地域の政治経済、司法や警察権までも掌握するに至った。
アンテロープシティの近くの牧場を購入し、
従来の拠点だったインドを始め、世界中から信徒を呼び寄せて
大規模なコミューンを作り上げた。



【移民が都市を作りやすい社会システム】

アメリカ合衆国は移民社会だ。
西洋人があまりいなかった所に、
ほんの200年間くらいで続々と入植、という形で
一気に人が流入し、都市が作られて、できた国だ。
そんな経緯があるので、伝統的にアメリカでは、
移住してきた人たちが比較的容易に街を作れるよう
法的なシステムが整備されているという。
これは『WWC』を観ていて驚いたことなんだけど、
オレゴンなどは150人いれば「市」が作れるそうだ。
そんなんで良いんだ!!!
(日本では原則5万人以上が「市」で、他にも要件は多数)
だからラジニーシコミューンもスムーズに市を作り、
通りの名前や店の名前もラジニーシー流に一気に塗り替えた。
市長も警察もみんな信徒で、武装警備も合法的にできた。
また、オレゴンでは20日間州に居住すれば選挙人登録ができる。
アンテロープだけでなくワスコ郡の掌握をも企図したシーラは
この選挙人登録の規定を利用し、ホームレス抱え込みを決行した。
国中の路上生活者たちをコミューンに連れてきて生活を保障し、
郡議会選挙で投票させるようにしたわけだ。
スゴイ行動力だし、財力だ。力技だ。
※ちなみに日本で当該市区町村の選挙人名簿に登録されるには
 住民票登録した日から3ヶ月以上、そこの街の住基台帳に
 住民として記載される必要があるそうだ。

初期モルモン教会も、人がまばらな地域に集団で移住して、
やがて政治を動かす力を持っていった宗教集団だ。
ソルトレークシティの前にイリノイに拠点を置いた頃には、
教祖ジョセフ・スミスが大統領選に出馬表明している(1844年)。
スミスがその後逮捕され、民衆に襲撃されて命を落とすと、
教徒たちは西部の、当時まだ合衆国領でさえなかった土地に
一から都市を作り、これが今のソルトレークシティとなった。
1851年、教会の指導者ブリガム・ヤングが「ユタ準州」の
知事に指名されている(州都ソルトレークシティ)。
でも、この頃モルモン教会は、国の宗教的多数派である
プロテスタントとの衝突を深刻化させていった。
教徒の間で広まっていたデマが元で、
非教徒の人びとを襲撃して殺害する事件が発生。
元もと中央は、モルモン教会がユタの政権を握っていることを
警戒していたので、この虐殺事件を機に武力制圧を決意する。
米陸軍と教会の激突(1857年~1858年、ユタ戦争)の果てに
教会指導者ブリガム・ヤングはユタ準州知事を辞任した。
このできごとの影響で、
ユタが「準州」から「州」になるのには時間がかかった。
準州だと連邦政府の管轄下におかれていろいろ制約があり、
自治権限をフルに行使することができないのだそうだ。
教会が一夫多妻婚を廃止した(1890年)ことを受けて、
ようやくユタは「州」になることができた(1895年)。

誰もいない荒れ地を拓いて理想郷を作る、っていうのは
アメリカの精神的な母とされるニューイングランド
清教徒たちがそもそも志したことだったと思う。
でもいくら誰もいないつもりで入植したつもりでも
本当に人が全然いなかったはずはなく、先住民がいた。
そこへ入植して生活圏を拡げたことは、
先住民の伝統と暮らしを破壊することにつながった。でも、
「私たちが文明化してあげる」
「持ち腐れの土地を有効活用してあげる」
みたいな「上から」目線で、自分たちの選択を正当化した
・・・そんな面はやっぱりあるんだろう。

ラジニーシコミューンが
フロンティアスピリッツを継承してたかどうかは
わからないにしても、『WWC』の中で、シーラは
まるで昨日のことみたいに目を輝かせて振り返っていた。
砂漠同然だった土地を私たちみんなで耕して、
美しい都市を作り上げていったわ!
湖の生態系だって生き返ったのよ! と。

最高に楽しかっただろうな、とは思ったよ。
そんなことをやり遂げたのは、一生の思い出だろう。




【一般の人でも武器を持てる】

でも「私たちは良いことをしています!」
と言わんばかりのラジニーシーの主張を
アンテロープシティの住民はしりぞけたし、むしろ
静かなリタイアライフが脅かされる、と拒絶した。
アンテロープ市民は
コミューン建設の差し止めを求めて提訴した。
これはラジニーシーたちと近隣住民たちの
長い戦いの発端となった。

モルモン教会もアメリカ社会に根を下ろすまでに苦心があり
先ほど述べたように、ユタ戦争などで犠牲が出ている。
ラジニーシコミューンと近隣住民の対立も激烈で、
ラジニーシーたちが宿泊していたホテルが
何者かに放火される事件も起こった。
モルモン教会にしてもラジニーシコミューンにしても
彼らと非信徒との衝突がこんなにも激化したことには
やっぱり「武装する権利が保障されている」という
アメリカならではの背景があるだろうと思う。

ラジニーシーたちが移住後早々に武装し始めたので、
近隣住民たちも競って銃を買い、武装する道を選んだ。
住民たちは「私たちがコミューンを良く思っていないので
ラジニーシーが武力で脅してきている」と解釈したのだ。
アメリカらしい反応だと思う。
「銃を向けられたら銃を向ける」という風にやっていたら、
集団間で争いが起こった時に、それはどうしたって
「暴力」の形でエスカレートしていくと思う。
だが、銃で人が死ぬ痛ましい事件が、
今後どれほど繰り返され、どんなに多くの人が泣いても、
個人の武器保有権が合衆国憲法から削除されることは
まずありえないんじゃないかな、という気がする。




【なぜ武器を持つのかね】

というのも、アメリカの人が武器を持ちたがる背景に
環境条件からくる不安や警戒心があると思うからだ。
前に『ウインド・リバー』(2017年)という映画を観た。
米西部の実情に着想を得て構成されたあの物語の中では、
資源開発会社の作業員とかがみんな銃を携帯していた。
銃なんか絶対に必要とも思えないのに、誰もが持っていて
そのせいで、本当に一瞬にして、
予想だにしなかった惨劇に発展するシーンがあった。
あまりのことに呆然としてしまったのを覚えている。

広大な土地で、知らない人間に会った時、
もしお前が暴力で来るならこっちだって黙っていない、
という気分は
アメリカの人の心の根本的な所にあるのかもしれない。

モルモン教会の人びとが定着を目指した19世紀のアメリカ、
特に開拓地域においては、西洋人はまだ少なかったはずだ。
自分と家族の安全を守るため、その日の糧を確保するため、
武器を持っていなくちゃいけなかったのは当然だったろう。
ウインド・リバー』でも説明されていたんだけど、
現在でさえ、お隣さんの家とか一番近くのスーパーとかまで
車で何キロ、みたいな所に住むアメリカ人は少なくないそうだ。
きっととても不安だろうし、警戒心が高まると思う。
武器を手元に置きたくなる気持ちは、わかる。




【いったんまとめ】

未開発の土地に移住して、私たちの理想郷を打ち立てよう、
これ自体はアメリカでなくてもどこでも夢見ることができるが
アメリカには本当にそれを可能にする広い広い土地、
民主主義に基づいて個人に保障された幅広い活動の権利、
そして暴力に転じる危険性をもはらむ熱く烈しい精神性、
全部が揃っている気がする。
どれも、ある種の人の心を強く惹きつける要素ではあるだろう。
モルモン教会の人びともラジニーシーたちも
あるいはそうだったのかもしれない。

 

 

【日本とオウム真理教

日本でこういう系の話というと
やっぱりまず一番に「オウム真理教」を連想するんだけど、
オウム真理教がどうしてああいうことになったのかについては、
アメリカに備わっている環境条件が日本にあるかどうかで
考えてみたら、ちょっと話が見えてくるのかもしれない。
いや、やっぱりムリがあるか? でも一応やってみよう。

・信教の自由が憲法で保障されている
・ありあまる土地
・移民が都市を作りやすい社会システム
・一般の人でも武器を持てる

信教の自由は日本にもある。でも、あとは全部ないな。
土地が豊富とは全然言えないし、
移民が新しい都市を作りやすいシステムでもないし、
日本の一般人は銃とか持たない。
オウムは確か東京を起点に信者を集め、選挙出馬も東京だった。
人がまばらなエリアを選んで多数派としての地位を確立し、
周到に政治力を伸ばしていったラジニーシコミューンとは
考え方が全然違うようだ。
アメリカと日本とではこの通り環境要件が異なっている。
ラジニーシコミューンが一時的にうまくやった例があっても
彼らとまったく同じ手法で、日本でオウムが何かしたとして、
同じようにうまくいったかどうかはわたしにはわからない。
(もしアメリカでやってたらうまくいったのだろうか・・・)

まだオウム真理教とその事件は「歴史」にまでは
なっていないような気がする。
自分の国のことなのに恥ずかしいんだけど、
実はわたしはオウム関連の事件については、
ほとんど何も知らない。
オウムの組織成立の経緯や彼らの起こした事件について
知識を得てから、この記事を書きたかった気もしたが、
どの本を読めば良いか、誰の研究から学べば良いか、
見当もつかなかった。
今後少し勉強して、何か自分なりに考える所までいったら
この記事に加筆するかもしれないが、
今回の所はここでおしまいにしておきたい。



※参考に読んでみた本
森孝一『宗教からよむ”アメリカ”』講談社選書メチエ
堀内一史アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ』中公新書
森本あんり『キリスト教でたどるアメリカ史』角川ソフィア文庫
高橋弘『ユタ州とブリガム・ヤング
    アメリカ西部開拓史における暴力・性・宗教』新教出版社
ヒュー・ミルン『ラジニーシ・堕ちた神』第三書館
太田俊寛『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇』ちくま新書

『キング』

 


原題:The King
デヴィッド・ミショッド監督・脚本
2019年
米・豪

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www.youtube.com

【はじめに・・・】

この映画、おもしろくなかったんですよ!!!
けど、「おもしろくなさ」について語る意味はあると思い、
一生懸命に語ったら、結果、スゴく長文になっちゃった。
ひとえにわたしの力量の問題で、本当に恥ずかしい。
けど、シェイクスピア原作におけるキャラクター造型や
作品の構造と、映画のそれを比較検討することで、
真剣に、自分なりの批判を展開しようと試みた。
また、同じ原作をベースにした作品で、もっと良作を
見つけたので、その簡単な紹介も、最後に付した。
英米古典文学や戦争史劇映画にもしご関心があれば、
ついてきてくださるとうれしい。
作品解釈や知見の部分で間違っているところがあれば
それはわたしの力足らずによるものだ。
どなたか指摘して教えていただければ、すごく助かる。


【おもしろくない。良くない。】

おもしろくないんだよね~。
ついでに言うとちょっと悪質な映画でもあると思う。

ネット上の鑑賞者レビューにざっと目を通して、
批評家と呼ばれる人のレビューもいくつか読んだ結果、
この映画を批判する意見は少ない印象。
だがわたしは全然おもしろくなかった。
いったいこの映画の、何が良かったのか知りたくて、
一応2回鑑賞したが、理解はできなかった。

でもさ結局の所、レビューした人の9割9分がたは
ティモシー・シャラメたん ステキ♪」
しか言ってないよね(笑)
本格戦争史劇の触れ込みだったらしいけど
アイドル映画的消費のされ方の域を出ていないのでは?



【一回でも原作読んだのか】

こんなこと言いたくはないんだけど、
この映画を観た人たちのうち
いったい何人が原作を読んだのか。
シェイクスピア
『ヘンリー四世 第一部』『ヘンリー四世 第二部』
『ヘンリー五世』とできれば『リチャード二世』
映画観る前でも観たあとでも、1冊でも読んだのか。
映画を観る動機なんて人それぞれだから、
一般の鑑賞者の姿勢までどうこう言う気はないが、
批評家とされる方がたについちゃあ話は別だろう。
批評家ともあろう方がたが
この映画をまともに批判しないなんて・・・、
不正じゃなければ、金とか絡んでなければだけど、
原作を読まずにものを言ってるから、じゃないのかね。
だって、一回でも原作を読んでいたら、
「この映画はおかしい」と少しは感じると思う。
「言うのもバカらしいわ」と思ったならしょうがないが、
一人くらいは
「まったくなっちゃいませんね、この映画は」と
言う人がいてもおかしくないと思うんだよ。

西欧の芸術に携わる人は、誰でも、年若い人でも、
当然、古典芸術の教養を身につけてると思ってた。
自分が作るものが西洋芸術史のマップ上のどこの位置付けか、
わきまえて立ち回ってるんだろうと。
西欧文化へのコンプレックスかもしれないけど。
けど、この映画観て、それは思い違いだとわかった。
シェイクスピア知らなくても演劇は作れるし、
教養レベルとかは人によるし、タイミングもあるよね。

 

【絶対やっちゃダメなことをやっている】

それはわかるのだが・・・
だけどこの映画は、問題だと思うな。
ジョン・フォルスタッフが登場するということは、
脚本を書いた人(つまり監督)は、
さすがに原作を意識していたみたいだけど、
その原作の「とらえ方」が的外れだと思う。
脚色にしても、わたしが観ていた限り、
「それだけはやっちゃダメだろ」ってことを、
狙いすましたかのようにやっちゃっていた。

だが、それで結果的に、この『キング』が
原作レイプである! けしからん」
とか目くじら立てるほどひどい出来か? と言うと
そうでもない気がする。
怒りという強い気持ちを煽ってくるほどのパワーは
どうも足りてない作品だ。
単に、内容も、見どころも、何もない、
おもしろくな~い映画。それだけのことだ。

以下にわたしは結構いろいろ書くけど、
この作品に「怒っている」から書く、のではない。
ただ、この映画を観て感じた「おかしさ」について
本腰入れて詳しく語ってみたい、とは考えた。
なぜなら既出の鑑賞者レビューを渉猟した限り
誰もまじめにこの映画の問題点を指摘してないから。

記事の長大さのあまり「わー、なんか怒ってる怒ってる」
って印象を与えてしまうかもしれないけど、
そういうつもりはない。
キレてないですよ。 



【やっちゃダメなこと=個性を奪うこと】

「それだけはやっちゃダメだろ」ってことを
狙いすましたかのようにやっちゃっている映画だ、
わたしはそう言った。
わたしに言わせれば、端的に言うとそれは、
ハリー(ヘンリー五世)とフォルスタッフの、
キャラクターの改悪、と言うか「無個性化」だ。
ハリーは、もちろん物語の主人公だ。
フォルスタッフは、脇役以外の何ものでもないのだが、
ハリーの言わば「影」とも言える、超重要キャラだ。
つまり彼らは言わばこの物語のツートップ。
その二人から、個性を奪い取るだと???
絶対やっちゃダメなやつだ、どう考えても。

「無個性化」という言葉にたどり着いた時、
この記事を書き進めるのが急にラクになった。 
『キング』のハリーとフォルスタッフには個性がない。
そういうこと。言いたかったのはそれだ。


 

【確認:原作のあらすじ】

『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』の
おおまかなストーリーを紹介しとく。
舞台は15世紀初頭のイングランド
ヘンリー四世はリチャード二世から位を簒奪して王となったが
国内外に山積する問題を解決しきれないまま、病を得て崩御
息子である王太子ハリーが、ヘンリー五世として即位する。
父王在位中のハリーは、放蕩ざんまいのドラ息子だった。
宮廷に寄り付かず、政治に興味を示さず、
騎士階級の鼻つまみ者フォルスタッフを始めとする
下町の連中とつるんで遊び呆けていた。
だが新王となるやハリーは改心、
まれにみる偉大な君主として国を治めるようになる。
そしてフランスと激突、アジャンクールの戦いで勝利して
父の念願だった二国統一を成し遂げたハリーが、
フランス王女キャサリンを妻に迎えて大団円。

映画『キング』も、ストーリーは大体このままだ。 



【『キング』のハリーはこうなってる】

ハリーのキャラクターに関して言えば、
原作では(翻訳によって多少イメージは違うんだろうが)
妙~に間が悪くて、誤解されやすい所はあるものの
なかなか快活で豪気で、庶民にも愛される、好人物だ。
ちょっとだけネタばらしすると実はその庶民派キャラも、
ハリーなりの思惑による、仮の姿だったりするのだが、
そんなことはおくびにも出さず、実際わりと本心から
下町に入り浸るダメ王子ライフを楽しんでいる感じ。

だが原作のハリーのこのカラっとしたキャラクターを、
『キング』のハリーは1ミリたりとも受け継いでなかった。
とにかく暗い・・・。覇気のカケラもない。声が小さい。
表情が乏しいので心情や思惑がちっとも見えないのだが、
あえて形容するなら、所与の暮らしに倦んでいる。
何もかもが苦痛で、生きることが嫌でしょうがない。
強いて言えばそんな、内向的で繊細な性格に見える。
だが、ついさっき言ったばかりのことを繰り返すが、
何を考えてるのか本人が言わないから、わからない。
「戦争は無益だ」みたいなことは、たまに言っていた。
また、父親を怪物呼ばわりするほど忌み嫌っていて
「俺は父とは違う」とかつぶやく時もあるにはあった。
父のヘンリー四世は、後ろめたい方法で王になったせいで、
宮廷内に敵が多く、貴族たちの不満を自分からそらすために
外国と戦争する、というやりかたを取っていた所があった。
ハリーは父のそういうやり方を見ていたのであろうから、
「おれは親父とは違う、戦争なんて無益だから、しない」
・・・そう言いたかった、つもりなのだろうか。
だがその彼も臣下に突き上げられ結局は戦争する道を選択した。
だけど開戦を決意するまでのハリーの心のうつりかわりなどは
映画を観ていてもまったく、たどることができないから、
「父と同じ轍を踏みたくないから戦争したくない」と
思っていたのかどうかは、わからない。

そもそも、元も子もないことを言うようで恐縮なのだが
「戦争は無益」とか言う価値観は、とても現代的なもので、
中世ヨーロッパ史劇の人物の脳に搭載すること自体ムリがある。
あと、原作では、ハリーは父王ヘンリー四世を尊重してたよ。
父に対して、内心いろいろ思う所はあったようだが、
その葛藤のあり方は、もっと素直なものであり、
『キング』のハリーみたいな、
クソオヤジ呼ばわりするみたいな嫌い方はしていない。
いったいどこから持ってきたんだ、あんなキャラを。 



【『キング』のハリーがこうなったわけ】

『キング』の作り手たちが、
ハリーのキャラをこんな風に作り変えたのはなぜか?
陰気だけどいかにも何か考えてます、みたいなキャラに。
そのくせ何を考えているか説明を付さなかったのはなぜか。
そこはぜひとも説明が必要な所だと思う。
ネタバレになっちゃうから、詳しくは書かないが、
ハリーの人柄や思考傾向を少しでも丁寧に描いていれば、
あの終盤の、噴飯もののどんでん返しも不要だったろう。
「宮廷には醜悪な奸計と裏切りが渦巻いている。
 それは父の身から出たサビだ。
 俺は父がそのことで苦しむのをずっと見てきた。
 だから俺は王なんかにはなりたくないのだ」
例えばこんな風に最初からハリーに言わせておけばすんだ。
実際、信用していた部下の裏切りの証拠をつかみ、
処刑するという、原作通りの場面が中盤にちゃんとあった。
ああいう場面を他にもいくつか前もって入れておけば、
ラストに、あんなバカな展開は要らなかったのでは。

そもそもハリー自身の人柄や、統治方針とかを、
鑑賞者に知らせるシーン自体がなかったんだから、
ラストをああいう風にする意味もなかったと思う。
もしもハリーに政治をやる気がないのだとしたら、
国の平和が「偽り」か「真実」かなんて、
そんなこと彼にはどうでも良いかもしれないのだ。

わたしなりの考えを言わせてもらうと、
ハリーをあんな暗~いキャラにしたことに、
多分、明確な理由とかはないのだろうね。
ティモシー・シャラメのアンニュイな横顔を、
撮りたかっただけなんじゃないかな。


 

【そして問題はフォルスタッフ】

ハリーについての文句、だいぶ言ったな~。
正直なとこ、言いたいことはまだ山ほどある。
けど、この映画の中で、
わたしがハリーよりももっと気になったのは、
むしろジョン・フォルスタッフのキャラクター造型だ。
というかフォルスタッフについて考えると、
反射するように、ハリーのことも見えやすくなる。
この二人のキャラは、そういう関係性上にある。
わたしはそう考えている。 

原作を読めば一目瞭然、
フォルスタッフはすがすがしいほどのクズ野郎だ。
大酒飲みの大食い、しかもエロじじい、さらに虚言癖、
上の者にはペコペコへつらい下の者はさげすみいじめる。
強盗・詐欺などの犯罪にも手を染め、多重債務者でもある。
歩兵を雇う資格を持つ騎士階級のくせに、すごい臆病者で、
戦って死ぬことを恐れて、戦場ではいつも隠れている。
しかも他人の手柄を平気で横取り。王子の手柄さえも。
嘘だろと思うかもしれないが、本当にこんなキャラだ。

でも、シェイクスピアが作り出したこの
フォルスタッフというキャラクターは、
昔からとても愛されてきたのだそうだ。
原作戯曲を読むとわかるのだが、
ハリーよりもフォルスタッフの方が、断然目立つ。
彼というキャラを一度知ると、忘れられなくなる。
まあ、わたしはフォルスタッフなんか大っ嫌いだから、
王になったハリーがこの男をアッサリ追放する場面で、
本当に胸がスッとするんだけど・・・、
それでも、ヘンリー五世の物語の中での
フォルスタッフの重要性は理解しているつもりだ。


 

【なぜフォルスタッフがそんなに重要か】

なぜフォルスタッフがそんなに重要だと思うか。
わたしの作品解釈では、
ハリーが、当時の支配的潮流だった中世的「騎士道精神」、
君主制に立脚するイデオロギーを体現するキャラだとすると、
フォルスタッフはそのイデオロギーからの人間性の解放、
きらきらと輝く人間の生命力を体現するキャラなのだ。
両者は鏡であり、ヘンリー五世の物語の、二本の柱だ。
両方とも外せない、そういう構造になってる。
フォルスタッフが重要なのは、そのためだ。


 

【物語上の役割:ハリー】

まず、ハリーについて考えてみたい。
彼はこの戯曲のヒーローで、王さまだから、
ハリーが体現するのは騎士としての名誉とか、
たとえ負け戦でも最後の一兵卒まで的な「ヒロイズム」だ。
キリスト教文化圏の物語だから、宗教的な敬虔さも大切だ。
原作のハリーは、何万もの兵の命を背負う重責に慄いて、
あさましいほど神にすがり、勝利の奇蹟をこいねがう。
けど「ヒロイズム」って、人間存在にとっては人工的なものだ。
「王者たるもの」「騎士たるもの」「男子たるもの」
という後天的な教育によって身についていったはずのもので、
誰もが生まれつき心に備えているもの、とは言えないだろう。
でも、ともかくハリーは、王となることによって、
そんな理想的精神に自分を溶かし込んでいく。


 

【物語上の役割:フォルスタッフ】

フォルスタッフは、ハリーとは明らかに違う。
彼は、本当に期待を裏切らない安定のクズ野郎なのだが、
考えようによっては、ハリーよりもずっと人間らしい。
なぜなら、自己保存本能にものすごく忠実だから。
さっき紹介したが、フォルスタッフはひどい臆病者だ。
戦場で逃げるどころか、死んだふりまでして身を守る。
ひきょう者のそしりを免れないだろうし、
わたしもフォルスタッフなんか大っ嫌いだ。けど、
フォルスタッフが臆病だ、ひきょうだという評価は、
中世封建社会のメインストリーム的価値観から見た時の、
ごく限定的なジャッジにすぎない、とも言える。
確かに、戦場で女子どもを虐殺するといったような
明らかに人間の道に反することをやったとしたら、
これはひきょうだ卑劣だと言われてもしかたがない。
でも、絶対勝てない相手と見たらさっさと逃げたり、
死んだフリをして場をやり過ごす、とかならば、
誰だって場合によっては、似たようなことをやるのでは。
山で巨大なクマと遭遇した時、最後の一人まで戦うぞ! 
なんて考える人は、残念だが、おつむが煮えている。
フォルスタッフだけが特別クズとも言えないわけだ。
ちなみに、「ひきょう」なことをするのが得意になると
人間、体裁をとりつくろう言い訳が、達者になるらしい。
フォルスタッフも、どんな時でも決して悪びれず、
バカみたいなホラとマシンガントークで逃げ切る、
一種の機智? みたいなものを備えている。
彼のお得意の適当トークは原作戯曲の至る所でみられ、
心底、へきえきさせられる。

こうしてどっこい生きていくのが人間だ、とするなら
フォルスタッフはまぎれもなく、人間的なキャラだ。


 

【共鳴しつつ分岐する】

フォルスタッフはこう言ってる。
「名誉、面目って野郎が尻っぺたァつっつきやがる。
 だがな、いってえ・・・なんだな、その名誉って奴ァ、
 ただの言葉じゃねえか? 空気じゃねえか?」
(『ヘンリー四世 第一部』第五幕第一場)

これに呼応するかのように、
アジャンクール前夜、ハリーもこんなことを言う。
「庶民が持たず王が持っているものは何だ、
 儀礼だけ、公の壮麗な儀礼だけではないか?
 その儀礼という偶像よ、お前はいったい何者だ?
 <中略>
 儀礼という見栄っぱりな幻よ、お前は王の安らぎを
 巧みに弄ぶ・・・」
(『ヘンリー五世』第四幕第一場)

ここだけ見ても、ハリーとフォルスタッフの道が
対比的に分岐するよう仕組まれていることは明白ではないか。

父のあとを継ぐまではハリーもフォルスタッフと同じだった。
進んでフォルスタッフと同類でいた。毎日バカをやっていた。
イングランド王にしてフランス王という栄誉を手にする前は、
こんな自嘲的な、心の迷いをうかがわせる独白をしていた。
だが、アジャンクールの戦いに勝利したあとの彼はもう、
戦う王となって、脇目もふらず覇道を驀進していく。
対してフォルスタッフは、最初から最後まで変わらない。
鉄壁のクズ野郎であり、あきれるほど人間なのだ。


 

【フォルスタッフの末路】

人間も生きものなんだから、生命の危険が迫れば、
自分だけは助かろうとして、みっともないこともする。
自分だけは他人よりも良い思いをしたい、とか考えて、
いろいろずるいことを企む時だって、あるものだ。
単純に言えばフォルスタッフは、そっちサイド代表だ。
もちろんそんな人間は、表向きはとても嫌われる。
劇の中では、悪者か笑いものになるのがお約束だろう。
フォルスタッフも、まさにそんな感じの扱いだ。
実はフォルスタッフは、ハリーに追放されると、
ショックのあまりボケたようになってしまい、
とてもさびしい末路をたどることになる。
それまで劇中で大暴れしていたにも関わらず、
「フォルスタッフの末路」の場面なんて、
戯曲には一瞬たりとも用意されない。
「フォルスタッフの野郎はボケたらしいよ」
みたいな感じで人のウワサになって、
それであっけなく物語から退場させられるのだ。

ハリーがすっかり改心して立派な王となったことは、
「成長」として、周囲に極めて好意的に評価される。
君主制時代の理想的な秩序の具現者たること、それこそ
当時の英国の社会で、表向き最高の、男の姿だった。
対してフォルスタッフは、
「言うても人間ってこうでしょ!」を体現する存在として
物語の中に生き、与えられた人生をやり抜いて去っていく。
もっと言うと、この戯曲が読み継がれる限り、
フォルスタッフは何度でも人びとの心の中に生まれる。
まるでしぶといゴキブ・・・いや、生命力あふれるキャラだ。

そういうことだと思うから、わたしは、
フォルスタッフもヘンリー五世の物語の
非常に重要なキャラクターだと思っている。
彼はハリーと同じく、この物語の、
屋台骨そのものだからだ。



【『キング』のフォルスタッフはこうなってる】

で、そのフォルスタッフは、
映画『キング』ではどんな風に描かれているか?
それがもう、めちゃくちゃカッコイイのだ。 
彼こそ真の騎士、いぶし銀のロートルナイトだ。
ハリーに信頼され軍指揮官に抜擢される。カッコイイ。
「明日は雨が降るぜ。俺のヒザの古傷が疼くからな」
とか言って、天候条件を活かす奇策を献ずる。カッコイイ。
「戦争なんてろくでもない。俺はさんざん見てきた」
もののわかったことを言う。カッコイイ。
戦場では、何と前衛を率いて真っ先に敵に突っ込んでいく。
もはや誰!

これはつまり、フォルスタッフというキャラクターを、
原作でハリーが代表している中世ヒロイズムサイドに
統合しちゃいましょう、ということなのか?

別に、それはそれで良いとわたしは思う。
原作とは別の、完成された構造を持つ物語として
ちゃんと成立していれば、の話だが。



【ただ奪い去られただけの個性】

いや、残念だけどまったく成立してないのだ。
さっきから言ってきたことだけど、そもそもハリーが
何考えてるのかわからない人にしか見えないので。
戦争に興味はない、俺は父とは違うとか言うけど、
ではどんな治世を目指すか? は明言しないから、
それでは「何を考えているかわかる」とは言えない。
フォルスタッフが「リーダーの心得」みたいなものを
説いていたが、ハリーは下を向いて聞いているだけで
それは違うとも、俺も同感だ、とも言わないので、
何だか良くわからない。

フォルスタッフ、こんな立派になっちゃってまあ(涙)
でも、こういう百戦錬磨のいぶし銀キャラってさ、
戦争史劇ものに、たいてい一人はいるよね。
ただの「そういう立ち位置」なのであって、
フォルスタッフじゃなくても良かったんじゃ?

『キング』はハリーとフォルスタッフから
個性を剥ぎ取った。
五百歩譲って「初期化した」と言っても良い。でも、
それだけのことをするからには、という「何か」をやったか。
残念だけど、何もやってない。
そう言わざるを得ない。
だ~か~ら、
絶対やっちゃダメなことをやっちゃってるんだって~!
明確なビジョンもなしに古典の名作に手を出してさ~!
この二人が物語の構造上どんな役割を持たされているか、
映画の作り手がちゃんと考えようとしていないし、
考えた上での「再構築」にも取り組めていない。
というか「再構築してやるぞ」という気概そのものが、
なかったんだろうね、この映画作った人には。
やっぱりアレでしょ、
ティモシー・シャラメ人気に乗っかっただけ。 

原作戯曲は、もう昔の作品なので、
今の感覚で読んだらピンとこない部分も多い。
『キング』の作り手たちは、あるいは、
その「今の感覚で理解しにくい部分」をカットして、
単純なハリーの成長物語にしよう、と考えたのかも。
でも、ハリーが没個性的で、何考えてるかわからないから
ハリーが成長したかどうかも、わからないんだけど(笑)!
父との関係がうまくいってなかった分、
フォルスタッフに「父親」的なものを求めた、とか
そういう感じのことがやりたかったのか?
確かにフォルスタッフは満更でもなさそうだった。
けど、ハリーはフォルスタッフのこと
「お前は友だち」って言ってたぞ・・・



【他にもこのへんイケてない】

単なる戦争映画としても、見ごたえがないんだよな~。
クライマックスのアジャンクールの戦いの場面も
新しさというものが感じられず退屈の一言。
環境要件を活かす奇策、みたいなのであれば、
アウトロー・キング スコットランドの英雄』(2018年)が 
同じようなことをやってしまってるし、
むしろあっちの方が見ごたえがあった。
そう言えば最近『ブレイブハート』(1995年)を観たけど
あれのさー 騎馬隊を引き付けるだけ引き付けて、
とっさに長槍を突き立てて、騎馬の足を壊乱させる作戦も
良かったよね。迫力があったし、
「作戦がキマッた!!!」という感じがちゃんとしたし、
観ていて楽しかった。
あのキマッた!!! という感じがないよな『キング』には。

クライマックスまでのテンポもダルかったな~。
フランス王太子役のロバート・パティンソンも浮いていた。
マッドな若殿さまの類型って感じで。

役者さんはみんな自分の仕事をちゃんとやっていたよ。
おかげで時々は、場面がまとまってる気がした時もあった。
悪いのは役者じゃなくて監督、脚本じゃないかな。
つまり映画を作ろう、というその段階でもう 
映画が腐り始めていたんだと思えてならない。


 

【『ホロウ・クラウン』観ようぜ】

『キング』観るくらいだったら、同じヘンリー5世なら
英国の2012年~2016年のテレビ映画シリーズ
『ホロウ・クラウン 嘆きの王冠』シーズン1の方が
わたしはずっと楽しめた。

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何たって愚直なまでに原作に誠実。
実写なのに戯曲のセリフをものすごくちゃんと言うから
いつまでしゃべってんだ! ってくらいセリフ長い(笑)!
でも場面の演出なんかはおしゃれに脚色していて、
映像もカラフルで美しいし、観ていて楽しいんだよ。
トム・ヒドルストンのあのハリー、素晴らしかった。
原作を読んでわたしが抱いてきたイメージともかなり近い。
スタイルが良くて、普通にとってもカッコイイし。
それにフォルスタッフも完璧! 大っ嫌い(笑)!

『キング』観るくらいなら『ホロウ・クラウン』観よう。
そしてシェイクスピアくらいやっぱり読もう。
読めばわかるって。そういうの、大事だと、わたし思う。


※記事内におけるセリフの引用は以下から。
『ヘンリー四世 第一部』中野好夫訳、岩波文庫 1993年12刷
『ヘンリー四世 第ニ部』中野好夫訳、岩波文庫 1993年14刷
『ヘンリー五世』松岡和子訳、ちくま文庫 2019年1刷

『いつかはマイ・ベイビー』

原題:Always Be My Maybe
ナナッチカ・カーン監督
米国
2019年5月31日~ Netflix独占配信中

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ご時世がご時世だから気分が暗くなりやすいので
明るい気持ちになりたい気がして、観てみた。

いやあ、どうなんですかねこれは。
わたしは全然ハマらなかったけどねえ(笑)!
物語の中で起こることのすべてに、
ほとんど興味関心が湧かなかった(笑)
でも世評はとっても良いみたい。

観ていて、十分明るい気持ちにはしてもらったし、
パソコンで何か別の作業をしながら、
小さなウィンドウで流しておく分には
ちっとも悪くない映画だと思う。

マーカスがヒロインにそこまで魅かれる
理由が良くわからなかった。
(恋愛なんて人それぞれなので、外野が
 この人のどこが良いの? とか言うのは
 野暮ではあるのだが・・・)

また、彼が今まで人生を一歩踏み出せないでいた所を
良し! 今こそその時だ! と立ち上がった動機も
ハッキリしなくて、いまいち共感できず。

「君のバッグを持たせてくれ!」というセリフも
ちょっと女性に都合の良い男すぎないか、と思った(笑)

だが、ティーンの時に乗っていた車を
十数年だか経ってボロボロになってもまだ使ってたり
幼い頃おそろいで買ったキーホルダーを
未だに持っていたり・・・という
マーカスの異常な物持ちの良さは、
「過去に囚われた男」を表現するエピソードなのだろうと
それくらいは理解できた。

また、これはただの印象なんだけど、
マーカスが人生のコマを前に進めあぐねていたことに、
はっきりした理由なんて特にないのかもしれない。
「なぜ?」とあえて聞けば、彼は多分もっともらしく
説明してくれるんだろうけど、その場しのぎに過ぎず、
「なぜって聞かれても困る」というのが正直な所では。
母親を亡くしたことも、そんなには関係ないと思う。
少なくとも関係があるかのようには描かれていなかった。

ヒロインのサシャの方も、
人物や人生の背景の描写が弱い、と感じたことは
やはり同様だった。
両親と疎遠な理由が、何よりも一番謎だ(笑)
「わたしに両親はいない」とまで言うほど・・・。
疎遠という設定じゃなくても別に良かったと思う(笑)

婚約者との結婚がダメになるシーンで、サシャが、
「あなたのせいで出産に最適の時期を棒に振った」
的なことを叫ぶ。これを聞いた時は、
「あ、そうなの!? そういうこと考えてたの?!」
と、観てるこっちがビックリした。
この段階までは彼女はそんなこと匂わせもしてなかった。
なんならサシャも、仕事人間でナルシストの婚約者同様、
ビジネス上の打算で相手を選んだのかと思ってた。
そういう風にしか見えなかったのだ。
だからパートナーに結婚を延期し別居する、と言われて
サシャがあれほどまでに怒ったのが意外であったし、
まして妊娠を希望していたとは! と驚愕した。
婚約者に対してはいくら本心を隠してても良いけど、
鑑賞者にだけは事前に教えといてくれや(笑)

サシャがシェフの道を歩んだことのきっかけには、
隣のマーカス一家にしょっちゅうご飯をごちそうになっていて
マーカスの母に料理の手ほどきを受けたことが大きかったと
理解しておけば、まあ間違いはないのだろう。
だが、それは「そんな感じで理解しておいてあげます」と、
観てるこっちが精一杯、気を遣った結果の解釈であり、
「そうだったとしか考えられない」というほど強く
設定を印象付ける描写は全然なかった(笑)
マーカスの母との、ある思い出が、あとで活きる伏線だったと
映画を最後まで観た時に、初めてわかった。
だがこれも、伏線が伏線たりえていないもんだから、
「はあ、そうですか~」って感じで終わってしまった。
悪くない終わり方だったとは思うが。

だが好ましい所や、ちょっと新鮮だなと感じる所も、
たくさん見付けられた映画ではあった。
例えば、マーカスは韓国系アメリカ人で、
サシャは(多分)中国系アメリカ人だ。
こうした属性(言ってしまえばこうした人種)のキャラは
ちょっと前の恋愛映画では、
例えば「ヒロインの親友」とかいったような、
サブキャラにすぎなかったと思う。
それがこの映画では、れっきとした主役をはっている。
また、社会的地位も収入も、上なのは明らかにサシャで、
マーカスの方はそうじゃない・・・、という設定も
ちょっと変わったことやっているな、って印象だ。
マーカスもサシャも、お世辞にも美男美女とは言えない所も。

サシャの一番の親友で有能なアシスタントでもある
ヴェロニカが出産したので、お見舞いに行くシーンがある。
そこで、ヴェロニカのパートナーが女性であることが
非常にさりげなく表現されていて、うまい! の一言。
正直に言うと映画を観た時にはこれはわからなかった。
今この記事を書いている途中で、ハッと気付いた。
あれはスゴく、スマートで良かったんじゃないかな。

あと、キアヌ・リーブスが素晴らしかった(笑)
ああいう役柄で、本人役で出てくれる所が
キアヌ・リーブスの、彼らしい所なのだろう。
とても楽しそうに役を演じていて、微笑ましい限りだった。

マーカスとサシャのようなデコボコのカップルだと、
結ばれるまでよりも、そのあとの方が、
数億倍もいろんな困難に見舞われると思う。
続編とかで、二人のその後を描くのもアリではないか。
テレビドラマシリーズにしちゃうと間が持たなさそうだが、
サクッと2時間ならそれなりに楽しい映画になる気がする。

それにしても、
つい先ほど述べたことに関係するのだが、
旧来のハリウッドのテレビドラマや映画だったら
主人公にはならなかったであろうタイプのキャラクターが、
この『いつかはマイ・ベイビー』では主役をはっていた。
これはNetflixが新たに開きつつある扉、なのだろうか。
それとも、単に配給会社を経由する関係で
日本にあまり入ってきにくいというだけで
もともとこのくらいの感じの作品はたくさんあり、
Netflixを通すとこうして触れることができる、のだろうか。

この世にはいろんな人がいて、いろんな人間関係があるから、
それを物語にする以上、いろんな物語が生まれて当然だと思う。
人の多様性を積極的に取り扱っていく姿勢が
Netflixのポテンシャルなのだとすれば、もちろん応援したい。

『シャザム!』

原題:Shazam!
デヴィッド・F・サンドバーグ監督
2019年、米

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『デッド・プール』(ティム・ミラー監督、2016年)ほどの
潔い突き抜け感はなかった気がしたけど、
別にそれが不満、ってわけじゃない。
十分楽しく観た。たまに声出して笑った。
孤児、里親、身体的障害、いじめ、などなど
複雑なことが盛り込まれたストーリーだったけど、
決してシリアスではなく、楽しく観ようね、って感じ。

ビリー少年の笑顔が可愛くてとっても良かった。
大人ビリー=シャザム(ザッカリー・リーヴァイ)に
変身した時にキャラが変わり過ぎだろ! とは思ったけど。
けど、身なりって、びっくりするほど人を変えるので、
あんなムキムキのスーパーヒーローに変身したら、
マインドもそれにつられて、誰でもああいう風に
キャラが豹変しちゃうものなのかも。

それにしても、
「永遠の岩」のセキュリティシステムは一体どうなってるんだ。
あの場所にたどり着くための方法や難易度が場合によって違った。
ドクター・シヴァナは「永遠の岩」への行き方を知ろうとして
その半生のすべてを研究に捧げてきたというのに、
ビリーの義理のきょうだいたちは、ビリーやシヴァナの
あとにくっついていくだけで、簡単に潜入できてしまう。

「永遠の岩」で後継者の出現を待っている魔術師の
人を見る眼はビミョーだなと思った。
どうも、ビリーの時は、ビリーが「良いこと」をしたので、
純粋で正しい心の持ち主だと見込んで招いたらしい。
ではあの魔術師は、世界中の人間の行いをじっと見ていて、
些細なことでも善行をなした人間をピックアップしている
・・・ということになるのだろうか。
でもだとしたら、シヴァナを呼んだ理由は何なんだ。
シヴァナは、「良いこと」を特にしてなかったぞ・・・。
それに、話をビリーに戻すと、
まあ、確かに彼は「良いこと」をした。
義理のきょうだいのフレディを、いじめから救ったのだ。
けど、思いっきり武器を使ってた。
現実にあれをやったらケガではすまない殴り方だった。
子どもも観る映画なので、流血沙汰にはならなかったけど、
果たしてあれを素直に「善行」と言って良いものか・・・。
そもそもフレディのためにしたことってわけでもなかったし。
あの魔術師は、魔力が衰えつつあっただけでなく、
七つの大罪」の影響で、おつむが煮えてきてたのかな。

現実のつらさや、やるべきことから逃げないこと。
弱い立場の人への、思いやりの心。
いざとなったら大切な人を守って戦う勇気。
そんなことを、若い人たちに伝える物語だった。
それをわかりやすく伝えるために、
大人たちのズルくて弱い面が、けっこうハッキリと
打ち出されていたのがおもしろかった。
ビリー少年が母と再会する所とか、実に何と言うか・・・
あの母親の、言い分がね。いやはや・・・。何と言うか。
我が子に対した時に一番やっちゃダメな逃避の形だ、あれは。

敵のシヴァナは怪物「七つの大罪」を使役している。
でも実際に外に出て人を襲うのは7体中6体だけで、
残り1体はいつもシヴァナの中におり、その名は「嫉妬」。
わかりやすくて、なかなかうまい。
ビリーは、
「他の6体に『お前にはどうせできない』と言われて
 ハブられてて、戦いに参加させてもらえないんだろ」
と言って「嫉妬」を挑発し、おびき出していた。
けど、これは実際の所どうなのか。
ビリーの考え方も一理あるんだろうが、
「嫉妬」は、シヴァナのいじけた心の中にいるのが快適で、
中にいたがっているんじゃないかな、と考えたりした。

この通り、普通に考えておかしいだろ! って所が
わりともりだくさんの映画だった(笑)。
吹替版も観たけど、シャザムの声、合ってないし、
そういう所もちょっと、いろいろと・・・。
だけど、まあ、そんなことはどうでも良い。
観てて、気分が上がったし。
ビリー少年役のアッシャー・エンジェルと
フレディ少年役のジャック・ディラン・グレイザーは
心から楽しんで演じているように見えた。
ビールを一口飲んでブー!!!! と吹き出す所や
夜のお店に行ってみる所、実にアホ男子で、笑った。
ラストシーンのフレディの表情も最高。

今回の物語は
スーパーヒーロー・シャザムの「誕生」の物語にすぎず、
人類を救う的な、スケールの大きな話ではなかった。
ただ、魔術師によれば、「七つの大罪」が世に放たれて
世界が壊滅的しかけたことが、遠い昔にあったらしい。
七つの大罪」は今回の物語の中で目覚めたわけだし、
ドクター・シヴァナもまだ何か企んでるみたいだった。
続編があるとすれば、その時は、シャザムはもっと
ワールドワイドな戦いに身を投じていくのだろう。
正直言うと、そんなには興味ないけど(笑)、
せいぜい頑張ってくれ。シャザム!