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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

『リチャード・ジュエル』

 

原題:Richard Jewell
クリント・イーストウッド監督
2019年、米国

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www.youtube.com

原作はこれだ。↓
1997年の記事だが、今でもネットで読むことができる。

archive.vanityfair.com

 

【自分を見直すきっかけをくれる映画】

まだ犯人と決まったわけでもない人を、
事件の第一容疑者として実名報道するという
いわゆる報道断罪の問題を取り扱っている。
96年に実際に起こった事件を描いた物語だ。
でも、特定の事件の、特定の報道手法の是非を問う内容に
とどまってはいなかった。
この物語を観ることを通して、わたしたちひとりひとりが、
自分の行動や発言のありかたを見直せる。
なぜなら今は、誰でも、いつでも、どこでも、自由に、
広い世界に向けて発言できる時代だから。
テレビや新聞の報道のやり方うんぬん・・・とか、
そういうことだけの話ではない、と言えるはずだ。

 

【情報社会の陥穽】

インパクトのあるできごとの情報が、
ソーシャルネットワークとマスメディアの力によって、
爆発的なスピードで拡散される。
情報の真偽のほどは、おかまいなしで。
人がいて、社会がある所なら、きっと太古の昔から
この問題があったはずだ。
根拠なき憶測、噂が人から人へと伝わって・・・という。
でも、規模感は、今ほどじゃなかっただろう。
インターネットがなかった頃は。
困難な問題だ。
そのせいで困る人も大勢いて、
そんな事態は防がなくてはいけないのに、
絶対的に有効な手立ては、今も昔もない。


【被害者のつもりが加害者に】

立場の弱い者へのまなざしが優しく、
圧倒的強者への批判の眼が鋭い物語だった。
でも、立場というものは、容易に逆転するし、
ひとりの人が、強さと弱さを併せ持っている。
ひとりの声はごく小さくて、社会への影響力も弱いけど、
それが寄り集まると、時局や大勢を動かす強大な力となる。
問題なのは、わたしたちが、その
「寄り集まった大きな声」を構成する一成分であることを
自分でわかっていない場合があることだと思う。
自分でわかっていて進んでやっている場合よりも、
わからずにいつの間にか担っている場合の方が多いのでは。

ジュエルの自宅の周辺にむらがるメディアや、
飼い犬の散歩に出てきたジュエルを罵倒する民衆は、
知性を持たない生物に見えた。コバエの大群のような。
考えてやっているのではなく習性的な行動かのようだった。
自分のしていることがわかっていない。
自分のしていることが周りにどう見えているかを
意識する、という発想を、持たない者たちのように見えた。
自分も気付かずにこんなことをしているのかもと思うと
おぞましかった。

 

【『Please, Mr. President』】

ブライアント弁護士のアイデアで記者会見が開かれ、
ジュエルの母が、息子の無実を訴える。
「こんなことになったのはなぜですか。
 わたしの息子は無実です。
 助けてください、ミスター・プレジデント、
 あなたはこの苦しみを終わらせる力をお持ちです」
そこにいない合衆国大統領に、涙ながらに呼びかける。
キャシー・ベイツの名演に涙ぐんだ。
地元紙の新聞記者キャシー・スラッグスは、
ジュエルの実名報道の記事を、他に先んじて書き、
所属の新聞社のヒーローとしてもてはやされている。
彼女も、この会見を会場で聞いている。
実はキャシーは、新聞が世に出てから自分なりに調べて、
ジュエルが無実かもしれないことに気付いていた。
取り返しのつかないことをしたことを自覚しているので、
ジュエルの母のスピーチを聞いて、ひそかに涙するのだ。
キャシーの立場も理解できないことはなかったが、
泣いているひまがあったら、さっさと会社に戻って、
訂正記事を書けよ・・・、と思った。



【以下おまけ:原作の雑誌記事を読んだ】

原作を4日かけて読んだ。
映画を観て「これってどういうことなのかな~」と
感じた所の答えが得られれば、と思って読んでみた。
答えが得られた所も、わからずじまいの所もあった。
それらを以下にまとめてみたい。
映画は、実際に起こったことの情報をかなり単純化していた。
特にシンボリックなエピソードをうまく抽出していたことが
原作を読んで良くわかった。
エピソードの取捨選択、脚色のセンス、
ともに飛びぬけて巧みな映画だったと思う。
例えば「僕がゲイじゃないと、FBIに認めさせたい」
ジュエルが鼻息を荒くするシーン。
母が、爆発シーンのあるテレビドラマを観ようとした時に
「そんな番組を観るなよ、爆弾魔だと疑われてるんだぞ!」
ナーバスになったジュエルが怒り出すシーン。
母の「タッパーウェア」のエピソード。
FBIが、騙しうちによって「自白」を取ろうとしたこと。
どれもこれもすべて原作記事に書かれていた。
2時間ちょっとのなかで良くこんなに、
大事なエピソードを過不足なく盛り込んだよなあ。


【わかったこと1:ブライアント弁護士がしたこと】

…実の所、わたしは映画の最後の最後の方になってようやく、
 ジュエルが逮捕も起訴もされていなかったことに気付いた。
 そこへきて、では弁護士であるワトソン・ブライアントが
 この事件のなかで具体的に何をやっていたのか、と思った。
 ブライアントは、ジュエルと固い信頼関係で結ばれていて、
 窮地に立たされたジュエルを、いつも励ますのだが、
 結局、起訴されていないので、弁護をしたわけではないのだ。
 記事を読んで初めて、ブライアントが具体的にやったことの
 内容を理解した。
 結論を言えば、ブライアントは、ジュエルの逮捕に備えて、
 信用できる刑事弁護士を仲間に引き入れた。
 また、誤認報道を行った新聞社やテレビ局を相手取る
 損害賠償訴訟において、自ら代理人を務めた。
 くりかえすが、ジュエルは逮捕も起訴もされていない。
 家宅捜索や毛髪の採取を受けたが、犯人と決まってはいない。
 捜査対象として名前が挙がっているという状況を
 すっぱ抜かれて、実名報道されてしまったのだ。
 だが、無実でも、逮捕・起訴されるおそれはあった。
 ブライアントは、FBIを相手取るような重大事件を得意とする
 タイプの弁護士ではなかった。
 記事の本文には、
 「(刑事事件の弁護をする)資格を持っていなかった」
 という意味合いの所もあった。
→ The simple fact was that Bryant had no qualifications for the job.  
 そこでブライアントは、ジュエルが起訴された場合に備えて、
 刑事の経験が豊富な弁護士を探し、サポート体制を整えた。
 それがリン・ウッド、ケント・アレクサンダー、
 ジャック・マーティンといった人物だった。

 

【わかったこと2:サポートチームも一枚岩ではなかった】

…複数の弁護士がジュエルのサポートに関わった。
 それぞれに立場や思惑があり、彼らは終始モメていた。
 特に、若手のケント・アレクサンダー弁護士は
 「敵」であるFBIと密接に連絡を取り合っていたので、
 サポートチームの面々にやや警戒されていた。
 例えば、ジュエルにウソ発見器の検査を受けさせた事実を、
 FBIには伏せておく約束になっていたにも関わらず、
 アレクサンダーは、勝手にFBIにしゃべってしまった。
 ジャック・マーティンに至っては、モメにモメたすえ、
 アレクサンダーとの個人契約を解除した。
 事件の最終局面に至って突然のことだったので、
 大切な時に何をやっているんだと、チームの皆が非難した。
 FBIと繋がっているアレクサンダーは確かに厄介だが、
 首から鈴を外してしまったら、彼が何をやり出すか
 わからなくなるので、余計に面倒ということだろう。
 そのアレクサンダーも、チームの筆頭リン・ウッドを
 信頼していなかったらしい。

【わかったこと3:ジュエルとブライアントの関係は複雑】

…同じ中小企業管理局で働いていた時、
 ブライアントがジュエルに、ある品物を有償で貸したが、
 ジュエルはその金を払わないまま退職した。
 それなのに久びさに電話をかけてきたかと思えば、
 FBIに疑われているなどと言うのでブライアントは呆れたと言う。
 また、この誤認告発事件のなかで、ブライアントがジュエルを
 父のように力強く支えたのは、元々の信頼関係からと言うよりも、
 クライアントに従順でいさせるための、戦略的判断だったようだ。
 ジュエルは実父、継父とも失っており男親との縁が薄かった。
 二人の男に去られた心の傷で不安定になりがちだった母親に、
 過干渉ぎみに育てられた一人息子、それがジュエルだった。
 ブライアントは、クライアントであるジュエルが、
 頼れる父親的な存在を求めている、と判断したらしい。
 だが、ふたりの信頼関係が偽物だったと言いたいわけではない。
 ブライアントは最初から最後まで全力でジュエル母子を支えた。
 ジュエル母子はブライアントに全幅の信頼を寄せた。



【わかったこと4:同性愛者という憶測の出どころ】

…勤務先だった大学の学生たちの陰口から始まった模様。
 ジュエルは、五輪記念公園の警備の仕事に就く前、
 田舎の大学の学校警備員として働いていた。
 融通のきかない性格や、強引な取り締まりで、
 ジュエルは学生に嫌われ、学長にも煙たがられていた。
 捜査当局は、ジュエルが同性愛者であり、同性の恋人と
 共謀して公園の爆破を計画した、との仮説を立てていた。
 母と二人暮らし、未婚の30代男性、肥満体型、といった
 表面的なプロフィールから作り出された「犯人像」だ。
 事実を言えばジュエルは同性愛者ではなかった。
 婚約を含む、何度かの、女性との交際経験があった。
 共犯と目された親友のダッチェス氏には婚約者がいた。
 母子の同居は、公園警備の仕事が決まってから始まった。
 


【わかったこと5:事前の取り決めがあった】

…映画では、ジュエルとブライアントが当局に出頭を命じられ、
 その取り調べで、ジュエルが捜査官を見事にやりこめる。
 そして自分を捜査対象から外させることに成功、という流れ。
 だが、実際には、ジュエルサイドとFBIサイドで
 あらかじめ約束がされていたらしかった。
 あと1回聴取を行って、それで何もなければ、
 公式に捜査対象から外す、という約束が。
 この件に関しては初動捜査を含め、もう完全に、
 FBIのヘマだったということが明白になっていたのだ。
 だがFBIも引き際を見失っていた。そこでジュエル側から、
 ここらで手打ちにしましょうや、と持ちかけたようだ。
→Finally, Jewell had agreed to an unusual suggestion:
 if he submitted to a lengthy voluntary interview with the bureau,
 and if Division 5 was satisfied, then perhaps the Justice Department
 could issue a letter publicly stating that he was no longer a suspect.
 犯罪捜査のフローにわたしは詳しくないが、
 容疑者側と検察側は、法廷で初めて会うわけではなく、
 その前にかなり密接にやり取りをするものらしい。


【わかったこと6:法執行官の夢の行き先】

…ジュエルは、警官、FBI捜査官、裁判官、保安官などの
 「法執行官」に盲目的なまでの信頼を捧げていた。
 有罪なら死刑も免れない事件での誤認告発にさらされてなお、
 憧れを失っていないかのように、映画のなかでは描かれていた。
 しかし実際にはやはり、騒動ののちしばらくの間、
 法執行機関への疑念や不信感に苦しんだ。
 「僕はもう法執行官の仕事には就かないかも」
→He said he was not sure if the would ever get a job in law
 enforcement again.
 しかし、数年後からはジョージア州の郡保安官補を務めるなど
 再び、憧れの仕事に就くようになった。

 

【わからずじまい:真犯人とジュエル(に関係があった?)】

…真犯人エリック・ルドルフが、犯行後に声明文を出し、
 ジュエルが犯行に関わったことをほのめかした
 (だからFBIはジュエルを疑った)というようなことが、
 Wikiに書かれている。

Eric Rudolph - Wikipedia

 犯行声明文がネット上にあったのですべて読んだが、
 ジュエルが犯行に関与した、などということは
 間接的にも一言も書かれていなかった。
 ※URLリンクを貼っておくが、グロテスクな
  画像が表示されるので、おすすめはしない。  

Eric Rudolph's Full Written Statement On Attacks

 Wikiには間違いも多いし、わたしの英語の読み間違えかも。
 FBIがジュエルを疑ったきっかけが本当にこの声明文ならば、
 FBIはジュエルより先にルドルフに目を付けていたことになる。
 でもルドルフが逮捕されたのは2003年、ジュエルの件の7年後だ。
 確かにアトランタ後のルドルフは、複数の事件を起こしつつ、
 潜伏と逃走を繰り返していたらしい。とは言っても、
 最初から目を付けていたのに7年も捕まえられないなんて、
 FBIはあまりにもトロいと思う。そんなことあるだろうか。
 Wikiに書かれていることは、やはりわたしの読み間違えで、
 ルドルフとジュエルには、一面識もなかったのだろう。
 FBIは最初ジュエルだけを疑っていたが、彼がシロだったので、
 捜査をやり直して、ようやく真犯人にたどり着いたのでは。
 FBIでも、決めつけや憶測に心を支配されて、
 間違った選択をしてしまうことがあるんだなと思う。

 

【その他】

アトランタの各メディアのリサーチのテキトーさ。
 確たるエビデンスがなくてもおもしろければ書いて良し、
 とされていたという、ある地元紙の体質の証言には呆れた。
 この新聞社には、アトランタ五輪が始まる直前まで、
 ある辣腕編集者がおり、彼が新聞を牽引していた。
 この編集者は大手紙から鳴り物入りで迎えた人物で、
 優秀だったが、地元の気風や事情を良く知らなかった。
 新聞社と地元の有力者(スポンサー)との間にあった
 長年にわたる協力関係(癒着)を軽視しすぎた。
 新聞社はやむなくこの編集者を解雇。
 すると、新聞の記事の品質は著しく低下した。
 テキトーな取材スタンスで書かれた粗悪な記事が並び、
 同業他社に鼻で笑われる新聞となり果ててしまった。
 そんな時に、五輪記念公園の爆破事件が発生。
 ひなにはまれな、この特大ネタに飛び付いた彼らは、
 身を挺して人々を守った警備員を、爆破テロの犯人扱い。
 罪なき男の人生を食い散らかし、こなごなに破壊した。
 最悪だ・・・

 FBIの、旧式で身勝手なやりくちが明かされている部分にも
 読んでいて寒気を覚えた。

 ジュエルが責任を取りたくても取りようがない所で、
 彼にとって分の悪い条件がこれほどまでに重なっていたのだ。
 それで一歩間違ったら死刑になる所だった。
 ふざけた話だよな~。

『フォードVSフェラーリ』

 

原題:Ford v Ferrari
ジェームズ・マンゴールド監督
2019年、米国

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車に特に関心がないわたしも、共感して楽しく観られた。
生命の危険と背中合わせの仕事をしている人を見守る
「家族」の心境が、丁寧に描かれていたおかげもあったと思う。


【良かった所:レトロ楽しい】

現代の物語ではないというのも、良い所ではないかな。
アメ車黄金時代(1950年~60年代前半)を牽引したという
フォードのマシンがバッチリ再現されているそうで、
それは、素人が見ていても十分に楽しかった。
かの時代は開発製造の現場にコンピュータ制御が導入されて
間もなかった頃でもあるらしく、
それを誇る経営陣と、メカニックたちが火花を散らすのが見られた。
ケンが、マシンの速度が伸びないのは、ボディのデザインが
空気の流れを乱しているからではないか、と言い出す。
上層部は「コンピュータと繋いで検証すれば良い」。
だがケンは、短く切った毛糸をボディ全体に貼り付けて走り、
仮説が正しいことを、誰が見てもわかる形で証明してしまった。
アナログな検証方法が、今は全然採られていない、とは思わないが、
現場を良く知るメカニックたちの創意工夫が見られたのは、
それが本当に必要とされた時代が舞台だからじゃないか。



【良かった所:経営と現場がせめぎ合う】

この映画は一種の企業ドラマ。
経営陣と現場労働者という、かけ離れた立場同士の相克の物語だ。
双方、それぞれの考えや意義を見出して仕事をしているので、
同じ会社で同じプロジェクトでも、同じ方向を向くことは難しい。
経営方針が当たれば儲かって、現場も恩恵を受けられる可能性はある。
上手に現場を盛り立てて、経営に協力させられれば良いのだが、
たいてい、そういう面倒ごとを担わされるのは中間管理職で、
外注プロジェクトチームのシェルビーみたいなのが、割を食う。
そして企業の至上の目的は常に「利益の追求」だ。
これは絶対だ。「理念の体現」ではないのだ。
ル・マン優勝が確定した段階の、あのシーンは、
もう本当に、最悪に象徴的だった。
重役のひとりが、あるお寒~い提案をするのだ。
事この段階に至ってもなお、同じ会社で一丸となれない!
勝ちが決まったら、もう当初の狙いはどうでも良いのだろうか?
確かに経営陣には、ケンは輪を乱す身勝手野郎に見えただろう。
だがケンは最終的には常に譲歩した。シェルビーの立場を思って。
「われわれはワン・チーム」と言う経営陣こそ、
全然「ワン・チーム」を理解していない。
利益さえ見込めれば、理念なんか歪曲したって良いわけだ。
腹立つ~。

 

【良かった所:男同士の友情】

ケンとシェルビー(マット・デイモン)のケンカの場面は最高。

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見境なく殴り合っているように見えるがそうではない。
関係の仕切り直しのために必要な「儀式」だと
お互いにわかってやっているのだ。
固い缶か何かを手に取るものの、それはやめて、
当たっても痛くないものに持ち替えて殴る所、カワイイ。
シェルビーがゴメンネが素直に言えなくて逆ギレする所は笑った。
シェルビーはやり手だ。
レーサー引退後も事業を起こして成功している。
ビジネスシーンでの立ち回り方をわきまえており
基本的にはいつもクールに見える。
そのシェルビーが、ケンの前ではわかりやすく感情を爆発させる。
ケンのキャラは、クリスチャン・ベイルが魅力的に演じている。
この映画での彼の演技は、とても高く評価されているそうだ。
マット・デイモンの方はちょっと影が薄い印象だ。
シェルビーはケンほど表情豊かなキャラではないから。
だけど、マットも、自分の役をしっかり務めていたのだろうと
このケンカのシーンを観ていて確信した。
ケンが自由に行動できたのはシェルビーが盾になっていたからだ。
シェルビーが自分を抑制して、言わずにガマンしていることを、
代わりにケンが言いまくる、という関係に見えた。

 

【欲を言うなら:良く考えると内容がない】

わたしはこの映画が大好きなんだけど、
良くよく深く考えると、
結局、この映画は何を言おうとしていたのかな? と、
思わされる部分があった。

例えば、ケンの暮らしや家族の結束の強さは伝わるが、
シェルビーのプライベートは適当にぼかされている。
ケンの人生とシェルビーのそれを対比させることで、
何かを描き出そうとする、と言った姿勢は、
この映画からは感じられない。
まあ、お子さまの鑑賞に差し障りそうではあったんだよな、
シェルビーのプライベートをあんまり掘り下げると。
心臓に不調を抱え、薬をあまりにもガブガブ飲みすぎている。
自動車販売でそれなりに羽振り良くやっているはずなのに、
ちゃんとした家がないのか、あるけれど帰りたくないのか、
キャンピングカーで寝泊まりする姿もちらっと見えて、
健全な生活をしていないことが、ほのめかされていた。
それに実際のシェルビーはプレイボーイだったらしくて、
そっちの方の生活がドハデだったそうで・・・。

また、もうちょっとじっくりと、
「プロセス」を追いかけたかった。
車体に毛糸を貼り付けて空気抵抗の検証を行う
シーンはおもしろかったのだが、
開発改良のプロセスは、他はあっさりとしたもので、
意外とすぐに、大会本番となったのがやや不満。
それに、
ケンは66年ル・マンの前に2つのレースに出て優勝しているが、
映画はル・マンに比重を置き、他の大会をほとんど描かない。
だが、果たしてそれで良かったのかな。
プロジェクト参入に際して、シェルビーが
フォードの重役にこう語っていた。
「直線で時速320キロを出すことができる速さと
 24時間走り続ける強さを兼ね備えた車を作る。
 重要なのは金じゃない」
「委員会じゃレースは勝てない」
このことを証明していったメカニックたちの努力と、
費やれた膨大な時間の表現が、十分とは言えないのではないか。
レースに出て走ることで初めて明確になる課題はきっと多く、
その度ごとに、何度も、試行錯誤と改良を重ねていったはずだ。
でも、映画は66年ル・マンの前の2つのレースを描かないので、
それらを経てマシンがどう変わっていったかも、不明瞭なのだ。
また、細かい所なのだが、キャラクターの心の変遷を
納得できる感じに順を追って見せていない所もあった。
例えば、これまで眼中にもなかったフォード社が
突如、2つのレースで立て続けに勝ったと知ったら、
絶対王者フェラーリもさすがに警戒するのではないか。
だが、ル・マンの会場でフォードのチームと相まみえても、
フェラーリの面々は、ちっともあせってない様子だった。
レーサー同士は対抗意識をあらわにしていたけど・・・。
あれは腑に落ちない感じであった。

この映画はおもしろかったし、
演技も音楽も良いので、文句なしに楽しんで観た。
だけど率直な話、何か言いたいことがある映画だったのかな?
あったとしても残念ながらわたしには伝わっていない。
その意味では、どうなのかなと思わないこともない。
また、多少腑に落ちない部分もあったことは確かだ。

イヤ、本当にすっごくおもしろかったけどね。
まああまり詰めて考えない方が良いかな。
娯楽映画ってことで。

『キャッツ』

 

原題:Cats
トム・フーパー監督
2019年、米・英

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www.youtube.com

全っ然好きじゃなかった。だが、
部分的に、積極的に、この映画を支持する。
今となってはもう生まれて来にくいのであろう
高度に哲学的な考察に拠った物語、と感じたからだ。




【とは言えココはやっぱりダメだった】

・ネコたちの姿形、動き
 途方もなく、えげつなく、生々しかった。
 
・歌
 多すぎた。長すぎた。
 ミュージカルなのに「また歌かよ!」と
 理不尽な不満を覚えたほどだった。
 しかもその歌が「場」に溶け込みきっていなかった。
 舞台でこそ輝く「けれんみ」のようなものがあり、
 映画がそれに負けていた。

・ヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)
 あの白ネコさんは、「踊り」が言葉であり、歌だった。
 本職のバレエダンサーだそうだ。
 歌もセリフもあえて彼女には与えない方が良かった。

CGI表現
 目を疑うほど安っぽかった。

マイナスポイントに関しては以上。

 


【でも、ココは高く評価】

ネコたちが繰り広げる「ジェリクルボール」から
わたしが連想したのは、
日本の哲学者、三木清の言葉だった。
ベストセラー『人生論ノート』で、
彼はこう言っている。

「執着する何ものもないといった虚無の心では
 人間はなかなか死ねないのではないか。
 執着するものがあるから死に切れないということは、
 執着するものがあるから死ねるということである。
 深く執着するものがある者は、
 死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。
 それだから死に対する準備というのは、
 どこまでも執着するものを作るということである。
 私に真に愛するものがあるなら、
 そのことが私の永生を約束する」




【ちゃんと生きることが、ちゃんと死ぬこと】

「●※△しないと死んでも死にきれない」
「(恨みがあるので)化けて出てやる」
わたしたちは時にそんな風に言う。
こだわりや不満、つまり執着心を残したままだと、
安心してあの世に行けない・・・。
三木清の言葉の字面を、それ前提で見ると
「深く執着するもの」があったら、
「死後自分の帰ってゆくべきところ」なんて
あるわけないじゃないか! だ。
だが「執着」を「愛情」と言い換えてみる。すると、
「愛するものがあるから、安心して逝ける」
という感じになる。
愛する人とあの世でまた会える、と思えることが
「死後自分の帰ってゆくべきところ」を持つこと、だ。
三木は続ける。
「死に対する準備というのは、
 どこまでも執着するものを作るということである」
「死に対する準備」は「終活」とかそういうのではない。
「生きること」と、とらえるのが適切かなと思う。
つらいことも楽しいこともひっくるめ、
心いっぱい愛して憎んで精一杯生き抜く。
それが良く死ぬということだよ、だ。

・・・と、わたしは解釈している。



【ジェリクルチョイスの本質】

ジェリクルキャッツは年に一度の舞踏会で
渾身のパフォーマンスを披露する。
長老ネコはそこでネコたちの「魂」を見つめ、
「天上に行き、のちに生まれ変われる」、
たったひとりのネコを選び出す。
ジェリクルキャッツにとって
生まれ変わりのネコに選ばれることは宿願だ。
言うまでもないが、
「天上に行く」とはこの場合「死ぬ」ことだろう。
「夢見ていた自分に生まれ変われる」という歌詞がある。
可能の表現だ。ではネコたちの望みとは、
「失敗だった生涯を、死んで生まれ変わってやり直す権利」
を、手にすることなんだろうか?
先ほど検討した三木清の言葉に沿って考えると、違う。
ジェリクルキャッツが憧れていることの本質には、
「精一杯生きた」ことを認めてもらうこと、がある。
あの舞踏会は、
「自分の人生がいかに失敗か」のアピール大会ではないのだ。
ただ、彼らのなかにも、生まれ変わりの資格を
やり直しの権利、と思い違いしているらしき子はいた。
キレイな家に生まれ変わりたいと歌うジェニエニドッツ
それからマキャヴィティも、おそらく勘違いしている手合いだ。
勘違いさんも、舞踏会に参加したって良いんだろうけど、
長老は、そういう子はきっと選ばない。
ジェリクルチョイスの意味を魂で理解している子、
生き方でもって体現した子を見極めるのだ。



【長老ネコの役目とジェリクルキャッツ】

長老ネコの呼び名は「Old Deuteronomy」。
Google先生が一秒で教えてくれた。
デュトロノミー」とは『申命記』、
旧約聖書モーセ五書の第5巻だ。
すると舞踏会の会場が「エジプシャン」という店なのも
旧約『出エジプト記』になぞらえてのことと見て間違いない。
ジェリクルキャッツは、いにしえのイスラエルの民のような、
多難にして孤高の、選ばれし一族として造型されている。
預言者たちがイスラエルの民に神との契約を伝えたように、
長老ネコは一族の子たちに、契約・・・「大切なこと」を
「申命(繰り返し伝える)」する役割を担っているのだろう。




【生まれ変わりのネコがつなげる幸せ】

そんな長老ネコが、歌っていた。
「意味がよみがえった体験はすでに一人のものではない」
英語詞の翻訳ということもあって、
パッと見では良くわからないのだが、
ここは、こんな風に受け取れば良いのではないか。
すなわち、
毎年ひとり選ばれる生まれ変わりのネコが触媒となって、
ジェリクルキャッツの一族内で記憶や体験が共有され、
時を超え距離を超え、みんなひとつとなって生きていく
(だから仲間である限り私たちは孤独ではない)。
・・・なぜなら、わたしが理解したところでは、
生まれ変わりのネコは「帰るところ=愛するもの」
を持てるほどまでに良く生きたからこそ、
天上に行く資格が与えられるのだし、
しかもその愛の記憶をたずさえて、地上に還ってくる。
生まれ変わりのネコを橋渡しに、天上と地上とが、
永遠につながっていく・・・、そんなイメージが
浮かぶと思うのだ。



【もちろんこれは「人」の物語】

力説しといて何だが、
わたしの力ではもう全然うまく説明できない(笑)。
だが、『キャッツ』はだいたいにおいて、
上のようなメッセージを伝える物語と思われた。

さらに、理解しておくべきことがもう一つあると思う。
これが結局「ネコ」でなく「人」の話だということだ。
ロンドンの汚い路地裏で起こるネコの集会に、
さびしい人間の切なる願いが託されたわけだ。
永遠への願い、死の恐怖を乗り越えるという夢が。
人間のキャラで人間のドラマを描くのも悪くはないが、
楽しく語り聞かせて、多くの人の心に刻み付けるには、
他の生きものになぞらえる「お話」の方が良かった。
動物なら何でも良いわけではなくネコこそ最適。
ネコの、あの謎めいた雰囲気は、
いつの時代にも人を魅了し、想像力を刺激するからだ。
この物語の主人公がネコである必要があったことを
わたしは進んで認める。



【知性を信じて】

ストーリーのあり方に、好ましい部分があった。
『キャッツ』の物語はT・S・エリオットの詩に
基づいて作られたものらしいが、
おそらく原作に込められているのであろう
哲学的な側面が、映画にちゃんと残されていた。
つまり簡単に言うと
「わかりにくい所はわかりにくいままだった」。
もっと現代的でシンプルな感覚に寄せて、
ウケやすさをプラスしても良かったはずなのに。
例えばマジシャンネコを狂言回しにする方法。
ミュージカル版にない新しいナンバーを作り、
その歌詞で観衆の理解をうながす手もあった。
でもそうはなっていなかった。
テイラー・スウィフトによる新ナンバーはあったが
 物語の理解の手助けになるものとは思えなかった)
わかりにくいんじゃ話としてダメじゃん! 
ミュージカル映画に哲学なんて求めてないんですけど!
と言う意見もあるだろうが・・・。
わからないことをそのままにせず、考えてみようとする。
それは人の心にしか起こりえない反応ではないか。
伝わりにくいままにしておいた、ということは、
人の知性を信頼して作った、ということだ。



【最後に言えること】

好きじゃない映画だ。だが全面的な否定はしない。
こういう映画は出てきにくいと思うからだ。
多分に思索的な面を持ちながら思いっきり娯楽映画。

最終的にこれだけは言える。
T・S・エリオット すげえ。
最初にミュージカル化した人 すげえ。

『真実』

 

原題:La vérité
是枝裕和監督
2019年、日・仏合作

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www.youtube.com

人によって、場合によって、さまざまな解釈が
生まれ得る映画だと感じた。

ここではわたし自身の解釈を述べてみたい。



【わたしの解釈】

ファビエンヌとリュミールは、
どちらも、自分の本当の気持ちから逃げていた。
それを認めたくなくて、知られたくもなくて、
過去のできごと(事実)を元に
自分にとって都合の良い「真実」を作り上げ、
その陰に隠れていた。
この母子の関係がうまくいっていないのは、
ふたりがそれぞれに作った「真実」の内容が、
ぶつかり合うものだからだ。
母子で共有できる新しい「真実」を作れた時、初めて、
ふたりが和解できたように見えた。

母子が和解できたタイミングは、
マノンがサラの服を着て去ってくれた時だったと思う。




ファビエンヌの「真実」】

まず、母親のファビエンヌを見てみたい。
彼女が隠したかった「本当の自分」とはどんなもので、
それを隠すために何をしていたのか?

彼女は表向き、
「いかにもな感じ!」のフランス中高年女性だ。
女優としてのキャリアは自他ともに認める所だが、
お高く止まって、気が強く、歯に衣着せず、皮肉屋で、
都合の悪い時だけ耳が遠いフリ、まあ小憎ったらしい。
カトリーヌ・ドヌーヴが、本当にこういう、
 ムカツクけど何か可愛い感じをうまく演じていた)

でも、本当のファビエンヌときたら、全然違った。
少女のように繊細で、臆病で、嫉妬深いのだ。
終盤になって、彼女は娘のリュミールに明かした。
ライバルだった「サラ」に、女優としての才能でかなわなかった。
このうえ母としての立場まで侵されるのではと嫉妬した、と。
これはあとで詳しく述べてみたいと思うことと絡むのだが、
リュミールは、母にされたこと・してもらえなかったことを
すべて、愛されていなかったゆえのこと、と解釈していた。
だがファビエンヌにしてみればむしろ、その真逆だったのだ。

劇中劇の映画でファビエンヌと共演したマノンは、
その「サラ」の再来と称される、若手の注目株だ。
マノンの優秀さを感じるたび、ファビエンヌは憎まれ口をきく。
「まあ、生意気ねえ」「あの子、意地悪よ」。
しまいに何やかやと理由をつけて現場から脱走しようとした。
ファビエンヌの弱い所を知ってから、これらを思い返すと、
あれは、マノンに亡きサラの影を見て、苦しかったのだろう。
思い出すのだ、サラのためにかつてどんなに醜く胸が騒いだか。
マノンと仕事をしていると、カメラを向けられると、
自分の心の中が暴かれる気がしてたまらなくなり、
逃げ出したくなったのではないだろうか。
現場には、連日、リュミールが見学に来ていたのだし。
娘に見られてしまうではないか。本当の心を。

とても怖がりで傷付きやすく、嫉妬深い。
その弱さが、本当のファビエンヌなのだ。

でも、ファビエンヌは女優業に人生を捧げている。
その固い決意が、彼女の言葉の端々から伝わる。
ずっと前からそうで、これからも変わらない。
多分、「だからこそ」なのだと思う。
心弱い彼女が女優としてやっていくために、
強い自分を演じ続ける必要があったんだろう。
なんなら、強いわたしこそ真のわたし、と
最後の最後まで、みんなに思われていたい。
彼女の自伝本『真実』はその決意が形をとったものだろうし、
考えようによっては、役者であることそれ自体が、
強い自分であり続けるという彼女の「生き方」なのだ。
女優であるために強くあり続けようとしているのであり、
強くあり続けるために女優業を選んだとも言えるのだろう。

これは、本当に難しい生き方だよなあ。
生涯かけてウソを本当にしてやる、なんて。
誰にもマネのできない、いばらの道を
ファビエンヌは行こうとしている。



【リュミールの「真実」】

このような人を母に持ったら、子どもは大変だ。
お母さんみたいになれない、と思っても無理はない。
と言うか、
お母さんみたいにはなりたくない! と嫌悪しつつも
お母さんのようにはなれない、と劣等感を抱き続ける
やっかいな気持ちを、抱えて育つことになるだろうね。
リュミールは子どもの頃、学校劇『オズの魔法使い』で
「臆病なライオン」役を演じた、と振り返っている。
「私はライオンの気持ちが分かってた」。
己の弱さを知っている。
偽りの強さを演じ切るなんて、離れ業は
私には到底できない、ということだと思う。
女優の道を早々に断念し、遠く離れた米国で、
脚本家として生きることにしたのは、
この、勝てないという思いのためだろう。
でも、逃げたとは思いたくない。
そこで、リュミールもまた
都合の良い「真実」を作り上げて、
その陰に隠れることを選んだのだと思う。

リュミールが作り上げた「真実」とは、要するに
「お母さんは私をちっとも愛してくれなかった」だ。
お母さんは家庭にも子育てにも興味がなく、
いつも自分中心の、仕事中心。
お母さんよりもサラの方がずっと母親らしかった。
サラが私のお母さんだったら良かった。
なのにお母さんは、そのサラを傷付けた。
それが許せないから私はお母さんから離れたの。
そんな所だ。
母から逃げた本当の自分を隠しておくためには、
母には「ひどいお母さん」でいてもらわなくては
ならなかったわけだ。



【和解のために必要なこと】

ファビエンヌもリュミールもこんな感じで、
弱い自分を隠すための「真実」を作り上げていた。
でも実際は、
母は弱いだけで、いつも娘を愛していたのだし、
娘は母の強さが眩しくて逃げたけど、母に愛されたい。
これを共有することが、和解の足がかりになるだろう。
後生大事に持っていた「真実」を破棄することが必要だ。
具体的には、
ファビエンヌは、弱い自分のままで女優をやっていく。
リュミールは、「私が脚本家になったのは母からの逃走」
という負い目を捨てて、その道で堂々と力を発揮する。
そして、母に愛されていたという事実を受け入れる。
それで良いんじゃないかなと思う。



【和解:ファビエンヌ

言うのは簡単だがそんなにうまくいくかね、
って感じだけど、
大丈夫だ、うまくいく。映画だから。
でも、当事者だけではダメだ。関係がこじれすぎている。
と言うか、問題の当事者はもう一人いる。サラだ。
だがそのサラは、すでにいない。
雪解けの時をもたらしてくれたのは、マノンだった。
マノンが亡きサラの服をまとい、邸を去っていく。

マノンを一言褒めてやるのさえ、
ファビエンヌには、つらい作業だと思う。
サラを褒めるような感じがするだろうから。
でも、彼女は、サラの服を着て立つマノンを眺め、
服が良く似合っていると褒めた。
また、「どことなく」だが確かに「サラに似てる」。
ずっと、マノンを通してサラを見てしまっていたが、
この時ようやく、ふたりを切り離すことができた。
強くなければならない理由そのものとして、
心の中に居座らせていたサラの亡霊から、
やっと解放されたと言えるんじゃないか。
サラの服を譲られて喜んだマノンは、
このまま着て帰りますと母子に告げ、
ファビエンヌの邸の広い庭を、歩いて行った。
その後ろ姿を見守りながら、ファビエンヌは多分、
ああサラを連れて行ってくれた、とでも言うような
すっきりとした感じを覚えたのではないか。
というのもファビエンヌはその場で急に、騒ぎ出すのだ。
撮り終わっていた映画の1シーンを、やり直したいと。
「今ならもっとうまく演じられる」。
心の中のサラが去ってくれたから、
強く完璧な自分の虚像を演じる理由もなくなった。
私は弱い。でもありのまま、一個の女優として演じたい、
そんな素直な欲求に駆り立てられたのかも。



【和解:リュミール】

マノンを見送る時、リュミールもそばにいた。
わたしは、リュミールがマノンの後ろ姿に何を見ていたか、
ファビエンヌのそれほど、明確に読解できそうにない。
でも、おそらくリュミールはマノンの背中に
「強い母の虚像」を見ていた。
映画の撮影を見学することを通して、
リュミールは、母の苦闘を感じ取ったはずだ。
「母はマノンを通してサラを見てしまい、苦しんでいる」
「でも、苦しい中でもプロとしてベストを尽くし、
 マノンの演技に応えようとしている」
それは確かだった。ファビエンヌはある夜、娘を
優しくだきしめて、サラとの葛藤の真相を告白した。
こうしたことを経て、リュミールも、
自分の気持ちと向き合う必要に迫られていっただろう。
母が闘ったから、リュミールも自分自身と向き合った。
そして、
「お母さんのようにはなれないと思ったから
 女優の夢を捨てて脚本家の道に逃げた」
と受け止めざるを得なくなったのだ。
今まで採用してきた、都合の良い「真実」
(「母は私を愛してくれていなかった」)を破棄して。
とてもマネできないほど強い母だと思っていたが、
本当のファビエンヌはそんな人ではなかった。
過ちを犯したのは弱さのあまり、愛ゆえに、だった。
リュミールはそれを知った。だから、マノンの後ろ姿に、
自分が作った母の虚像を見たのかもしれない。
マノンが背負って出て行ってくれたのだ。



【マノンのキャラ造型にややムリがあったか】

キャラクターとしてのマノンがちょっと気の毒ではあった。
構造上「依り代」としてのみ登場させられたことになり、
個性や性格があまり与えられていない感じだったので。
でも、マノンは、ファビエンヌのこともサラのことも
先輩女優としてリスペクトする、良くできた若者だった。
サラに似てる、サラの再来、と周りに毎日騒がれて、
「サラが何よ! 私は私よ!」と内心腹に据えかねている
・・・みたいな様子は、作中では見られなかった。
サラの服をもらって本心から喜んでいるように見えたことを
救いととらえておけば良いだろうか。
でもやっぱり、ちょっとかわいそうだよな。



【リュミールのこれから】

マノンが「真実/ウソ」を持ち去ってくれたおかげで、
母子は和解の道をたどれるようになったと思う。
ところで、先ほど、この母子の和解に必要なこととして、
リュミールは自信を持って脚本家をやれば良い、
・・・と述べた。
リュミールは今後、脚本家としてしっかりやっていくと思う。
そう想像させてくれる演出が、最後に用意されていた。
ちょっとした脚本を書いて、幼い娘に母の前で演じさせる。
ファビエンヌは可愛い孫の言葉にころっとダマされ、喜ぶのだ。
あれは気の利いた意趣返しと言って良いと思う。
わたしの考える所では、今やファビエンヌは、
ありのままの自分で女優をやっていく、という
新たなスタンスを打ち立てた。
そんな母を、リュミールはちゃんと、
自分自身の仕事である「脚本」でやり込めたのだ。
確かに、母から逃げて脚本家になった。
でも、これからは意志を持って脚本に取り組んでいく。
母に胸を張って見せた、ということではないだろうか。



【わたしがこの映画から受け取ったもの】

ここに自分と、他人がいて、
客観的な事実が目の前にあって、
同時にそれを目撃したはずでも、
両者が、そこから同じ「真実」を見出す可能性は低い。
他人なので、違っていて当然なのだ。
でも、同じことを考えていると信じたい。
相手が大切な人であればあるほど、そうだ。
それぞれが何をどうとらえているのか、
知り合う機会を持てれば良いと思う。
知った結果、相手の「真実」に賛同できなくても良いのだ。
「そういう真実を見ているんだね」と認知し合うだけで、
話はだいぶ変わってくるのだろう。
だがさっきも言ったが、大切な人だからこそ、
「違う」ことが許せなくて冷静に対話できない、
っていうことがままある。
映画のようにうまくはいかないだろうけど、
例えば『真実』の中で言えばマノンのように、
両者が見ているものを映し出す「鏡」の役割を
三者に演じてもらう機会があれば、頼っても良いだろう。
相手の思いを「認識する」ことさえできれば、
他人同士で心を結ぶこともできるのではないか。

是枝裕和監督は、自身の作品に
明確なメッセージを持たせない人だ。
「愛は悪意に打ち勝つ」とか
「いじめはいけない」みたいな
はっきりした主張を決してしない。
『真実』もそうだった。
だから本当に、人によって、時によって、
受け取り方がたくさんあるだろう。

わたしの場合は、この映画に
「大切な人と心を結ぶために何が必要か」を
見たように思う。

『ぼくを葬る』

原題:Le Temps qui reste
英題:Time to Leave
フランソワ・オゾン監督
2005年、フランス

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主人公であるロマンの、2つのセックスのシーンは、
この物語にとって重要だと思う。

ひとつは、同性の恋人と愛し合うシーン。
生々しいけど美しい場面だった。
時間をかけて意味ありげに描写するのではなく、
さらりとしていた。
ロマンがゲイであることは物語の主題に関わっている。
でも、「主題そのもの」ではない、ということだろう。

それから、不妊で悩む夫妻に協力して行うセックス。
こちらは観る側に何かを告げるための場面ではなく、
ロマンの「旅支度」に大きな意味を与えた行為だった。
子宝に恵まれない夫妻と、ゲイの青年が3人で、なんて、
相当ショッキングなことをやっていたと思うけど、
意外と、観ていて全然ショックじゃなかった。
遠慮がちな思いやりにみちた、静かな行為だった。

ロマンはひとりで死ぬことを選ぶ。
でも彼が彼自身を慈しんでいることはわかった。
幼かった頃の思い出のひとつひとつが幻影となり、
死にゆくロマンに付き添ってくれる。
「死」は暗くて怖いものという感じがするが、
この映画は「死」へと歩む主人公を陽の光に包んで見守る。
わたし自身の死も、こんな感じだと良い。

ロマン役のメルヴィル・プポーは健闘していた。
病院のシーンがほとんどないから、
病に説得力を与えるのは、プポーのやせていく体だけなのだ。
減量が大変だったろうな。

『パラサイト 半地下の家族』

 

原題:기생충(「寄生虫」)
英題:Parasite
ポン・ジュノ監督
2019年、韓国

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【プライド、あるいは『半地下』の意味】

この人たちは、こんなことしててみじめじゃないのかと
見ててつくづく思ったんだけど、
キム一家は、そりゃもうむっちゃくちゃ楽しそうだった。
みじめとか恥ずかしいとか、全然思っていないみたいだった。
留守を預かるお屋敷でやりたい放題酒盛りする姿を見て、
この人たちにはプライドってもんがないんだな! と。

セレブのパク夫妻が、本当に簡単に騙されてくれるので、
自分たちの方が有利にコマを進めている、という感じが
満足で、うれしくて、しかたがなかったのだろう。

だけど、パク夫妻が「におい」について語り合うシーン。
あの時、キム一家、家長ギテクに、プライドがあることを知った。
ギテクは、事業に手を出しては失敗を繰り返してきたらしかった。
韓国の起業支援制度の事情にわたしは明るくないのだが、
普通に考えて、事業を複数回始められたということは、
都度、ギテクにはそれなりの元手とノウハウがあったことになる。
だが、ギテクはチャンスをものにできなかった。
引き際を見極める力も、失敗から学ぶ姿勢さえもなかった。
幾度にもわたった失敗からギテクが学んだことがあるとすれば、
己の自尊心が傷付きすぎないように体よく「いいわけ」する術
・・・くらいのものだったのではないか。
ギテクのなかには、こんな意識が育っていたと想像する。
「今の貧乏は、不運が続いた結果の一時的なもので、
 俺たちの本当の姿じゃない」
「深い事情あって、今だけ貧乏なのだ。
 俺たちはそのへんの他の貧乏人とは違う」。
完全な「地下」でなく、「半地下」の住居に、
キム一家は暮らしている。ふみとどまっている。
ギテクのプライドが、ギリギリの所で支えているのだろう。


【『それ』だけは絶対に言われたくない】

だがパク夫妻はギテクの「におい」をあげつらう。
夫妻の幼い息子はもっと鋭かった。ギテクと同じにおいが
家政婦(実はキム夫人)からも漂っていることを指摘した。
ひいてはパク家に入り込んでいるキム家の全員が、
同じにおいを発しているのだ。だって、家族だから。
夫妻の言うのは、要するに「貧乏人のにおい」ってことだった。
悪気も何もない、本当に何の気なしの発言だった。
でもギテクにとってみれば、
洗ってもこすっても取れない、服に体にしみつくにおいとは、
「逃れようのない、生まれつきのごとき貧乏」。
つまりこれから先もずっと、貧乏人は貧乏人のままで、
そこから抜け出すことはできない。
そう言われたも同然だろう。
絶っっっ対、言われたくなかっただろうな。
実の所、自分はまさしく「それ」なんだって、
うすうす思っているフシがあったからこそ。
「計画しようとするといろいろな失敗が起こる。
 でも、計画しなければ失敗も起こらない。
 計画しないことが最大の計画なんだ」
わかったようなわからないようなこと言ってたけど、
要は人生を放棄する、ってことだと思った、わたしは。
でも、ギテクもできることなら何か奇蹟が起こって
一発逆転、良い暮らしができるようになればなあと
願っていたんだろう。
そこへきて、あのパク夫妻の言葉を聞いた。
ギテクの胸の裡の何かが、ゆっくりと、
だが決定的に、動き出したのが感じられた。


【夢は地下に潜り、絶望が地上で花開く】

結果的にギテクは敗れ、地下深くに潜った。
でも地上にはまだ彼の望みが残っていた。
長男の存在だ。
つねづね、賢い息子を「誇りに思う」と褒めていた。
地上に残ったその長男は、どうなっただろう。
彼は父あての手紙に、遠大な夢と計画を書きつづる。
韓国の高等教育や、若年層の労働環境の実態を、
わたしは良く知らないけど、
彼が大学に入って卒業したとしても、そのあとの・・・
就労の機会とかってのは、実際の所どんな感じなのか。
わたしが普通に考える限りでは、
長男が今の状況から、夢を叶える可能性は、
はっきり言って、ないに等しいのでは?
「計画」の実現の可能性がどの程度あるのか、
彼ほど頭が良ければ、わかりそうなものだろう。
というかそもそも、長男は頭を強打して、
ちょっとおかしくなっちゃったみたいだったしな。

実現不可能と知りながらプランを練るなんて、
無計画っていうのと、大差ない。
長男も、父と同様「本当は僕にはできない」と
知っているのだろう。
「俺はただここに居たいんだ・・・」と泣いた
「あの男」のようなポジションを、
今度は長男が、地上において引き受けるのだ。
どんなみじめで情けない暮らしでも、
それを不満に思っているつもりでも、
いったん現状に慣れると思考が停止してしまう。
そうなると、状況を打開しようとあれこれ思案するよりも、
ずっと同じ日々を暮らしていく方が
ラクになってしまうもんなんだよな・・・。 

『婚約者の友人』

 

原題:Frantz
フランソワ・オゾン監督
2016年、仏・独合作

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【『そっち』に行っても何もないです】

オゾン監督は自作で頻繁に同性愛を扱う。
この映画でも、アドリアンとフランツの恋愛関係を
示唆している、と言えなくもないシーンが見られた。
でも違った。
絶妙に思わせぶりなシーンがちりばめられていて
気になることは確かだったんだけれど、
そっちを頼りに考えを手繰っても何も出てこなかった。
アドリアンとフランツがゲイ。だから何?」だ。

少なくとも、
アドリアンがフランツの両親に伝えたかった真実は、
「僕とフランツは戦前のパリで愛し合っていました」
ではない。
アンナに打ち明けた話こそが本当で、それがすべてだ。
そこさえわかればあとは大丈夫。
・・・イヤ、全然大丈夫じゃない。
わかったら、今度は、
もっと残酷でもっと救いのない展開を
最後まで見守らなくてはならない。

 

【謝られたら、許さなくちゃいけない】

「罪を告白して許しを乞う」。
悪いことをして、罪悪感に苦しんだ時、
誰だってそうしたいと考えるものだ。
話して、謝って、もう良いよ・・・と言ってもらいたい。
だが一方で、
謝られると、許さなくちゃいけなくなる。
謝ってきた人に「許すよ」とひとこと言ってやらないと、
まるでこっちの心が狭いみたいではないか。
でも、それにしても、
謝罪を受け入れる側にも都合というものがある。
タイミング、心の準備というものが。
早く謝ってラクになりたいのは山々だ。
ひとりで背負えないからと懺悔して、
罪悪感の重荷を降ろした気になるのは結構だ。
だが、それは必然的に
「自分ひとりで背負う」から、
「相手にもいくらか背負わせる」に
シフトすることなのだ。

 

【アンナの選択:あくまでも隠し通す】

ウソをつくことに耐え切れないアドリアン
アンナに洗いざらい告白する。
フランツと過ごした楽しい日々の思い出話は、
みんな彼の作り話だった。
フランツの両親にも本当のことを話したい、と言うアドリアン
アンナはその申し出を断固として拒んだ。
フランツの両親はアドリアンの話を信じている。
泣き笑いして耳を傾け、アドリアンの訪問を日々の楽しみにしている。
そこへ今さら真実を告白したところで、良いことは何もない。
ただでさえ夫妻の心の傷は深いのだ。
アンナは、愛するフランツの両親を、
幸福なウソに憩わせると決める。

 

【アンナの旅:さらなる傷を負うためだけの】

アンナはアドリアンの告白に傷付く。
でも、彼を愛し始めていることも事実だった。
逃げるように去ったアドリアンを追いかけ、フランスへ。
だが、彼女はそこで、いっそう酷な現実を目の当たりにするのだ。
ここからの展開はあまりにもアンナに厳しい。
およそ考えうる望みという望みが彼女の手から滑り落ちる。
ここまで意地悪しなくたって良いのに。
監督を恨みたくなったくらいだ。

 


【アンナの選択:空想のなかで死に、現実を生きる】

ラストシーンは、
ルーブル美術館で絵画を鑑賞するアンナ。
嘘八百の物語のなかでアドリアンが話していた、
エドゥアール・マネの『自殺』だ。
自死を遂げた男が仰向けに横たわっている、という
見るからに冷たくむごたらしい絵なのだが、
隣の男性客に、この絵が好きかいと問われてアンナは
「ええ、生きる希望が湧くの」。
傷心のあまりおかしくなったのか、と思いそうになった。
だが、そうではない。思うに、
彼女は生きる、と決めたんだろう。
もちろん、アンナはひどく傷付いた。
理想と実際の残酷なギャップに。
愛が報われるはずだと期待したなんて、
甘ちゃんも良いところだった。
死ぬことさえも阻まれた。
そうして絶望の淵を見た末に、
死はいったん措き、生きよう、と決めたのでは。
マネの絵は死を描いたもので、確かに痛ましい内容だが
それはあくまでも絵の、架空の死なのだ。
死はこの絵のなかにある。見たければ美術館に来れば良い。
今は死なない。わたしは生きる。
そういうことなんじゃないか。

フランツの両親の元には帰らない。
帰れば質問攻めにされるだろうし、
いずれ本当のことを言わなくてはならなくなる。
アンナは、老いたあのふたりを、いつまでも
幸せな夢のなかにいさせてあげたいのだろう。
アドリアンが物語った、フランツの夢のなかに。
アンナはまだ若いのだ。

「生きる希望が湧くの」と言うアンナは
本当に、明るみを帯びた良い表情をしている。
マネに注ぐまなざしは、おだやかだが強い。
夢想したものは、結局何も手に入らなかった。
でも、自分の足で人生を歩んでいかなくては。
そう決めた大人の女性の顔のようだ。