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ユヌキャバンヌの「昨夜も映画を観てました」

バスキア展によせて-映画『バスキア、10代最後のとき』

原題:Boom for Real: The Late Teenage Years of Jean-Michel Basquiat
サラ・ドライバー監督、2018年、米


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www.youtube.com


バスキアのすべて』(2010年)という
ドキュメンタリー映画を先に観てて、それがとても
おもしろかったせいか(追って当ブログでも紹介する)、
この『10代最後のとき』は二番煎じのように感じて、
最初はちっとも楽しくなかった。
バスキアのすべて』を観たから、
またドキュメンタリー映画を観ても、
もう新しく知れることはないだろうと思っていた。

だが、『バスキアのすべて』とは、
伝えようとしていることの内容や
そこへのアプローチのしかたが全然違うということが、
数回繰り返して観るうちにわかってきて、
最後には大いに関心を寄せて観るようになった。
まあ数回も観ないと違いがわからない、というのも 
今考えるとかなりわたしがボンクラ、って話なんだが。

1970年~80年代初頭頃のバスキアは、
「何をすれば一番うまく自己表現ができるか」と、
「創ったものをどこにどんな形で発表すれば一番効果的か」を
決めかねていたらしく、じっくりと模索していた。
バスキアのすべて』はスタイルをドローイングに定めてからの
バスキアの活動と心の変遷に、主眼を置いていた。
これに対し、『10代最後のとき』が映し出すのは、
ジャンルの垣根など意にも介さずあらゆることに挑戦し、
そのエッセンスを吸収しまくった、
ブレイク前夜のバスキアの姿。

彼がいた時代のニューヨークの政治情勢や、
当時のアート界の事情が
かなり詳しく、言葉によって解説されていたことも
このドキュメンタリー映画の特徴と言えた。
※『バスキアのすべて』は、
 言葉よりも映像と音楽を活用し、
 イメージを端的に伝えてきていた。
バスキアは「生まれる時代を間違えた」みたいな
突然変異的なアーティストだったのではない。
彼のようなアーティストが、
歓迎されやすい時代だったところへ、
満を持して登場したスターだったのだ、
・・・という感じが、
多少強めに印象付けられていたように思う。

現在、バスキアと言えばドローイングだろう。
わたしもバスキアは画家と認識していた。
今月中旬まで六本木で開催されていたバスキア展も、
ドローイングの展示が圧倒的に多かった。
だがそれはバスキアが最終的に選び取った手法だったのだ。
ドローイングという手法に腰を落ち着けるまでに、彼は
・詩(『SAMO(セイモ)』としての言語表現)
・音楽(ノイズ系のバンドで人気を博した)
・ファッション(インディーズブランド『マンメイド』)
・コラージュ(自作のポストカードなど)
・映像表現(『DOWNTOWN81』主演)
・・・と、幅広くトライしていた。
しかもどの分野でも一定以上の評価を得た。
才気の塊だ。
活動の場をひとつに限定しないタイプのアーティストを
マルチ・アーティストと言うそうだ。
現在ではそんなにめずらしくないかなと思うが、
バスキアは、それを早くからやっていた人で、
しかも成功例と言えるのかもしれない。

「必要ならどんな方法でも」というマルコムXの言葉に、
バスキアは共感していたのだそうだ。
※You get your freedom by letting your enemy
 know that you’ll do anything to get it.
 Then you’ll get it. It’s the only way you’ll get it.
 自由を得るためならば手段を選ばない。
 そのことを敵に知らしめろ。
 そうすることで自由が手に入れられる。
 それが唯一の方法なのだ。
 ・・・が出典のようだ。

バスキアの野心家ぶりがうかがえるエピソードとしては
こんなのがあった。
当時「COLAB(コラブ)」という集団があった。
ニューヨークを拠点に活動する
インディーズアーティストたちの
互助組織、みたいなものだったようだ。
この頃、おカタいメジャーなギャラリーはみんな、
ファインアートが行きつく所まで行った・・・というのか、
アカデミックな・・・要するに「理屈で観る系」のアートを
もてはやす傾向にあり(ポロックみたいな感じの?)、
そうではない自由なアートを買い控えるようになっていた。
どのギャラリーも新進のアーティストを何人も抱えていて
ちょっと今はおなかいっぱい、っていう事情もあったし、
とにかく新しいアートは当時、どんどん生まれていた。
あまりに新しすぎて、本当に買う価値があるか
態度を決めかねるようなものも多かったのだ。
そこで、メジャーどころに買ってもらえない
アグレッシヴなアーティストたちが手を組んだ。
自分たちで展覧会を開いてみんなに見せつけてやろう、
そういう感じで生まれたのがCOLABだったようだ。
ある時、そんなCOLABによるアートイベントが開催された。
出品資格はゆるく、どんな人でも出したい人が作品を出せた。
バスキアは開催期間中、展示会場にちょくちょくやって来ては、
作品を眺めてヤレあれはダメだこれは良いなどと批評した。
だが、彼自身はひとつも出品しなかった。
バスキアの知り合いでCOLAB関係者だった女性は、
当時のことを振り返って苦笑する。
「誰でも出品できる展示会だったから、
 バスキアはきっと
 野心的なイベントだけど将来性はないな、って
 判断したんじゃないの」

「彼は野心が強かった。
 何かが起きている場所に首をつっこんでは、
 そこに混ざろうとしていた。本音は隠して」
そう語る人もいた。
しっかりガツガツしてた。
でも表面上は
「別に何も考えてませんけど?」って顔をしてた。
バスキアのそんな所を、見ていた人がちゃんといた。
もう彼はこの世にいないのに、手を伸ばせば触れられそうだ。

表現できればそれで良い、
人をうならせることができれば満足、
そういうことでは、もちろんなかった。
これは証言者の一人が語っていたことだが、
「ジャンは公共空間の持つ特質を理解していた。
 問題は、永続性と自主性を確保しつつ、
 いかに作品を公共空間に出すかだった」。

「自主性」はわたしが聴き取った限りでは「Autonomy」。
アーティスティックなことなら何でもトライしたバスキアだが
考えてみると写真とか映像はあんまりやらなかった。
コラージュに熱中していた時期があったことは確かだ。
バスキア展でわたしも見たが、新聞・雑誌の切り抜きや
ポートレートを切ったり貼ったりして作ったものだった。
それから、『DOWNTOWN81』という映画に出演している。
だが、やはり写真や映像に取り組んだ時期は極めて短かった。
特に映像、映画は、『DOWNTOWN81』1本でやめている。

「永続性と自主性を確保」するというのは、
わたしの考えでは、
伝えたいことがそのままの形で確実に伝わるようにする。
しかも、できるだけいつ誰が見てもそうなるようにする。
という感じではないかな。
「A」ということを描く時、
作品の隅々、粒子の一個一個に至るまで
「A」を染みわたらせたと思いたいし、
自分の死後にその作品を観た人にも、Aだと完全に理解させたい。
まあその辺に近いことじゃないか。土台ムチャな相談だが。
とすると、写真はともかく映像は確かに何かしんどい気がする。
というか、バスキアみたいな人には合わない感じだ。
映画なんかは、仮に自分が監督を務めたとしても、
実に多くの他人が製作に携わるのだろうし、
編集も加わるので、撮ったものが撮ったまま、
すべて作品になるわけではないのだ。
とはいえバスキアは映画に出て楽しかっただろうとは思う。
わたしは『DOWNTOWN81』も観たが、
彼は演技をすることを普通に楽しんでいるように見えた。
出演したことが無駄だったとは思っていなかっただろう。
だが、撮影を終えて、完成したものを観た時に、
「あ、こんな風になっちゃうのかあ、フーン・・・」
的なことはちょっと感じたんじゃないかなと想像する。
「こんな風になっちゃうんだ」的な予測不可能性が残ること、
自分の作品なのに自分の掌の上から外れる部分がある感じが、
バスキアはあまり好きじゃなかったんじゃないかと思う。
要するに全部自分でやりたかった。
映画は大勢の人に観てもらえるし、のちのちまで残せる
まさにその意味で「公共空間」なのだが、
バスキアの思う「自主性/Autonomy」が、
十分に確保されるものではなかったのでは。
バスキアは、映画からは本当にサクッと撤退している。
思えばもっと早い段階で、彼は「詩/SAMO」もやめている。
その理由も、映像表現から撤退したのと
似たような感覚からだったんじゃないかと想像する。
何かが足りなかった、伝えきってる感じがしなかった。
そのくせ、伝えるつもりじゃないことが伝わっちゃう。
そんな、コントロールしきれなさに対する不満。
ただ、音楽やファッションや映像は、
一度やめたらもうやらなかったのに、
文章表現だけはドローイングに組み込む形ではっきりと残した、
というのは興味深い。
文字を作品の一部として取り込んでゴッタ煮にする、
バスキア一流のスタイルが生まれた経緯が
このあたりに少し見える気がしなくもない。

若かった。
表現したい認めさせたいという欲求に燃えていた。
しかもそれを実現可能にする行動力と才能があった。
時代も彼の背中を押していた。
半分ホームレスみたいな生活をしていたみたいだから
どうすれば小遣い稼ぎになるかな的な動機もありつつ
効率よく注目を集めることができる場所、
自分のすることを正当に評価してくれる人、
瞳をキラつかせて、いつだって探していた。
まだまだこれからだった頃の、元気なバスキアの姿を
良く想像させてくれるドキュメンタリーだ。